第34話 偽印の職人
辰巳屋。
その名を聞いた時、最初に浮かんだのは、母の櫛だった。
母が使っていた、飾り気のない櫛。
父が今も手元に置いているという櫛の箱。
その箱を七年前に修繕したかもしれない商人。
そして、大御台様御用の名でも出入りしている商人。
大奥の内と外を、品物と一緒に行き来する者。
人は門を越えられなくても、物は越える。
櫛も、簪も、香箱も、文箱も。
そして、偽印も。
松ヶ枝の部屋へ行くと、すでに古い出入り控えが広げられていた。
紙は黄ばんでいる。端は少し傷み、墨も薄れていた。けれど、そこに記された名は確かに読めた。
辰巳屋。
細工物御用。
櫛箱修繕。
香箱納入。
大御台様御用。
その文字を見た瞬間、胸が静かに沈んだ。
「本当に、ありましたね」
私が言うと、松ヶ枝は頷いた。
「ええ。七年前、篠乃井家の櫛箱修繕に関わっています」
「父が依頼したのでしょうか」
「記録上は、篠乃井家より依頼、とあります。ですが、誰が持ち込んだかまでは記されていません」
「つまり、父とは限らない」
「はい」
千鳥が横から覗き込む。
「でも、篠乃井家の箱を辰巳屋が直したのは本当なんですよね」
「そのようです」
「その辰巳屋が、大御台様御用でも出入りしてた」
「はい」
「怪しすぎる」
千鳥は腕を組んだ。
「もう少し隠す気ないんですかね」
松ヶ枝が眉をひそめる。
「大奥の悪事は、露骨だからこそ見逃されることがあります」
「どういうことですか」
「誰も、まさかそこまで堂々と繋げるとは思わないからです」
「嫌な賢さ」
「ええ」
お袖は黙って控えを見ていた。
彼女の視線は、辰巳屋の名ではなく、その横に書かれた品名を追っている。
「櫛箱修繕。香箱納入。印箱調整……」
「印箱?」
私が反応すると、お袖はその行を指で示した。
「ここです」
確かに、細い字でそうある。
印箱調整。
小さな印や印泥を収める箱を整える仕事だろう。
「辰巳屋は印判も扱うのですか」
私が問うと、松ヶ枝は首を横に振った。
「表向きは、印判そのものは扱いません。印判師は別にいます」
「では、なぜ印箱を」
「武家屋敷や奥向きでは、紋入りの文箱、印箱、香箱を揃えることがあります。辰巳屋はその外箱を作る」
お袖が静かに補った。
「ただし、箱を作る者は、印の大きさや形を知ることができます」
その言葉で、部屋が少し冷えた。
箱を作る者は、印の大きさを知る。
紋入り小物を作る者は、家紋の形を知る。
修繕する者は、元の形と癖を見る。
辰巳屋なら、篠乃井家の印に似せた偽印を作るための形を知ることができる。
「でも、印判師じゃないなら、辰巳屋が直接偽印を作ったとは限らないですよね」
千鳥が言った。
「はい」
お袖は頷く。
「辰巳屋が形を渡し、別の職人に彫らせた可能性があります」
「誰に?」
「印判師、根付師、細工師。小さなものを彫る者なら、不完全な偽印くらい作れます」
「不完全な偽印……」
私は父の文の裏に移っていた印を思い出した。
本物に似ている。
けれど、少し違う。
本物とも言い切れず、偽物とも逃げられる印。
疑いを貼るための印。
御子替えと同じだ。
真実でなくてもいい。
そうかもしれない、と思わせれば足りる。
「辰巳屋は、大御台様側なのでしょうか」
私が問うと、松ヶ枝は慎重に答えた。
「それも、まだ決めつけるべきではありません」
「出入りしています」
「大奥に出入りする商人は、多くの方に品を納めます。御台様にも、大御台様にも、側室方にも、外の武家屋敷にも。商人は、命じられた品を運ぶだけと言い逃れできます」
「便利な立場ですね」
「はい。だから危険です」
千鳥が唇を尖らせた。
「みんな便利な言い逃ればっかり」
「大奥は、言い逃れでできています」
松ヶ枝の言葉は苦かった。
「確かな罪より、確かではない疑いの方が長く残るのです」
お袖が、控えの別の頁をめくった。
「辰巳屋は、七年前の少し前から出入りが増えています」
「いつ頃からですか」
「桔梗の夜の二月ほど前」
「二月前」
「はい。香箱、文箱、櫛箱、印箱。箱ばかりです」
「箱ばかり……」
千鳥が嫌そうな顔をした。
「もう箱って聞くだけで嫌になってきた」
「同感です」
御台所の強欲の箱。
父の櫛箱。
大御台様の箱。
辰巳屋の細工箱。
箱は、何かを守る。
けれど、守るものが真実なのか、罪なのか、弱みなのかは開けるまで分からない。
「この辰巳屋の主は、どのような者ですか」
私が問うと、松ヶ枝は別の控えを取り出した。
「当時の主は、辰巳屋宗兵衛。今は息子の宗次郎が継いでいるようです」
「今も大奥へ?」
「はい」
「大御台様御用として?」
松ヶ枝は一瞬だけ黙った。
「ええ。現在も」
千鳥が小さく息を呑む。
「じゃあ、今も繋がってる」
「少なくとも、出入りはあります」
その時、御台所の部屋へ向かったはずの初瀬が戻ってきた。
彼女は襖の前で一礼し、いつもの平らな声で告げた。
「御台様より、辰巳屋の件、すぐに報告せよとのことです」
「もう耳に?」
千鳥が驚く。
初瀬は表情を変えない。
「辰巳屋の名が出れば、当然でございます」
「当然なんだ……」
松ヶ枝が控えを閉じた。
「行きましょう」
御台所の部屋では、黒塗りの箱が開かれていた。
その中にあるのは、紙片、古い文、焼け残りだけではなかった。
小さな香箱。
赤い紐の切れ端。
そして、箱の底に押された薄い印。
「辰巳屋ですか」
御台所は、こちらが口を開く前に言った。
「はい」
松ヶ枝が控えを差し出す。
御台所は目を通し、少しだけ口元を歪めた。
「やはり、箱ばかりですね」
「御台様は、辰巳屋をご存じだったのですか」
「大奥にいる者で、辰巳屋を知らぬ方が不自然です。簪、櫛、香箱、文箱。表向きは品のよい商人です」
「裏では?」
「奥の形を外へ運び、外の形を奥へ持ち込む商人です」
「偽印も?」
「可能性は高い」
御台所は黒塗りの箱から、小さな香箱を取り出した。
「これも辰巳屋のものです」
「香箱……」
「七年前、志乃の香炉とは別に、桔梗香を入れる箱として納められました」
「母の件と関係が?」
「当時は分かりませんでした。けれど今見れば、辰巳屋は香、箱、紐、印、そのすべてに触れています」
千鳥が、うんざりしたように言った。
「もう、犯人ですって顔してるようなものじゃないですか」
「商人は犯人にはなりません」
御台所は言った。
「命じられたものを作っただけ。納めただけ。運んだだけ。そう言います」
「ずるい」
「ええ」
「みんなずるい」
「ええ」
御台所が素直に頷いたので、千鳥は少し言葉に詰まった。
「御台様も、ずるいですよね」
「もちろん」
「そこも認めるんですね」
「認めない方が、さらにずるいでしょう」
「……それもずるい」
御台所は少しだけ笑った。
けれどすぐ、視線を私へ戻した。
「篠乃井。辰巳屋は、そなたの父君を縛る鍵です」
「父を?」
「父君の櫛箱を修繕した。篠乃井家の紋を知る。偽印を作るための形を得られる。大御台様御用として外へも出られる。これだけ揃えば、父君を黙らせるには十分です」
「父は、辰巳屋に脅されていたのでしょうか」
「辰巳屋自身というより、辰巳屋を使う者に」
「大御台様」
「あるいは、その周辺」
「お房様」
「可能性はあります」
私は、御簾の奥の鈴を思い出した。
お房。
御簾の内側の手。
鈴の片割れを持っているかもしれない女。
辰巳屋が作った箱や紐や印は、彼女の手を通って大御台様の周囲へ入ったのかもしれない。
「辰巳屋に直接会うことはできますか」
私が言うと、松ヶ枝が即座に顔をしかめた。
「無茶です」
「やはり」
「やはり、ではありません。御末が御用商人に会えるはずがないでしょう」
「では、品を見ることは?」
お袖が口を開いた。
「品なら、見られるかもしれません」
「どういうことですか」
「辰巳屋は近く、御台様へ新しい香箱を納める予定があります」
御台所が少し目を細めた。
「知っています。明後日ですね」
「その品を検分する名目なら、私が立ち会えます」
「お袖様が?」
「はい。香箱の紐と内張りを見る必要がありますから」
私はお袖を見た。
「そこへ、私たちも?」
「普通なら無理です」
「普通なら」
「御台様が命じれば、あり得ます」
視線が御台所へ集まる。
御台所はしばらく黙っていた。
それから、静かに笑った。
「よいでしょう。香箱の検分に、篠乃井と千鳥を付けます」
「御台様」
松ヶ枝が低く言う。
「危険です」
「危険でない道があるなら、ぜひ教えてほしいものです」
「……ございません」
「でしょう」
御台所は私を見る。
「ただし、辰巳屋に会うのではありません。まずは品を見る。品は嘘をつきにくい」
「人は嘘をつく」
「ええ。糸と木目と印は、人より正直です」
お袖が小さく頷いた。
「品を見れば、同じ職人の手か分かることがあります」
「櫛箱と同じか」
「はい」
「偽印も?」
「印そのものは無理でも、印を収める箱や印面を保護する布の癖は見られるかもしれません」
千鳥が首を傾げた。
「お袖様、すごいですね。ほとんど探偵みたい」
「探偵とは?」
「えっと……探す人です」
「それなら、篠乃井さんの方が近いでしょう」
「紗代は、突っ込んでいく人です」
「千鳥」
「本当でしょ」
「否定はできません」
御台所が少し笑った。
「よい組み合わせです。突っ込む者と、鈴を持って止める者」
「止めるの、私の役なんですか」
千鳥が驚く。
「ええ」
「私、止めるの苦手です」
「鳴らすのも苦手になりなさい」
「難しいことばっかり」
「大奥ですから」
その言葉に、千鳥は諦めたように頷いた。
御台所は辰巳屋の控えを見ながら言った。
「もう一つ、気になることがあります」
「何でしょう」
「辰巳屋は、七年前に篠乃井家の櫛箱を修繕した。その後、大御台様御用として印箱を納めている」
「はい」
「順番が逆なら、まだ分かります。大御台様側が篠乃井家の紋を必要として、辰巳屋に櫛箱を修繕させた。しかし記録では、篠乃井家の櫛箱修繕が先です」
「つまり」
「辰巳屋は、最初から篠乃井家の箱に何かを仕込むために呼ばれた可能性がある」
胸が冷えた。
「母が仕込んだのではなく?」
「志乃が仕込んだ部分もあるでしょう。赤い紐、文、結び目。けれど、箱そのものの仕掛けは辰巳屋が作った」
「辰巳屋は誰のために?」
「そこが問題です」
御台所は指先で箱の縁を叩いた。
「志乃のためか。父君のためか。大御台様のためか。あるいは、全部か」
全部。
商人は誰にでも品を納める。
つまり、誰にでも仕える。
同じ箱が、母の盾にも、大御台様の刃にもなる。
「辰巳屋は二重に動いていた可能性がありますか」
「あります」
「母に協力しながら、大御台様側にも情報を流していた」
「あるいは逆です。大御台様側の依頼で動きながら、志乃に何かを逃がした」
分からない。
だが、一つだけ確かだ。
辰巳屋は知っている。
櫛箱の仕掛けを。
偽印の形を。
赤い糸の意味を。
もしかすると、名のない女の名まで。
「辰巳屋の品を見ます」
私は言った。
「見て、何を探すのです」
御台所が問う。
「同じ手です」
「手?」
「母の結び目を、お袖様は見抜きました。なら、箱にも作った者の癖があるはずです。偽印にも。香箱にも。辰巳屋の手が見えれば、父の櫛箱に触れた手も見える」
お袖が静かに頷いた。
「よい見方です」
千鳥が少し得意そうに言った。
「紗代、突っ込むだけじゃなくなってきた」
「少し成長しました」
「自分で言う」
御台所は控えを閉じた。
「では、明後日の香箱検分へ向けて準備します」
「明日ではないのですか」
「明日は、お房です」
千鳥の手が懐へ行く。
小夜の鈴。
お房を動かすために鳴らすかどうか。
その日が、明日だった。
「忘れていたわけではありません」
千鳥は小さく言った。
「ただ、辰巳屋で頭がいっぱいになって」
「大奥では、問題が一つずつ順番に来てくれることはありません」
御台所は淡々と言った。
「鈴、箱、印、商人。すべて同時に絡まります」
「絡まりすぎです」
「だから、櫛が必要なのです」
母の櫛。
櫛の箱。
絡まりをほどくもの。
私は父の文を胸にしまった。
櫛の箱は開けるな。
今なら、少し分かる。
父は隠したいのではない。
壊したくないのだ。
母が残したものを。
自分が七年守ってきたものを。
そして、その箱を作った辰巳屋の名が、今ようやく目の前に出た。
部屋を下がる時、御台所が最後に言った。
「篠乃井」
「はい」
「偽印の職人を追えば、父君の罪も、母君の策も、同時に見えてきます」
「はい」
「見たいものだけを見るな」
「承知しております」
「信じたいものも、疑いたいものも、どちらも持ちなさい」
松ヶ枝と同じことを言う。
でも、御台所が言うと少し違って聞こえる。
箱の中に信頼も疑いも詰めている人の言葉だ。
「千鳥」
「はい」
「明日、鈴を鳴らすかどうか、今夜よく考えなさい」
「はい」
「小夜のためだけではなく、自分のためにも」
千鳥は少し驚いた顔をした。
「私のため?」
「ええ。小夜の鈴を持つということは、小夜の代わりになることではありません」
千鳥の顔が揺れた。
「小夜は小夜。そなたは千鳥です」
御台所の声は、意外なほど柔らかかった。
千鳥はしばらく黙っていた。
そして、小さく頭を下げた。
「……はい」
部屋を出ると、千鳥は鈴を握ったまま言った。
「御台様、たまに嫌なほど正しい」
「はい」
「小夜の代わりになろうとしてたのかな、私」
「少し」
「うん。自分でも、ちょっと思った」
「千鳥は千鳥です」
「それ、御台様の真似?」
「いえ、私の言葉です」
千鳥は目を丸くして、それから少し笑った。
「じゃあ、信じる」
廊下の向こうには、明日の御簾が待っている。
お房。
御簾の内側の鈴。
そしてその先には、辰巳屋の香箱。
鈴と箱。
音と印。
大奥の内と外を結ぶ二つの道が、同時にほどけ始めている。
だが、ほどけた先に何があるのかは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ分かるのは、偽印を作った手が、母の櫛箱にも触れているかもしれないということ。
その手を見つけるまで、私は父を罪人にも、無実にも決めない。
信じたい気持ちと、疑わねばならない目。
どちらも持ったまま、歩く。
それが今、母の結び目をほどく唯一の方法なのだから。




