第48話 菊はまだ寺に咲く
返事のない夜は、音が重い。
火鉢の炭が小さく崩れる音。
廊下の向こうを誰かが歩く音。
襖の紙が風でわずかに鳴る音。
千鳥が小夜の鈴を握り直す、ほんの小さな衣擦れ。
どれも、知らせのように聞こえた。
けれど、本当の知らせは来ない。
無鐘庵へ向かう文使いは襲われた。
香袋の行方は分からない。
妙菊へ名を届けるはずだった香と結び目は、途中で奪われたかもしれない。
父への文も、まだ届いたか分からない。
父は今夜、櫛箱の底を浮かせ、赤い紐の奥にある菊乃の名を写そうとしている。
失敗すれば、母が残した紙は破れる。
成功すれば、菊乃という名がもう一つ、外へ出る。
待つしかない。
大奥の中にいる私たちは、いつも肝心な時に待つしかできない。
「紗代」
千鳥が低く呼んだ。
「はい」
「こういう時、小夜ならどうしてたと思う?」
「分かりません」
「だよね」
千鳥は膝の上で鈴を包み込んでいた。
「たぶん、怒ってたと思う」
「はい」
「で、動こうとして、誰かに止められて、それでも怒ってた」
「小夜さんらしいですね」
「会ったことないのに分かる?」
「千鳥が話してくれたので」
千鳥は少しだけ笑った。
でも、すぐに目を伏せる。
「私も怒ってる」
「はい」
「でも、今は鳴らさない」
「はい」
「鳴らしたら、何かが壊れそうだから」
私は頷いた。
鈴は、鳴らせば誰かを呼ぶ。
味方とは限らない。
それに、今鳴らしても無鐘庵へは届かない。
届かない鈴を鳴らすことは、千鳥の心を少し楽にするかもしれない。けれど、それは小夜の鈴をまた苦しませることにもなる。
千鳥は、それを分かっていた。
「握っていましょう」
私が言うと、千鳥は頷いた。
「うん。音にしないで、ここで止める」
御台所はずっと黙っていた。
文机の前に座り、目を閉じている。
眠っているわけではない。
待っているのだ。
松ヶ枝は何度も寺社方の控えを見直していた。お袖は古い櫛箱の底を指先で撫で、音を確かめている。
誰も、無駄に話さない。
話せば、不安が形になる。
それでも、千鳥がぽつりと呟いた。
「文って、奪われたら終わりなんですか」
御台所が目を開けた。
「一つしかなければ」
「今回は?」
「一つだけではありません」
「本当に?」
「ええ」
御台所は、ゆっくり息を吐いた。
「佐伯新六は古い家臣筋です。一本道で文を運ぶほど若くはないでしょう」
「じゃあ、別の道が?」
「あると信じています」
「御台様も、信じるんですね」
「時には」
「怖い」
「何でも怖がりますね、千鳥」
「御台様の信じる、は普通の人より怖いです」
御台所は少しだけ笑った。
「それは否定しません」
その時だった。
襖の向こうで、初瀬の声がした。
「御台様」
全員が顔を上げた。
初瀬が声をかけてから入るのは珍しい。
つまり、知らせがある。
そして、それが軽い知らせではない。
「入りなさい」
御台所の声は静かだった。
初瀬が入ってきた。
裾に、また土埃がついている。
顔はいつも通り無表情に近い。
けれど、目の奥だけが少し違った。
「佐伯新六より、返り文が届きました」
胸が止まりそうになった。
千鳥が鈴を握りしめる。
「文は」
御台所が問う。
「襲われた文使いのものは、奪われました」
千鳥の顔が青ざめる。
だが初瀬は、すぐに続けた。
「しかし、文そのものは別経路で無鐘庵へ届いております」
部屋の空気が、一瞬で変わった。
千鳥が息を呑み、私の袖を掴む。
「届いた……?」
「はい」
初瀬は短く答えた。
「香袋も?」
私の声は掠れていた。
「届きました」
その瞬間、千鳥の目から涙が落ちた。
「よかった……」
小さな声だった。
けれど、それは小夜の鈴よりも確かな音に聞こえた。
私は深く息を吸った。
体の中に、ようやく空気が戻ってくる。
届いた。
白檀と沈丁花の香が。
志乃の結び目に似せた紐が。
妙菊へ。
菊乃だったかもしれない女へ。
「返り文は」
御台所が問うと、初瀬は小さく畳まれた紙を差し出した。
文は、薄い紙だった。
寺で使うような、質素な紙。
墨は濃くない。
けれど、字は震えていなかった。
御台所は封を見て、私へ渡した。
「篠乃井。読みなさい」
「はい」
私は紙を受け取った。
手が震えた。
千鳥が隣で、そっと言う。
「半分」
「はい」
私は文を開いた。
差出の名は、妙菊。
その二文字を見ただけで、胸が熱くなった。
妙菊。
確かに、いる。
書いている。
自分の名を。
私は、本文を読んだ。
――香、届きました。
――白檀の奥に、懐かしき沈丁花を聞きました。
――結び目は、切らずにほどきました。
――菊乃という名を、まだ覚えております。
そこで、声が詰まった。
千鳥が口元を押さえる。
「覚えてる……」
「はい」
私は続きを読もうとして、少し息を整えた。
紙の上の文字が滲みそうだった。
泣いてはいけない。
まだ最後まで読まなければならない。
――私は妙菊として庵におります。
――けれど、菊乃という名を捨てた日はございません。
――捨てたふりをして、生きてまいりました。
――志乃様の香を、忘れたことはございません。
――小夜殿の鈴の音も、忘れてはおりません。
千鳥が息を呑んだ。
「小夜の鈴……」
「覚えている」
私は震える声で言った。
小夜の鈴は、空に消えたのではない。
御簾の奥に届き、お房に無視され、そして菊乃の記憶にも残っていた。
小夜は、確かに鳴らしていた。
誰かの中に残る音を。
私はさらに読んだ。
――あの夜、鈴は一度鳴りました。
――止まれ、の音でございました。
――けれど駕籠は止まらず、私だけが別道へ移されました。
――志乃様は、私に「名を忘れぬように」と申されました。
――私は忘れませんでした。
――忘れたふりだけを、覚えました。
部屋に沈黙が落ちた。
忘れたふりだけを、覚えました。
その一文が、あまりにも痛かった。
妙菊は、生きていた。
けれど、生きるために忘れたふりを覚えなければならなかった。
菊乃の名を捨ててはいない。
ただ、隠していた。
母が櫛箱に名を隠したように。
妙菊自身も、自分の中に菊乃を隠していた。
「続きが」
御台所が静かに言った。
「はい」
私は頷き、最後の部分へ目を落とした。
――無鐘庵の周りに、近頃見知らぬ者が増えました。
――寺社方を名乗る者、薬を届ける者、菊の根を見に来たと申す者。
――私はまだ庵を出られません。
――けれど、名が届いたことを知りました。
――志乃様は、私のために名を捨てたのではありません。
――私たち全員の名を守ろうとしたのです。
最後の一文を読んだ時、御台所の顔が変わった。
松ヶ枝が目を伏せる。
お袖の手が、古い櫛箱の上で止まった。
千鳥は泣いていた。
声を出さずに。
小夜の鈴を握りしめたまま。
「私たち全員の名……」
千鳥が呟いた。
「菊乃さんだけじゃない。志乃様だけでもない。小夜も、お梅様も、お久様も、お袖様も、松ヶ枝様も……」
千鳥はそこで言葉を止めた。
御台所を見たからだ。
御台所は、静かに言った。
「私も、でしょうね」
その声には、自嘲も笑みもなかった。
ただ、認める響きがあった。
「志乃は、誰か一人を救おうとしたのではない。名札で殺される女たちの名を、すべて守ろうとした」
「それで、自分が」
私は声を出した。
「不義の札を被った」
「おそらく」
御台所は頷いた。
「ですが、妙菊は『私のために名を捨てたのではない』と書いている。ここが大事です」
「母を美談にするな、ということでしょうか」
「ええ」
御台所は私を見た。
「志乃は犠牲になりたかったのではない。守ろうとした。けれど、それは自分を消すためではない。全員の名を消させないための策だった」
胸の奥で、母の姿が変わった気がした。
ただ正しくて、危うくて、誰かを守るために自分を投げ出した人。
そう思っていた。
でも、違う。
母は、投げ出したのではない。
残したのだ。
名を。
紙を。
赤い糸を。
鈴の意味を。
菊乃の存在を。
いつか誰かが呼べるように。
「母は、負けていなかった」
私が呟くと、御台所は静かに答えた。
「ええ。消されたように見えて、残していました」
「小夜も」
千鳥が言った。
「鈴を鳴らした。返事はなかったけど、妙菊さんは覚えてた」
「はい」
「小夜も、負けてない」
「はい」
千鳥は泣きながら笑った。
「小夜、すごいね」
小夜の鈴は鳴らなかった。
でも、その沈黙が今は誇らしいものに感じられた。
松ヶ枝が、文の最後をもう一度見つめた。
「無鐘庵の周りに、見知らぬ者が増えた。寺社方、薬を届ける者、菊の根を見に来た者」
「監視ですね」
私が言う。
「ええ」
御台所は文を受け取り、厳しい目で読み直した。
「大御台様側は、妙菊の所在をほぼ押さえています。今はまだ動かしていないだけ」
「三日後の手箱」
「それが動く前に、何かをする必要があります」
「妙菊様を無鐘庵から出す?」
千鳥が問うと、御台所はすぐには頷かなかった。
「出すことだけを考えると、折れます」
「根を傷つける」
「ええ。妙菊は病弱で、人前に出ない。無理に動かせば体が持たないかもしれない」
「でも、置いておけば」
「監視が強まる」
「どうすれば」
御台所は、文を置いた。
「まず、妙菊本人が動く意思を持っているかを確かめます」
「意思?」
「ええ。救い出す、という言い方は簡単です。けれど、本人がそれを望まぬなら、また別の名札を貼ることになる」
その言葉は重かった。
助けるという名札。
守るという名札。
それもまた、相手の名を奪うことになる。
「妙菊様が望む形で」
私が言うと、御台所は頷いた。
「そうです」
「そのためには、もう一度文を」
「ええ。ただし、今度はさらに難しくなります」
「なぜ」
「一度届いたことが相手に知られた可能性があります。次は、道が塞がれる」
初瀬が静かに言った。
「佐伯新六からの添え書きもございます」
「読んでください」
初瀬は別の紙を開いた。
――香袋は、第一の道では届かず。
――襲われた文使いは囮となり、第二の道にて庵の炊事方へ渡る。
――炊事方の老女、妙菊様に通じる者なり。
――されど、同じ道は二度使えず。
――庵の周囲、見張り増す。
――菊はまだ寺に咲くが、根を移すには風向きを待つべし。
千鳥が小さく息を吐く。
「囮……」
「佐伯新六殿は、最初から二つ道を用意していたのですね」
「はい」
御台所が頷いた。
「古い家臣は、よい仕事をします」
「文使いは怪我をしたのですよね」
千鳥が言う。
「はい」
「囮って、言い方……」
彼女の表情が曇る。
御台所は静かに言った。
「そうですね。言葉が冷たすぎます」
「でも、その人のおかげで届いた」
「ええ」
「名前、分かりますか」
初瀬が少し驚いたように千鳥を見た。
「確認します」
「お願いします」
千鳥は真剣だった。
「名を守る話なのに、文使いさんの名前を知らないのは嫌です」
御台所が、少しだけ目を伏せた。
「その通りです」
私は千鳥を見た。
本当に、強くなった。
いや、優しさの置き場所がはっきりしてきたのだ。
小夜の鈴を持つ千鳥は、もう名のない誰かをそのままにしない。
「文使いの名も、調べましょう」
私が言うと、千鳥は頷いた。
「うん」
御台所は、妙菊の文を丁寧に畳んだ。
「この文は、写しを取ります」
「はい」
「原本は?」
「私が預かります」
御台所の声に、誰も反対しなかった。
強欲の箱へ入るのだろう。
けれど今は、それを責める気になれなかった。
箱は、人を殺すだけではない。
守ることもある。
ただし、誰が何のために入れるかで、意味が変わる。
「篠乃井」
「はい」
「第六章の目的は、果たしました」
「え?」
千鳥が目を丸くした。
御台所が咳払いをする。
「……言葉の綾です」
「またですか」
「疲れているのです」
松ヶ枝が小さく目を逸らした。
お袖も、何も言わなかった。
私だけが、少し笑った。
御台所はすぐに真顔へ戻る。
「妙菊は生きている。菊乃の名を覚えている。志乃の香と小夜の鈴を覚えている。そして、無鐘庵は監視されている」
「次は」
「妙菊の意思を確かめること。そして、無鐘庵の監視網を破ること」
「父の櫛箱は?」
私が問うと、初瀬がもう一枚の文を差し出した。
「父君からも、短い返事がございます」
心臓が跳ねる。
私は文を受け取った。
父の字は、ひどく疲れていた。
けれど、確かに父の字だった。
――紗代。
――赤い紐は切れておらぬ。
――菊乃の名、写せた。
――志乃の紙も、まだ生きている。
――父は無事。
――ただし、屋敷の外に目が増えた。
最後まで読んで、私は文を胸に当てた。
父は無事。
赤い紐は切れていない。
菊乃の名は写せた。
母の紙は、まだ生きている。
「紗代」
千鳥が泣きそうな顔で言った。
「よかった」
「はい」
声が震えた。
「よかったです」
今度こそ、少しだけ泣いた。
千鳥も泣いた。
御台所は何も言わなかった。
松ヶ枝は目を伏せ、お袖は静かに古い櫛箱へ手を置いた。
小夜の鈴は鳴らない。
けれど、今日だけは鳴らなくてよかった。
返事は来た。
妙菊から。
父から。
七年前に途切れたはずの糸が、今夜、二つの場所から繋がった。
菊はまだ寺に咲いている。
赤い糸はまだ切れていない。
名は、まだ殺されていない。
けれど、守るべきものが増えたということは、敵の手も増えるということだ。
無鐘庵の周りには監視が増えた。
父の屋敷の外にも目が増えた。
大御台様の名札の箱には、まだ古い札が残っている。
終わっていない。
むしろ、ここからが本当の戦いなのだ。




