第46話 名札剥がしの策
噂は、火より厄介だ。
火なら、燃えている場所が見える。
煙が立つ。
水をかければ、消えることもある。
けれど噂は、見えない。
誰の袖から出たのか、誰の耳で形を変えたのか、どこで棘を増やしたのか分からない。
気づいた時には、もう誰かの名に貼りついている。
志乃は不義の女。
小夜は嫉妬で消えた女。
菊乃は篠乃井家が作った女。
紗代は母の汚名を晴らすために奥を乱す娘。
名札は、紙でなくても貼られる。
人の口が、糊になる。
視線が、針になる。
沈黙が、箱になる。
そして今、その名札を剥がすために、私たちはまた噂を使おうとしていた。
「嫌です」
千鳥は、はっきり言った。
御台所の部屋。
文机の上には、昨日までに集められた噂の書き取りが並んでいる。お吉から聞いたもの、御末の間に流れたもの、御年寄付きの女中が囁いていたもの、紫の紐をつけた者たちが流したもの。
紙に書かれた言葉は、声で聞くよりも冷たかった。
――菊乃は篠乃井家の作り女。
――妙菊などという尼は、紗代が用意した影。
――無鐘庵など、七年前の罪を隠すための抜け道。
――志乃の娘は、死者の名を使って父の罪を消そうとしている。
千鳥はその紙を見て、唇を噛んだ。
「噂で殺された名前を、また噂で触るのは嫌です」
御台所は、叱らなかった。
ただ、静かに千鳥を見ている。
「小夜も、噂で変な話にされた。嫉妬で消えたとか、怪談とか。誰も小夜のことを知らないくせに、勝手に喋って、勝手に怖がって、勝手に忘れた」
「はい」
「菊乃さんだって、今それをされてるんですよね」
「ええ」
「だったら、こっちが噂を使ったら同じじゃないですか」
千鳥の声は震えていた。
怒りだけではない。
怖がっている。
自分が小夜を殺したものと同じ刃を持つことを、怖がっている。
私は、その気持ちが分かった。
噂を利用する。
それは、きれいな策ではない。
どれほど目的が正しくても、口から口へ渡るうちに形は変わる。こちらが意図した通りに届くとは限らない。
誰かを守るための言葉が、別の誰かを傷つけるかもしれない。
「千鳥」
私は声をかけた。
「はい」
「私も嫌です」
「紗代も?」
「はい」
千鳥は少し驚いた顔をした。
私がこういう時、迷わず進むと思っていたのかもしれない。
「でも、放っておけば、今の噂が固まります」
「分かってます」
「菊乃さんは作り女。妙菊様は紗代が用意した影。父は七年前から奥を欺いていた。そういう札が貼られます」
「分かってます」
「その札が固まれば、たとえ妙菊様本人が声を上げても、作られた女だと言われます」
「……分かってます」
千鳥は膝の上で手を握った。
小夜の鈴を握る時とは違う。
自分の怒りを握っている手だった。
「だから、噂で殺された名を、噂で生き返らせるのではありません」
私は、ゆっくり言った。
「噂の向きを変えて、紙に辿り着く時間を稼ぐのです」
千鳥が顔を上げる。
私は続けた。
「本当に名を戻すのは、紙です。記録です。箱です。そして、妙菊様本人の声です。でも、そこへ辿り着く前に名札を貼られたら、紙も声も届かなくなります」
「だから、時間稼ぎ」
「はい」
「殺す噂じゃなくて、止める噂?」
「そうです」
千鳥は、小さく息を吐いた。
「止まれの鈴みたいに」
「はい」
その言葉で、千鳥の目が少し変わった。
小夜の鈴。
一度鳴れば、止まれ。
小夜は七年前、止めるために鳴らした。
なら、今度の噂もそうだ。
誰かを刺すためではなく、走り出した名札を止めるために流す。
「……それなら」
千鳥は言った。
「それなら、できます」
御台所が、そこで初めて口を開いた。
「よく考えましたね」
「褒めてます?」
「ええ」
「やっぱり怖いです」
「慣れなさい」
「慣れたくないです」
千鳥はそう言いながらも、さっきより少しだけ背筋を伸ばした。
御台所は紙片を一枚取り上げる。
「大御台様側の札は、今こうです。『篠乃井家が菊乃を作った』。この札を正面から否定してはいけません」
「なぜですか」
私が問うと、御台所は紙片を裏返した。
「否定すればするほど、人は疑います。『作っていない』と叫ぶほど、『作ったのではないか』という言葉が残る」
「では、どうすれば」
「問いを変えるのです」
御台所は、新しい紙に筆を走らせた。
――菊乃が作り女なら、誰がその名を恐れているのか。
「これが一つ目」
次に、もう一枚。
――妙菊という尼がいるかどうかは、無鐘庵の者が知っている。
「二つ目」
さらに、三枚目。
――名を消した者ほど、名が戻る前に札を貼りたがる。
「三つ目」
千鳥が紙を覗き込む。
「これ、直接誰かを悪者にしてませんね」
「ええ」
「でも、聞いた人は考える」
「それでよいのです」
御台所は筆を置いた。
「人は、命じられた疑いには反発します。けれど、自分で気づいた疑いにはしがみつく」
「御台様、本当に怖いです」
「策とはそういうものです」
「怖いけど、今回は味方でよかったです」
「今回は?」
「はい」
御台所は一瞬だけ目を細めた。
怒るかと思ったが、笑った。
「正直でよろしい」
松ヶ枝が咳払いをした。
「御末の間へは千鳥。女中たちの表側へはお吉。御年寄付きへは……」
「私が拾います」
初瀬が静かに言った。
いつの間にか部屋にいた。
千鳥が肩を跳ねさせる。
「初瀬様、今どこから」
「襖からです」
「足音が」
「鍛錬です」
「やっぱり人間じゃない気がします」
「人間です」
初瀬は淡々と答えた。
そのやり取りで、少しだけ空気が緩んだ。
だが、松ヶ枝の表情は硬い。
「問題は、噂を変えたと大御台様側に知られることです」
「知られるでしょう」
御台所は即答した。
「隠しきれません」
「では」
「隠さない。むしろ、こちらが札を読んだと分からせます」
「挑発では?」
「半分は」
千鳥が小声で言う。
「また半分」
御台所は聞こえていたが、構わず続けた。
「ただし、篠乃井の名は出しすぎない。菊乃の名も、妙菊の名も、まだ低く呼ぶ段階です」
「花の話として」
「ええ。水辺の菊。妙なる名。根を守れ。鐘のない庵。これらを散らす」
「散らす?」
「一つにまとめてはいけません。一つにまとめれば、すぐ踏み潰されます。別々の女中が、別々の場所で、別々の花の話として口にする」
「それを聞いた人が、勝手につなげる」
「その通りです」
御台所の策は、怖いほど静かだった。
大声で反論しない。
怒鳴らない。
ただ、札の端を少しずつ浮かせる。
浮いたところに、別の問いを差し込む。
菊乃が作り女なら、なぜ恐れるのか。
妙菊がいないなら、なぜ無鐘庵を見張るのか。
名が嘘なら、なぜ先に札を貼るのか。
問いは、人の中に残る。
答えよりも長く。
「お吉さんには、私が」
千鳥が言った。
「よろしい」
御台所は頷く。
「ただし、言いすぎないこと」
「はい」
「得意げにならないこと」
「……はい」
「お吉に褒められても乗らないこと」
「はい……って、私そんなに分かりやすいですか」
「ええ」
部屋の全員が黙った。
千鳥がむくれる。
「否定してくださいよ」
「嘘は苦手です」
私が言うと、千鳥はじとりとこちらを見た。
「紗代、最近ちょっと意地悪」
「大奥に慣れたのかもしれません」
「嫌な慣れ方」
それでも、千鳥は少し笑った。
御末の間へ戻ると、お吉はすぐにこちらへ寄ってきた。
向こうから来る頻度が増えた。
本人はまだ認めないだろうが、もうかなり巻き込まれている。
「ねえ、千鳥」
「何ですか」
「妙なる菊って何?」
「花の話です」
「それはもう聞いた」
「じゃあ、花の続きです」
千鳥は、周りに聞こえる程度の声で言った。
「菊乃さんが作り女なら、誰がその名を怖がってるんでしょうね」
お吉は、片眉を上げた。
「それ、また言うの?」
「言います。だって変ですから」
「まあ……変ではあるわね」
「妙菊という尼がいるかどうかは、無鐘庵の人が知ってます」
「無鐘庵?」
周囲で数人の手が止まった。
千鳥は、わざと慌てなかった。
「鐘のない庵の話です。花の話ですよ」
「花の話にしては、物騒ね」
「水辺の菊は、根が腐ると困りますから」
お吉はしばらく千鳥を見ていた。
やがて、口元を少し歪める。
「あなた、本当に変わったわね」
「小夜に怒られないように頑張ってます」
「小夜?」
「花の世話が上手だった人です」
嘘ではない。
小夜が花の世話をしていたかは知らない。
けれど、人の名を守ることを花の世話と呼ぶなら、小夜は確かに世話をした。
鈴を鳴らして。
お吉は何か言いたそうにしたが、飲み込んだ。
そして、近くの女中へ何気なく声をかける。
「ねえ、聞いた? 菊乃が作り女なら、どうして無鐘庵なんて名前が出るのかしらね」
早い。
実に早い。
千鳥が私の隣へ戻ってきて、小声で言った。
「お吉さん、仕事早すぎません?」
「向いていますね」
「絶対言わない」
「はい」
その日のうちに、噂の向きは少しずつ変わった。
完全にではない。
大御台様側の札はまだ強い。
だが、そこに問いが混じった。
菊乃がいないなら、誰が無鐘庵を見張っているのか。
妙菊という尼の名を、なぜ紫の紐の女中たちは嫌がるのか。
篠乃井家の作り女なら、辰巳屋が無鐘庵へ何を運んだのか。
夕方になる頃には、御末の間だけでなく、廊下の向こうからも似た囁きが聞こえてきた。
札の端が、また少し浮いた。
けれど、その分だけ相手も動いた。
夜、御台所の部屋へ戻ると、初瀬が待っていた。
「大御台様側より、新たな声が」
「何です」
御台所が問う。
「『妙菊などという尼は病で臥せっており、誰とも会えぬ。名を呼んでも返らぬ声は、ないのと同じ』と」
千鳥が顔を強張らせた。
「ひどい」
「ええ」
私は言った。
「返らない声は、ないのと同じではありません」
小夜の鈴。
七年前、返事はなかった。
でも、音は届いていた。
返らない声を、なかったことにしてはいけない。
「そこが次の札ですね」
御台所は淡々と整理する。
「妙菊は病で臥せっている。会えない。声が返らない。だから存在しないのと同じ」
「病を使って、また閉じ込める」
「ええ」
「では、こちらは?」
「声が返らぬなら、香を届ける」
御台所は、すでに準備していた香袋を示した。
「妙菊へ送った香袋は、今夜には外へ出ます」
「届きますか」
「届かせます」
短い言葉だった。
その時、お房から紙片が届いた。
紫の糸で結ばれた、小さな紙。
御台所が開く。
そこには、こう書かれていた。
――札が剥がれ始めました。
――されど、剥がれた下に古き札あり。
「古き札……?」
千鳥が呟く。
御台所の顔が険しくなる。
「大御台様側は、次に古い札を出してくる」
「何の札ですか」
私が問う。
御台所は、少しだけ沈黙した。
「菊乃本人の名誉を潰す札でしょう」
「菊乃さんの?」
「ええ。志乃に不義の札を貼ったように、菊乃にも別の札を貼る」
「御子替えではなく?」
「もっと直接的なものかもしれません」
部屋の空気が冷えた。
妙菊へ香袋を届ける前に、相手は次の札を準備している。
札を剥がせば、下にまた札。
まるで、何重にも貼られた紙を剥がしているようだ。
でも、剥がさなければ本当の名は出てこない。
「剥がします」
私は言った。
「一枚ずつ」
御台所が私を見る。
「ええ」
「何枚あっても」
「その覚悟はよいですが、爪を剥がさぬように」
「はい」
千鳥が小夜の鈴を握った。
「爪が痛くなったら半分持ちます」
「ありがとうございます」
「本当に半分剥がせたらいいのにね」
「そうですね」
私たちは少し笑った。
笑えたことに、自分でも驚いた。
でも、笑わなければやっていけない。
名札は何枚もある。
噂は何度でも形を変える。
それでも、札の端は浮き始めた。
小夜が鳴らした鈴の音のように、まだ小さい。
けれど、確かに届き始めている。




