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大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第47話 無鐘庵へ走る文

文は、走れない。


 紙に足はない。


 けれど、人の手から手へ渡る時、文は時に人より速く走る。


 そして、時に人より先に殺される。


 無鐘庵へ文を届ける。


 その一言は簡単だった。


 だが、そこへ至る道は細く、濡れて、ところどころに刃が伏せられているようだった。


 菊乃。

 妙菊。

 水辺の菊。

 鐘のない庵。


 名は見え始めた。


 場所も見えた。


 けれど、見えた途端に、そこへ大御台様側の手も伸びる。


 御台所の部屋では、朝から誰も座り方を崩さなかった。


 文机の上には、香袋、寺社方の控え、辰巳屋の出入り控え、佐伯新六からの文、父から届いた櫛箱の手順書きが並んでいる。


 どれも薄い。


 薄い紙ばかりだ。


 けれど、その薄さの上に何人もの名が乗っている。


 御台所は、筆を手にしたまま言った。


「無鐘庵へ文を出します」


 千鳥が小夜の鈴を握る。


「妙菊さん本人へ、ですか」


「表向きは違います」


「また花の話?」


「ええ」


 御台所は淡々と答えた。


「妙菊と書けば、読まれた瞬間に終わります。菊乃と書けば、さらに危険です」


「じゃあ、何て」


 御台所は私を見る。


「篠乃井。考えなさい」


「私がですか」


「ええ。志乃が残した名へ届く文です。そなたの言葉がよいでしょう」


 私は筆を見る。


 細い筆先。


 墨を含めば、ただの線が言葉になる。


 言葉になれば、人を動かす。


 そして、誰かを危険に晒すこともある。


「……妙菊様へ、とは書けません」


「はい」


「菊乃様へ、も書けません」


「はい」


「でも、本人が自分宛てだと分かる必要があります」


「その通りです」


 私は息を整えた。


 頭の中に浮かんだのは、水辺の菊だった。


 湿った土に根を縛られた花。


 折るのではなく、根を傷つけずに移さなければならない。


「こうでは、どうでしょう」


 私は言った。


「菊の根を移す時が来た」


 千鳥が小さく息を呑んだ。


「根を移す……」


「はい。無鐘庵が安全でないなら、妙菊様をそこから動かす必要があります。ただし、無理に引き抜けば折れる」


「だから、根を移す」


 御台所は筆を取り、紙に書いた。


 ――菊の根を移す時が来た。


 それだけでは短すぎる。


 私は続けた。


「水辺の土は、花を守るには冷たすぎる。鐘なき庵にて、低き声を聞いたなら、白檀と沈丁花の香をたどられよ」


 御台所が手を止めた。


 そして、少しだけ私を見た。


「よいですね」


「分かるでしょうか」


「菊乃なら」


 御台所は短く言った。


「志乃を覚えているなら、沈丁花の香で気づくでしょう」


 千鳥が不安そうに言う。


「忘れていたら?」


 誰もすぐには答えなかった。


 その沈黙が答えでもあった。


 忘れているかもしれない。


 忘れさせられているかもしれない。


 忘れたふりをしなければ生きられなかったのかもしれない。


 私は、静かに言った。


「その時は、もう一度届く言葉を探します」


「諦めない?」


「はい」


「うん」


 千鳥は鈴を握った。


「じゃあ、私も諦めない」


 松ヶ枝が、寺社方の控えを見ながら言った。


「文使いは誰にしますか。普通の取次では読まれます」


「佐伯新六に回します」


 御台所が答える。


「そこから無鐘庵へ直接ではなく、施しの品を扱う者に渡す」


「施しの品は」


「香袋と湿気除けの紙。表向きは経巻保護」


 お袖が香袋を差し出した。


 白檀と沈丁花。


 白と薄紫の紐。


 志乃の結び目に似せた、切らずにほどける結び。


 千鳥が昨日何度も練習していた結びの、本物。


「この紐なら、ほどく者にしか分かりません」


 お袖が言った。


「ただし、雑に解けば意味は消えます」


「妙菊さんが、ほどけるでしょうか」


「分かりません」


「でも、志乃様を覚えていたら」


「手が覚えているかもしれません」


 手が覚えている。


 その言葉が、妙に胸に残った。


 名を奪われても、手が覚えていることがある。


 香を忘れても、結び目のほどき方を覚えていることがある。


 人は、全部を紙に残すわけではない。


 身体にも、記憶は残る。


「父からも文が来ています」


 初瀬が、静かに言った。


 その場の空気が変わった。


「父から?」


 私は思わず身を乗り出した。


 初瀬は文を差し出す。


 父の字。


 昨日よりもさらに荒れている。


 私は封を切った。


 ――紗代。

 ――箱はまだ手元にある。

 ――今宵、赤い紐の奥を写す。

 ――開けるのではない。底を浮かせ、名だけを写す。

 ――もし失敗すれば、紙は破れる。

 ――されど、菊乃の名が外へ要るなら、父は試みる。


 血の気が引いた。


「駄目です」


 口から出た声は、自分でも驚くほど鋭かった。


 千鳥が私を見る。


「紗代」


「駄目です。父が一人で箱を触れば、赤い糸が切れるかもしれません。紙が破れるかもしれません」


「でも、菊乃さんの名が必要だから」


「分かっています。でも」


 言葉が続かない。


 父を止めたい。


 今すぐ文を書きたい。


 開けるな。触れるな。待ってください。


 けれど、待てば菊乃の名がまた替えられるかもしれない。


 無鐘庵へ届く文に、箱の中の名の写しがあれば強い。


 菊乃という名が、父の箱からも出たと示せる。


 でも失敗すれば、母が残した証が壊れる。


「止まれの鈴を」


 千鳥が小さく言った。


 私は顔を上げる。


 千鳥は小夜の鈴を握りしめていた。


「今だけ、父上にも鳴らしたい」


 その声は震えていた。


「一度鳴らしたら、止まれでしょう。小夜は、志乃様の駕籠を止めようとして鳴らした。今、私も父上に鳴らしたい。止まって。まだ触らないでって」


「千鳥……」


「でも、届かない」


「はい」


「大奥の中から、外の父上には届かない」


「はい」


 千鳥は悔しそうに唇を噛んだ。


「鈴って、こんなに小さいんだね」


「はい」


「でも、小夜はそれでも鳴らしたんだね」


「はい」


 私は父の文を握った。


 止めたい。


 だが、父は父で戦っている。


 七年守った箱を、今度は壊す危険を承知で、菊乃の名を写そうとしている。


 母が紙に残した名を、今生きている菊乃へ繋ぐために。


 御台所が言った。


「止める文は、間に合わないでしょう」


「御台様」


「現実です」


「では、父を見殺しに」


「違います」


 御台所の声が鋭くなった。


「父君は死にに行くのではありません。箱を開けに行くのでもない。名を写しに行くのです」


「失敗すれば」


「そのために、こちらから手順を補います」


「手順?」


 御台所はお袖を見る。


「お袖。父君の文に、何か危険な点は?」


 お袖は父の文を受け取り、じっと読んだ。


「底を浮かせ、名だけを写す。……可能です。ただし、灯りが強すぎると紙が反ります。湿気が多いと張りつきます。指で触れてはなりません」


「それを書きます」


 御台所はすぐに筆を取った。


「止めるのではなく、失敗しないための文を出す」


「間に合いますか」


「間に合わせる努力をします」


 私は、唇を噛んだ。


 止められないなら、支えるしかない。


 それもまた、半分持つということなのかもしれない。


 千鳥が私の袖を握った。


「紗代」


「はい」


「止まれの鈴じゃなくて、今は……えっと」


「何でしょう」


「ゆっくり、の鈴」


 こんな時なのに、少し笑ってしまった。


「鈴の合図にはありませんね」


「今作る」


「千鳥らしいです」


「褒めてる?」


「はい」


「怖い」


 千鳥はそう言いながら、少しだけ涙を拭った。


 お袖の助言をもとに、父へ急ぎ文が書かれた。


 ――強き灯を避けよ。

 ――箱を火鉢に近づけるべからず。

 ――湿りを嫌う。乾いた布を敷き、指で紙に触れるな。

 ――赤い紐を越えて名を追うな。見える一字を写せ。欲張るな。

 ――紗代より。父上を信じます。されど、母上の紙を破らぬでください。


 最後の一文で、私は筆を止めた。


 信じます。


 書いた。


 父を。


 今だけではない。


 今この瞬間、私は父を信じると決めた。


 文は初瀬へ渡された。


 初瀬は、いつものように静かに受け取ったが、今日はわずかに頭を深く下げた。


「必ず届けます」


「お願いします」


 私は頭を下げた。


 千鳥も、同じように頭を下げる。


「父上に、ゆっくりって」


 初瀬は一瞬だけ千鳥を見た。


「承知いたしました」


「え、本当に伝えるんですか」


「必要であれば」


 千鳥が少しだけ笑った。


 初瀬が去った後、無鐘庵へ送る香袋と文も整えられた。


 文面は短い。


 ――菊の根を移す時が来た。

 ――水辺の土は冷たすぎる。

 ――白檀と沈丁花の香を知るなら、低き声に耳を澄ませられよ。

 ――妙なる名は、まだ消えておりません。


 御台所はそれを見て、少しだけ頷いた。


「よいでしょう。ただし、この紙は香袋の中には入れません」


「では」


「佐伯新六へ。香袋の意味を伝えるための文です。妙菊本人へは、香と結び目だけを届けます」


「紙を持たせない」


「読まれれば終わりますから」


 千鳥が呟く。


「名前を届けるのに、紙を使えないんですね」


「ええ」


「でも、香と結び目なら届くかもしれない」


「はい」


「小夜の鈴みたい」


 千鳥はそう言って、少しだけ鈴を撫でた。


 その日の大奥は、妙にざわついていた。


 表向きには何も起きていない。


 だが、御末の間では、水辺の菊の話が広がり続けている。


 お吉はもう完全に噂の流れに乗っていた。


「水辺の菊は、根を移さなきゃ駄目なんですって」


 そう言いながら、他の女中へ自然に話を渡す。


「でも、根を掘る時は急いじゃいけないのよ。折れるから」


 誰が教えたのかと言われると、お吉は澄ました顔で言う。


「花のことくらい、私だって知ってるわよ」


 千鳥が横で小声を漏らす。


「昨日まで知らなかったくせに」


「聞こえてるわよ、千鳥」


「聞こえるように言いました」


「あなた本当に強くなったわね」


「花の世話です」


「何よそれ」


 二人のやり取りに、周囲の女中が少し笑う。


 笑いは、恐怖を弱める。


 少なくとも、その場の噂の棘は少し丸くなる。


 それもまた、名札剥がしの一部だった。


 夕刻、佐伯新六へ文と香袋が出された。


 父への文も、別の経路で走った。


 どちらも間に合うか分からない。


 無鐘庵へ届くかも、父の手元へ届くかも、分からない。


 待つしかない時間がまた始まった。


 千鳥は小夜の鈴を握ったまま、落ち着かない様子で廊下を見ていた。


「紗代」


「はい」


「文って、走れるんですね」


「はい」


「でも、転ぶこともある」


「はい」


「襲われることも」


「はい」


「嫌なこと言った」


「現実です」


「御台様みたいな返し」


「影響でしょうか」


「嫌な影響」


 千鳥は苦笑した。


 その時、初瀬が戻ってきた。


 早すぎる。


 父への文を届けたには早すぎる。


 御台所も、すぐに顔を上げた。


「何がありました」


 初瀬は珍しく、すぐに答えなかった。


 その沈黙だけで、悪い知らせだと分かった。


「文使いが」


 初瀬は低く言った。


「無鐘庵へ向かう途中で襲われました」


 千鳥の手から、鈴が落ちそうになった。


 私は反射的に支える。


「文は」


 自分の声が、遠く聞こえた。


「文そのものは、奪われた可能性があります」


 部屋が凍った。


「香袋は?」


「不明です」


 御台所の顔が冷える。


「誰に襲われたのです」


「寺社方を名乗る者と、薬種問屋風の男たち。文使いは傷を負いましたが、生きています」


「佐伯新六は」


「別経路を使った可能性があります。まだ確認中です」


 千鳥が震える声で言った。


「妙菊さんへの香袋は……」


 誰も答えられなかった。


 届いたかもしれない。


 奪われたかもしれない。


 途中で捨てられたかもしれない。


 また、返事のない夜が来る。


「小夜の時みたいに」


 千鳥が呟いた。


「鳴らしたのに、届かないの?」


「まだ決まっていません」


 私は言った。


 自分に言い聞かせるように。


「まだ、届かなかったとは決まっていません」


 御台所が立ち上がった。


「別経路を確認します。佐伯新六が一つの道だけを使うとは思えません」


「はい」


「父君への文は?」


「そちらは別の使いです。まだ報告なし」


「追いなさい」


「承知いたしました」


 初瀬はすぐに下がる。


 千鳥は鈴を握りしめた。


 今にも鳴らしそうだった。


「千鳥」


「鳴らしたい」


「はい」


「すごく鳴らしたい」


「はい」


「止まれって。もう誰も襲うなって。文を返せって」


「はい」


「でも、ここで鳴らしても届かない」


「はい」


 千鳥は涙をこらえた。


「じゃあ、握る」


「はい」


「握って、待つ」


「はい」


 私は千鳥の手に、自分の手を重ねた。


 小夜の鈴は鳴らない。


 でも、二人の手の中で確かに重かった。


 無鐘庵へ走る文は襲われた。


 香袋の行方は分からない。


 父への文も、まだ届いたか分からない。


 名を呼ぶための道は、途中で切られようとしている。


 それでも、まだ終わっていない。


 文は一つではない。


 道も一つではない。


 母が証を分けたように、私たちも道を分けている。


 だから、まだ信じる。


 香と結び目が、どこかを走っていることを。


 菊の根を移す時が来たという声が、無鐘庵へ向かっていることを。


 そして父が、赤い紐を切らずに、菊乃の名を写せることを。

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