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大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第35話 お房、御簾の内側の手

 鈴を鳴らす日が来た。


 そう思っただけで、千鳥の顔色は朝から悪かった。


 御末の間で水桶を運ぶ時も、膳を並べる時も、畳の端を拭く時も、彼女の手は何度も懐へ向かった。


 小夜の鈴がそこにある。


 鳴らせば、御簾の奥にいる誰かが動くかもしれない。


 鳴らせば、七年前の夜に鈴を聞いた者たちの沈黙が割れるかもしれない。


 けれど鳴らせば、味方だけが来るとは限らない。


 御台所の言葉は、何度も頭の中で響いていた。


 鈴は、鳴らせば誰かを呼ぶものです。

 味方とは限りません。


「紗代」


 千鳥が小声で呼んだ。


「はい」


「私、今日ずっと鈴のこと考えてる」


「はい」


「鳴らした方がいいのかな」


「まだ決めなくてよいです」


「でも、決めないと鳴らせない」


「はい」


「鳴らさなかったら、小夜は怒るかな」


 その問いは、今日だけで何度目だろう。


 でも、私は飽きたとは思わなかった。


 千鳥は、小夜の代わりに鳴らそうとしているのではない。


 自分が鳴らす意味を、必死に探している。


「小夜さんは、怒るかもしれません」


「やっぱり」


「でも、鳴らすかどうかを千鳥が考えていることは、怒らないと思います」


「本当?」


「たぶん」


「たぶんかあ」


「小夜さんに会ったことがないので」


「そういうところ、律儀」


 千鳥は少し笑った。


 けれど、すぐに口元が引き締まる。


「御台様、言ってたよね。小夜の代わりになるんじゃない、私は千鳥だって」


「はい」


「私、少しだけ小夜の代わりになろうとしてた」


「そう見えました」


「隠してよ」


「すみません」


「いいけど」


 千鳥は懐を押さえた。


「小夜だったら鳴らすかな、とか。小夜なら怖くても進むかな、とか。ずっと考えてた。でも違うんだよね」


「はい」


「これは小夜の鈴だけど、今持ってるのは私」


「はい」


「なら、私が決めなきゃいけない」


「半分、一緒に考えます」


「うん。でも最後に鳴らす指は、私の指だよね」


「はい」


 千鳥は息を吐いた。


「重いなあ」


「はい」


「小さい鈴なのに」


「はい」


 彼女は、泣きそうに笑った。


「小夜、こんな重いもの持ってたんだね」


 その言葉に、私は答えられなかった。


 小夜は小さな鈴を持っていた。


 母を止めるために。


 名のない女を止めるために。


 誰かに来てほしくて。


 けれど、誰も来なかった。


 だから今日、千鳥は鳴らすかもしれない。


 七年遅れの返事を求めて。


 御経の時刻が近づくと、御台所から使いが来た。


 初瀬だった。


 いつも通りの無表情。


 けれど、今日はどこか空気が硬い。


「御台様のもとへ」


「はい」


 千鳥が立ち上がろうとして、少しよろめいた。


 私はすぐに袖を支える。


「大丈夫ですか」


「大丈夫じゃない」


「はい」


「でも行く」


「はい」


 初瀬が静かに言った。


「大丈夫ではないと言えるうちは、まだよろしいでしょう」


 千鳥が目を丸くした。


「初瀬様も、そういうこと言うんですね」


「私も人ですので」


「え、そこは疑ってません」


「よく壁から生えると言われます」


「……聞こえてましたか」


「毎回」


 千鳥が耳まで赤くなった。


「申し訳ございません」


「構いません。今日は壁から生える者が役に立つ日です」


 初瀬はそう言って、静かに先を歩いた。


 御台所の部屋には、松ヶ枝とお袖もいた。


 お袖はいつものように表情が薄い。


 しかし、膝の上で指がわずかに動いていた。


 緊張しているのだ。


 お房と対峙することは、彼女にとっても簡単ではないのだろう。


 御台所は私たちを見ると、すぐに言った。


「大御台様は御経に入られました」


「御簾の奥には」


「お房が残っています」


「一人ですか」


「完全に一人ではありません。けれど、声をかけられる位置にいるのはお房です」


 千鳥の喉が小さく鳴った。


「鈴は?」


「持っています」


「鳴らすかどうかは」


「まだ、決めていません」


「よろしい」


 御台所は頷いた。


「迷いなさい。迷わず鳴らす鈴は危うい」


 千鳥は、唇を噛みながらも頷いた。


「はい」


「篠乃井」


「はい」


「今日の目的は、お房を捕らえることではありません」


「話を聞くこと」


「ええ。御簾の内側で、七年前何が鳴ったのか。大御台様の箱に何があるのか。鈴の対が本当に存在するのか。それを見極める」


「お房様は話すでしょうか」


「話すように仕向けるのです」


「鈴で?」


「それも一つの手です」


 御台所は千鳥を見た。


「ただし、鈴を鳴らすのは最後の戸を叩くようなもの。先に言葉で戸を探りなさい」


「はい」


 松ヶ枝が低く言う。


「御簾の近くでは、声を荒げてはなりません」


 千鳥がちらりと私を見た。


「紗代」


「なぜ私を見たのですか」


「いや、念のため」


「千鳥もです」


「うん」


 お袖が静かに付け加えた。


「お房様は柔らかく話します。ですが、柔らかい布ほど、首に巻けば息を止められます」


 千鳥が青ざめる。


「怖い例え」


「事実です」


「お袖様、たまに言葉が刃物です」


「糸の方が好みですが」


 御台所が少しだけ笑った。


「では行きましょう」


 大御台様の居所へ続く廊下は、今日も静かだった。


 けれど前回とは違う。


 奥から御経の声が微かに聞こえる。


 低く、長く、途切れない声。


 その声の向こうに、大御台様がいる。


 祈っているのか。


 それとも祈らせているのか。


 分からない。


 御簾の前へ近づくと、初瀬が足を止めた。


 今日は大御台様本人の声はしない。


 御簾は下りたまま。


 その手前に、薄い小袖の老女が座っていた。


 お房。


 初めて見る女だった。


 梅島のような威圧感はない。


 お梅のような涙もない。


 お袖のような無表情とも違う。


 穏やかで、柔らかく、年相応の皺があり、声をかければ湯呑みでも差し出してくれそうな顔をしている。


 だが、その目だけが違った。


 底が見えない。


 柔らかな水面の下に、冷たい石が沈んでいるような目だった。


「御台様」


 お房は静かに頭を下げた。


「御経の最中に、何用でございましょう」


「少し、御簾まわりの道具について確かめたいことがあります」


「道具でございますか」


「鈴です」


 その一言で、お房の目がわずかに細くなった。


 ほんの少し。


 普通なら見逃すほどの動き。


 でも、見逃さなかった。


 千鳥も、息を止めた。


「鈴ならば、御簾の奥に幾つかございます」


 お房は穏やかに答えた。


「魔除け、合図、飾り。古い御道具ですので」


「小夜の鈴をご存じですね」


 私が言うと、お房の視線が私へ移った。


「小夜」


 その名の言い方は、梅島とも大御台様とも違った。


 軽くない。


 知らないふりでもない。


 ただ、奥にしまわれた箱の名を読み上げるような声だった。


「懐かしい名でございます」


 千鳥の手が懐へ動く。


 だが、まだ鈴は出さない。


「小夜を、ご存じなのですか」


 千鳥が問う。


「ええ」


「どんな子でしたか」


 その問いに、お房は少しだけ微笑んだ。


「よく働く子でした」


「それは、みんな言います」


「では、よく怒る子でした」


 千鳥の目が少し揺れる。


「それも、みんな言います」


「ならば、よく見ている子でした」


「見ている?」


「ええ。御末の子にしては、見る場所が深かった。襖の向こう、御簾の影、畳の端、手元の癖。大奥で長く生きる女が見ないふりをするものまで、あの子は見ておりました」


「だから消されたんですか」


 千鳥の声が震えた。


 お房はすぐには答えない。


 柔らかな顔のまま、千鳥を見ている。


「消された、とは穏やかではございませんね」


「穏やかじゃないことが起きたんです」


「そうでございますね」


 認めた。


 あまりにも静かに。


 千鳥が言葉を失う。


 私は一歩前へ出た。


「お房様。七年前、小夜さんの鈴は鳴りました」


「……そうでございますね」


「あなたは、その音を聞きましたか」


「聞きました」


 千鳥の肩が震えた。


 お房は続ける。


「小さな音でした。けれど、御簾の内側には届きました」


「なら、なぜ誰も」


 千鳥が声を上げかける。


 私が袖に触れた。


 彼女は息を飲み込み、言い直した。


「なぜ、誰も来なかったのですか」


 お房は、千鳥を見た。


 その目は優しい。


 優しいのに、冷たい。


「鳴ってはならぬ音だったからでございます」


 部屋の空気が止まった。


「鳴ってはならない?」


 千鳥が呟く。


「はい」


「助けを呼んだ音なのに?」


「助けを呼ぶ音だからこそ、鳴ってはならなかったのです」


 お房の声は、どこまでも静かだった。


「御簾の内側に届く鈴は、奥の秩序を守るためのもの。誰を呼ぶか、誰を止めるか、誰を動かすか。それは上が決めることです。御末の小夜が勝手に鳴らしてよいものではございません」


 千鳥の顔が赤くなった。


 怒りで。


「勝手に?」


「ええ」


「小夜は、志乃様を止めるために鳴らしたんです」


「存じております」


「名のない女も、止めようとしたかもしれない」


「かもしれません」


「それの何が勝手なんですか」


 千鳥の声が震える。


「人が消されそうになって、助けを呼ぶのが勝手なんですか」


 お房は、少しだけ首を傾げた。


「大奥では、誰を助けるかにも順序がございます」


「順序」


「はい」


「命より?」


「時に」


 千鳥が言葉を失った。


 御台所は黙っている。


 止めない。


 これは、千鳥が聞くべき言葉なのだ。


 小夜の鈴を持つ千鳥が。


「お房様」


 私は問う。


「小夜さんの鈴と、御簾の奥の鈴は対ですね」


 お房の目が、今度は私を見た。


「よく辿られましたね」


「否定されないのですね」


「ここまで来た方に、粗い嘘は通じません」


「では、認めるのですか」


「はい」


 お房は静かに言った。


「小夜の鈴と、御簾の奥の鈴は対でございました」


 千鳥の手が、懐の鈴を握る。


 鳴らさない。


 でも、強く握っている。


「本来は、何のために?」


 私が聞くと、お房は御簾の方へ少し視線を向けた。


 御経の声は、まだ遠く続いている。


「御簾の内側にいる者と、外で動く者との合図でございます」


「外とは、大奥の外ですか」


「大奥の外とは限りません。御簾の外。奥の外。表の外。必要に応じて」


「誰が使っていたのですか」


「御側の者たちです。大御台様のお耳に入れる前に、動かねばならないこともございますから」


「大御台様は、ご存じだったのですか」


「もちろんでございます」


 当然のように言った。


 御簾の内側の鈴は、ただの飾りではない。


 連絡の道具。


 人を動かすための音。


「小夜さんは、その仕組みを知った」


「はい」


「母も」


「おそらく」


「だから二人は危険になった」


「ええ」


 お房は、まるで天気の話のように言った。


 千鳥が歯を食いしばる。


「危険になったから、消したんですか」


「小夜を消すと決めたのは、私ではございません」


「でも、止めなかった」


「はい」


「鈴を聞いたのに」


「はい」


「対の鈴で返事しなかった」


「はい」


 お房は全て認めた。


 柔らかく、静かに。


 それが余計に腹立たしい。


「七年前も、その音は鳴りました」


 お房は言った。


「ただ、鳴ってはならぬ音でした」


 千鳥の目に涙が浮かんだ。


「そんなの、ひどい」


「そうでございますね」


「また認める」


「認めることと、悔いることは違います」


 お房の言葉に、私は息を呑んだ。


 この人は悔いていない。


 少なくとも、松ヶ枝やお久のようには。


 彼女にとって、小夜の鈴を無視したことは、役目の一部だったのだ。


「お房様は、悔いていないのですか」


 私が問うと、お房は少しだけ目を伏せた。


「悔いは、あります」


「では」


「ただし、悔いよりも役目が先でございました」


「今も?」


「今も」


 御台所が、ここで初めて口を開いた。


「お房。あなたは、相変わらずですね」


「御台様も、お変わりなく」


「私は変わりましたよ」


「そのようでございますね。だから、こうして御末の娘を御簾の近くまで連れていらした」


 柔らかな声。


 けれど、棘がある。


 御台所の目が冷える。


「大御台様の御経の時間を選んだのは、あなたに話をさせるためです」


「心得ております」


「なら、話しなさい」


「何をでございましょう」


「鈴の片割れは、どこにあるのです」


 お房は微笑んだ。


「御簾の奥に」


「誰が持っている」


「私でございます」


 千鳥が息を呑んだ。


 お房は懐から、小さな布袋を取り出した。


 淡い紫の布。


 細い紐で結ばれている。


 その袋を開けると、中から小さな鈴が出てきた。


 小夜の鈴よりも、少しだけ白く光っている。


 よく磨かれているのだ。


 千鳥の手の中にある鈴と、形はほとんど同じだった。


 対の鈴。


 七年前、返事をしなかった鈴。


 お房はそれを手の上に乗せた。


「お鳴らしになりますか」


 千鳥を見る。


 挑発か。


 問いかけか。


 どちらにも見える。


 千鳥は懐から小夜の鈴を取り出した。


 手が震えている。


 私は彼女の横に膝を進めた。


「千鳥」


「鳴らしたい」


「はい」


「でも、怒りで鳴らしたら駄目なんだよね」


「はい」


「今、すごく怒ってる」


「はい」


「だから、まだ鳴らさない方がいい?」


 私は千鳥の目を見た。


 ここで答えを渡してはいけない。


 これは千鳥の選択だ。


 半分持つが、代わりに決めることはできない。


「千鳥が、小夜さんのためではなく、千鳥自身の言葉として鳴らせるなら」


 千鳥は唇を噛んだ。


 長い沈黙。


 お房は待っている。


 御台所も、松ヶ枝も、お袖も、初瀬も。


 御経の声だけが、遠く続いている。


 やがて、千鳥は小さく言った。


「私は、小夜じゃない」


「はい」


「でも、小夜の鈴を持ってる」


「はい」


「小夜の代わりに鳴らすんじゃない。小夜が鳴らしたのに誰も来なかったことを、私がもう一度聞くために鳴らす」


「はい」


「返事が欲しいんじゃない。逃げた人たちが、今度は聞こえないふりできないようにするため」


 千鳥は私を見た。


 私は頷いた。


「一緒に聞きます」


 千鳥は、震える指で鈴を持ち上げた。


 一度だけ。


 小さく。


 ちりん。


 音は、驚くほど澄んでいた。


 御簾の前の空気が揺れた。


 小さな音なのに、御経の声の間を縫うように奥へ届いていく。


 お房は、手の上のもう一つの鈴を見下ろした。


 そして、静かにそれを鳴らした。


 ちりん。


 返事だった。


 七年遅れの。


 千鳥の目から涙が落ちた。


 でも、泣き崩れなかった。


 鈴を握りしめ、真っ直ぐお房を見ていた。


「今のが、返事ですか」


 千鳥が問う。


「はい」


「七年前にも、返事できたんですよね」


「できました」


「しなかった」


「はい」


「それを、一生覚えていてください」


 お房は、初めて少しだけ表情を崩した。


 柔らかな仮面の奥に、薄い痛みのようなものが見えた。


「覚えております」


「もっと覚えてください」


「はい」


 千鳥は鈴を懐へ戻した。


 その手はまだ震えていたが、先ほどより少しだけ強かった。


 私はお房へ向き直る。


「お房様。あなたは、大御台様の箱を開ける役目も持っていますね」


「はい」


「その箱に、小夜の鈴と対の鈴が収められていた」


「今は、私が預かっております」


「七年前は?」


「箱の中にございました」


「小夜さんが鳴らした時、あなたは箱から鈴を出したのですか」


「はい」


「でも鳴らさなかった」


「はい」


「なぜ、今は鳴らしたのです」


 お房は、手の上の鈴を見つめた。


「御経の最中だからでございます」


「大御台様が直接動けないから?」


「それもございます」


「ほかには」


「七年前と同じ沈黙を、もう一度選ぶほど私は若くありません」


 それは、悔いなのか。


 役目の疲れなのか。


 まだ分からない。


 けれど、お房の声はさっきより少しだけ人間らしかった。


「お房様」


「はい」


「辰巳屋をご存じですね」


 お房の手が、ほんの少し止まった。


「御用商人でございます」


「小夜の鈴、御簾の奥の鈴、赤い紐、櫛箱。辰巳屋は関わっていますか」


「関わっております」


 部屋が静まる。


「どこまで」


「鈴の紐を替えました。御簾の奥の箱を直しました。篠乃井家の櫛箱も、辰巳屋の手によるものです」


「偽印は?」


 お房は微笑んだ。


「それは、まだ私の口からは」


「なぜ」


「大御台様の御経が終わります」


 遠くの御経の声が、少し変わっていた。


 終わりが近いのだ。


 御台所が低く言った。


「お房」


「はい」


「次は逃がしません」


「逃げるほど足は速くございません」


「口はよく逃げます」


「御台様には敵いませんね」


 お房は鈴を布袋へしまった。


「今日お話しできるのは、ここまででございます」


「最後に一つ」


 私は言った。


「櫛の箱を作ったのは辰巳屋。では、隠し底の中身を入れたのは誰ですか」


 お房は私を見た。


 その目の奥に、また冷たい石が沈む。


「それを、私に言わせますか」


「はい」


「知れば、父君への見方が変わるかもしれません」


「それでも」


 お房は、少しだけ口元を緩めた。


「強い娘ですね」


「怖いだけです」


「恐れながら聞く者は、強いのです」


 御経の声が止まった。


 お房は立ち上がる直前、静かに言った。


「隠し底の中身を入れたのは、志乃様ご自身です」


 息が止まった。


「母が」


「ええ」


「父ではなく?」


「父君が何を知っていたかは存じません。ただ、箱に最初の中身を入れたのは志乃様です」


「何を入れたのですか」


 お房は、もう答えなかった。


 御簾の奥で、衣擦れの音がした。


 大御台様の御経が終わった。


 時間切れだ。


 お房は柔らかく頭を下げた。


「また、お鈴が鳴れば」


 その声は、誘いにも聞こえた。


 罠にも聞こえた。


 私たちは御台所の合図で、すぐに下がった。


 廊下へ出た瞬間、千鳥が大きく息を吐いた。


 そして、その場に座り込みそうになった。


 私は支える。


「千鳥」


「鳴らした」


「はい」


「返事、来た」


「はい」


「小夜、聞こえたかな」


「聞こえたと思います」


 千鳥は泣いた。


 でも、声は上げなかった。


 小さな鈴を両手で包み込むように持ち、ただ涙を落とした。


「七年遅いよ」


「はい」


「遅すぎる」


「はい」


「でも、返事だった」


「はい」


 御台所は、私たちの前に立ち、静かに言った。


「今日、鈴は鳴りました」


「はい」


「そして、箱の中身を入れたのが志乃だと分かった」


「はい」


「次は、辰巳屋の箱です」


 私は頷いた。


 母は、自分で隠し底に何かを入れた。


 父はそれを七年守っている。


 辰巳屋はその箱を作った。


 お房は鈴を持ち、七年前に返事をしなかった。


 今日、返事はあった。


 だが、まだ十分ではない。


 箱の中身を知らなければ、母の結び目はほどけない。


 千鳥が涙を拭った。


「紗代」


「はい」


「次は、箱だね」


「はい」


「鈴は鳴ったから」


「はい」


「今度は、箱を壊さないで開ける番」


 その言葉に、私は静かに頷いた。


 七年遅れの鈴の返事が、まだ廊下に残っている気がした。


 ちりん。


 小夜の音。


 お房の返事。


 そして、母が仕込んだ箱へ続く音。


 大奥の奥で、ようやく一つの沈黙が割れた。

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