第一話 七人を、信じてはならぬ
母は、春の雨が降る夜に死んだ。
その雨の音だけは、今でも耳に残っている。
庭先の椿が水を含んで重たげに俯き、縁側の端から落ちる雫が、ぽたり、ぽたりと桶の中へ沈んでいく。火鉢の炭は赤く息をしていたが、部屋の中はひどく寒かった。
母の亡骸は、白い布をかけられていた。
病で死んだのだと、皆が言った。
大奥での奉公を退いてから、母はずっと身体が弱かった。咳もしていた。夜中に胸を押さえることもあった。だから病死だと言われれば、そうなのかもしれないと、幼かった私は思うしかなかった。
けれど、母の指先だけは忘れられない。
死ぬ前の夜、母は私の手を握った。
骨ばった指だった。
けれど、その力だけは妙に強かった。
「紗代」
「はい、母上」
「人の笑みを、すぐに信じてはいけませんよ」
母はそう言った。
まだ十になったばかりの私は、意味が分からず首を傾げた。
「笑っている人は、優しい人ではないのですか」
母は答えなかった。
かわりに、ひどく寂しそうに笑った。
今思えば、あれは笑みではなかった。
泣く力も残っていない女が、最後に浮かべた顔だった。
「大奥にはね、紗代。泣くよりも静かな憎しみがあります」
「大奥……?」
「忘れなさい。いいえ、忘れてはいけない。けれど、近づいてもいけない」
矛盾した言葉だった。
母はその夜、何度も咳き込んだ。父は医者を呼びに走った。私は水を汲みに行った。
そして戻った時、母はもう、目を開けなかった。
それから七年。
私は、母の言いつけを破った。
大奥へ上がるため、黒塗りの籠に揺られていた。
「篠乃井紗代様。じきに御城でございます」
籠の外から、付き添いの女の声がした。
様、などと呼ばれる身分ではない。
篠乃井家は、下級の旗本に仕える陪臣筋の家である。父は書付の整理と勘定をするのが役目で、武士とはいえ刀より筆の似合う人だった。家に余裕などない。母の薬代で蓄えは消え、私の着物も何度も繕い直したものばかりだった。
それでも、私は大奥に上がることになった。
父は最後まで反対した。
「紗代、考え直せ」
出立の朝、父はそう言った。
髭を剃ったばかりの顎が、いつもより細く見えた。
「母上のことなら、もう終わった話だ」
「終わってなどおりません」
「終わったのだ」
父は珍しく声を荒らげた。
その時、私は初めて気づいた。
父は怒っていたのではない。
怯えていた。
「大奥は、おまえのような娘が足を踏み入れてよい場所ではない。あそこはな、紗代、外から見えるほど華やかな場所ではないのだ」
「父上は、母上がなぜ死んだかご存じなのですか」
父は黙った。
それが答えだった。
私は懐に手を入れ、小さく折り畳んだ懐紙を確かめた。七年前、母の縫い箱の底から見つけたものだ。
細い筆跡。
ところどころ血で滲んだ文字。
そこには、ただ一文だけが残されていた。
――七人を、信じてはならぬ。
母の字だった。
私はそれを七年間、肌身離さず持っていた。
「父上」
私は静かに言った。
「母上は、誰かを恨んで死んだのではありません」
「ならば、なぜ行く」
「母上が、何を恐れていたのか知りたいのです」
「知ってどうする」
「それは、知ってから考えます」
父は、深く息を吐いた。
そして、それ以上は止めなかった。
父は知っている。
私は母に似ているのだ。
泣いて引き下がるより、黙って一歩踏み出す女だった。
籠が止まった。
外の音が変わった。
町のざわめきが遠のき、かわりに、砂利を踏む足音と、門番の低い声が響く。籠の簾が上がると、視界いっぱいに巨大な門が現れた。
江戸城。
大奥。
女の園。
母を呑み込んだ場所。
「お降りくださいませ」
付き添いの女に促され、私は籠を出た。
風が吹いた。
香の匂いがした。
沈香、白檀、伽羅。
その奥に、湿った畳と古い木材の匂い。どこかに焚かれた薬湯の苦さ。女たちの髪油。紅。白粉。汗を隠すための薄い香。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
ここには、母の匂いがない。
当然だ。
母はもういない。
なのに私は、ほんの一瞬だけ、母がこの廊下の奥から歩いてくるような気がした。
「新入りかえ」
横から声がした。
振り向くと、私と同じ年頃の女中が立っていた。丸顔で、目元に愛嬌がある。だが、その目は笑っていなかった。
「はい。篠乃井紗代と申します」
「ふうん。篠乃井。聞かない家ね」
「小さな家ですから」
「小さな家の娘が大奥へ上がるなんて、よほど良い伝手を持っているのね」
言葉は柔らかい。
けれど、先は尖っていた。
私は頭を下げた。
「伝手などございません。人手が足りぬ折に、お声がけをいただいただけです」
「まあ。口は上手なのね」
女中はくすりと笑った。
「私は千鳥。御末よ。あんたも最初は同じでしょう」
「よろしくお願いいたします、千鳥様」
「様はいらない。ここでそれをやると、かえって嫌われるわ」
「では、千鳥さん」
「さんも変。千鳥でいい」
「では、千鳥」
そう呼ぶと、千鳥は一瞬だけ目を丸くした。
それから、口元を隠して笑った。
「変な子」
「よく言われます」
「でしょうね」
千鳥は私の着物を上から下まで見た。
「その小袖、自前?」
「はい」
「古いわね」
「よく保ってくれています」
「そういう返し、ここではあまりしない方がいいわよ」
「なぜですか」
「かわいげがないから」
千鳥はそう言って、私の肩にそっと触れた。
手のひらは温かい。
けれど、爪の先が少しだけ食い込んだ。
「いい? 大奥では、目立つ娘から先に潰されるの。綺麗な娘。賢い娘。気の強い娘。男の目に留まりそうな娘。女の目に触りそうな娘。全部、長生きしない」
「では、どうすれば」
「馬鹿なふりをするの」
「難しそうです」
「それ、賢いって言ってるようなものよ」
千鳥が呆れたように笑った時、廊下の奥から別の声が飛んだ。
「千鳥。新入り相手に何を油を売っているのです」
鋭い声だった。
廊下の向こうから、年配の女が歩いてきた。
背筋は伸びている。顔には深い皺が刻まれているが、目だけが異様に若い。紫に近い濃鼠の小袖を着て、髪は隙なく結い上げられていた。
千鳥の顔から笑みが消えた。
「松ヶ枝様」
「新入りを案内する役目であれば、無駄口ではなく足を動かしなさい」
「申し訳ございません」
千鳥が深く頭を下げる。
私もすぐに倣った。
「篠乃井紗代にございます。本日よりお勤めさせていただきます」
松ヶ枝と呼ばれた女は、私の顔をじっと見た。
長い沈黙だった。
廊下の向こうで、誰かの裾が畳を擦る音がした。
「顔を上げなさい」
私は顔を上げた。
松ヶ枝の目が、わずかに細くなる。
「……似ている」
その一言に、私の心臓が跳ねた。
「どなたに、でございましょう」
「知らぬ方がよいこともあります」
松ヶ枝はそれだけ言った。
そして、まるで何事もなかったように千鳥へ視線を戻す。
「この娘は御次の間へ。作法を覚えるまでは、口より手を動かさせなさい」
「はい」
「それから」
松ヶ枝は私に近づいた。
白粉と薬草の匂いがした。
老いた女の匂いではない。
長い年月、誰かの秘密を抱え込んだ部屋の匂いだった。
「篠乃井。ここでは、知りたがる女ほど早く消えます」
私は息を止めた。
「肝に銘じます」
「銘じるだけでは足りません。忘れなさい」
「何をでございましょう」
「ここへ来た理由を」
松ヶ枝はそう言って、私の横を通り過ぎた。
千鳥が小さく舌を出す。
「あれでも今日は優しい方よ」
「そうなのですか」
「ええ。普段なら、新入りの心くらい朝餉前にへし折ってる」
「折れなかった場合は?」
「目をつけられる」
「では、私はもう遅いですね」
「そういうところよ」
千鳥は困ったように笑った。
嫌な娘ではない。
けれど、信用してよい娘でもない。
母の懐紙が、懐の中で重く感じられた。
七人を、信じてはならぬ。
七人。
それが誰なのか、私はまだ知らない。
けれど、大奥に入って半刻も経たぬうちに、私はひとつだけ分かった。
この場所では、優しささえ刃になる。
御次の間に通されると、すでに数人の女中が働いていた。
畳を拭く者。火鉢の灰を均す者。膳の数を数える者。誰もが忙しく動いているのに、部屋の空気は奇妙なほど静かだった。
私が入ると、視線が集まった。
一斉にではない。
ちらり、ちらりと、針のように刺さる。
「あの子?」
「篠乃井ですって」
「母親が昔……」
「しっ。聞こえるわ」
聞こえるように言っているのだ。
千鳥が私の袖を引いた。
「気にしないで」
「はい」
「気にしていない顔もしないで」
「難しいですね」
「だから言ったでしょう。ここでは馬鹿なふりが一番楽なの」
「千鳥は、馬鹿なふりが上手ですね」
「喧嘩売ってる?」
「褒めています」
「なお悪いわ」
千鳥は小声で笑った。
その笑みは、ほんの少しだけ本物に見えた。
だが次の瞬間、部屋の奥から扇の音がした。
ぱちん。
乾いた音。
女中たちが一斉に頭を下げる。
千鳥も慌てて膝をついた。
私も続いた。
畳に額を近づけたまま、視界の端に豪奢な裾が映った。
紅梅色の打掛。
金糸で縫われた牡丹。
指先には、艶のある爪。
その人が部屋に入ってきただけで、空気が変わった。
「新入りとは、その娘かえ」
声は甘かった。
だが、底に冷たいものがある。
千鳥が震えるように答えた。
「はい。篠乃井紗代にございます」
「顔を見せなさい」
私はゆっくり顔を上げた。
そこにいたのは、美しい女だった。
年は三十を少し過ぎた頃だろうか。目元は涼しく、唇には薄く紅が引かれている。顔立ちは整いすぎていて、かえって人形めいていた。
御中臈、藤尾の方。
千鳥があとで教えてくれた。
将軍の寵愛を一時は独占したが、近頃は若い側室に押されている女だと。
けれどその時の私は、名前よりも先に別のものを見ていた。
藤尾の方の髪に挿された、一本の簪。
銀細工の桔梗。
古びているが、手入れはよくされている。
それを見た瞬間、私の息が止まった。
同じものを、私は知っている。
母が大切にしていた簪。
幼い私に一度だけ触らせてくれた、銀の桔梗。
母の死後、どこを探しても見つからなかった簪。
それが、目の前の女の髪にあった。
「どうしたの」
藤尾の方が微笑んだ。
「死人でも見たような顔をして」
私は指先を畳につけたまま、声を絞り出した。
「……あまりに、お美しゅうございましたので」
部屋の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
誰かが小さく笑った。
藤尾の方も、満足げに目を細める。
「口は悪くないようね」
「恐れ入ります」
「その顔も、悪くない」
藤尾の方は扇の先で、私の顎に触れた。
冷たい。
「けれど、気をつけなさい。大奥で女の顔が役に立つのは、誰かに憎まれる時だけよ」
「心得ます」
「本当に?」
「はい」
「では、試してみましょうか」
藤尾の方は、私の背後に視線を投げた。
「千鳥。その娘に、夜の御廊下番をさせなさい」
千鳥の顔色が変わった。
「藤尾様、それは……新入りにはまだ早いかと」
「早い?」
藤尾の方の声が低くなった。
「新入りだからこそ、役に立つのでしょう。何も知らぬ娘の目は、時に何より正直ですもの」
「ですが、松ヶ枝様からは御次の間へと」
「松ヶ枝が大奥のすべてを決めるの?」
千鳥は黙った。
藤尾の方は、私へ目を戻した。
「篠乃井紗代」
「はい」
「夜、御鈴廊下の近くに立ちなさい。誰が通ったか、何を聞いたか、朝に私へ伝えるの」
「私などが、そのような大切なお役目を」
「断るの?」
笑っている。
この女は、笑いながら人を崖へ押す。
私は頭を下げた。
「謹んで、お受けいたします」
千鳥が息を呑む音がした。
藤尾の方は満足したように扇を閉じた。
「よい返事ね。嫌いではないわ」
そして去り際に、私の耳元へ顔を寄せた。
甘い香がした。
その奥に、微かな鉄の匂い。
「ただし、見たものをそのまま言う女は長生きしないわよ」
藤尾の方が去った後も、部屋の誰もすぐには動かなかった。
やがて千鳥が、私の袖を掴んだ。
「馬鹿」
「はい?」
「馬鹿って言ったのよ。どうして受けたの」
「断れませんでした」
「断り方くらいあるわよ。腹が痛いとか、作法が分からないとか、気を失うとか」
「気を失うのは難しそうです」
「そこじゃない!」
千鳥は珍しく声を荒げた。
すぐに周囲を見て、声を落とす。
「御鈴廊下の近くは、夜に近づいていい場所じゃない。誰が誰の部屋へ入ったとか、誰が誰へ文を渡したとか、見たら終わりなの。藤尾様は、あんたを目に使う気よ。いいえ、捨て駒かも」
「なぜ私を」
「知らないわよ。あんたが気に入られたか、嫌われたか、どちらかでしょうね」
「どちらがましですか」
「どちらも最悪」
千鳥は本気で困っていた。
そのことが、少しだけ不思議だった。
「千鳥」
「何」
「あなたは、なぜ私を心配するのですか」
千鳥は一瞬黙った。
そして、不機嫌そうに顔を背けた。
「新入りが初日で消えたら、寝覚めが悪いからよ」
「優しいのですね」
「違う」
「では、寝覚めを大切にする方なのですね」
「そういう返し、本当にやめた方がいいわ」
そう言いながら、千鳥の口元は少しだけ緩んでいた。
夜。
大奥は、昼よりも美しかった。
燭台の火が廊下に細く伸び、襖絵の金がぼんやり浮かぶ。遠くで衣擦れの音がする。笑い声は聞こえない。だが、誰も眠ってなどいない気配がした。
私は御鈴廊下の手前に控えていた。
御鈴廊下。
将軍が大奥へ渡る時、鈴を鳴らして知らせる廊下。
そこは、女たちの運命が通る場所だった。
誰の部屋へ向かうのか。
誰が選ばれるのか。
誰が捨てられるのか。
一本の廊下が、女の一生を決める。
馬鹿げていると思った。
けれど、その馬鹿げた仕組みのために、母は死んだのかもしれない。
懐の懐紙に、そっと触れる。
七人を、信じてはならぬ。
その時だった。
廊下の奥で、かすかな声がした。
「……今夜では、早すぎます」
女の声。
聞き覚えがあった。
松ヶ枝だ。
私は息を潜めた。
返事をしたのは、別の女だった。
「早いか遅いかを決めるのは、そなたではない」
低く、威厳のある声。
姿は見えない。
だが、周囲の空気がその声に従っているのが分かった。
「御台様」
松ヶ枝がそう呼んだ。
御台所。
将軍の正室。
大奥の頂に座す女。
「篠乃井の娘が上がったそうですね」
「はい」
「あの女の娘が」
あの女。
母のことだ。
私は喉の奥を噛んだ。
御台所は静かに言った。
「似ていましたか」
「……恐ろしいほどに」
「ならば、余計に早く芽を摘むべきでしょう」
「御台様」
「松ヶ枝。情が残っているのですか」
「情など」
「ならば、迷わぬことです。七年前のことを掘り返されて困るのは、そなただけではないのですよ」
七年前。
母が死んだ年。
指先が冷たくなった。
逃げるべきだった。
聞かなかったふりをして、そこから離れるべきだった。
だが、足が動かない。
母の死は、やはり病ではなかった。
その確信が、私の胸を焼いた。
その時、背後から声がした。
「何を聞いていたの?」
振り返るより早く、首筋に冷たいものが触れた。
簪の先だった。
銀の桔梗。
藤尾の方が、すぐ後ろに立っていた。
月明かりの中で、彼女は美しく笑っていた。
「ねえ、篠乃井紗代」
私は動けなかった。
藤尾の方の声は、囁きのように甘かった。
「あなたのお母様も、そうやって聞いてはいけないことを聞いたのよ」
胸の中で、何かが静かに壊れた。
悲しみではない。
怒りでもない。
もっと冷たいものだった。
私はゆっくりと膝をついた。
「藤尾様」
「命乞い?」
「いいえ」
私は顔を上げた。
藤尾の方の瞳が、わずかに揺れた。
「その簪は、母のものでございます」
廊下の奥で、鈴が鳴った。
ちりん、と。
女たちの運命を告げる鈴が。
藤尾の方は笑みを深くした。
「では、返してほしい?」
「いいえ」
「まあ」
私は、母によく似ていると言われる顔で、静かに微笑んだ。
「いずれ、私が取り戻します」
藤尾の方の目から、笑みが消えた。
御鈴廊下の向こうでは、何人もの女たちが息を殺していた。
その中に、母を殺した者がいる。
ひとりではない。
七人。
私はその夜、ようやく大奥に入ったのだと思った。
門をくぐった時ではない。
名を呼ばれた時でもない。
母の簪を奪った女に、初めて牙を見せたこの瞬間から。
大奥は、女の園ではない。
笑顔で人を殺す、血の匂いのしない戦場だった。
そして私は、その戦場で最も憎まれる女になる。




