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大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第二話 母の簪を挿す女

御鈴廊下の鈴が、夜の底で細く鳴っていた。


 ちりん。


 たったそれだけの音なのに、大奥の空気が変わる。


 それまで襖の陰で息を殺していた女たちの気配が、さらに薄くなる。火の入った行灯の明かりさえ、まるで自分の影を小さくするように揺れた。


 藤尾の方は、私の首筋に銀の簪を当てたまま、笑っていた。


 母の簪。


 銀細工の桔梗。


 幼い頃、母が一度だけ見せてくれたものだった。


 綺麗でしょう、と母は言った。


 けれどこれは、綺麗なだけのものではありませんよ、とも言った。


 あの時の母の顔を、私は今でも覚えている。


 懐かしむようでいて、悔いるようでもあった。


「返してほしい?」


 藤尾の方の声が、耳のすぐそばで落ちた。


 甘い香がした。


 けれどその甘さの奥に、錆びたような匂いがある。


 憎しみは、香では隠せない。


「いいえ」


 私は膝をついたまま答えた。


「いずれ、私が取り戻します」


 藤尾の方の目から笑みが消えた。


 一瞬だった。


 だが、その一瞬で十分だった。


 この女は、私の言葉に腹を立てたのではない。


 怯えたのだ。


 母と同じ目をした娘が、自分の前に現れたことに。


「……面白い娘」


 藤尾の方は簪を引いた。


 首筋に残った冷たさが、遅れて肌に染み込む。


「その目、本当に気に入らないわ」


「恐れ入ります」


「褒めていない」


「心得ております」


 藤尾の方は小さく笑った。


「あなたの母も、そうだった。頭を下げながら、心までは決して伏せなかった。あれはね、大奥では一番嫌われる女よ」


 私は指先を畳に置いたまま、爪の先でわずかに畳目を押した。


 母を語る声を聞くたび、胸の奥に火が入る。


 けれど、ここで燃え上がれば負ける。


 大奥では、怒った女が悪者になる。


 千鳥がそう言っていた。


「母を、ご存じなのですね」


「ご存じも何も」


 藤尾の方はわざとらしく首を傾げた。


 髪飾りが微かに鳴る。


 銀の桔梗が、行灯の火を受けて白く光った。


「あの女は、私のそばにいたわ。私の髪を梳き、文を運び、香を選び、そして最後には、私を裏切った」


「母は、誰かを裏切るような人ではございません」


「娘が母を信じたい気持ちは分かるわ」


 藤尾の方は、優しい声を出した。


 その優しさが、刃のように薄い。


「でもね、篠乃井紗代。女は皆、誰かを裏切って生きているの。夫を。親を。子を。仕える主を。時には、昨日までの自分を」


「藤尾様も、でございますか」


 言った瞬間、廊下の空気が凍った。


 藤尾の方の後ろで控えていた女中が、小さく息を呑む。


 やってしまった、と分かっていた。


 けれど、言葉は戻らない。


 藤尾の方はしばらく黙っていた。


 そして、笑った。


 今度の笑みは、さっきよりもずっと美しかった。


 美しすぎて、恐ろしいほどだった。


「千鳥」


 藤尾の方が呼んだ。


 襖の陰から、千鳥が転がるように出てきた。


「は、はい」


「この娘、ずいぶん口が立つのね」


「申し訳ございません。まだ作法を知らぬ新入りでして」


「作法を知らぬ?」


 藤尾の方の声が低くなる。


「作法を知らぬ娘が、御鈴廊下のそばに立つの?」


 千鳥は額を畳につけた。


「私の監督不行き届きでございます。どうか、今夜ばかりは」


「庇うの?」


 藤尾の方は、ゆっくり千鳥の前へ歩いた。


 その足取りだけは優雅だった。


「その娘を」


「庇うなど、そのような」


「では、邪魔をしているのね」


「滅相もございません」


 千鳥の声が震えていた。


 私は何か言おうとしたが、千鳥の指が畳の上で小さく動いた。


 黙れ。


 そう告げていた。


 藤尾の方は千鳥をしばらく見下ろし、それから私へ視線を戻した。


「よいわ。今夜は見逃してあげる」


「ありがたき幸せに存じます」


「でも覚えておきなさい、篠乃井紗代」


 藤尾の方は、私の目の前に膝を折った。


 紅を引いた唇が、すぐ近くに来る。


「怒らせてみなさい。大奥の女がどれほど残酷になれるか、すぐに分かるわ」


 その声は、囁きに近かった。


 私だけに聞こえるように。


「あなたの母も、それを知らなかった」


「……母は、どうなったのでございますか」


 藤尾の方は答えなかった。


 かわりに、銀の桔梗をそっと撫でた。


「知りたければ、生き残りなさい」


 それだけ言って、彼女は廊下の奥へ消えた。


 残された私たちは、しばらく動けなかった。


 鈴の音はもう止んでいた。


 だが私の耳には、いつまでも残っていた。


 ちりん。


 ちりん、と。


「馬鹿」


 千鳥の声が落ちてきた。


「本当に、どうしようもない馬鹿」


「助けてくれたのですね」


「助けてない。あんたがここで死んだら、あたしまで巻き添えになるから止めただけ」


「それでも、助かりました」


「礼を言うなら、次から黙って。お願いだから黙って。あんた、口を開くたびに首が飛びそうになる」


「努力します」


「努力じゃ駄目なのよ」


 千鳥は私の腕を掴み、半ば引きずるように御鈴廊下から離れた。


 廊下を曲がるまで、彼女は一度も振り返らなかった。


 けれど、その手はずっと震えていた。


 翌朝、大奥は何事もなかったように動き出した。


 鳥の声が庭から聞こえ、女中たちは水を運び、畳を拭き、火鉢を整える。香が焚かれ、襖が開け閉めされ、誰かの笑い声が遠くで響く。


 昨日の夜のことなど、初めから存在しなかったように。


 けれど、私に向けられる視線だけは変わっていた。


「篠乃井さん、雑巾は?」


 年上の女中が言った。


 名はお吉というらしい。


 細い目に、いつも薄い笑みを貼りつけている女だった。


「先ほど、こちらに置きました」


「ないわよ」


「確かにここへ」


「ないものは、ないの。困った子ね。新入りなのに物をなくすなんて」


 お吉はため息をついた。


 その隣で、別の女中が口元を袖で隠して笑う。


「母君譲りではないの」


 小さな声だった。


 だが、聞こえるように言っていた。


 私はそちらを見なかった。


「申し訳ございません。すぐに別のものを用意いたします」


「別のもの?」


 お吉はわざと眉を上げた。


「大奥の物を勝手に使うつもり?」


「では、探してまいります」


「もう遅いわ。ここは私たちで拭いておくから、あなたは水を汲んできて」


「はい」


 水桶を持って井戸へ向かうと、桶の底に墨が塗られていた。


 水を汲めば、黒く濁る。


 戻れば叱られる。


 取り替えに行けば、遅いと責められる。


 私は桶を見つめた。


 なるほど。


 これが、大奥の女の残酷さというものか。


 刃を抜くわけではない。


 声を荒げるわけでもない。


 ただ、逃げ道を一つずつ塞いでいく。


 私は桶を洗った。


 井戸端の冷たい水で、墨が落ちるまで何度も擦った。


 指先が赤くなった。


 それでも、泣くほどではない。


 戻ると、今度は私の朝餉がなかった。


 膳の数はぴたりと合っている。


 私の分だけが、初めから存在しないことになっていた。


 千鳥が自分の膳を少し寄せようとしたので、私は首を横に振った。


「食べなさい」


「でも」


「千鳥まで巻き込まれます」


「もう巻き込まれてる気がするけど」


「気のせいです」


「都合のいい目ね」


 千鳥は不満そうに言いながらも、膳を戻した。


 お吉たちはそれを見て、つまらなそうに目を逸らした。


 昼前には、小袖に香油をこぼされた。


 強い匂いだった。


 甘すぎる伽羅に、熟れすぎた果実のような香が混じっている。上等なものなのだろう。だが、これほどきつく香れば、仕事の邪魔になる。何より、大奥では香の種類ひとつで「誰の部屋にいたか」まで勘繰られる。


「まあ、大変」


 お吉が言った。


「藤尾様のお好みの香に似ているわね」


 周囲がくすくす笑う。


「新入りなのに、もう藤尾様に取り入るつもりかしら」


「昨夜、御鈴廊下にもいたそうよ」


「まあ、怖い」


「母親と同じ血ね」


 私は濡れた袖を握った。


 怒ってはいけない。


 声を荒げてはいけない。


 ここで一言でも返せば、私が悪者になる。


 私は顔を上げ、笑った。


「教えていただき、ありがとうございます」


 お吉の笑みが止まった。


「何を?」


「この香が藤尾様のお好みに似ていることです。知らずに御前へ出れば、失礼を重ねるところでした」


「……嫌味?」


「いいえ。助かりました」


 お吉は目を細めた。


 私はもう一度頭を下げ、桶を持って下がった。


 背後で誰かが舌打ちした。


 勝ったわけではない。


 ただ、今は潰れなかっただけだ。


 夕刻近く、千鳥が私を物陰に引っ張り込んだ。


「ねえ」


「はい」


「本当に怖いんだけど」


「何がですか」


「あんたよ!」


 千鳥は眉を吊り上げた。


「あれだけやられて、どうして平気な顔してるの。普通は泣く。怒る。せめて愚痴る」


「泣けば、母の簪は戻りますか」


「戻らないけど」


「怒れば、母の汚名は晴れますか」


「それも無理だけど」


「では、泣くのも怒るのも、後にします」


 千鳥は口を開けたまま固まった。


 それから、力が抜けたように壁にもたれた。


「……あんた、きっと長生きしないわ」


「よく言われそうです」


「まだ誰にも言われてないでしょ」


「では、千鳥が最初ですね」


「嬉しくない」


 千鳥は小さく息を吐いた。


 そして、声を落とした。


「昨夜のこと、本気で忘れた方がいい」


「忘れられるものなら」


「藤尾様は、昔からああなの」


「ああ、とは」


「怒ると、止まらない。相手が悪いかどうかなんて関係ないの。自分が傷つけられたと思ったら、その相手が泣いて謝っても、壊れるまで許さない」


「なぜ、そこまで」


「寵愛を失ったからよ」


 千鳥の目が、廊下の奥を警戒するように動いた。


「昔の藤尾様は、それはそれは美しかったんですって。将軍様も、何夜も続けて藤尾様のもとへ渡った。皆、あの方が御子を産むと思っていた。そうなれば、御台様だって無視できない」


「けれど、そうはならなかった」


「ええ。ある夜を境に、将軍様の足が遠のいた」


「桔梗の夜、ですか」


 千鳥の顔色が変わった。


「誰から聞いたの」


「まだ誰からも。ただ、藤尾様の簪が桔梗でしたから」


「嘘」


「はい。少しだけ」


「少しじゃない」


 千鳥は苦い顔をした。


「その言葉、ここで出しちゃ駄目」


「なぜ」


「知らない。知らないけど、駄目なの。あたしが大奥に上がった頃には、もう皆そう言ってた。桔梗の夜のことを尋ねる女は、次の朝にはいなくなるって」


「母も、そうだったのでしょうか」


「紗代」


 千鳥が初めて、私の名を呼んだ。


 呼び捨てだった。


 それが妙に、人の声に聞こえた。


「あんたのお母さんのことは、知らない。でも、知らない方がいいこともある」


「千鳥もそう思いますか」


「思うわよ。知ったところで、助けられないことの方が多いもの」


「それでも、知らないままでは助けられません」


 千鳥は黙った。


 そして、悔しそうに唇を噛んだ。


「ほんと、嫌な子」


「はい」


「そこで返事しない」


「では、いい子ですか」


「もっと違う」


 その時、廊下の向こうから松ヶ枝の声がした。


「篠乃井」


 背筋が伸びた。


 千鳥はすぐに私から離れ、何事もなかったように膝をついた。


 松ヶ枝は、昨日と同じ濃鼠の小袖を着ていた。


 だが今日は、昨日よりも顔色が暗い。


「こちらへ」


 それだけ言うと、彼女は背を向けた。


 私は千鳥を見た。


 千鳥は小さく首を横に振った。


 行くな、という意味ではない。


 気をつけろ、という意味だ。


 松ヶ枝に連れて行かれたのは、奥まった小部屋だった。


 普段は使われていないのか、畳の匂いが少し湿っている。壁際には文箱が積まれ、行灯の火だけがぼんやりと部屋を照らしていた。


「座りなさい」


「はい」


 私が座ると、松ヶ枝も向かいに腰を下ろした。


 しばらく、何も言わなかった。


 沈黙は、叱責より重い。


「藤尾様に近づいてはなりません」


 ようやく、松ヶ枝が口を開いた。


「近づいたつもりはございません」


「ならば、離れなさい」


「離れても、向こうから来られます」


「口答えをしている場合ではありません」


 松ヶ枝の声は鋭かった。


 しかし、怒りではない。


 焦りが混じっていた。


「篠乃井。ここでは、理由があって殺される女ばかりではありません。誰かに似ている。誰かを思い出させる。誰かの怒りに触れる。それだけで十分なのです」


「私は、母に似ていますか」


 松ヶ枝の目がわずかに揺れた。


「誰に聞きました」


「藤尾様が」


「あの方は、余計なことを」


「母は、藤尾様に仕えていたのですか」


 松ヶ枝は答えなかった。


 行灯の火が揺れる。


 その沈黙の中で、私は答えを聞いた。


「母は、何をしたのですか」


「そなたの母は」


 松ヶ枝はそこで言葉を切った。


 喉の奥で、何かを飲み込むような間があった。


「賢すぎたのです」


「賢いことは、罪でございますか」


「大奥では、時に」


「では、愚かであれば生きられますか」


「愚かなふりができる女は、生きます」


「母は、できなかった」


「できなかったのではありません」


 松ヶ枝は低く言った。


「しなかったのです」


 その言葉だけは、私の胸に深く刺さった。


 母らしいと思った。


 母はきっと、分かっていたのだ。


 頭を下げれば助かるかもしれない。


 見なかったふりをすれば、生き延びられるかもしれない。


 誰かを見捨てれば、自分は逃げられるかもしれない。


 それでも、しなかった。


「松ヶ枝様」


「何です」


「母は、どなたに殺されたのですか」


 松ヶ枝の顔から、表情が消えた。


「病で亡くなったのでしょう」


「そのように聞かされました」


「ならば、それが事実です」


「事実とは、誰が決めるのでございますか」


 松ヶ枝は立ち上がった。


「今の問いは忘れなさい」


「忘れられません」


「忘れなければ、そなたも同じ道を歩むことになります」


「母と同じ道なら、恐ろしくはございません」


「愚かな」


 松ヶ枝の声が震えた。


 初めてだった。


 この老女の仮面に、ひびが入った。


「死んだ者は、何も取り戻せません。名も、誇りも、真実も。残された者だけが傷を抱えるのです。そなたの父君も、そうだったはず」


「父をご存じなのですか」


 松ヶ枝は、はっとしたように口を閉じた。


 そして、背を向けた。


「今宵はもう下がりなさい」


「松ヶ枝様」


「篠乃井」


 松ヶ枝は振り向かなかった。


「母君を慕うなら、生きなさい。母君の真似をして死ぬことが、孝ではありません」


 小部屋を出る時、私はもう決めていた。


 松ヶ枝は知っている。


 藤尾の方も知っている。


 御台所も、おそらく知っている。


 だが誰も語らない。


 ならば、語らぬ口ではなく、残された紙に聞くしかない。


 大奥には記録がある。


 女の名、役目、出入り、処分。


 人の口は嘘をつく。


 けれど紙は、嘘をつく時にも痕を残す。


 その夜、私は眠ったふりをした。


 同じ部屋の女中たちの寝息が重なっていく。


 千鳥は隣で、なかなか寝つけない様子だった。


「紗代」


 小さく呼ばれた。


「起きていますか」


「寝ています」


「寝てる人は返事しないのよ」


「では、起きています」


 千鳥は布団の中で小さくため息をついた。


「変なこと、考えてないでしょうね」


「考えていません」


「その返事、絶対嘘」


「千鳥は鋭いですね」


「褒めても駄目」


「では、寝てください」


「あんたが寝たら寝る」


「それでは、二人とも眠れませんね」


 千鳥は黙った。


 しばらくして、彼女の呼吸が少しずつ深くなった。


 眠ったのか、眠ったふりなのかは分からない。


 だが、私はそっと起き上がった。


 足音を殺し、襖を開ける。


 廊下は暗かった。


 行灯の火は遠くにひとつだけ。


 私は懐に母の懐紙を入れ、記録部屋へ向かった。


 場所は昼のうちに覚えていた。


 松ヶ枝に連れられた小部屋のさらに奥。文箱が運び込まれる先。女中たちが近づきたがらない部屋。


 鍵はかかっていなかった。


 むしろ、それが恐ろしかった。


 入ってよい者など限られている。


 だから鍵など不要なのだ。


 中は紙の匂いで満ちていた。


 古い墨。


 乾いた糊。


 木箱。


 それから、わずかな黴の匂い。


 私は行灯に火を入れず、障子越しの月明かりだけを頼りに文箱を探った。


 女中名簿。


 出入り控え。


 御用記録。


 処分控え。


 指先が震える。


 焦ってはいけない。


 紙は乱せば、すぐに分かる。


 私は息を整え、一つずつ確認した。


 母の名。


 篠乃井志乃。


 見つけた瞬間、胸が詰まった。


 紙の上の文字だけで、母がそこにいるような気がした。


 篠乃井志乃。


 御中臈藤尾付き。


 香、文、装束の補佐。


 几帳面な筆跡で、役目が記されている。


 その下に、朱の文字があった。


 私は目を疑った。


 不義密通の疑いにより、内々に処分。


 頭の中から音が消えた。


 不義密通。


 母が。


 あの母が。


 死の床で父の名を呼んでいた母が。


 私に、人の笑みを信じるなと告げた母が。


 不義密通。


「……嘘」


 声が漏れた。


 その瞬間、背後で床板が鳴った。


 振り返る。


 影が立っていた。


「本当に、馬鹿」


 千鳥だった。


 彼女は肩で息をしていた。


 私を追ってきたのだ。


「ここで見つかったら、盗人じゃ済まないわよ」


「千鳥」


「何を見たの」


 私は答えなかった。


 答えられなかった。


 千鳥は近づき、紙面を覗き込んだ。


 そして、息を呑んだ。


「不義密通……」


「母は、違います」


 自分でも驚くほど低い声だった。


「母は、そのようなことをする人ではありません」


「分かってる。落ち着いて」


「分かるのですか」


「分からないわよ。でも、今ここで声を荒げたら終わるってことは分かる」


 千鳥は私の肩を掴んだ。


 その手が、やけに温かかった。


「紗代。聞いて。大奥で不義密通なんて書かれたら、その時点でその女は終わりなの。本当にやったかどうかなんて関係ない。誰も調べない。誰も庇わない。庇った女まで疑われるから」


「では、母は」


「汚されたのよ」


 千鳥の言葉が、胸に刺さった。


 殺された、ではない。


 汚された。


 母の死だけでなく、名までも。


 私は紙を見下ろした。


 不義密通の疑いにより、内々に処分。


 その下に続くはずの頁は、破られていた。


 丁寧に。


 けれど、端がわずかに残っている。


 私は顔を近づけた。


 墨の痕がある。


 破れた端に、二文字だけ。


 桔梗。


 また、桔梗。


「これが、桔梗の夜」


 千鳥が呟いた。


 私は彼女を見た。


「知っているのですね」


「知らない」


「千鳥」


「知らないの」


 千鳥は首を振った。


 だが、その顔は青ざめていた。


「ただ、その言葉が出た時は、逃げなきゃいけないって知ってるだけ」


「逃げません」


「逃げなさいよ」


「逃げれば、母の名はこのままです」


「生きていれば、また探せる」


「汚名を着たまま生きるのは、死ぬよりつらいこともあります」


 千鳥は黙った。


 その目に、一瞬だけ痛みが走った。


 まるで、昔どこかで同じ言葉を聞いたことがあるように。


 その時、廊下の遠くで足音がした。


 千鳥が反射的に私の手を掴む。


「戻るわよ」


「でも」


「今は生きるの!」


 千鳥の声は小さかった。


 けれど、強かった。


 私は破れた頁の端をもう一度見た。


 桔梗。


 母の簪。


 藤尾の方。


 御台所。


 松ヶ枝。


 そして、不義密通の汚名。


 紙を元に戻し、私たちは記録部屋を出た。


 廊下を抜ける途中、私は懐に手を当てた。


 母の懐紙がある。


 七人を、信じてはならぬ。


 母上。


 あなたは、何を見たのですか。


 誰に名を汚され、誰に殺されたのですか。


 私はまだ、何も知らない。


 けれど、ひとつだけ分かりました。


 大奥では、人を殺すよりも残酷なことがある。


 それは、その人が生きた証を、別の罪で塗り潰すこと。


 ならば私は、母の名に塗られた朱を、必ず剥がす。


 誰がどれほど美しく笑っていようと。


 誰がどれほど高い座にいようと。


 七人の罪を、一人ずつ暴いてみせる。


 夜明け前の大奥は、ひどく静かだった。


 その静けさの底で、女たちの憎しみだけが、眠らずに息をしていた。

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