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大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第43話 辰巳屋宗次郎の沈黙

 辰巳屋宗次郎が来る。


 その知らせが入ったのは、無鐘庵の名が浮かび上がった翌朝だった。


 表向きの用件は、御台所へ納めた香箱の確認。


 昨日、私たちは辰巳屋の香箱を調べた。二重底、赤い糸、開けた痕跡を知らせる仕掛け。あの箱は、父の櫛箱を読み解くための手がかりになった。


 だが、品だけでは足りない。


 箱を作った手。


 隠し底を閉じた手。


 母が涙を見せたかどうかを知っている者。


 その一人が、宗次郎だった。


 七年前は若い職人。

 今は辰巳屋の主。

 母の櫛箱にも、無鐘庵へ運ばれた箱にも、大御台様の名札の箱にも触れているかもしれない男。


「男の人なんですよね」


 千鳥が、朝の御末の間で妙に小さな声を出した。


「はい」


「大奥に男の人が来るんですよね」


「表の取次まででしょう。私たちが直接会うわけではありません」


「でも声は聞くんですよね」


「仕切り越しに」


「なんか変な感じ」


 千鳥は布巾を畳みながら、少し落ち着かない顔をしている。


「怖いですか」


「怖いというか、変。大奥の中って女ばっかりで、男の人の声が遠いじゃないですか」


「はい」


「なのに、その遠い声の人が、志乃様の櫛箱を知ってるかもしれない。菊乃さんを寺へ運んだ何かを知ってるかもしれない。そう思うと……腹が立つ」


「怖いではなく、腹が立つのですね」


「うん。だって、その人は外を歩けるんでしょう。箱を運んで、品を納めて、家へ帰れる。小夜は帰れなかったのに。志乃様も帰れなかったのに。菊乃さんは寺に縛られてるのに」


 千鳥の言葉に、私は手を止めた。


 大奥では、女たちが閉じ込められている。


 だが、物と商人は門を越える。


 辰巳屋は箱を運ぶ。


 箱は秘密を運ぶ。


 秘密は人の名を殺し、時に人を逃がす。


 宗次郎は、その境を行き来してきた男なのだ。


「今日は、宗次郎の声を聞きます」


 私が言うと、千鳥は懐に手を当てた。


 小夜の鈴が、そこにある。


「鈴は鳴らさない」


「はい」


「でも、持っていく」


「はい」


「小夜も聞いてた方がいい気がするから」


「そうですね」


 千鳥は小さく頷いた。


 御台所の部屋へ行くと、すでに準備は整っていた。


 部屋の中央には屏風が立てられている。さらに奥には簾が下ろされ、その向こうに私たちが控える形だ。


 宗次郎は直接こちらを見ることができない。


 こちらも、彼を見ることはできない。


 声だけ。


 御簾越しの大御台様と同じだ。


 ただ、今回は相手が商人である分、別の種類の気味悪さがあった。


 御台所は文机の前に座り、いつものように微笑んでいる。


 だが、目は鋭い。


 松ヶ枝は控えを持ち、お袖は辰巳屋製の香箱と古い櫛箱を並べていた。


 千鳥は私の隣で正座しているが、膝の上の指が落ち着かない。


「千鳥」


 御台所が声をかけた。


「はい」


「今日は黙っていなさい、とは言いません」


「えっ」


「ただし、言う前に一度、息を吸いなさい」


「つまり、すぐ怒るなってことですね」


「よく分かっていますね」


「最近よく言われるので」


「成長です」


「褒められると怖いです」


「それも成長です」


 千鳥は複雑な顔をした。


 そのやり取りに、少しだけ空気が緩む。


 だが、すぐに初瀬が現れた。


「辰巳屋宗次郎、参りました」


 部屋が静まる。


 御台所は頷いた。


「通しなさい。仕切りの向こうまで」


「承知いたしました」


 襖の向こうで、衣擦れと畳を踏む音がした。


 男の足音。


 大奥では、それだけで異物のように聞こえる。


 宗次郎は低く頭を下げたらしい。


「辰巳屋宗次郎にございます。御台様におかれましては、ご機嫌麗しく」


「挨拶はよい」


 御台所の声は冷たかった。


 宗次郎の声が、わずかに詰まる。


「は……」


「納めた香箱に、少し確認したいことがあります」


「何か不都合がございましたでしょうか」


「不都合というより、出来がよすぎました」


 宗次郎は黙った。


 商人なら普通、褒められれば礼を言う。


 だが、今の言葉が褒め言葉ではないと分かったのだろう。


「辰巳屋」


 御台所は続けた。


「この香箱の底、二重になっていますね」


「香を湿気より守るための工夫にございます」


 用意していた答えのようだった。


 お袖が小さく目を伏せる。


 御台所は、静かに笑った。


「そうでしょうね。赤い糸も湿気を守るためですか」


 仕切りの向こうで、ほんのわずかに息が乱れた。


「赤い糸、でございますか」


「知らぬふりは下手ですね」


「恐れながら、辰巳屋では多くの箱を扱いますゆえ」


「七年前も?」


 宗次郎の沈黙。


 短い。


 だが、確かな沈黙だった。


「七年前、篠乃井家の櫛箱修繕を請け負いましたね」


「……記録にございますなら」


「記録にあります」


 松ヶ枝が静かに答えた。


「篠乃井家の桑の櫛箱。左下に節のある箱です」


 その瞬間、宗次郎の声が明らかに変わった。


「なぜ、それを」


 私は息を詰めた。


 父の文にあった言葉だ。


 桑の節、左下に針を入れるな。


 その部分を、御台所はまだ出していない。


 松ヶ枝が「左下に節」と言っただけで、宗次郎は動揺した。


 つまり、知っている。


「思い出しましたか」


 御台所が問う。


「古い仕事にございます」


「古い仕事ほど、忘れにくいものです」


「商人は、多くの品を扱います」


「では、忘れましたか」


「……箱は、覚えております」


 宗次郎は、観念したように言った。


「ただし、私は箱を作っただけです」


 予想通りの逃げ。


 私は袖の奥で拳を握った。


 御台所は私へ目だけで合図した。


 話せ、ということだ。


 私は息を吸い、仕切りの向こうへ声を向けた。


「辰巳屋宗次郎殿」


 向こうの気配がわずかに動いた。


「どなたで」


「篠乃井紗代にございます」


 また沈黙。


 今度は長かった。


「……奥方様の」


「娘です」


「さようで、ございましたか」


 宗次郎の声には、商人の作り笑いが戻りきらなかった。


 私は続けた。


「父から文が届きました」


「旦那様から」


「はい。箱について」


 宗次郎は黙る。


 私は、文のすべては言わなかった。


 一部だけ。


「蓋ではない。底を見よ。桑の節、左下に――」


「そこへ針を入れてはなりません」


 宗次郎が、思わず言った。


 部屋の空気が変わった。


 千鳥が息を呑む。


 御台所の目が細くなる。


 松ヶ枝は控えに筆を走らせた。


 私は静かに問う。


「なぜ、ご存じなのですか」


 宗次郎は答えなかった。


「父の文にありました。あなたは今、続きを言いました」


「……職人として、構造を思い出しただけにございます」


「その構造を作ったのですね」


「辰巳屋の仕事でございます」


「誰の依頼ですか」


「篠乃井家より」


「父ですか」


「そこまでは」


「母ですか」


 沈黙。


 それが答えに近かった。


「志乃様が、あなたに箱を閉じさせたのですね」


 宗次郎の声が低くなった。


「私は、箱を作っただけです」


「中身は?」


「存じません」


「本当に?」


「存じません」


 御台所が口を開く。


「宗次郎。商人の嘘は、たまに糸より細いですね」


「御台様」


「細すぎて、切れていることに気づかない」


 宗次郎は息を呑んだ。


 お袖が香箱の底を軽く叩いた。


 こん。


 こ。


 こん。


 音が部屋に響く。


「この音を覚えていますか」


 お袖が言った。


「……その声は、お袖様でございますか」


「ええ」


「お変わりなく」


「あなたは、少し声が太くなりました」


「年を取りましたので」


「箱の癖は変わりませんね」


 お袖の声は淡々としている。


「赤い糸を開封の証にする。底板に薄紙を噛ませる。針を嫌う節を残す。昔の辰巳屋宗兵衛の癖です。けれど、左下の節を逃がす工夫は、あなたの手でしょう」


 宗次郎は黙った。


「若い頃のあなたは、木を殺さずに仕掛けを入れるのが上手かった」


「……お褒めに預かり、恐れ入ります」


「褒めていません」


「承知しております」


 千鳥が小声で言った。


「みんな褒めてないって言う」


 私は思わず、こんな時なのに少し笑いそうになった。


 だが、宗次郎の沈黙は重い。


 ここからが本題だ。


「辰巳屋宗次郎殿」


 私はもう一度呼んだ。


「母は、箱を閉じる時、何を言いましたか」


「……」


「何も言わなかったのですか」


「奥方様は」


 宗次郎はそこで一度言葉を切った。


 奥方様。


 その呼び方に、私は胸が痛くなった。


 この男も、母をそう呼ぶ。


「奥方様は、箱を閉じる時に泣いておられませんでした」


 部屋が静まった。


 泣いていなかった。


 その言葉は、なぜか胸に深く刺さった。


「泣いていなかったのですか」


「はい」


「怖がっては」


「おられたと思います」


「なら、なぜ泣いていなかったと」


「泣く暇を、自分に許しておられない顔でした」


 宗次郎の声は、商人のものではなかった。


 七年前を思い出す人の声だった。


「奥方様は、底を閉じる前に、紙を入れられました。赤い紐と一緒に」


「紙には、何が」


「見ておりません」


「見なかったのですか」


「見てはならぬと思いました」


「でも、菊乃という名を知っているのでは?」


 宗次郎の呼吸が止まった。


 私は聞き逃さなかった。


「宗次郎殿」


「……その名は」


「菊乃」


「ここで、その名を」


「名は、消されたままにしません」


 宗次郎は低く言った。


「危険です」


「分かっています」


「分かっておられぬ。名は、箱より軽く燃えます」


「だから、守るのです」


 仕切りの向こうで、衣が擦れた。


 宗次郎が深く頭を下げたのかもしれない。


「私は、箱を作っただけです」


 またその言葉。


 だが、今度は少し違っていた。


 逃げではなく、自分に言い聞かせるようだった。


「辰巳屋は、命じられた品を作る。運ぶ。納める。箱の中身には触れぬ。それが生き残る道でございます」


 千鳥が、息を吸った。


 言う前に一度息を吸え。


 御台所の教え通りに。


 そして、千鳥は口を開いた。


「それで、生き残って嬉しいんですか」


「千鳥」


 私は小さく呼んだが、止めきれなかった。


 でも、千鳥の声は怒鳴り声ではなかった。


「小夜は鈴を鳴らしたのに、誰も返事しなかった。志乃様は箱に名前を入れたのに、誰も開けられなかった。菊乃さんは寺にいるかもしれないのに、名前を変えられてる。みんな、誰かが『自分は役目だけ』って言って通り過ぎたせいじゃないんですか」


 仕切りの向こうが沈黙する。


 千鳥は続けた。


「あなたは箱を作っただけかもしれない。でも、その箱で誰かが助かったかもしれない。誰かが閉じ込められたかもしれない。なら、少しくらい見てください。自分が作った箱が、何をしたのか」


 宗次郎は、長く黙った。


 御台所は千鳥を止めなかった。


 やがて、宗次郎の声がした。


「……若い頃の私は、見ないことが商人の知恵だと思っておりました」


「今は?」


 千鳥が聞く。


「今も、半分はそう思っております」


「また半分」


「ですが、もう半分は」


 宗次郎の声が、少し掠れた。


「見なかったものほど、夢に出ます」


 その言葉に、千鳥は黙った。


 私は静かに問う。


「菊乃さんを乗せた駕籠について、知っていますね」


「……」


「母と同じ夜、第二駕籠が増上寺末寺前で別道へ逸れました」


「はい」


「その駕籠に、辰巳屋の香箱が積まれていた」


 宗次郎の沈黙は、今度は短かった。


「はい」


 認めた。


 部屋の空気が、また変わる。


「その香箱は、何のために」


「寺へ渡すためのものでございます」


「香ですか」


「表向きは」


「中身は」


「……菊乃様の新しい名を記した紙と、体調記録。それから、寺社方へ見せるための添え状」


 千鳥が息を呑んだ。


「新しい名」


「私は、そこまでは見ておりません」


「でも、香箱に入っていたことは知っている」


「箱を作ったのは私です」


「また箱を作っただけですか」


 千鳥が低く言う。


 宗次郎は、今度は逃げなかった。


「いいえ。あの箱は、逃がすための箱でした」


 静寂。


 逃がすための箱。


 箱は人を殺すだけではない。


 人を逃がすこともできる。


 母の櫛箱が、名を守ったように。


 辰巳屋の香箱は、菊乃を別の名で寺へ渡す道具だった。


「誰が命じたのですか」


 私は問う。


「志乃様ですか」


「志乃様は、箱の中身を整えました」


「では、逃がすことを決めたのは」


「……」


「宗次郎殿」


「それを申せば、今も生きている者に障ります」


「菊乃さんですか」


「菊乃様にも」


「ほかにも?」


「はい」


 御台所が口を開いた。


「お房ですね」


 宗次郎は答えなかった。


 だが、その沈黙で十分だった。


 お房もまた、菊乃を逃がす側に関わっていた。


 七年前、鈴には返事をしなかった。


 だが、その後、菊乃を寺へ送る道に手を貸した可能性がある。


 罪と助けが、同じ人の中で絡まっている。


 大奥では、誰も完全な味方でも、完全な敵でもない。


「香箱は、無鐘庵へ?」


 私が聞くと、宗次郎は少し迷った。


 そして、低く答えた。


「鐘のない庵へ」


 千鳥が小さく震えた。


「やっぱり」


「菊乃様は、そこで名を変えられました」


「新しい名は」


「……私は見ておりません」


「本当に?」


「本当に。ですが」


「ですが?」


「菊の字は、残されていたと聞いております」


 妙菊。


 まだ確定ではない。


 けれど、近づいた。


「宗次郎殿」


 私は言った。


「あなたは味方ですか」


 仕切りの向こうで、宗次郎が小さく息を吐いた。


「商人に、その問いは難しゅうございます」


「では、敵ですか」


「敵にもなりきれませぬ」


「便利な答えですね」


「はい」


 認めた。


 その正直さが、かえって腹立たしくもあった。


 御台所が静かに言う。


「宗次郎。次に無鐘庵へ品を納める予定は?」


「……ございます」


「いつ」


「三日後」


「何を」


「香袋と、小さな手箱を」


「誰の名で」


「大御台様御用」


 千鳥が鈴を握った。


「また」


 御台所の目が冷たくなる。


「その品に、何を入れるつもりです」


「私は」


「箱を作っただけ、ですか」


 宗次郎は黙った。


 今度は、逃げ切れない沈黙だった。


「宗次郎」


 御台所の声が、低くなった。


「三日後の品は、こちらで検分します」


「それは」


「異論は?」


「……ございません」


「よろしい」


 御台所は、少しだけ身を引いた。


「今日のところは下がりなさい」


 宗次郎が深く頭を下げる気配がした。


 だが、去る前に、彼は小さく言った。


「篠乃井様」


「はい」


「奥方様は、箱を閉じる時、こう申されました」


 胸が鳴った。


「何と」


「『名は、人が呼ばねば消える。けれど、紙に残せば、いつか誰かが呼べる』と」


 声が出なかった。


 母の言葉。


 母は、菊乃の名を呼ぶ誰かを待っていた。


 七年後の私たちを。


 宗次郎は続けた。


「私は、その時も何も申しませんでした。箱を閉じただけです」


「今は?」


 千鳥が聞いた。


「今も、申し上げることは多くありません。ただ」


「ただ?」


「鐘のない庵では、香箱より手箱の方が重い」


 それだけ言って、宗次郎は下がった。


 足音が遠ざかる。


 部屋には、彼の最後の言葉だけが残った。


 香箱より手箱の方が重い。


「どういう意味ですか」


 千鳥が眉を寄せる。


 お袖が、辰巳屋の香箱を見つめた。


「三日後に無鐘庵へ納める手箱。そこに何かが入る、という意味でしょう」


「何かって」


「名札かもしれません」


 御台所が言った。


「あるいは、菊乃を移すための新しい書付」


「また名を変えるための?」


「可能性があります」


 千鳥の顔が強張る。


「先に名を呼ばなきゃ」


「はい」


 私は頷いた。


「妙菊という名を、確かめなければ」


 御台所は、机の上の記録を閉じた。


「次は、香箱に隠された道を調べます」


「宗次郎は、味方なのでしょうか」


 私が問うと、御台所は即答しなかった。


「保身で話している部分が大きいでしょう」


「はい」


「でも、保身であっても、真実を少し差し出すことはあります」


「信用は?」


「しすぎてはなりません」


「疑いすぎても?」


「使えるものを使い損ねます」


 千鳥が小さく言った。


「大奥、本当に疲れる」


「ええ」


 御台所はあっさり頷いた。


「疲れても、進みます」


 私は胸の奥で、母の言葉を繰り返した。


 名は、人が呼ばねば消える。

 けれど、紙に残せば、いつか誰かが呼べる。


 母。


 私は呼びます。


 菊乃の名を。


 あなたが残した紙を、無駄にはしません。

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