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大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第38話 名のない女の名

 名を奪われるということは、死ぬことに似ている。


 いや、場合によっては死よりも残酷かもしれない。


 死ねば、誰かが墓に名を刻む。

 仏前で名を呼ぶ。

 思い出す時にも、名がある。


 けれど名を奪われた者は、呼ばれない。


 記録の中では空白になり、噂の中では役割だけになる。


 御子を宿したかもしれない女。

 名のない女。

 消された女。


 それは、もう人ではない。


 大奥が作った、都合のよい影だった。


 けれど、辰巳屋製の古い櫛箱の詰め紙に、ひとつだけ文字が残っていた。


 ――菊。


 たった一文字。


 でも、その一文字が、消された女の手を闇の中から少しだけ伸ばしたように見えた。


「菊……」


 千鳥は、何度もその字を呟いた。


 御台所の部屋に戻ってからも、彼女は落ち着かなかった。小夜の鈴を懐にしまい、今度は古い詰め紙の写しを見つめている。


「菊って、名前かな」


「可能性はあります」


「菊乃、とか。菊江、とか。菊、だけかもしれない」


「はい」


「でも、名があるんだよね」


「はい」


 千鳥は小さく息を吸った。


「よかった、って言っていいのか分からないけど」


「私もです」


「でも、名のない女じゃなくなるかもしれない」


「はい」


 名が戻る。


 それは、母の汚名を剥がすこととも、小夜を怪談から人へ戻すこととも同じだ。


 名札を貼られた女たちから、貼られた名ではなく本当の名を取り戻す。


 この物語の中心は、そこにあったのかもしれない。


 御台所は、古い控えをいくつも文机の上に広げていた。


 奥医師の記録。

 駕籠の記録。

 辰巳屋の出入り控え。

 御中臈見習いの名簿。

 七年前前後の配置控え。


 すべてが薄い紙だ。


 けれど、紙の一枚一枚が、人の生死を握っている。


 松ヶ枝はその向かいに座り、虫眼鏡のような小さな拡大鏡を使って、薄れた文字を追っていた。


 お袖は、紙そのものではなく、綴じ紐や折り目、墨の濃さを見ている。


 それぞれ見ている場所が違う。


 だからこそ、同じ紙から違うものが拾える。


「菊の字があるなら、まず名簿ですね」


 松ヶ枝が言った。


「七年前、大御台様の周辺にいた女で、菊の字が入る者」


「御中臈見習いも含めてください」


 私が言うと、御台所が目を上げた。


「なぜ、そこを」


「名のない女が正式な側室なら、名を完全に消すのは難しいはずです。けれど、御中臈見習いならば、まだ奥での立場が曖昧です」


「続けなさい」


「身分が高すぎれば、御子の噂に使うには危険です。低すぎれば、将軍様の血の噂として弱い。けれど、御中臈見習いなら、奥に近く、しかし消しやすい」


 御台所は、わずかに微笑んだ。


「考えるようになりましたね」


「嬉しくありません」


「でしょうね」


 千鳥が横から言った。


「でも、紗代の言うこと分かる。ちゃんと側室だった人なら、消したら周りが騒ぐ。でも見習いなら、『いなくなった』じゃなくて『下がった』って言える」


「はい」


「大奥、そういうところ本当に嫌」


「同感です」


 松ヶ枝が名簿をめくる音がした。


「菊乃」


 その声で、部屋の空気が止まった。


 千鳥が息を呑む。


 私は松ヶ枝を見た。


「今、何と」


「菊乃、です」


 松ヶ枝は紙をこちらへ向けた。


 そこには、薄れた墨で確かに書かれていた。


 ――御中臈見習い 菊乃。


 胸の奥で、何かが鳴った。


 鈴ではない。


 でも、音に似た感覚だった。


 名が戻った。


 名のない女に、名があった。


「菊乃……」


 千鳥が震える声で言った。


「この人が、名のない女?」


「まだ断定はできません」


 御台所が言った。


 けれど、その声にもわずかな緊張があった。


「照合しましょう」


 松ヶ枝は別の紙を引き寄せた。


「菊乃。出自は……下級御家人の娘。後ろ盾は薄い。大御台様付きの女中を経て、御中臈見習いへ」


「大御台様付き」


 私は呟いた。


「なら、御簾の周辺へ近づける」


「ええ」


「正式な側室ではない」


「はい」


「消しやすい」


 御台所が静かに言った。


「噂に使うには、都合がよい女ですね」


 その言い方に、千鳥が顔を歪めた。


「都合がいいって……人なのに」


「そうです」


 御台所は逃げなかった。


「人を都合で見る場所です、大奥は」


「嫌です」


「ええ」


「でも、菊乃さんは人です」


「その通りです」


 御台所は、名簿の菊乃の文字を指で示した。


「だから、こうして名を戻す必要があります」


 千鳥は何も言わなかった。


 ただ、小夜の鈴を懐の上から握った。


 松ヶ枝が次の記録を広げる。


「奥医師の控え。名は削られていますが、年齢の記述が残っています。十七から十八ほど」


「菊乃の年は?」


「当時、十七」


「合います」


 私が言うと、松ヶ枝は頷いた。


「さらに、月水止まると記された時期。菊乃は、その少し前から大御台様付きの雑務から外れ、奥の控えへ移されています」


「理由は?」


「記録上は、体調不良」


 千鳥が低く言った。


「また体調不良」


「はい」


「便利すぎる」


「大奥では、便利な言葉ほど多用されます」


 松ヶ枝の声は苦い。


 お袖が、辰巳屋の出入り控えを指差した。


「この日付を見てください」


「辰巳屋が来た日?」


「はい。菊乃が体調不良として奥の控えへ移された三日後、辰巳屋が香箱と小物入れを納めています。納入先は、大御台様御用」


「小物入れ……」


「小さな箱です。おそらく、薬や香、あるいは文を入れるもの」


「その頃から、菊乃さんに関わるものが箱に入れられていた?」


「可能性はあります」


 私は記録を見つめた。


 菊乃。


 下級御家人の娘。


 大御台様付きから御中臈見習いへ。


 体調不良で奥の控えへ。


 奥医師の記録では、懐妊を疑わせる症状。


 そして、母が外へ出された夜に、名を削られた駕籠で別道へ消えた女。


「菊乃さんは、本当に御子を宿していたのでしょうか」


 千鳥が小声で言った。


 誰もすぐには答えなかった。


 それは、この事件の底にある問いだった。


 本当に宿していたのか。


 宿したことにされたのか。


 どちらでも、大奥は彼女を利用できる。


 御台所は、奥医師の記録を見つめたまま言った。


「今はまだ、分かりません」


「御台様でも?」


「分かりません」


「でも、御子がいたかもしれないって噂には都合がよかった」


「ええ」


「身分の低い女が、御子を宿したかもしれない。そういう話になれば、大奥は揺れる」


「その通りです」


 御台所は静かに言った。


「正式な側室でもない女が御子を宿したとなれば、将軍家の血筋、側室方の序列、外の家々の思惑、すべてが乱れます」


「だから、大御台様は」


「噂を消すために、噂を利用したのかもしれません」


「どういうことですか」


 千鳥が眉を寄せる。


「御子がいたかどうかは関係ない。御子がいたかもしれない女を消し、その女を知る者に名札を貼る。すると皆、真実より自分に貼られる札を恐れます」


「志乃様に不義の札を貼ったように」


「ええ」


「小夜に怪談の札を貼ったように」


「ええ」


「菊乃さんには、名のない女の札を」


 千鳥の声が小さくなる。


「それ、札というより……消しゴムみたい」


「消しゴム?」


「名前を消して、都合のいい形だけ残す」


 部屋が静かになった。


 御台所が千鳥を見た。


「よい言い方です」


「褒められても嬉しくないです」


「でしょうね」


「でも、菊乃さんの名は消されてた」


「ええ」


「じゃあ、戻しましょう」


 千鳥は言った。


 声は震えている。


 けれど、強かった。


「小夜が鈴を鳴らしたなら、菊乃さんのためでもあったかもしれない。志乃様が箱に名を入れたなら、その人を消させないためだったかもしれない。だったら、名前を呼びます」


 千鳥はゆっくりと、その名を口にした。


「菊乃さん」


 たったそれだけの声が、部屋に残った。


 大奥の記録で削られた名が、人の口から呼ばれた。


 それは、とても小さなことだ。


 でも、何かが確かに動いた気がした。


「菊乃さん」


 私も呼んだ。


 母が守ろうとしたかもしれない女。


 小夜が鈴を鳴らして止めようとしたかもしれない女。


 御子替えの噂に巻き込まれ、名を消された女。


「あなたの名を、確かめます」


 松ヶ枝が静かに目を伏せた。


「志乃が、これを聞いていれば」


「聞いています」


 千鳥がすぐ言った。


 松ヶ枝が彼女を見る。


「小夜も聞いてる。志乃様も聞いてる。そう思わなきゃ、やってられません」


「……そうですね」


 松ヶ枝は、少しだけ口元を緩めた。


「そう思いましょう」


 お袖は別の紙を取り上げた。


「菊乃の衣の控えがあります」


「衣?」


「御中臈見習いになる時、衣を新しく仕立てています。その仕立てに、辰巳屋の小物が関わっています」


「小物?」


「帯留めと、香袋」


「辰巳屋ばかりですね」


「はい」


 お袖は記録を追った。


「香袋の紐は、紫」


 千鳥が顔を上げる。


「紫」


「大御台様の御側道具を扱う者の色」


「菊乃さんは、大御台様の近くにいた」


「はい」


 御台所が低く言った。


「菊乃は、もともと大御台様の手元にいた女。そこから御中臈見習いへ上げられた」


「上げられた?」


 私は繰り返した。


「本人の意思でしょうか」


「分かりません。ただ、後ろ盾の薄い娘が急に上がる時、本人の力だけとは限りません」


「誰かが、上げた」


「ええ」


「大御台様が?」


「可能性はあります」


 菊乃は、大御台様の近くにいた。

 その後、御中臈見習いになった。

 そして、御子を宿したかもしれない女として記録に現れ、名を消された。


 偶然とは思えない。


「菊乃さんは、利用された」


 千鳥が言った。


「最初から?」


「分かりません」


 御台所は答えた。


「ただ、使いやすい位置へ置かれたのは確かでしょう」


「人を駒みたいに」


「大奥では、女はしばしば駒です」


「御台様も?」


「私も」


「紗代も?」


「今は、駒にされかけています」


 御台所は私を見る。


「ただし、駒は時に盤面を乱します」


「私は、乱す側ですか」


「そうであってほしいですね」


 千鳥が小声で言う。


「紗代はもう十分乱してる気がします」


「千鳥もです」


「私も?」


「鈴を鳴らしたでしょう」


 千鳥は少しだけ誇らしそうに、けれど寂しそうに懐へ手を当てた。


「小夜が鳴らした音を、もう一度鳴らしただけです」


「それが乱すということです」


 御台所は淡々と言った。


 お袖が、もう一枚の記録を取り出した。


「菊乃の最後の記録です」


 部屋が張り詰める。


「最後?」


「はい。御中臈見習い名簿から外された日」


 紙には、短く書かれていた。


 ――菊乃、病により下がる。


 それだけ。


 あまりにも短い。


「病により下がる」


 私は読み上げた。


「その日付は?」


「志乃様が外へ出された前日です」


 千鳥が息を呑む。


「前日?」


「はい」


「でも、駕籠記録では、志乃様と同じ夜に出てる」


「つまり、名簿上は前日に下がったことになっている」


 松ヶ枝が言った。


「実際には、翌日の夜に駕籠で出された」


「記録をずらしている」


 私は言った。


「菊乃さんが同じ夜に出されたことを隠すために」


「おそらく」


 御台所は深く頷いた。


「名簿では前日。駕籠では同刻。ただし名は削除。これで、菊乃と志乃の動きは記録上つながりにくくなる」


「母は、それを知っていた」


「だから箱に名を残そうとしたのでしょう」


 母の櫛箱。


 赤い紐の奥。


 そこに菊乃の名があるかもしれない。


 お房は言った。


 隠し底の中身を入れたのは志乃自身だ、と。


 母は菊乃の名を消させないため、自分の櫛箱にその名を隠したのかもしれない。


「母は、菊乃さんを助けようとした」


 私が呟くと、御台所は否定しなかった。


「志乃なら、そうするでしょう」


「なぜですか」


「正しいからです」


 その言い方は、大御台様の時とは違った。


 危ういという意味ではなく、少しだけ悔しさを含んだ声だった。


「そして、小夜さんも」


 千鳥が言う。


「小夜も、菊乃さんを止めようとして鈴を鳴らしたかもしれない」


「はい」


「じゃあ、菊乃さんの名を戻すのは、小夜の鈴への返事にもなる?」


「なると思います」


 千鳥は頷いた。


「じゃあ、やる」


 単純な言葉。


 けれど、強かった。


 その時、初瀬が入ってきた。


「御台様」


「何です」


「お房様より、言伝がございます」


 部屋の空気が変わった。


「お房から?」


「はい」


「何と」


 初瀬は少しだけ間を置いた。


「『菊乃様は、死んではおりません』と」


 沈黙が落ちた。


 千鳥が、鈴を握ったまま固まる。


 私は呼吸を忘れた。


 御台所でさえ、すぐには言葉を返さなかった。


「もう一度」


 御台所が言った。


 初瀬は静かに繰り返す。


「『菊乃様は、死んではおりません』」


 菊乃は死んでいない。


 名を消された女。


 御子替えの噂に巻き込まれた女。


 母と同じ夜に駕籠で出され、行方記録なしになった女。


 その女が、生きている。


「どこに」


 私は思わず立ち上がりかけた。


 御台所が手で制す。


「落ち着きなさい」


「ですが」


「今この言伝が来た意味を考えなさい」


 私は息を整えた。


 お房はなぜ今、これを伝えたのか。


 自分で来ず、初瀬を通して。


 菊乃の名が戻った直後に。


「こちらが菊乃の名に辿り着いたと、お房様は知っている」


「ええ」


「その上で、生きていると知らせた」


「誘いかもしれません」


「罠でしょうか」


「半分は」


 千鳥が震える声で言った。


「残り半分は?」


 御台所は、静かに答えた。


「助けを求めているのかもしれません」


 お房が?


 菊乃が?


 それとも、七年前に鈴へ返事をしなかった者たちの誰かが?


「菊乃さんは、どこに隠されたのでしょう」


 松ヶ枝が言った。


「駕籠は途中で別道へ逸れた。増上寺末寺前。寺社筋が絡んでいる可能性がある」


「父の屋敷に出入りしていた寺社方とも」


「繋がるでしょう」


 御台所は目を伏せた。


「第五章は、外へ伸びますね」


 千鳥が首を傾げた。


「章?」


 御台所が咳払いをした。


「言葉の綾です」


「松ヶ枝様も前にそれ言ってました」


「皆、疲れているのです」


 重い空気の中で、ほんの少しだけ笑いが生まれた。


 だが、それもすぐ消えた。


 菊乃は死んでいない。


 その事実は、あまりにも大きい。


「御台様」


 私は言った。


「菊乃さんが生きているなら、母の名を戻す証人になる可能性があります」


「ええ」


「同時に、菊乃さん自身が危険です」


「その通りです」


「大御台様側も、菊乃さんの生存を知っているのでしょうか」


 御台所は答えなかった。


 それだけで十分だった。


 知っている可能性が高い。


 そして、それを隠している。


「初瀬」


「はい」


「お房へ返しを」


 御台所は少し考えた。


「『鈴は一度鳴った。次は名を呼ぶ』と」


「承知いたしました」


 初瀬が下がる。


 千鳥が小声で言った。


「それ、かっこいいですね」


「そうでしょうか」


 御台所は涼しい顔をしている。


「でも、怖いです」


「それでよいのです」


 千鳥は懐の鈴を握り、静かに言った。


「菊乃さん」


 その声は、さっきより少し強かった。


「生きてるなら、聞こえてますか」


 答えはない。


 けれど、誰も笑わなかった。


 名のない女は、もう名のない女ではない。


 菊乃。


 そして、死んではいない。


 母が守ろうとしたかもしれない女。


 小夜が止めようとしたかもしれない女。


 父の櫛箱に名を残されたかもしれない女。


 物語は、死者の名を追うだけではなくなった。


 生きているかもしれない女を探す話になったのだ。


 それは希望だった。


 同時に、これまでで一番危険な火種でもあった。

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