第7話 盗人の娘
御膳場の火は、夜になっても落ちていなかった。
大鍋の下で炭が赤く息をしている。湯気がゆっくり立ちのぼり、天井の黒ずんだ梁へ吸い込まれていく。昼間なら米の匂い、出汁の匂い、味噌の匂いが混じる場所だが、今は違った。
薬草の匂いが強い。
甘草、陳皮、半夏。
そして、蜜の焦げる匂い。
甘いはずなのに、どこか胸が悪くなる。
その湯気の向こうで、お柳は笑っていた。
「あら。またお腹が空いたのですか」
「はい」
私は一歩、御膳場へ入った。
「何を召し上がりたいの?」
「秘密を」
お柳の笑みが、わずかに深くなった。
千鳥が後ろで小さく呻いた。
「紗代……そういう返し、今ほんとに要らない」
「必要です」
「どこが」
「この方には、普通に尋ねても答えていただけない気がします」
「あらまあ」
お柳は鍋の中を木匙でゆっくりかき混ぜた。
「私、そんなに意地悪そうに見えますか」
「いいえ」
「では、なぜ」
「意地悪な方は、もう少し分かりやすい顔をなさいます。お柳さんは、お優しそうです」
お柳は声を立てずに笑った。
「優しそうな女は、怖いと?」
「大奥では、優しさにも味つけがされておりますので」
「上手いことを言うのね」
「母には、まだ及びません」
お柳の手が止まった。
ほんの一瞬。
けれど、湯気の向こうで確かに止まった。
「お母様のことが、本当にお好きなのですね」
「はい」
「亡くなった方は、いいですねえ」
千鳥の顔が強張った。
私は黙ってお柳を見た。
お柳は悪びれもせず、鍋に視線を戻す。
「生きている人は、どんどん変わります。好きだった人が嫌な人になる。優しかった人が嘘をつく。美しかった人が醜く怒る。でも亡くなった方は、思い出の中でいつまでも美しいまま」
「母は、美しいだけの人ではありません」
「あら」
「頑固で、不器用で、嘘が下手で、時々とても怖い顔をする人でした」
「まあ」
お柳は楽しそうに目を細めた。
「それは、よく覚えておいでで」
「娘ですから」
「娘だから、母を知っているとは限りませんよ」
その言葉だけは、妙に重かった。
御膳場の奥で、炭がぱちりと鳴る。
「人には、家で見せる顔と、外で見せる顔がございます。大奥で見せる顔と、布団の中で一人になった時の顔も違う。母君がどのような顔でここにおられたか、本当に知りたいですか」
「知りたいです」
「知れば、嫌いになるかもしれません」
「それでも知ります」
「お強い」
「強くありません。千鳥に何度も馬鹿と言われています」
「今それ言う?」
千鳥が即座に突っ込んだ。
お柳はころころと笑った。
柔らかい笑い方だった。
なのに、その笑い声は鍋の底に沈んだ灰のように、どこか黒く残る。
「では、馬鹿な娘さん」
「はい」
「何をお探しですか」
「藤尾様へ運ばれた菓子の本当の控えです」
「先ほどお見せしたでしょう」
「あれは、見つけさせるための控えです」
御膳場にいた女中たちの手が止まりかけた。
お柳は微笑んだままだ。
「まあ。では、私は偽物を用意したと?」
「そこまでは申し上げておりません」
「でも、思っている」
「はい」
千鳥が小さく「もう少し包んで」と呟いた。
私は包めなかった。
時間がない。
明朝までに証を示さなければ、私は盗人の娘として髪を落とされる。
それだけではない。
母の汚名と私の汚名が並び、篠乃井の名が二度殺される。
お柳は鍋に蓋をした。
ことり、という音が妙に大きく響いた。
「篠乃井さん。御膳場には控えがいくつもございます。献立控え、材料控え、役目控え、薬湯控え、好み控え。すべて見ますか」
「見せていただけるなら」
「よろしいですよ」
千鳥が目を丸くした。
「いいんですか」
「隠していると思われるのは心外ですもの」
お柳は、奥の棚へゆっくり歩いた。
その背中はふくよかで、穏やかだった。人を害するようには見えない。むしろ、腹を空かせた子供に握り飯を作ってくれそうな背中だ。
だが、私はその背中を信じなかった。
母の懐紙が、懐の中で重い。
七人を、信じてはならぬ。
お柳は、七人のうちの一人なのか。
それとも、七人の罪を腹にしまう女なのか。
棚から紙束が次々に出される。
古いものから新しいものまで、紐で丁寧にまとめられていた。紙の端は手の油で少し黄ばんでいる。何度もめくられた跡があった。
「どうぞ」
お柳はそれを畳の上へ置いた。
「ただし、火にはお気をつけて。紙はよく燃えますから」
「燃やしたい紙がおありなのですか」
「大奥に、燃やしたい紙の一枚もない女はいませんよ」
「お柳さんにも?」
「ええ」
彼女はにこりと笑った。
「食べすぎた日の献立控えなど、特に」
冗談に聞こえる。
けれど、この女の冗談はいつも半分だけ本当だ。
私はまず、今日の控えを確認した。
藤尾の方の菓子。
材料控え。
薬湯控え。
運び役。
名札。
どれも、先ほど見たものと同じだった。
篠乃井紗代。
私の名を真似た字。
似せているが、完全には似ていない。
わざとだろうか。
下手に真似すぎれば、誰かが代筆したと分かる。少し似ている程度なら、見る者が勝手に「本人かもしれない」と疑う。
嫌な字だ。
人の悪意は、筆先にも宿る。
「これを書いた者を知りたいです」
私は言った。
お柳は首を傾げる。
「御膳場では、手の空いた者が書きますから」
「誰の字にも癖があります」
「それを見分けられると?」
「母が字に厳しかったので」
「便利なお母様ですね」
その言い方に、千鳥が反応した。
「お柳さん」
「何かしら」
「紗代のお母さんを、馬鹿にしてます?」
お柳は目を丸くした。
「まあ、そんなつもりは」
「聞こえました」
「千鳥」
私は止めた。
でも、少し遅かった。
千鳥は唇を噛みながらも、引かなかった。
「紗代は、変なところで我慢します。でも、私はそこまで我慢強くないので」
お柳は、千鳥をじっと見た。
その目が細くなる。
「千鳥さんは、本当にこの方と仲がよろしいのですね」
「よくないです」
「では、なぜ怒るのです」
「腹が立ったからです」
「誰のために?」
千鳥は詰まった。
私は思わず千鳥を見た。
お柳は、そこを見逃さない。
「ねえ、千鳥さん。誰かのために怒ると、お腹が空くでしょう」
「何ですか、それ」
「怒りは力を使いますもの。疲れる。疲れれば甘いものが欲しくなる。甘いものを食べれば、人は少し優しくなる」
「今、甘いものを出されても食べません」
「賢いですね」
お柳は微笑んだ。
「でも、賢い娘ほど、飢えには弱い」
その声が、妙に耳に残った。
千鳥は黙って私の隣に座った。
私は紙束へ視線を戻す。
今日の控えでは足りない。
今日の紙は、こちらに見せるために整えられている。
ならば、過去を見るしかない。
「古い控えも見ます」
「どのくらい古いものを?」
「七年前」
御膳場が静まった。
お柳の笑みは崩れない。
「七年前となると、探すのに時間がかかりますよ」
「明朝まで時間があります」
「髪を切られる前まで、ですね」
千鳥が息を呑んだ。
お柳は悪いことを言った顔をしない。
「大奥の女にとって、髪は大切ですものね。切られるのは、お嫌でしょう」
「嫌です」
「では、もっと怖がった方がよいのでは」
「怖がっています」
「そうは見えません」
「怖がっている暇がないだけです」
お柳は、今度こそ少し黙った。
それから、棚の下段から古い文箱を引き出した。
紐が固く結ばれている。
「七年前の御膳控えなら、このあたりでしょう」
「すぐ出るのですね」
「御膳場は、記憶の胃袋ですから」
「胃袋?」
「食べたものは消えます。でも、何を食べたかは残る。誰が食べ、誰が残し、誰が吐き、誰が薬を飲んだか。大奥の歴史は、膳の上にもございます」
お柳は紐をほどき、古い紙束を差し出した。
紙から、かすかに黴と乾いた蜜の匂いがした。
私はページをめくる。
手が震えた。
篠乃井志乃。
母の名を探す。
藤尾の方。
御台所。
桔梗。
母の痕跡。
どこかに、必ずある。
千鳥も隣から覗き込む。
「これ、読める?」
「少し薄いですが」
「私、こういう崩した字苦手」
「千鳥は逃げ足が速い分、字から逃げてきたのですね」
「今けなした?」
「褒めました」
「絶対違う」
そんな小さなやり取りが、張りつめた空気を少しだけ緩めた。
しかし次の瞬間、私はある欄で手を止めた。
七年前。
桔梗の月。
藤尾の方、夜御膳控え。
葛、白粥、梅肉、薬湯。
添え書き。
藤尾様、御気色すぐれず。黒蜜は控えること。
その字は、母の字に似ていた。
最後の払いが、少し強い。
私は息を止める。
「これ……母の字です」
千鳥が紙に顔を近づけた。
「分かるの?」
「はい」
母の字。
家で見た手習いの紙。
父へ宛てた短い文。
私に残した懐紙。
癖は少ない。
でも、最後の払いだけが凛としている。
間違いない。
これは母の字だ。
お柳が横から静かに言った。
「篠乃井志乃様は、藤尾様のお好みをよく見ておられましたから」
「母は、御膳場の控えにも書いていたのですか」
「ええ。藤尾様付きでしたので。食べられないもの、好むもの、薬に触れるもの。よくお知らせくださいました」
「では、母は藤尾様を害そうとはしていない」
「どうでしょう」
お柳は即答しなかった。
「人を害する女ほど、よく世話をすることもあります」
「あなたのことですか」
千鳥が小声で「紗代」と警告する。
お柳は怒らなかった。
「そうかもしれませんね」
あっさりと言った。
「でも、私が人を害するとしたら、もっと美味しく害します」
「美味しく?」
「苦しみだけでは、芸がないでしょう」
冗談のように言ったのに、千鳥の顔が引きつった。
私は紙をめくり続ける。
桔梗の夜。
その周辺の日付。
藤尾の方の御膳が荒れている。
黒蜜を好んでいたはずなのに、急に断っている。
薬湯が増えている。
粥が増えている。
寵愛を失った衝撃で体調を崩したのだろうか。
さらに紙をめくる。
御台所。
茶会。
菓子。
桔梗香炉。
私は手を止めた。
桔梗香炉。
御台所の部屋にあった、あの香炉。
その横に母の字で小さく書かれている。
献上品。志乃持参。
胸が強く打った。
やはり、あの香炉は母が御台所へ献じたものだった。
だが、その下にもう一文ある。
香炉内、文あり。燃やさず。
燃やさず。
母は、香炉の中に文を隠した。
それを御台所へ渡した。
命乞いではない。
証を届けたのだ。
私は御台所の言葉を思い出した。
昔、ある女が私に献じたものです。
命乞いのつもりだったのでしょうね。
違う。
母は命乞いをしたのではない。
御台所に、何かを知らせようとした。
だが、その結果、母は死んだ。
「お柳さん」
「はい」
「この香炉内の文とは、何ですか」
お柳は紙を覗き込んだ。
それから、静かに笑った。
「さあ。私は香炉の中までは食べませんから」
「ご存じですね」
「知らないと言っております」
「知らない人の顔ではありません」
「では、どんな顔でしょう」
「思い出したくないものを、口の中へ押し戻している顔です」
お柳の笑みが消えた。
本当に、一瞬だけ。
私はその顔を見た。
この女は、何かを知っている。
そして、それを恐れている。
お柳はまた笑みを戻した。
「篠乃井さん。あなたは人の顔を見すぎます」
「母に似ておりますので」
「似ていることを盾にすると、母君の死に近づきますよ」
「もう近づいています」
「なら、止まりなさい」
その言葉は、初めて忠告に聞こえた。
悪意だけではない。
お柳の目の奥に、何か別のものが揺れた。
「なぜですか」
「若い娘が、母の死に引きずられていく姿は、腹に重いのです」
「お柳さんにも、重いものがあるのですね」
「ありますよ」
お柳は自分の腹に手を当てた。
「食べすぎた秘密は、なかなか消化できません」
千鳥が顔をしかめた。
「なら、吐き出してください」
「吐いたら、私が死にます」
「秘密って、そんなに大事ですか」
「大事ではありません」
お柳は千鳥を見た。
「でも、命より軽い秘密も、大奥にはございません」
その時だった。
御膳場の入口で足音がした。
松ヶ枝が入ってきた。
まただ。
この人は、いつも肝心なところで現れる。
偶然とは思えない。
「篠乃井」
「はい」
「何か見つけましたか」
「七年前の控えに、母の字を見つけました」
「それが何の証に」
「母は藤尾様の食を気遣っておりました。少なくとも、藤尾様を害する側には見えません」
「見える、見えないで話をするのは危うい」
「はい。ですから、もっと探します」
松ヶ枝の視線が古い控えに落ちる。
彼女の顔色が、わずかに変わった。
香炉内、文あり。燃やさず。
その一文を見たのだ。
松ヶ枝は、すぐに紙束を閉じようとした。
私はその手を押さえた。
御膳場の空気が凍る。
年長の老女の手を、下級の新入りが止めた。
大奥では、それだけで罰せられてもおかしくない。
「離しなさい」
松ヶ枝の声は低かった。
「なぜ、閉じるのですか」
「これ以上は、そなたが見るべきものではありません」
「母が残したものです」
「大奥の控えです」
「母の字です」
「篠乃井」
松ヶ枝の目に、怒りが宿った。
でも、その奥にあるのは怒りだけではない。
恐れ。
後悔。
疲れ。
「そなたは、自分が何をしているのか分かっているのですか」
「分かっていません」
私は正直に言った。
「分かっていないから、知ろうとしています」
「知れば戻れません」
「母は、戻れなかったのでしょう」
松ヶ枝の指が震えた。
私は手を離した。
松ヶ枝は紙束を閉じず、しばらく黙っていた。
そして、低い声で言った。
「その控えは、持ち出してはなりません」
「では、ここで写します」
「時間がないでしょう」
「覚えます」
「そなたは」
松ヶ枝は息を吐いた。
「本当に、志乃に似ている」
その言葉が、やけに悲しく聞こえた。
お柳が静かに言った。
「松ヶ枝様。明朝までに証を、と藤尾様は仰せです。ならば、この娘がどこまで足掻くか、見てみてもよろしいのでは」
「お柳」
「どうせ、髪を落とすなら朝で間に合います」
千鳥が怒った。
「そんな言い方!」
「では、どう言えばよろしいですか」
お柳は穏やかに返す。
「大奥では、優しい言い方をしても結果が変わらないことが多いのです」
千鳥は悔しそうに黙った。
私は古い控えをもう一度開いた。
母の字。
藤尾の方の御膳。
御台所の香炉。
そして、桔梗の夜。
その日の欄だけ、妙に紙が厚い。
いや、違う。
二枚重なっている。
私は指先で端を探った。
紙と紙の間に、薄いものが挟まっている。
千鳥が息を呑む。
「何かある」
私は慎重に引き出した。
それは、小さく折られた献立控えの端だった。
年月で黄ばんでいる。
だが、文字は読める。
母の字だ。
短い一文。
藤尾様を殺してはならぬ。真に恐ろしきは、怒れる女ではなく、笑って腹を満たす女。
私は声を失った。
千鳥が隣で読んで、顔を青くする。
「これって……」
お柳は笑っていなかった。
松ヶ枝も、言葉を失っていた。
御膳場の火が、ぱちりと鳴る。
笑って腹を満たす女。
それは、お柳を指しているのか。
それとも、御台所か。
大奥そのものか。
母は、七年前に気づいていた。
藤尾の方の怒りではなく、その怒りを利用して腹を満たす女がいることに。
私は紙片を握りしめた。
その時、御膳場の入口から、冷たい声がした。
「面白いものを見つけましたね」
御台所付きの女中だった。
御台所の部屋で私を案内した女。
名は、初瀬。
静かな顔で、こちらを見ている。
「御台様より仰せです」
初瀬は、深く頭を下げるでもなく、淡々と言った。
「明朝、藤尾様、松ヶ枝様、お柳様、そして篠乃井紗代を御前へ。菓子騒動と簪盗難の件、御台様自らお聞きになるとのこと」
千鳥が私の袖を掴んだ。
松ヶ枝の顔が険しくなる。
お柳は、再び笑った。
柔らかく。
腹の底が見えない笑みで。
「まあ。御台様がお聞きくださるなら、安心ですね」
安心。
その言葉ほど、今の大奥に似合わないものはなかった。
私は母の紙片を見下ろした。
真に恐ろしきは、怒れる女ではなく、笑って腹を満たす女。
明朝、私はその女たちの前に立つ。
盗人の娘として。
不義密通の女の娘として。
そして、母の残した小さな刃を握る者として。
髪を落とされるか。
名を取り戻す一歩を得るか。
夜はまだ深い。
けれど、大奥の闇は、夜よりもずっと深かった。




