第36話 鳴ってはならぬ音
鈴は鳴った。
小夜の鈴が鳴り、御簾の内側の鈴が応えた。
七年前には返らなかった返事が、ようやく返ってきた。
けれど、それで何かが救われたわけではない。
小夜は戻らない。
母も戻らない。
名のない女の行方も、まだ分からない。
ただ、ひとつだけ変わった。
沈黙していたものが、音を持った。
御簾の奥は、鈴の片割れを持っていた。
お房は、その音を知っていた。
七年前、小夜が鳴らした音を聞きながら、返事をしなかった。
その事実が、千鳥の中でずっと震えているのが分かった。
御台所の部屋へ戻っても、千鳥はしばらく口を開かなかった。両手で小夜の鈴を包み、膝の上に置いている。
鳴らさない。
けれど、離さない。
御台所は、そんな千鳥を少しの間見ていた。
「千鳥」
「……はい」
「後悔していますか」
千鳥は顔を上げた。
目の縁が赤い。
「鳴らしたことですか」
「ええ」
「してません」
答えは早かった。
けれど、強がりではなかった。
「怖かったです。でも、鳴らしてよかったと思います」
「なぜ」
「返事が来たから」
千鳥は鈴を見た。
「七年遅くても、返事が来たから。小夜が鳴らした音は、本当に誰かに届いてたんだって分かったから」
「その誰かは、返事をしなかった」
「はい」
「それでも?」
「それでも」
千鳥は、声を少し震わせた。
「聞こえなかったんじゃない。聞こえてたのに、返事しなかった。それはすごく腹が立つ。でも……聞こえてたって分かっただけでも、小夜が一人で空っぽの場所に鳴らしたんじゃないって分かったから」
その言葉に、私は胸を突かれた。
小夜の鈴は、空へ消えたのではなかった。
届いていた。
届いた上で、無視された。
それは残酷だ。
けれど、完全な無音よりは、ずっと真実に近い。
御台所は静かに頷いた。
「では、次は聞かなければなりません」
「何をですか」
「なぜ、その音が鳴ってはならぬ音だったのか」
鳴ってはならぬ音。
お房はそう言った。
助けを呼ぶ音だからこそ、鳴ってはならなかった、と。
「お房様は、また話してくれるでしょうか」
私が問うと、御台所は薄く笑った。
「話すでしょう。今日、鈴に返事をした時点で、あの人も沈黙を一つ破りました」
「自分から?」
「半分は」
「残り半分は?」
「追い詰められたからです」
千鳥がぼそりと言った。
「半分って、便利ですね」
「ええ。大奥では大抵のことが半分です」
「嫌な半分です」
「その嫌な半分を見ないと、もう半分も見誤ります」
御台所は初瀬へ目を向けた。
「お房を呼びなさい。御経の後の支度が終わる頃合いでしょう」
「承知いたしました」
初瀬は音もなく下がった。
千鳥がそれを見送って、小声で言う。
「やっぱり壁から出入りしてる……」
「聞こえますよ」
襖の向こうから初瀬の声が返ってきた。
千鳥は肩を跳ねさせた。
「すみません!」
御台所が少しだけ笑った。
重い空気の中で、その小さなやり取りだけが少し息をさせてくれた。
しばらくして、お房がやって来た。
先ほどと同じ柔らかな顔。
鈴を鳴らした後とは思えないほど、身なりも表情も整っている。
けれど、よく見ると、袖口の結び目が少しだけ緩んでいた。
お袖なら気づくだろう。
私でも、今は気づける。
崩れないように見える女にも、わずかな乱れはある。
「御台様、お呼びでございますか」
「ええ。先ほどの続きを」
「お経の後は、大御台様がお休みになられます。長くは」
「長くは取りません」
御台所の声は穏やかだった。
だが、断らせない響きがある。
「お房。鳴ってはならぬ音とは、どういう意味です」
お房は一度、千鳥の手元の鈴を見た。
「そのままの意味でございます」
「助けを求める音だったからですか」
私が尋ねると、お房は私へ視線を移した。
「半分は」
千鳥が小さく「また半分」と呟いた。
お房は続ける。
「鈴は、本来、助けを呼ぶためのものではございませんでした」
「では、何のために?」
「命じるためです」
部屋が静まった。
「御簾の内側にいる者が、外で動く者へ知らせる。今、動け。今、止まれ。今、隠せ。今、燃やせ。そういう合図でございました」
小夜の鈴が、手の中で少し重くなったように見えた。
千鳥は唇を噛む。
「じゃあ、この鈴は」
「小夜が最初から持っていたものではありません」
「誰のものですか」
「御簾の内と外をつなぐために作られた対の一つでございます。本来なら、御簾の外で大御台様の意を受けて動く者が持つはずでした」
「小夜は、それをどうして」
お房は少しだけ目を伏せた。
「小夜は、見つけたのです」
「盗んだんですか」
「盗んだというより、拾った。そして、意味を知った」
「誰から?」
「おそらく、志乃様から」
母。
その名が出た瞬間、胸が強く鳴った。
「母は、鈴の仕組みを知っていたのですか」
「はい」
「なぜ」
「志乃様は、御簾の外の動きに疑いを持っておられました。誰が何を聞き、誰が何を燃やし、誰がどの女を動かすのか。あの方は、鈴そのものより、鈴に従って動く人の流れを見ておられた」
母らしいと思った。
物ではなく、人の動き。
香ではなく、香を運ぶ手。
噂ではなく、噂を流す口。
鈴ではなく、鈴を聞いて動く者。
「母は、小夜さんと一緒に、その仕組みを逆に使おうとしたのですね」
私が言うと、お房は静かに頷いた。
「本来、上から下へ命じる音を、下から上へ届かせようとした」
「助けを呼ぶ音に変えた」
「はい」
「だから、鳴ってはならなかった」
「そうでございます」
お房の声は、やはり穏やかだった。
穏やかすぎて、胸が冷える。
「大奥において、下が勝手に上へ届く音を鳴らすことは、秩序を破ることでございます」
千鳥が我慢できずに言った。
「秩序って、そんなに大事ですか」
「大事でございます」
「人が消えるより?」
「大奥では、時に」
「最低」
「そうでございますね」
「認めないでください」
「認めても、消える罪ではございません」
千鳥は言葉を失った。
お房のずるさは、お吉のような軽い逃げではない。
認める。
けれど、崩れない。
自分の罪を語りながら、それでも役目の側に立ち続ける。
それが、この人の怖さだった。
「お房様」
私は尋ねた。
「鈴は、本来どのような合図だったのですか」
「音の数です」
「数?」
「一度なら、止まれ。二度なら、隠せ。三度なら、燃やせ」
背筋が冷えた。
三度なら、燃やせ。
お柳の灰。
燃やされた母の文。
父が火鉢に入れた文。
燃やすという行為が、また鈴と繋がる。
「七年前、小夜さんは何度鳴らしましたか」
千鳥が問う。
お房は答えた。
「一度です」
「一度は、止まれ」
「はい」
「小夜は、止まれって鳴らしたんだ」
千鳥は鈴を見た。
涙が滲む。
「志乃様を外へ出すな。名のない女の駕籠も止めろ。そういう意味で、一度鳴らした」
「小夜がそこまで知っていたかは分かりません」
お房は言った。
「ですが、志乃様は知っていたでしょう」
「母が、小夜に一度だけ鳴らせと」
「おそらく」
母は、鈴の合図を知った。
そして、その合図を逆に使った。
止まれ。
母を乗せた駕籠を止めるために。
名のない女を乗せた駕籠を止めるために。
だが、返事はなかった。
「お房様は、なぜ返事をしなかったのですか」
千鳥が聞いた。
今度の声は、怒鳴り声ではなかった。
低く、まっすぐ。
「一度鳴ったなら、止まれの合図だったんでしょう。なのに、なぜ止めなかったのですか」
お房はしばらく黙った。
その沈黙は、初めて少し人間らしかった。
「止めれば、大御台様の命に逆らうことになりました」
「だから?」
「はい」
「それだけ?」
「それだけでございます」
千鳥の顔が歪んだ。
「それだけで、小夜は返事をもらえなかったんですか」
「はい」
「志乃様も、名のない女も止まらなかった」
「はい」
「お房様は、鈴を持ってたのに」
「はい」
「ずっと持ってたのに」
「はい」
お房は、静かに受け止めた。
千鳥の涙が落ちる。
「悔しい」
「そうでございましょう」
「小夜も悔しかったと思う」
「そうでございましょう」
「返事してほしかったと思う」
「そうでございましょう」
「なら、七年前にしてよ!」
千鳥の声が、ついに割れた。
小さな部屋に響いた。
初瀬が一瞬動いたが、御台所が目で制した。
お房は、千鳥を見たまま動かなかった。
「申し訳ございません」
「謝られても戻らない!」
「はい」
「またはいって言う!」
「はい」
「それも腹立つ!」
「……はい」
千鳥は泣きながら、鈴を握りしめた。
でも鳴らさなかった。
それだけで、私は彼女がどれほど耐えているか分かった。
「千鳥」
私が呼ぶと、彼女は涙を拭った。
「大丈夫じゃない」
「はい」
「でも、まだ聞く」
「はい」
「お房様」
千鳥は涙のまま、お房を見た。
「鈴が三度鳴ったら、燃やせって言いましたよね」
「はい」
「七年前、三度鳴ったことはありますか」
お房の顔から、ほんの少し色が消えた。
今までで一番はっきりした変化だった。
私は息を止めた。
「ありますね」
千鳥が言った。
お房は黙る。
御台所の目が細くなる。
「お房」
御台所の声が低く落ちた。
「答えなさい」
お房は、ゆっくり息を吐いた。
「ございました」
「いつ」
「志乃様が外へ出された後」
胸が締めつけられる。
「誰が鳴らしたのですか」
「御簾の内側から」
「大御台様が?」
「大御台様ご自身ではございません」
「では」
お房は少しだけ目を伏せた。
「梅島様です」
梅島。
またその名。
「梅島様が、御簾の内側の鈴を三度鳴らした」
「はい」
「燃やせ、という合図ですね」
「はい」
「何を燃やせと?」
お房は答えなかった。
代わりに、御台所が言った。
「志乃の文ですか」
お房は静かに頷いた。
「志乃様の文、奥医師の控え、名のない女の控え、鈴の紐に関するもの。燃やせるものは燃やすよう、命が出ました」
「その時、お柳さんが」
私は呟いた。
「腹に入れ、燃やしきれなかった」
「ええ」
お房は私を見た。
「すべては燃えませんでした。志乃様は分けていたから」
母は分けていた。
香炉へ。
お柳へ。
小夜へ。
父へ。
もしかすると、ほかにも。
燃やせという三度の鈴に備えるように。
「母は、燃やされると分かっていたのですね」
「おそらく」
「だから鈴の半分は外へ」
「はい」
「櫛の箱へ」
「はい」
お房は、少しだけ声を低くした。
「志乃様は、御簾の内側の鈴が三度鳴ることを予測しておられたのだと思います」
「母は、そこまで」
「見ておられました」
お房の目が、わずかに揺れる。
「だから、危険でした」
危険。
その言葉がまた出た。
正しいから危険。
見ていたから危険。
鈴の仕組みを知ったから危険。
母も小夜も、危険だから消された。
では、私たちはどうなる。
「お房様」
私は聞いた。
「大御台様の箱には、何が入っていますか」
部屋の空気が一気に重くなった。
御台所も黙る。
松ヶ枝がわずかに姿勢を正す。
お房は、ゆっくり私を見た。
「その問いは、早すぎます」
「では、何なら答えられますか」
「箱の役目なら」
「お願いします」
お房は御簾のある方角へ目を向けた。
「大御台様の箱は、捨てるための箱ではございません」
「御台様の箱とは違うのですか」
御台所が薄く笑う。
「私の箱は強欲の箱。何でも入れて、必要な時に出す」
「大御台様の箱は?」
お房が答えた。
「名札の箱でございます」
名札。
母に貼られた不義密通。
私に貼られた親不孝。
小夜に貼られた怪談。
名のない女に貼られた御子替え。
「人に貼る名を、そこへ入れておくのですか」
「名、疑い、印、文の切れ端、証にならぬ証。すべてでございます」
「証にならぬ証?」
「ええ。確かな罪ではなく、疑わせるためのもの」
御子なき御子替え。
偽印。
まさにそれだ。
「父の偽印も?」
私が聞くと、お房は答えなかった。
だが、沈黙は答えに近かった。
「大御台様の箱に、篠乃井家の偽印に関するものがあるのですね」
「ある、とは申しません」
「ない、とも仰らない」
「はい」
御台所が小さく笑った。
「相変わらずですね、お房」
「御台様ほどでは」
「褒め言葉ではありません」
「心得ております」
柔らかな会話なのに、刃が擦れ合っている。
お房は続けた。
「櫛の箱を作ったのは辰巳屋です。御簾の奥の箱を直したのも辰巳屋。鈴の紐を替えたのも辰巳屋。そして、名札の箱に入れるための小物を作ったのも、辰巳屋でございます」
「辰巳屋は、どちらの味方なのですか」
千鳥が聞いた。
「味方ではありません」
お房は即答した。
「商人でございます」
「商人は味方じゃない?」
「商人は、残る方につきます」
「嫌な答え」
「現実でございます」
「小夜なら怒ります」
「でしょうね」
お房は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「小夜はよく怒る子でした」
千鳥の顔が揺れた。
「お房様」
「はい」
「小夜が怒った時、どうしてました?」
「困りました」
「それだけ?」
「ええ」
「怒り返さなかったんですか」
「小夜の怒りは、まっすぐでした。まっすぐな怒りは、返す場所がありません」
その言葉は、少しだけ本音のように聞こえた。
「では、私の怒りは?」
千鳥が聞く。
お房は千鳥を見た。
「少し曲がっています」
「え」
「でも、それでよろしいかと」
「どういう意味ですか」
「まっすぐすぎる怒りは、折れやすい。少し曲がった怒りは、時に戻ってきます」
千鳥は困惑した顔で私を見た。
「褒められた?」
「たぶん」
「分かりづらい」
お房は薄く微笑んだ。
柔らかい。
でも、やはり冷たい。
御台所が話を戻した。
「お房。櫛箱の隠し底の中身を入れたのは志乃だと、先ほど言いましたね」
「はい」
「その中身を、あなたは見ましたか」
「見ておりません」
「本当に?」
「本当に」
「では、なぜ志乃が入れたと分かるのです」
「辰巳屋の者が、箱を戻す時に申しました」
「何と」
「『奥方様ご自身が、底を閉じられた』と」
母が。
自分の手で隠し底を閉じた。
そこに何を入れたのか。
赤い紐だけではないはずだ。
「辰巳屋の誰ですか」
私が問うと、お房は少し考えた。
「当時の主、宗兵衛ではありません。若い職人でした」
「名は」
「宗次郎」
今の辰巳屋の主。
当時は若い職人。
彼が母の櫛箱に関わった。
今も大奥へ出入りしている。
「宗次郎は、母に協力したのでしょうか」
「分かりません」
「大御台様側へ知らせた可能性は」
「あります」
「どちらも?」
「ええ」
商人。
残る方につく者。
母を手伝いながら、後で大御台様側へ情報を売った可能性もある。
逆に、大御台様側の依頼で箱を作りながら、母に逃げ道を残した可能性もある。
まだ分からない。
けれど宗次郎の名は、確かに浮かび上がった。
「明日、辰巳屋の香箱が納められます」
私は言った。
「宗次郎は来ますか」
お房は首を横に振った。
「主自らは来ないでしょう。番頭か手代です」
「それでも品は来る」
「はい」
「品は嘘をつきにくい」
お袖が静かに言った。
お房はお袖を見た。
「あなたは昔から、布と箱に厳しい」
「人を見るより分かりやすいので」
「それは確かに」
お房は少しだけ笑った。
御経の後の時間は、もう限られていた。
お房は立ち上がる。
「今日、申し上げられるのはここまででございます」
「また鈴を鳴らせば、来ますか」
千鳥が問う。
お房は立ち止まった。
「呼ばれれば」
「七年前は、呼ばれても来なかったのに」
「はい」
「今度は?」
お房は、ほんの少しだけ頭を下げた。
「今度は、聞こえないふりはいたしません」
千鳥はじっとお房を見た。
そして、小さく頷いた。
「信じるとは言いません」
「当然でございます」
「でも、覚えておきます」
「それで十分です」
お房は去っていった。
柔らかな衣擦れだけを残して。
部屋に残された私たちは、しばらく誰も話さなかった。
やがて千鳥が、小夜の鈴を見下ろして言った。
「一度は止まれ」
「はい」
「三度は燃やせ」
「はい」
「小夜は、一度鳴らした」
「はい」
「止まれって、ちゃんと言ったんだ」
千鳥は泣きそうな顔で笑った。
「小夜、ちゃんと戦ってた」
「はい」
「返事はなかったけど」
「でも、今はありました」
「うん」
千鳥は鈴を懐へ戻した。
「次は、箱だね」
「はい」
「辰巳屋の箱」
「はい」
「小夜の鈴が止まれなら、箱は何て言ってるんだろう」
私は少し考えた。
母の櫛の箱。
隠し底。
赤い紐。
まだ見ぬ紙。
「開けるな、ではなく」
「うん」
「壊すな、でしょうか」
千鳥は頷いた。
「じゃあ、壊さないように開けよう」
「はい」
御台所が静かに言った。
「明日、辰巳屋の香箱を見ます。そこで、箱を壊さず開ける手順を探るのです」
「はい」
「篠乃井」
「はい」
「母君は、燃やせという鈴を見越して箱へ残しました」
「はい」
「なら、箱の中身は燃やされてはならぬものです」
「名のない女の名」
「その可能性があります」
名のない女。
御子なき御子替えの中心に置かれ、名を消された女。
その名が、母の櫛箱にあるのかもしれない。
鈴は鳴った。
今度は、箱が開かれる番だ。
ただし、切らずに。
壊さずに。
母が作った逃げ道を、今度こそ辿るために。




