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大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第49話 私たち全員の名

妙菊から届いた文は、何度読み返しても、同じところで胸が止まりそうになった。


 ――志乃様は、私のために名を捨てたのではありません。

 ――私たち全員の名を守ろうとしたのです。


 私たち全員。


 その言葉は、広すぎた。


 菊乃だけではない。

 母だけでもない。

 小夜だけでもない。


 大奥で名札を貼られた女たち。

 名を歪められた女たち。

 黙ることで生き延びた女たち。

 泣くことでしか抵抗できなかった女たち。

 怠惰と呼ばれ、嫉妬と呼ばれ、強欲と呼ばれ、傲慢と呼ばれた女たち。


 母は、その全員の名を守ろうとした。


 けれど、そう思った瞬間、私は怖くなった。


 母があまりにも大きく見えたからだ。


 大きく見えすぎる人は、やがて人ではなくなる。


 尊い人。

 正しい人。

 犠牲になった人。


 そんな綺麗な箱に入れてしまえば、母の苦しみも、怒りも、迷いも、怖さも、全部見えなくなる。


 それはまた、別の名札ではないのか。


 御台所の部屋で、妙菊の文は文机の中央に置かれていた。


 御台所、松ヶ枝、お袖、千鳥、私。


 誰もすぐには話さなかった。


 千鳥だけが、小夜の鈴を懐の上から何度も押さえている。


 やがて、千鳥がぽつりと言った。


「美談にしたら、駄目な気がします」


 御台所が目を上げる。


「なぜです」


「だって……志乃様が全部分かっていて、みんなを守るために自分を犠牲にしました、って言ったら、綺麗すぎるから」


 千鳥は言葉を探すように、少し俯いた。


「綺麗すぎる話って、何か怖いです。小夜だって、鈴を鳴らした勇敢な子って言えば綺麗だけど、本当は怖かったと思うし、怒ってたと思うし、千鳥を起こさなかったことを後悔したかもしれない。そういうのを全部消して、すごい子でしたって言ったら……また小夜を箱に入れちゃう気がする」


 箱。


 その言葉に、皆が小さく反応した。


 母の櫛箱。

 御台所の強欲の箱。

 大御台様の名札の箱。


 そして今、千鳥は言った。


 美談もまた、箱になるのだと。


「千鳥」


 御台所が静かに言った。


「よく、そこに気づきました」


「褒めてます?」


「ええ」


「……今日は、あまり怖くないです」


「それはよかった」


 御台所は妙菊の文へ目を落とした。


「志乃は、消えたかったのではありません」


 その声は、いつもより少し低かった。


「自分の名を捨てたかったわけでもない。誰かのために美しく犠牲になりたかったわけでもない」


「では、母は」


「消されないために、証を分けたのです」


 御台所の指が、文の端に触れる。


「一つを燃やされても、別の場所に残るように。香炉へ。お柳へ。小夜へ。父君へ。辰巳屋の箱へ。そして、おそらく菊乃自身の記憶へ」


 私は息を呑んだ。


 母は、自分が消えることを前提に動いたのではない。


 消される力に抗うため、消しきれないように散らしたのだ。


「では、母は負けるつもりではなかった」


「ええ」


 御台所は頷いた。


「志乃は、負ける準備をしていたのではありません。負けたように見せても、後で誰かが拾えるように、名を残した」


「誰か」


「そなたです」


 私は何も言えなかった。


 御台所は続ける。


「ただし、そなた一人ではありません。千鳥も、松ヶ枝も、お袖も、父君も、妙菊も、佐伯新六も、お吉も、そして小夜も」


「小夜も?」


 千鳥が顔を上げた。


「もちろんです。小夜の鈴がなければ、ここまで来られませんでした」


 千鳥の目が揺れた。


「小夜、聞いてるかな」


「聞いていなければ、後で怒るでしょう」


「小夜なら怒る」


 千鳥は涙ぐみながら笑った。


 その笑いに、私も少しだけ息ができた。


 松ヶ枝が、静かに口を開いた。


「私は長く、志乃様が自分を犠牲にしたのだと思っていました」


 皆の視線が、松ヶ枝へ向く。


 彼女はいつものように背筋を伸ばしていたが、その目だけは少し遠くを見ていた。


「自分の名を捨てて、菊乃を守った。そう思えば、私の怠惰も少しだけ薄まる気がしたのです。志乃様がそう選んだのなら、私が動けなかったことも、少しは……仕方なかったのだと」


「松ヶ枝様」


「ですが、違いました」


 松ヶ枝は自分の膝の上で手を重ねた。


「志乃様は、私たちが後で動けるように残したのです。なら、私は仕方なかったなどと言ってはならなかった」


 お袖が小さく言った。


「松ヶ枝様だけではありません」


 その声は、いつもより柔らかかった。


「私も、聞こえないふりをしました。糸の結び目を見ていながら、ほどく手を止めた。小夜の名を、縫殿の奥にしまったままにした」


「お袖様も、箱に?」


 千鳥が聞くと、お袖は頷いた。


「ええ。私は小夜を、思い出の箱に入れていました。綺麗な卵焼きの匂いと一緒に」


 千鳥の唇が震えた。


「小夜、卵焼き好きだったんです」


「知っています。焦げ目の少ない方を、いつも千鳥に渡していました」


「……はい」


 千鳥はとうとう涙を落とした。


「小夜、やっぱりずるい」


「そうですね」


 お袖はほんの少しだけ微笑んだ。


「優しい人は、時々ずるいのです」


 御台所は、静かに皆を見渡した。


「妙菊の言葉は、私たちに向けられています。志乃を美談にするな。菊乃を救われるだけの女にするな。小夜を勇敢な鈴の子だけで終わらせるな。誰か一人の犠牲としてまとめるな」


「では、どう書けばよいのでしょう」


 私は思わず聞いた。


「母のことを」


「書く?」


 千鳥が首を傾げた。


 私は少し迷ってから言った。


「記録としてです。母の名を戻すために、いつか紙にしなければなりません。その時、母を何と書けばいいのか」


 御台所は少し考えた。


「志乃は、名札に抗った女」


「名札に」


「ええ。不義の札を貼られた女、ではありません。自ら犠牲になった女、でもありません。名札そのものに抗い、剥がすための手がかりを残した女です」


 胸の奥に、その言葉が落ちた。


 名札に抗った女。


 母には、その名が一番近い気がした。


「小夜さんは」


 千鳥が小さく聞いた。


「小夜は、鳴ってはならぬ音を鳴らした女」


 御台所は即答した。


 千鳥は目を見開いた。


「それ、すごく小夜っぽい」


「でしょう」


「でも、小夜って女って言われると、ちょっと変な感じです」


「では、鳴ってはならぬ音を鳴らした子」


「うん。そっちがいい」


 千鳥は鈴を握って、少しだけ笑った。


「小夜、たぶん得意げです」


「菊乃は」


 私は文へ目を落とした。


「妙菊は」


 御台所は、慎重に言葉を選んだ。


「名を捨てたふりで、生き残った女」


 その言葉に、誰も何も言わなかった。


 痛い。


 けれど、正しい。


 妙菊は菊乃を捨てていない。


 捨てたふりをして、生きてきた。


 それは、どれほど苦しかっただろう。


「会わなければなりません」


 私は言った。


「妙菊様に」


「会います」


 御台所は答えた。


「ただし、救い出すためだけではありません。本人の声を聞くために」


「はい」


「こちらが勝手に、守るべき人、証人、可哀想な女という札を貼らないように」


「はい」


 千鳥が強く頷いた。


「助けるって言葉も、気をつけないといけないんですね」


「ええ」


「難しいです」


「人を人として扱うのは、難しいのです」


 御台所の言葉は、静かだった。


 でも、いつもより少し重かった。


 その時、襖の向こうから初瀬の声がした。


「御台様」


「何です」


 初瀬が入ってくる。


 手には、紫の糸で結ばれた小さな紙片。


 お房からだ。


 部屋の空気が、また引き締まった。


「お房様より」


 御台所が受け取り、糸をほどく。


 紙片を開いた瞬間、目が細くなった。


「何と?」


 私が問う。


 御台所は、紙片を文机に置いた。


 そこには短く書かれていた。


 ――古き札、菊乃様に貼られる前に志乃様が奪いました。


 古き札。


 剥がれた下にあったという、あの古い札。


「母が、奪った?」


 私は呟いた。


「菊乃さんに貼られる前に?」


 千鳥も身を乗り出す。


「古き札って、何ですか」


 御台所はすぐには答えなかった。


 代わりに、松ヶ枝へ視線を向ける。


「奥医師記録を」


「はい」


「寺社方の控えも。大御台様の名札の箱に近い紙片も、出せるだけ」


「承知しました」


 松ヶ枝はすぐ動いた。


 お袖も、黙って辰巳屋の箱を脇へ寄せる。


 空いた文机の上に、新たな紙が並べられていく。


 古き札。


 菊乃に貼られるはずだった札。


 それを母が奪った。


 そして、その代わりに母は不義の札を貼られた。


 ならば。


「母は、自分に札を貼らせることで、菊乃さんへの札を遅らせた?」


 私が言うと、御台所は静かに頷いた。


「その可能性が高いでしょう」


「古き札の正体は」


「探ります」


 御台所の声は冷たかった。


「大御台様側が今それを復活させるつもりなら、先に読まねばなりません」


「名札を剥がすには」


 千鳥が言った。


「貼られた札を読まなきゃいけない」


「その通りです」


 御台所は紙片を見つめた。


「次は、菊乃に貼られるはずだった札を読みます」


 千鳥が鈴を握る。


「また嫌なものを読むんですね」


「ええ」


「でも、読まないと剥がせない」


「はい」


 私は妙菊の文と、お房の紙片を並べて見た。


 妙菊は書いた。


 志乃は、私たち全員の名を守ろうとしたのだと。


 お房は書いた。


 志乃は、菊乃に貼られるはずだった古き札を奪ったのだと。


 母が何をしたのか。


 ようやく、その輪郭が見え始めた。


 でも、それは決して綺麗な話ではない。


 血のにじむような選択だった。


 誰か一人が美しく犠牲になる話ではなく、名札を貼る仕組みそのものに抗うために、母が残した長い戦い。


 その戦いを、今度は私たちが引き継ぐ。


 箱に入れず。


 美談にせず。


 名を名のまま、呼ぶために。

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