第40話 燃え残る赤糸
菊はまだ折れておりません。
されど、根は寺の土に縛られております。
お房から届いた紙片は、夜が明けても文机の上に置かれていた。
乾いた菊の花びらは、指先で触れれば崩れてしまいそうなほど薄い。けれど、その小さな花びらは、どんな記録よりも強く菊乃という名をこちらへ押し返してくる。
菊乃。
名のない女ではない。
御子を宿したかもしれない女でも、御子替えの噂に使われた影でもない。
菊乃という名を持つ、一人の女。
そして、死んではいない。
「生きてるって、変な言い方だよね」
千鳥が小夜の鈴を懐の上から押さえながら呟いた。
「何がですか」
「菊乃さん、死んでない。でも、菊乃の名前では生きられてない。寺の土に縛られてる。だったら、それは生きてるのかなって」
「……難しいですね」
「うん」
千鳥は膝の上で指を組んだ。
「でも、死んでないなら、まだ聞けるかもしれない」
「はい」
「志乃様が何をしたのか。小夜が何を止めたかったのか。御子が本当にいたのか。いなかったのか」
「はい」
「それを菊乃さん本人が知ってるかもしれない」
その可能性は、希望だった。
同時に、恐ろしいほど危険な希望でもある。
菊乃が生きているなら、大御台様側は彼女を再び消そうとするかもしれない。名を変えて寺に隠した者たちが、彼女を守っているのか、閉じ込めているのかも分からない。
菊乃の名を取り戻すことは、母の名を取り戻すことにもつながる。
けれど、その名を呼ぶことで、菊乃本人を危険に晒すかもしれない。
名は、人を救う。
同時に、人を狙わせる。
大奥に入ってから、私はそれを嫌というほど思い知らされていた。
御台所は、朝からいつもより静かだった。
桔梗香炉のそばに座り、昨日の紙片を見つめている。
松ヶ枝は、外へ出す文の控えを整えていた。
お袖は、辰巳屋製の古い櫛箱をもう一度調べている。底板の音、赤い糸の位置、薄紙の挟み方。どれも、母の櫛箱を壊さず開けるための手掛かりになる。
千鳥は、時々小夜の鈴に触れた。
鳴らさない。
今は、その時ではない。
昨日、七年遅れの返事は来た。
今日は、箱が返事をする番だった。
昼を少し過ぎた頃、初瀬が現れた。
襖の前に座ると、珍しく一呼吸だけ置いてから言った。
「外より文が届きました」
胸が強く跳ねた。
「父からですか」
「はい」
千鳥が、すぐに私の袖を掴んだ。
「半分」
「はい」
私は頷いた。
初瀬は文を御台所へではなく、私へ差し出した。
父の字だ。
前よりさらに乱れている。
急いで書いたというより、誰かの目を避けるように書いた字だった。
私は封を切った。
中には、短い文が二枚入っていた。
一枚目。
――紗代。
――箱を開けてはならぬ。蓋ではない。底を見よ。
――桑の節、左下に針を入れるな。赤糸が切れる。
――底を三度、爪で叩け。二度目の音が鈍ければ、隠し底は生きている。
――櫛の歯ほどの薄き竹を右の合わせ目より入れよ。
――力で開けるな。志乃の結びは、ほどく者を待っている。
手が震えた。
開けるな。
それは、やはり隠せという意味ではなかった。
壊すな。
証を破るな。
母の残したものを守れ。
父はそう言っていたのだ。
千鳥が文を覗き込み、小さく息を呑んだ。
「やっぱり……」
「はい」
「父上、開け方を知ってたんだ」
「知っていた。けれど」
「開けられなかった?」
私は頷いた。
「もしくは、開けるための道具や状況がなかった」
お袖が静かに手を伸ばした。
「拝見しても?」
「はい」
父の文を渡すと、お袖は目を通し、表情を変えた。
「これは、かなり具体的です」
「開けられますか」
「同じ構造なら、可能性はあります。ただし、父君は『針を入れるな』と書いています。私が考えていた方法とは少し違う」
「危なかった?」
千鳥が青ざめた。
お袖は頷いた。
「ええ。私の方法では赤糸を切る危険がありました」
部屋が静かになった。
父の文が届く前に、もし母の櫛箱を開けようとしていたら。
私たちは、証を壊していたかもしれない。
父は、それを止めた。
「父は……」
声が詰まった。
父は守っていた。
七年間。
母の櫛箱を前に、開けたいのに開けられず、それでも燃やさず、渡さず、守っていた。
完全な答えではない。
父がなぜ沈黙したのか。
なぜ母を救えなかったのか。
なぜ私に忘れろと書いたのか。
それらはまだ残っている。
でも、少なくとも。
父は赤い糸を燃やしていない。
母の結び目を壊していない。
「紗代」
千鳥が私の袖を握った。
「今日は、信じたい方を多めじゃなくて、かなり多めでもいいと思う」
私は笑おうとして、うまくできなかった。
「はい」
「泣いてもいいよ」
「千鳥が先に泣きそうです」
「うん。もう泣いてる」
言われて見ると、千鳥の目には涙が浮かんでいた。
私も、ようやく自分の目が熱いことに気づいた。
御台所は、何も言わずに私たちを見ていた。
ただ、その目はいつもより少しだけ柔らかかった。
「二枚目を」
松ヶ枝が静かに促した。
私は頷き、二枚目を開いた。
父の字は、さらに短かった。
――赤い紐の奥に、菊乃という名あり。
――志乃は、その名を燃やさせぬため、箱に隠した。
――菊乃が生きているなら、まだ全ては終わっておらぬ。
――だが、箱を狙う者あり。
――大御台様御用を名乗る者ども、今宵にも屋敷へ踏み込む気配。
――紗代、決して奥で声を荒げるな。
――父は箱を渡さぬ。
最後の一文で、呼吸が止まった。
父は箱を渡さぬ。
その言葉は、父の声そのものだった。
静かで、弱くて、けれど最後のところで曲がらない父の声。
「今宵にも……」
松ヶ枝が文を覗き込み、顔を変えた。
「父君の屋敷へ踏み込む?」
「はい」
「大御台様御用を名乗る者たちが」
御台所の顔から笑みが消えた。
「やはり動きましたね」
「御台様」
「大御台様側は、菊乃の名がこちらに戻ったことを察したのでしょう。箱の中にその名があると知っているなら、奪うか壊すしかない」
千鳥が小夜の鈴を握りしめた。
「そんな、外のことなのに、私たちはここにいるんですよね」
「はい」
「行けないんですよね」
「行けません」
その事実が、胸を裂くようだった。
父が危ない。
母の櫛箱が危ない。
赤い紐が、菊乃の名が、壊されるかもしれない。
なのに私は、大奥の中にいる。
廊下を走っても、門は越えられない。
父の屋敷へ駆けつけることはできない。
「紗代」
千鳥が、強く袖を掴んだ。
「落ち着いて」
「私は」
「今、走ろうとした顔してた」
「……はい」
「私も走りたい。でも、走れない」
「はい」
「じゃあ、ここでできることをする」
千鳥の声は震えていた。
でも、言葉は強かった。
御台所が頷く。
「その通りです」
「ここで、何ができますか」
私が問うと、御台所はすぐに答えた。
「大御台様御用を名乗る者の正当性を、内側から崩します」
「正当性?」
「ええ。外へ踏み込む者たちは、大御台様の名を使う。その名が本物かどうかを疑わせれば、動きは鈍る」
「どうやって」
「御台所の名で、表使へ確認を出します。『大御台様御用を名乗り篠乃井家へ向かう者あり。正式な御用状を確認されたし』と」
「それで止まりますか」
「完全には止まりません。けれど、足は鈍ります」
松ヶ枝が続けた。
「外には佐伯新六がいます。急ぎ文を出せば、屋敷の者へ知らせられる」
「文は間に合いますか」
「間に合わせるしかありません」
初瀬が静かに言った。
「私が表使へ回します」
千鳥が思わず言う。
「初瀬様が?」
「壁からではありません。廊下から」
「すみません、今それ言う場面じゃなかったです」
「ですが、少し笑えました」
初瀬の声は淡々としていた。
けれど、その言葉でほんの少しだけ空気が動いた。
御台所はすぐに指示を出した。
「松ヶ枝、表使への文を。初瀬、急ぎ外への取次を押さえなさい。お袖、父君の文にある箱の開け方を写し、手順を整えておきなさい。千鳥」
「はい」
「鈴は鳴らさない」
「……はい」
「今、鳴らしても外へは届きません」
「分かっています」
「でも、鳴らしたいでしょう」
千鳥は唇を噛んだ。
「はい」
「なら、握っていなさい。音にせず、手の中で止める。それも鈴の使い方です」
千鳥は小夜の鈴を両手で包み込んだ。
「はい」
私は父の文を握っていた。
手が震える。
でも、走り出すことだけはしなかった。
御台所が私を見た。
「篠乃井」
「はい」
「父君を信じなさい」
その言葉に、私は目を見開いた。
御台所がそんなことを言うとは思わなかった。
「御台様が、そう仰るのですか」
「今だけです」
「なぜ」
「疑いながらでは、文が書けません」
御台所の声は、鋭かった。
「今は父君が箱を守ると信じて、こちらから守る手を打ちなさい。疑うのは、今夜を越えてからでよい」
胸の奥で、何かが決まった。
そうだ。
今は疑いを横へ置く。
完全に捨てるのではない。
けれど、今だけは父を信じる。
父は箱を渡さぬ。
その言葉を信じる。
「書きます」
私は言った。
「父へではなく、佐伯新六殿へ。屋敷の者へ」
御台所が頷く。
「書きなさい」
私は筆を取った。
手は震えていた。
けれど、字は崩さないようにした。
――佐伯新六殿。
――大御台様御用を名乗る者、今宵屋敷へ来る恐れあり。
――御用状なき者を入れるべからず。
――櫛の箱は、蓋に触れず、底を守るべし。
――赤い糸を切らせるな。
――父上を、一人にしないでください。
最後の一文だけ、少しだけ字が揺れた。
千鳥が横から覗き込んで、小さく言った。
「いいと思う」
「最後が私情です」
「いいと思う」
「そうでしょうか」
「うん。だって娘の文だもん」
その言葉で、私は少し泣きそうになった。
事件の文ではない。
証拠を守る指示だけでもない。
これは、父を心配する娘の文でもある。
それを忘れてはいけないのだと思った。
御台所は私の文を確認し、頷いた。
「よいでしょう。初瀬」
「はい」
「最短で」
「承知いたしました」
初瀬は文を受け取り、すぐに去った。
足音はやはりしなかった。
だが今日は、その無音が頼もしかった。
部屋では、お袖が父の文を写していた。
彼女は、父が書いた開け方を何度も確認しながら、辰巳屋の古い櫛箱で手順を試す。
「蓋ではない。底を見よ」
お袖が低く読み上げる。
「桑の節、左下に針を入れるな。赤糸が切れる。底を三度、爪で叩け。二度目の音が鈍ければ、隠し底は生きている」
千鳥が顔をしかめた。
「箱なのに、生きてるって言うんですね」
「証が壊れていないという意味でしょう」
お袖は答えた。
「でも、分かります。生きている箱と、死んだ箱は音が違う」
「お袖様、箱と会話できます?」
「少しなら」
「冗談のつもりだったのに」
「私も半分冗談です」
「半分……」
こんな時でも、千鳥は少しだけ顔を緩めた。
それがありがたかった。
父の屋敷のことを考えれば、胸が潰れそうになる。
でも、今できることをしなければならない。
御台所は、表使への文をしたためていた。
普段の優雅な筆運びではない。
速い。
鋭い。
それでいて、乱れない。
――御台所より表使へ。
――大御台様御用を名乗る者が、外部武家屋敷へ立ち入るとの風聞あり。
――正式な御用状なき場合、これを御用と認めず。
――篠乃井家に関わる一件、御台所確認中につき、軽々に動くべからず。
御台所の名を使う。
大御台様の名に、御台所の名で楔を打つ。
直接対決ではない。
だが、内側から外の動きを鈍らせる一手だ。
「御台様」
「何です」
「ありがとうございます」
「礼は早い」
「それでも」
「では、受け取っておきます」
御台所は筆を置いた。
「ただし、これで止められるとは限りません」
「分かっています」
「大御台様側が本気なら、御用状など後から作ります」
「偽印のように」
「ええ」
「では、これは時間稼ぎ」
「時間を稼げれば、外の者が動けます」
「佐伯新六殿」
「そして父君自身」
父。
父は箱を渡さぬ。
私はその一文をもう一度、胸の中で繰り返した。
夕暮れが近づく頃、お房から新たな紙片が届いた。
今度は初瀬ではなく、御台所付きの女中が青ざめた顔で持ってきた。
紫の糸で結ばれた小さな紙片。
御台所が開く。
中には、短くこうあった。
――名札の箱、今夜開かれます。
部屋の空気が凍った。
「名札の箱……」
千鳥が呟く。
「大御台様の箱ですか」
「ええ」
御台所の顔が険しくなる。
「今夜、篠乃井家へ貼る札を決めるつもりでしょう」
「父へ?」
「父君へ。あるいは、そなたへ。もしくは、菊乃へ」
「菊乃さんにも?」
「生きているなら、再び名を奪うための札が必要になります」
千鳥が小夜の鈴を握りしめた。
「そんなの、させない」
「ええ」
御台所は立ち上がった。
「今夜が山です」
その言葉は静かだった。
けれど、部屋にいる全員の背筋を伸ばした。
父の屋敷へ踏み込もうとする者たち。
大御台様の名札の箱。
母の櫛箱。
赤い紐の奥にある菊乃の名。
すべてが同じ夜に動き始めている。
夜になった。
大奥の廊下に灯が入る。
外の様子は分からない。
父の屋敷に何人の者が向かっているのかも、佐伯新六へ文が届いたかも、父が今どこにいるのかも。
ただ、待つしかない。
待つことほど苦しいものはない。
千鳥は隣に座り、小夜の鈴を握っていた。
「鳴らしたい?」
私が聞くと、千鳥は頷いた。
「すごく」
「私も、何かを鳴らしたいです」
「紗代は鈴持ってないから、机叩く?」
「御台様に叱られます」
「じゃあ、やめよう」
こんな時でも、千鳥は少し笑わせてくれる。
ありがたかった。
御台所は、目を閉じて座っている。
松ヶ枝は文机の前で控えを整え続けている。
お袖は古い櫛箱を手に、何度も底を叩いて音を確かめている。
こん。
こ。
こん。
生きている箱と、死んだ箱。
その音を聞き分けるように。
そして、深夜近く。
初瀬が戻ってきた。
襖が開く前に、私は立ち上がっていた。
初瀬はいつもの無表情だった。
けれど、裾に少しだけ土埃がついていた。
外近くまで動いたのだ。
「文は届きました」
その一言で、膝から力が抜けそうになった。
「佐伯新六殿へ?」
「はい。篠乃井家へも知らせが回りました」
「父は」
「まだ詳細は」
「そうですか」
「ただし」
初瀬は続けた。
「大御台様御用を名乗る者たちは、屋敷の門前で止められたとのことです」
千鳥が息を呑んだ。
「止まった?」
「御用状の確認を求められ、すぐには入れなかったと」
御台所が静かに息を吐いた。
「時間は稼げましたね」
「はい」
「箱は?」
「奪われてはおりません」
その言葉で、私はようやく呼吸をした。
父は箱を渡していない。
まだ。
「ですが、これで終わりではありません」
初瀬の声は硬かった。
「門前にいた者の一人が、去り際にこう言ったそうです」
「何と」
「『名札はもう貼られた。箱がなくとも、名は殺せる』と」
部屋が静まり返った。
箱を奪えなくても、名札は貼れる。
父へ。
私へ。
菊乃へ。
母へ、もう一度。
大御台様の箱が今夜開かれるという、お房の紙片が頭をよぎる。
御台所は、静かに言った。
「ならば、次は名札を剥がす戦です」
「はい」
私は父の文を胸に当てた。
赤い紐の奥に、菊乃という名あり。
燃え残る赤糸。
それは、まだ切れていない。
父が守り、母が隠し、小夜が鈴で止めようとし、菊乃の名へ続く糸。
その糸を、今度こそ守らなければならない。
千鳥が小夜の鈴を握った。
「紗代」
「はい」
「鈴、鳴らしてないけど、今日は少しだけ鳴った気がする」
「どこで?」
「ここ」
千鳥は、自分の胸を指した。
「箱が守られたって聞いた時」
私は小さく頷いた。
「私もです」
音はしなかった。
でも、確かに何かが鳴った。
母の櫛箱はまだ生きている。
赤い紐はまだ燃えていない。
菊乃の名は、まだ消されていない。
そして父は、まだ箱を渡していない。
夜は深い。
けれど、糸はまだ切れていない。




