第42話 菊の寺を探せ
札が剥がれ始めました。
お房から届いたその紙片は、たった一文だけだった。
けれど、大奥では一文あれば十分に人が動く。
噂は、まだ消えていない。
篠乃井家が菊乃を逃がした。
紗代は菊乃を利用しようとしている。
菊乃という女は、篠乃井家が作った影かもしれない。
そんな声は、御末の間にも、廊下にも、火鉢のそばにも残っている。
けれど、その噂の中に、別の声が混じり始めていた。
――菊乃の名を消した者が、今その名を恐れているらしい。
それはまだ、小さな囁きだった。
でも、小夜の鈴と同じで、小さくても届く音はある。
千鳥は朝から、妙に落ち着かなかった。
畳を拭きながら、何度も懐に手をやる。
今日は鈴を鳴らす日ではない。
それでも、小夜の鈴がそこにあることを確かめている。
「千鳥」
「何?」
「布巾、そこはもう三度拭きました」
「え、嘘」
「本当です」
「畳、綺麗になりすぎて困るかな」
「困るほどではありませんが、怪しまれます」
「畳を綺麗にして怪しまれる大奥、嫌だなあ」
千鳥はそう言って、やっと手を止めた。
顔は少し強張っている。
「今日、返事が来ると思う?」
「佐伯新六殿からですか」
「うん。菊の寺のこと」
「来るかもしれません」
「来なかったら?」
「待ちます」
「待つの、嫌い」
「私もです」
「紗代も?」
「はい。大嫌いです」
千鳥は少しだけ笑った。
「よかった。紗代が嫌いって言うと、何か安心する」
「なぜですか」
「人間っぽいから」
「私は最初から人間です」
「たまに文箱から生まれたみたいな顔する」
「それは、あまり嬉しくありません」
「褒めてない」
「でしょうね」
そんな会話をしていると、お吉が近づいてきた。
昨日よりも落ち着きがない。
だが、こちらを避けるのではなく、むしろ何かを聞きたそうにしている。
「篠乃井さん」
「はい」
「昨日の話……その、菊乃の名を消した者が恐れているって話」
「はい」
「広がってるわよ」
「そうですか」
「そうですか、じゃないでしょ。あなた、自分の噂なのにどうしてそんな落ち着いてるの」
「落ち着いているふりをしております」
「ふりなの?」
「はい」
「……正直すぎるのも変ね」
お吉は呆れたように言ったが、声は少し柔らかかった。
「それで、何かありましたか」
「御年寄付きの子が言ってた。『菊乃の名を恐れている者などいない。寺に咲く菊など枯れたも同じ』って」
千鳥の手が止まった。
「寺」
「え?」
お吉が目を瞬かせる。
「今、寺って言いましたよね」
「言ったわよ。寺に咲く菊って」
「誰が言ったんですか」
「だから、御年寄付きの子。紫の紐の」
「また紫」
千鳥が低く言う。
お吉は周囲を気にしながら続けた。
「でも変よね。菊乃なんて作り女だって言うなら、どうして寺の菊なんて言葉が出るのかしら」
お吉自身が、そこに気づいていた。
千鳥が少し驚いた顔をする。
「お吉さん」
「何よ」
「今の、すごく大事です」
「え、私が?」
「はい」
お吉は明らかに照れた。
「べ、別に。私は変だと思っただけよ」
「その変だと思うのが大事です」
私が言うと、お吉はさらに居心地悪そうにした。
「あなたたち、最近褒め方が怖いわ」
「慣れてください」
「慣れたくない」
お吉はそう言いながらも、少しだけ誇らしそうに去っていった。
千鳥はその背中を見ながら言った。
「お吉さんも、少しずつこっち側?」
「巻き込みすぎないようにしなければ」
「うん。でも、あの人、噂の流れを読むの上手いね」
「はい」
「本人には言わない方がいいかも。調子に乗る」
「千鳥、意外と辛辣ですね」
「小夜に似てきた?」
「少し」
「よし」
その時、廊下の向こうから初瀬が現れた。
いつも通り足音はない。
けれど今日は、現れた瞬間から用件が分かった。
文だ。
初瀬の手に、外から届いた文があった。
「篠乃井」
「はい」
「外より返事が届きました」
胸が鳴った。
「佐伯新六殿からですか」
「はい」
千鳥が私の袖を掴む。
「半分」
「はい」
私たちは御台所の部屋へ向かった。
御台所はすでに文机の前に座っていた。
松ヶ枝も呼ばれている。
お袖は古い辰巳屋の箱を横に置いたまま、静かに控えていた。
初瀬が文を差し出す。
御台所は封を見ただけで、私へ渡した。
「読みなさい」
「私が?」
「そなた宛てです」
封には、確かに私の名があった。
佐伯新六の字は、父より少し荒い。
急いで書いたのだろう。
私は封を切った。
中には、一枚の文。
そして、細い紙片が添えられていた。
文の冒頭には、こう書かれていた。
――菊の花を、寺に見かけ候。
千鳥が息を呑んだ。
私は読み進める。
――増上寺末寺筋にて、七年前より名を変えたる女ありとの噂を得たり。
――ただし、その名を口にする者は少なく、庵に鐘なし。
――水辺の菊、今も根を張ると申す者あり。
――鐘のない庵をお探しくだされ。
――寺社方を名乗る者ども、近頃その辺りにも影あり。
――菊を折る手、すでに動き候。
水辺の菊。
鐘のない庵。
私はその二つの言葉を、何度も目で追った。
「水辺の菊……鐘のない庵……」
千鳥が呟く。
「暗号?」
「はい」
松ヶ枝がすぐに寺社方の控えを広げた。
「増上寺末寺筋。鐘のない庵。水辺」
「水辺とは、川沿いでしょうか」
私が問うと、御台所が答える。
「増上寺末寺筋には、小さな庵がいくつもあります。水路沿い、池のほとり、低地の庵。鐘のない庵となると、かなり絞れるでしょう」
松ヶ枝は細い指で控えを追った。
お袖も、寺へ納めた辰巳屋の控えを照合している。
「鐘のない庵……無鐘……」
松ヶ枝の指が止まった。
「無鐘庵」
部屋の空気が張り詰めた。
「無鐘庵?」
千鳥が繰り返す。
「小さな尼寺です。正確には寺というより、末寺付きの庵。鐘を持たないため、近くの者から無鐘庵と呼ばれていたようです」
「水辺ですか」
「ええ。古い水路沿いにあります」
「菊乃さんは、そこに?」
千鳥の声が震える。
松ヶ枝は慎重に言った。
「まだ断定はできません。ただ、条件は合います」
御台所が文を受け取り、佐伯新六の記述を見た。
「水辺の菊。鐘のない庵。無鐘庵。かなり確度は高いですね」
「菊乃さんが妙菊という尼に?」
「そこまでは、この文ではまだ分かりません」
「でも、七年前から名を変えた女がいる」
「ええ」
御台所の表情は硬い。
希望だけではない。
危険も一緒に見ている顔だった。
「菊を折る手、すでに動き候」
私はその一文を読み上げた。
「大御台様側も、無鐘庵を探っている」
「おそらく」
御台所は頷いた。
「こちらが菊乃の名に辿り着いたことで、相手も動きを早めたのでしょう」
「では、急がなければ」
「急ぎます。ただし、走ってはなりません」
御台所の声が鋭くなった。
「走れば、こちらがどこへ向かっているか教えるだけです」
「では、どうすれば」
「寺社方の控えを正式に確認する口実を作ります」
「口実?」
「御台所から、尼寺への施しの記録確認を命じます。水辺の庵は湿気で経巻が傷みやすい、という理由で」
千鳥が目を丸くした。
「御台様、口実作るの早すぎません?」
「普段から考えていますので」
「普段から?」
「大奥で生きるとは、口実を蓄えることです」
「嫌な暮らし」
「ええ」
御台所は涼しい顔で受け流した。
その時、お袖が控えの一枚を指で示した。
「辰巳屋も、無鐘庵に出入りしています」
また、辰巳屋。
「いつですか」
私が問う。
「七年前に一度。三年前に一度。昨年に一度」
「何を納めていますか」
「香箱、櫛、手箱、菊模様の香袋」
「櫛?」
千鳥が反応した。
「尼寺に櫛?」
部屋が静まった。
尼なら髪を落としているはずだ。
もちろん、寺にいる全員が完全に髪を落としているとは限らない。けれど、七年前に名を変えた女が菊乃で、髪を落とした可能性があるのなら、櫛は妙だ。
「誰のための櫛でしょう」
私が言うと、お袖が静かに答えた。
「髪を結うためではなく、形見として納めた可能性があります」
「形見」
「あるいは、櫛箱と同じ構造を持つ入れ物として」
「辰巳屋の箱が、無鐘庵にも」
「はい」
御台所の目が細くなる。
「菊乃の周囲にも箱がある」
「箱ばかりですね」
千鳥がうんざりしたように言う。
「本当に」
私も同感だった。
だが、その箱は人を殺すだけではない。
人を逃がすこともある。
母の櫛箱が菊乃の名を守ったように。
辰巳屋の箱が、無鐘庵に何かを運んでいる可能性がある。
「無鐘庵に直接文を送れますか」
私が問うと、御台所は首を横に振った。
「今は危険です。菊乃の名で送れば、読まれます。妙菊という名が確定していない以上、別名で送ることもできません」
「では」
「まずは、無鐘庵に誰がいるのか、外から確かめます。佐伯新六へさらに返事を」
「また暗号で」
「ええ」
千鳥が文を見た。
「菊の花を寺に見かけた。水辺の菊。鐘のない庵……」
彼女はしばらく考え込んでから言った。
「じゃあ、こっちからは何て書くんですか」
御台所は少しだけ笑った。
「よい問いです」
「え、褒められた?」
「はい」
「怖い」
「慣れなさい」
「慣れたくないです」
御台所は筆を取った。
だが、すぐには書かず、私を見た。
「篠乃井。そなたなら何と書きますか」
「私が?」
「ええ。菊乃を探す文です」
私は文机の上に置かれた菊の花びらを見た。
乾いた花びら。
まだ折れていない菊。
寺の土に縛られた根。
水辺の菊。
鐘のない庵。
言葉を間違えれば、菊乃を危険に晒す。
けれど、曖昧すぎれば届かない。
「……菊の根を掘るな、と」
私は言った。
御台所が目を細める。
「続けなさい」
「水が多ければ、菊は腐ります。根を守るなら、土の湿りを確かめよ。鐘が鳴らぬなら、花の世話をする者の声を聞け」
千鳥がぽかんとした顔をした。
「紗代、急に詩人みたい」
「自分でも少し恥ずかしいです」
「でも、意味は分かる。無鐘庵の水辺が危ない。菊乃さんを直接探すんじゃなくて、周りの人の声を聞けってこと?」
「はい」
御台所は筆を動かした。
「よいでしょう。少し整えます」
書かれた文は、こうなった。
――水辺の菊、根を掘るべからず。
――土の湿りを確かめ、花を世話する者の声を聞かれたし。
――鐘なき庵にて、鳴らぬ鐘の代わりとなるものを探されよ。
千鳥が首を傾げる。
「鳴らぬ鐘の代わり?」
「鐘のない庵なら、時を知らせる別のものがあるはずです」
御台所が言った。
「板木、鈴、拍子木、あるいは人の声」
「鈴?」
千鳥が懐を押さえた。
「また鈴?」
「可能性の話です」
お袖が静かに言う。
「寺にも小さな鈴はあります。仏具としても、合図としても」
「もし無鐘庵にも鈴があるなら」
私は呟いた。
「小夜の鈴、大御台様の鈴、無鐘庵の鈴。音が繋がるかもしれません」
千鳥は、少し不安そうに鈴を握った。
「鈴、多すぎない?」
「箱も多いので」
「嫌な対比」
その時、初瀬が襖の向こうに現れた。
「御台様」
「何です」
「お房様より紙片が」
部屋の空気が、また変わった。
初瀬が差し出したのは、紫の糸で結ばれた小さな紙片だった。
御台所が開く。
そこには短く、
――菊の根は水を嫌います。
それだけだった。
千鳥が小さく言った。
「水辺なのに?」
「だから危険なのです」
御台所の声が低くなった。
「水辺の菊。根は水を嫌う。つまり、無鐘庵は菊乃を守る場所としては悪い。湿りすぎた土に、無理やり根を縛っている」
「病弱なのも、水辺のせい?」
千鳥が問う。
「あり得ます。湿気、冷え、悪い水。寺の環境が悪ければ、菊乃の体は弱る」
「わざと?」
千鳥の声が震えた。
「守っているふりをして、弱らせている?」
「断定はできません」
御台所は言った。
「ですが、お房の言葉はそう示しています」
菊の根は水を嫌います。
それは、ただの園芸の話ではない。
菊乃は、水辺の庵にいてはならない。
そこにいれば、根が腐る。
ゆっくり、静かに、死へ近づく。
「助けなければ」
私は思わず言った。
「篠乃井」
御台所の声が鋭い。
「走るな、と言ったはずです」
「ですが」
「助けるために、急ぎます。急ぐことと走ることは違います」
私は口を閉じた。
千鳥が袖を掴む。
「紗代」
「はい」
「半分」
「……はい」
私は息を整えた。
今すぐ外へ行くことはできない。
無鐘庵へ駆け込むこともできない。
ここでできることをする。
文を出す。
寺社方の控えを調べる。
辰巳屋の出入りを追う。
無鐘庵の環境を調べる。
菊乃の現在の名を確かめる。
ひとつずつ。
焦って根を掘れば、菊を折る。
だから、根を守る。
「御台様」
「何です」
「佐伯新六殿への文に、今の紙片の意味も含めてください」
「もちろんです」
「それから、無鐘庵へ辰巳屋が納めた櫛と手箱の記録も」
「松ヶ枝」
「はい」
「すぐに」
松ヶ枝は控えをまとめ始めた。
お袖は辰巳屋の品の記録を追う。
千鳥は、小夜の鈴を握りながら文机のそばに座った。
「私にもできることありますか」
「あります」
御台所が即答した。
千鳥が驚いた顔をする。
「何ですか」
「御末の間で、今日から水辺の菊の話をしなさい」
「噂ですか」
「ええ。ただし、菊乃の名は出さない」
「どういう話に?」
「水辺に咲く菊は、根が腐る。花を守りたいなら、湿った土から移さなければならない、と」
千鳥は少し考えた。
「それ、ただの花の話みたいに聞こえます」
「それでよいのです」
「分かる人には分かる?」
「ええ」
千鳥は小夜の鈴を握ったまま頷いた。
「やります」
その声には迷いがあった。
噂を使うことへの抵抗も、まだある。
でも、昨日よりは前を向いていた。
「小夜の名を消した噂とは違う」
千鳥は自分に言い聞かせるように言った。
「菊乃さんを逃がすための、花の話」
「はい」
私は頷いた。
「花の話です」
千鳥は小さく息を吐いた。
「なら、できます」
夕刻、佐伯新六へ文が出された。
同時に、御台所の名で寺社方の控え確認が命じられた。
表向きの理由は、尼寺への施しと経巻の湿気被害の確認。
誰も、菊乃の名は出さない。
けれど、すべてが菊乃へ向かっている。
夜になり、御末の間では千鳥がぽつりと花の話を始めた。
「水辺の菊って、根が腐るらしいですよ」
お吉がすぐ食いついた。
「何の話?」
「花の話です」
「あなたが急に花?」
「私だって花くらい知ってます」
「本当に?」
「……今知りました」
「正直ね」
千鳥は少しむくれた後、続けた。
「でも、綺麗に見えても、根が水に縛られていたら駄目なんですって。菊を守るなら、折るんじゃなくて、土を変えなきゃいけない」
お吉はしばらく千鳥を見ていた。
そして、低く言った。
「それ、花の話?」
「花の話です」
「……そう」
お吉はそれ以上聞かなかった。
だが、その目は分かっている目だった。
きっと、また流れる。
水辺の菊。
根を守れ。
折るな。
土を変えろ。
菊乃の名を出さず、菊乃へ届くための言葉が、大奥の中を静かに流れ始める。
寝る前、千鳥は鈴を手に取り、鳴らさずに見つめていた。
「紗代」
「はい」
「鐘のない庵って、寂しいね」
「はい」
「鳴らすものがない場所に、菊乃さんはいるのかな」
「分かりません」
「もしそこに鈴があるなら」
千鳥は小夜の鈴を握った。
「今度は、返事してくれるかな」
「そう願います」
「うん」
千鳥は鈴を懐へ戻した。
「菊乃さん、待っててくれるかな」
「待っているかもしれません」
「待つのは嫌いだけど、待たせるのも嫌だね」
「はい」
窓の外は暗い。
大奥の中にいる私たちには、無鐘庵の水辺は見えない。
菊乃が本当にそこにいるのかも分からない。
けれど、初めて場所が見えた。
水辺の菊。
鐘のない庵。
無鐘庵。
そして、根は水を嫌う。
菊乃は生きている。
だが、その根は危うい土に縛られている。
急がなければならない。
でも、根を傷つけてはならない。
私は、父の文を胸に思い出した。
力で開けるな。志乃の結びは、ほどく者を待っている。
菊乃も同じだ。
力で引き抜けば折れてしまう。
だから、ほどく。
根を傷つけずに、土からそっと移すように。




