第39話 生きていた菊乃
菊乃様は、死んではおりません。
その言葉は、灯火の揺れよりも静かに、けれど刃よりも深く部屋へ沈んだ。
名のない女ではなかった。
菊乃。
そして、死んでいない。
その二つの事実だけで、今まで紙の上に横たわっていた事件が、突然、息をし始めた気がした。
死者の名を取り戻す話ではなくなった。
生きているかもしれない女を、もう一度この世に引き戻す話になった。
「生きている……」
千鳥が、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
懐の小夜の鈴を押さえる手に、力がこもっている。
「菊乃さん、生きているんですか」
「お房の言伝が真実なら」
御台所は静かに答えた。
「ですが、あの女の言葉をそのまま飲み込むのは危険です」
「嘘かもしれないってことですか」
「嘘ではないでしょう」
「では」
「半分だけ出してきた真実です」
御台所の声は冷たかった。
「菊乃が生きている。その言葉だけをこちらへ投げれば、私たちは動かざるを得ない。どこにいるのか、どういう状態なのか、誰に守られているのか、誰に見張られているのか。それは言わない」
「誘い」
私が言うと、御台所は頷いた。
「ええ」
「罠でしょうか」
「それも半分」
千鳥が小さく息を吐く。
「また半分」
「大奥で全部を一度に出す者は、だいたい死ぬか、殺す気のある者です」
「嫌な教訓ですね」
「覚えておきなさい」
御台所は、広げられた記録へ視線を落とした。
奥医師記録。
駕籠記録。
御中臈見習い名簿。
辰巳屋の出入り控え。
菊乃という名が、いくつもの紙の隙間からようやく浮かび上がっている。
だが、生きているとなると、また別の紙が必要になる。
死んだ記録ではなく、生き延びた痕跡。
「菊乃様は、どこへ消えたのでしょう」
私が問うと、松ヶ枝が駕籠記録を引き寄せた。
「志乃と同じ夜に裏御門を出ています。途中、増上寺末寺前で第二駕籠だけ別道へ」
「理由は急病」
千鳥が渋い顔で言った。
「便利すぎる急病」
「その通りです」
松ヶ枝は頷いた。
「そこから行方記録なし。ですが、寺社筋が絡んだ可能性が高い」
「父の屋敷に出入りしていた者も、寺社方を名乗っていました」
「ええ」
御台所が細い指で机を軽く叩いた。
「菊乃は寺へ隠された。そう考えるのが自然です」
「どの寺ですか」
「そこまではまだ」
御台所が言いかけたところで、初瀬が戻ってきた。
先ほどお房へ言伝を届けに行ったはずの初瀬だった。
いつも通り、足音もなく襖の前に座る。
「御台様」
「早かったですね」
「お房様より、さらに言伝がございます」
部屋の空気がまた固くなった。
「何と」
「『菊乃様は、寺にて名を変えられました』と」
千鳥が身を乗り出す。
「どこの寺ですか」
初瀬は首を横に振った。
「そこまでは」
「言わないんだ」
千鳥の声に苛立ちが滲む。
「小出しにして、こっちが動くの見てるみたい」
「その通りでしょう」
御台所は平然と言った。
「お房は、こちらの足を測っています」
「腹が立ちます」
「怒りは袖へ」
「袖がもうぎゅうぎゅうです」
「なら、少しだけ顔に出しておきなさい。破裂するよりましです」
千鳥は思わず妙な顔をした。
「御台様、たまに優しいのか怖いのか分かりません」
「両方です」
「便利ですね」
「大奥ですから」
軽いやり取りの後、御台所はすぐに真顔へ戻った。
「名を変えられた、ですか」
「菊乃様は、菊乃のままではいられなかった」
私が言うと、松ヶ枝が頷いた。
「記録上は病により下がった女です。その名で寺に置けば、すぐに足がつく」
「では、尼になったのでしょうか」
「可能性はあります」
お袖が辰巳屋の控えを指でなぞった。
「寺へ入ったなら、髪を落としたかもしれません。櫛が必要なくなる」
その言葉に、胸が小さく鳴った。
櫛。
母の櫛箱。
髪を落とした菊乃。
女の名と髪。
大奥において髪は、身分であり、女であることの形でもある。
それを落とすということは、別の名を得ることでもあり、元の名を捨てさせられることでもある。
「菊乃さんは、生きるために名を捨てさせられた」
千鳥が呟いた。
「死んではいないけど、菊乃ではいられなかった」
「はい」
「それって、生きてるって言えるのかな」
誰もすぐには答えなかった。
生きている。
でも名を消され、髪を落とし、寺に隠される。
それは死ではない。
だが、元の自分では生きられない。
母が不義の名札で殺され、小夜が怪談にされ、菊乃が別の名へ押し込められた。
形は違っても、どれも同じだ。
女を女のまま、人として生かさない。
「菊乃さんが本当に御子を宿していたかどうか」
私は言った。
「それを知るには、本人に会うしかないのかもしれません」
「会えると思いますか」
松ヶ枝が問う。
「思いたいです」
「思いたい、ですか」
「はい」
今はそれで精一杯だった。
証拠はまだ足りない。
お房の言葉は半分だけの真実。
寺の名も分からない。
菊乃が生きているとして、こちらに会いたいと思うかも分からない。
それでも、生きているなら。
名を呼べる可能性があるなら。
そこへ進むしかなかった。
御台所は、しばらく考え込んだ。
「寺社筋を洗います」
「父の屋敷に出入りした者も」
「ええ。佐伯新六の文にあった、寺社方を名乗る者。薬種問屋を装った者。そこが菊乃の隠された寺と繋がる可能性があります」
「外へ連絡を?」
「取ります。ただし、直接『菊乃』の名は出せません」
「なぜですか」
「今その名を外へ出せば、菊乃本人が危険になります」
千鳥が小夜の鈴を握る。
「名前を呼べるようになったのに、呼んじゃ駄目なんですね」
「大声で呼んではなりません」
御台所は言った。
「でも、忘れてはなりません」
その違いが、少し胸に痛かった。
名を戻す。
だが、守るために隠す。
また矛盾だ。
小夜が千鳥を守るために起こさなかったように。
母が父へ赤い紐を残しながら、全てを告げなかったように。
父が箱を守りながら、私に忘れろと書いたように。
守ることは、時に名を隠すことにもなる。
けれど、隠したままにすれば、また消えてしまう。
「難しいですね」
千鳥がぽつりと言った。
「名前を呼びたい。でも呼んだら危ない。黙ってたら消される。でも大声で言ったら狙われる」
「ええ」
御台所は頷いた。
「だから、呼ぶ場所と時を選ぶのです」
「鈴と同じですね」
「そうです」
千鳥は、少しだけ納得したように鈴を見た。
「鈴も、いつ鳴らすかが大事だった」
「名前も同じです」
「菊乃さん」
千鳥は、今度はごく小さく呼んだ。
自分の手の中だけで響かせるように。
「今は、小さく呼びます」
その声に、御台所は何も言わなかった。
止めもしなかった。
夕刻近くになって、佐伯新六へ送る文が用意された。
父へではない。
父の周辺を見ている古い家臣筋へ。
文面は御台所が考え、私が一部を書き、松ヶ枝が整えた。
直接、菊乃とは書かない。
代わりにこう書いた。
――霜月十七日の第二駕籠、増上寺末寺前にて別道。
――寺社方を名乗る者の足跡を追われたし。
――菊の花を寺に見かけたなら、折らず、根を守れ。
千鳥が文を見て、小さく言った。
「菊の花」
「名を直接出さないためです」
「折らず、根を守れ」
「御台様の案です」
「御台様、こういうの本当に上手いですよね」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてるけど、怖いです」
「ならば正しい評価です」
御台所は涼しい顔だった。
文は初瀬へ託された。
外へ出るまで、いくつもの手を通る。
そのどこかで読まれるかもしれない。
それでも、出さなければ何も始まらない。
外の寺社筋を探るには、外の手が必要だった。
「菊乃さんは、志乃様に助けられたんでしょうか」
千鳥が言ったのは、文が運ばれた後だった。
部屋には御台所、私、千鳥、松ヶ枝、お袖だけが残っていた。
「母が?」
「うん。だって菊乃さんが死んでないなら、誰かが逃がしたってことでしょう」
「はい」
「お房様? 辰巳屋? 寺社方?」
「可能性はあります」
「でも、志乃様が自分の櫛箱に名前を残したなら、菊乃さんを消させたくなかったってことですよね」
「はい」
「じゃあ、志乃様が菊乃さんを逃がすために、自分が不義の札を被った可能性もある?」
部屋が静まり返った。
千鳥は、言ってから自分で驚いたような顔をした。
「私、変なこと言いました?」
「いいえ」
私はゆっくり言った。
「その可能性はあります」
母が、菊乃を守るために自ら汚名を被った。
それは、考えたくないほど母らしい。
そして、苦しいほど筋が通る。
御子なき御子替えの噂。
名のない女。
菊乃。
もし菊乃が生き延びたなら、誰かが代わりに札を被る必要があった。
母は正しかった。
正しいから危うかった。
そして、誰かを守るためなら、自分の名を削ることすら選びかねない人だった。
「志乃なら」
御台所が低く言った。
「やりかねません」
「御台様」
「自分が不義の札を被れば、菊乃から御子の噂を少し逸らせる。菊乃は名を変え、寺に隠される。自分は汚名を着るが、櫛箱に名を残す。いずれ誰かがほどくために」
「でも、それでは母が」
言葉が詰まった。
母が、あまりにも一人で抱えすぎている。
「志乃様も、小夜も」
千鳥が静かに言った。
「誰かを守って消えたんですね」
その言葉は、部屋に深く染み込んだ。
松ヶ枝が目を伏せる。
お袖も、手元の糸を見つめる。
御台所だけが、まっすぐ前を見ていた。
「だからこそ、残された者が勝手に美談にしてはいけません」
御台所の声は硬かった。
「守って消えた。それは美しい話ではありません。消えずに済むなら、その方がよかった」
「はい」
「志乃も小夜も、本当は消えたくなどなかったはずです」
胸が痛んだ。
そうだ。
母は母として生きたかったはずだ。
小夜は千鳥に卵焼きを半分渡し続けたかったはずだ。
菊乃も、菊乃として生きたかったはずだ。
誰かを守ったから尊い、などと簡単に言ってはいけない。
守るために消えざるを得なかったこと自体が、罪なのだ。
「取り戻します」
私は言った。
「母の名も、小夜さんの名も、菊乃さんの名も」
御台所は、私を見た。
「欲張りですね」
「御台様ほどでは」
千鳥が思わず吹き出した。
松ヶ枝が咳払いをする。
御台所は一瞬きょとんとした後、珍しく声を出さずに笑った。
「言うようになりましたね」
「影響を受けました」
「私のせいにしないでください」
「半分は」
「便利に使いますね」
「大奥ですので」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
でも、その緩みは必要だった。
でなければ、菊乃が生きているという希望の重さに押し潰されてしまう。
夜になってから、お房からさらに小さな包みが届いた。
初瀬が無言で差し出した包みは、紫の布に包まれていた。
千鳥が警戒した顔をする。
「開けても大丈夫ですか」
「罠なら、初瀬がもう壁から逃げています」
御台所が言うと、初瀬が少しだけ眉を動かした。
「壁から逃げたことはございません」
「では開けます」
御台所が包みをほどく。
中には、乾いた菊の花びらが一枚入っていた。
それだけ。
だが、花びらの下に小さな紙片があった。
お房の字だろうか。
短く、こう書かれていた。
――菊はまだ折れておりません。
――されど、根は寺の土に縛られております。
千鳥が息を呑んだ。
「やっぱり寺……」
「ええ」
私は紙片を見つめた。
菊乃は生きている。
だが自由ではない。
寺に隠されているのか、閉じ込められているのか。
守られているのか、監視されているのか。
まだ分からない。
けれど、菊はまだ折れていない。
その一文だけで、胸の奥に小さな火が灯った。
「菊乃さん」
私は、今度は声に出して言った。
「必ず、名を確かめます」
小夜の鈴は鳴らなかった。
でも千鳥が、鈴の上から手を重ねて頷いた。
「小夜、聞いてる?」
彼女は小さく言った。
「菊乃さん、生きてるって」
返事はない。
ただ、灯火が少し揺れた。
その揺れが、鈴の余韻のように見えた。




