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大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第39話 生きていた菊乃

菊乃様は、死んではおりません。


 その言葉は、灯火の揺れよりも静かに、けれど刃よりも深く部屋へ沈んだ。


 名のない女ではなかった。


 菊乃。


 そして、死んでいない。


 その二つの事実だけで、今まで紙の上に横たわっていた事件が、突然、息をし始めた気がした。


 死者の名を取り戻す話ではなくなった。


 生きているかもしれない女を、もう一度この世に引き戻す話になった。


「生きている……」


 千鳥が、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。


 懐の小夜の鈴を押さえる手に、力がこもっている。


「菊乃さん、生きているんですか」


「お房の言伝が真実なら」


 御台所は静かに答えた。


「ですが、あの女の言葉をそのまま飲み込むのは危険です」


「嘘かもしれないってことですか」


「嘘ではないでしょう」


「では」


「半分だけ出してきた真実です」


 御台所の声は冷たかった。


「菊乃が生きている。その言葉だけをこちらへ投げれば、私たちは動かざるを得ない。どこにいるのか、どういう状態なのか、誰に守られているのか、誰に見張られているのか。それは言わない」


「誘い」


 私が言うと、御台所は頷いた。


「ええ」


「罠でしょうか」


「それも半分」


 千鳥が小さく息を吐く。


「また半分」


「大奥で全部を一度に出す者は、だいたい死ぬか、殺す気のある者です」


「嫌な教訓ですね」


「覚えておきなさい」


 御台所は、広げられた記録へ視線を落とした。


 奥医師記録。

 駕籠記録。

 御中臈見習い名簿。

 辰巳屋の出入り控え。


 菊乃という名が、いくつもの紙の隙間からようやく浮かび上がっている。


 だが、生きているとなると、また別の紙が必要になる。


 死んだ記録ではなく、生き延びた痕跡。


「菊乃様は、どこへ消えたのでしょう」


 私が問うと、松ヶ枝が駕籠記録を引き寄せた。


「志乃と同じ夜に裏御門を出ています。途中、増上寺末寺前で第二駕籠だけ別道へ」


「理由は急病」


 千鳥が渋い顔で言った。


「便利すぎる急病」


「その通りです」


 松ヶ枝は頷いた。


「そこから行方記録なし。ですが、寺社筋が絡んだ可能性が高い」


「父の屋敷に出入りしていた者も、寺社方を名乗っていました」


「ええ」


 御台所が細い指で机を軽く叩いた。


「菊乃は寺へ隠された。そう考えるのが自然です」


「どの寺ですか」


「そこまではまだ」


 御台所が言いかけたところで、初瀬が戻ってきた。


 先ほどお房へ言伝を届けに行ったはずの初瀬だった。


 いつも通り、足音もなく襖の前に座る。


「御台様」


「早かったですね」


「お房様より、さらに言伝がございます」


 部屋の空気がまた固くなった。


「何と」


「『菊乃様は、寺にて名を変えられました』と」


 千鳥が身を乗り出す。


「どこの寺ですか」


 初瀬は首を横に振った。


「そこまでは」


「言わないんだ」


 千鳥の声に苛立ちが滲む。


「小出しにして、こっちが動くの見てるみたい」


「その通りでしょう」


 御台所は平然と言った。


「お房は、こちらの足を測っています」


「腹が立ちます」


「怒りは袖へ」


「袖がもうぎゅうぎゅうです」


「なら、少しだけ顔に出しておきなさい。破裂するよりましです」


 千鳥は思わず妙な顔をした。


「御台様、たまに優しいのか怖いのか分かりません」


「両方です」


「便利ですね」


「大奥ですから」


 軽いやり取りの後、御台所はすぐに真顔へ戻った。


「名を変えられた、ですか」


「菊乃様は、菊乃のままではいられなかった」


 私が言うと、松ヶ枝が頷いた。


「記録上は病により下がった女です。その名で寺に置けば、すぐに足がつく」


「では、尼になったのでしょうか」


「可能性はあります」


 お袖が辰巳屋の控えを指でなぞった。


「寺へ入ったなら、髪を落としたかもしれません。櫛が必要なくなる」


 その言葉に、胸が小さく鳴った。


 櫛。


 母の櫛箱。


 髪を落とした菊乃。


 女の名と髪。


 大奥において髪は、身分であり、女であることの形でもある。


 それを落とすということは、別の名を得ることでもあり、元の名を捨てさせられることでもある。


「菊乃さんは、生きるために名を捨てさせられた」


 千鳥が呟いた。


「死んではいないけど、菊乃ではいられなかった」


「はい」


「それって、生きてるって言えるのかな」


 誰もすぐには答えなかった。


 生きている。


 でも名を消され、髪を落とし、寺に隠される。


 それは死ではない。


 だが、元の自分では生きられない。


 母が不義の名札で殺され、小夜が怪談にされ、菊乃が別の名へ押し込められた。


 形は違っても、どれも同じだ。


 女を女のまま、人として生かさない。


「菊乃さんが本当に御子を宿していたかどうか」


 私は言った。


「それを知るには、本人に会うしかないのかもしれません」


「会えると思いますか」


 松ヶ枝が問う。


「思いたいです」


「思いたい、ですか」


「はい」


 今はそれで精一杯だった。


 証拠はまだ足りない。


 お房の言葉は半分だけの真実。


 寺の名も分からない。


 菊乃が生きているとして、こちらに会いたいと思うかも分からない。


 それでも、生きているなら。


 名を呼べる可能性があるなら。


 そこへ進むしかなかった。


 御台所は、しばらく考え込んだ。


「寺社筋を洗います」


「父の屋敷に出入りした者も」


「ええ。佐伯新六の文にあった、寺社方を名乗る者。薬種問屋を装った者。そこが菊乃の隠された寺と繋がる可能性があります」


「外へ連絡を?」


「取ります。ただし、直接『菊乃』の名は出せません」


「なぜですか」


「今その名を外へ出せば、菊乃本人が危険になります」


 千鳥が小夜の鈴を握る。


「名前を呼べるようになったのに、呼んじゃ駄目なんですね」


「大声で呼んではなりません」


 御台所は言った。


「でも、忘れてはなりません」


 その違いが、少し胸に痛かった。


 名を戻す。


 だが、守るために隠す。


 また矛盾だ。


 小夜が千鳥を守るために起こさなかったように。

 母が父へ赤い紐を残しながら、全てを告げなかったように。

 父が箱を守りながら、私に忘れろと書いたように。


 守ることは、時に名を隠すことにもなる。


 けれど、隠したままにすれば、また消えてしまう。


「難しいですね」


 千鳥がぽつりと言った。


「名前を呼びたい。でも呼んだら危ない。黙ってたら消される。でも大声で言ったら狙われる」


「ええ」


 御台所は頷いた。


「だから、呼ぶ場所と時を選ぶのです」


「鈴と同じですね」


「そうです」


 千鳥は、少しだけ納得したように鈴を見た。


「鈴も、いつ鳴らすかが大事だった」


「名前も同じです」


「菊乃さん」


 千鳥は、今度はごく小さく呼んだ。


 自分の手の中だけで響かせるように。


「今は、小さく呼びます」


 その声に、御台所は何も言わなかった。


 止めもしなかった。


 夕刻近くになって、佐伯新六へ送る文が用意された。


 父へではない。


 父の周辺を見ている古い家臣筋へ。


 文面は御台所が考え、私が一部を書き、松ヶ枝が整えた。


 直接、菊乃とは書かない。


 代わりにこう書いた。


 ――霜月十七日の第二駕籠、増上寺末寺前にて別道。

 ――寺社方を名乗る者の足跡を追われたし。

 ――菊の花を寺に見かけたなら、折らず、根を守れ。


 千鳥が文を見て、小さく言った。


「菊の花」


「名を直接出さないためです」


「折らず、根を守れ」


「御台様の案です」


「御台様、こういうの本当に上手いですよね」


「褒め言葉として受け取ります」


「褒めてるけど、怖いです」


「ならば正しい評価です」


 御台所は涼しい顔だった。


 文は初瀬へ託された。


 外へ出るまで、いくつもの手を通る。


 そのどこかで読まれるかもしれない。


 それでも、出さなければ何も始まらない。


 外の寺社筋を探るには、外の手が必要だった。


「菊乃さんは、志乃様に助けられたんでしょうか」


 千鳥が言ったのは、文が運ばれた後だった。


 部屋には御台所、私、千鳥、松ヶ枝、お袖だけが残っていた。


「母が?」


「うん。だって菊乃さんが死んでないなら、誰かが逃がしたってことでしょう」


「はい」


「お房様? 辰巳屋? 寺社方?」


「可能性はあります」


「でも、志乃様が自分の櫛箱に名前を残したなら、菊乃さんを消させたくなかったってことですよね」


「はい」


「じゃあ、志乃様が菊乃さんを逃がすために、自分が不義の札を被った可能性もある?」


 部屋が静まり返った。


 千鳥は、言ってから自分で驚いたような顔をした。


「私、変なこと言いました?」


「いいえ」


 私はゆっくり言った。


「その可能性はあります」


 母が、菊乃を守るために自ら汚名を被った。


 それは、考えたくないほど母らしい。


 そして、苦しいほど筋が通る。


 御子なき御子替えの噂。


 名のない女。


 菊乃。


 もし菊乃が生き延びたなら、誰かが代わりに札を被る必要があった。


 母は正しかった。


 正しいから危うかった。


 そして、誰かを守るためなら、自分の名を削ることすら選びかねない人だった。


「志乃なら」


 御台所が低く言った。


「やりかねません」


「御台様」


「自分が不義の札を被れば、菊乃から御子の噂を少し逸らせる。菊乃は名を変え、寺に隠される。自分は汚名を着るが、櫛箱に名を残す。いずれ誰かがほどくために」


「でも、それでは母が」


 言葉が詰まった。


 母が、あまりにも一人で抱えすぎている。


「志乃様も、小夜も」


 千鳥が静かに言った。


「誰かを守って消えたんですね」


 その言葉は、部屋に深く染み込んだ。


 松ヶ枝が目を伏せる。


 お袖も、手元の糸を見つめる。


 御台所だけが、まっすぐ前を見ていた。


「だからこそ、残された者が勝手に美談にしてはいけません」


 御台所の声は硬かった。


「守って消えた。それは美しい話ではありません。消えずに済むなら、その方がよかった」


「はい」


「志乃も小夜も、本当は消えたくなどなかったはずです」


 胸が痛んだ。


 そうだ。


 母は母として生きたかったはずだ。


 小夜は千鳥に卵焼きを半分渡し続けたかったはずだ。


 菊乃も、菊乃として生きたかったはずだ。


 誰かを守ったから尊い、などと簡単に言ってはいけない。


 守るために消えざるを得なかったこと自体が、罪なのだ。


「取り戻します」


 私は言った。


「母の名も、小夜さんの名も、菊乃さんの名も」


 御台所は、私を見た。


「欲張りですね」


「御台様ほどでは」


 千鳥が思わず吹き出した。


 松ヶ枝が咳払いをする。


 御台所は一瞬きょとんとした後、珍しく声を出さずに笑った。


「言うようになりましたね」


「影響を受けました」


「私のせいにしないでください」


「半分は」


「便利に使いますね」


「大奥ですので」


 ほんの少しだけ、空気が緩んだ。


 でも、その緩みは必要だった。


 でなければ、菊乃が生きているという希望の重さに押し潰されてしまう。


 夜になってから、お房からさらに小さな包みが届いた。


 初瀬が無言で差し出した包みは、紫の布に包まれていた。


 千鳥が警戒した顔をする。


「開けても大丈夫ですか」


「罠なら、初瀬がもう壁から逃げています」


 御台所が言うと、初瀬が少しだけ眉を動かした。


「壁から逃げたことはございません」


「では開けます」


 御台所が包みをほどく。


 中には、乾いた菊の花びらが一枚入っていた。


 それだけ。


 だが、花びらの下に小さな紙片があった。


 お房の字だろうか。


 短く、こう書かれていた。


 ――菊はまだ折れておりません。

 ――されど、根は寺の土に縛られております。


 千鳥が息を呑んだ。


「やっぱり寺……」


「ええ」


 私は紙片を見つめた。


 菊乃は生きている。


 だが自由ではない。


 寺に隠されているのか、閉じ込められているのか。


 守られているのか、監視されているのか。


 まだ分からない。


 けれど、菊はまだ折れていない。


 その一文だけで、胸の奥に小さな火が灯った。


「菊乃さん」


 私は、今度は声に出して言った。


「必ず、名を確かめます」


 小夜の鈴は鳴らなかった。


 でも千鳥が、鈴の上から手を重ねて頷いた。


「小夜、聞いてる?」


 彼女は小さく言った。


「菊乃さん、生きてるって」


 返事はない。


 ただ、灯火が少し揺れた。


 その揺れが、鈴の余韻のように見えた。

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