表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

33/50

第33話 櫛の箱は開けるな

 父の文は、短かった。


 短いからこそ、何度読んでも逃げ場がなかった。


 ――櫛の箱は開けるな。

 ――鈴の紐は、まだ燃えていない。


 その二行は、夜が明けても私の胸に残っていた。


 開けるな。


 父は、なぜそう書いたのか。


 箱を開ければ、中の証が見つかるからか。

 箱を開ければ、父自身の罪が露わになるからか。

 それとも、箱を開けることで、守ってきた何かが壊れてしまうからか。


 母の櫛の箱。


 幼い頃、父が大切にしまっていた箱を見たことがある。


 黒檀ではない。

 もっと柔らかい色の、古い桑の箱だった。


 母の櫛は、飾り気のないものだった。華やかな蒔絵も、金の細工もない。ただ、手に馴染むように磨かれた櫛。母は髪を結う時、その櫛を使っていた。


 私の髪を梳く時も。


 ――痛くないですか、紗代。


 母の声が蘇る。


 痛くないと言うと、母はいつも少し笑った。


 ――絡まったところは、無理に引いてはいけません。切れば早いけれど、切る前にほどけるか見なければ。


 その言葉は、母のものだった。


 父も聞いていたはずだ。


 そして今、父は書いてきた。


 櫛の箱は開けるな、と。


「紗代」


 千鳥の声で、私は顔を上げた。


 御末の間の隅。朝の雑務が始まる前の、わずかな静けさの中だった。


 千鳥は膝を抱え、私の顔をじっと見ている。


「また、読んでる」


「はい」


「もう紙が覚えちゃうよ」


「紙が覚えるなら、心強いです」


「そういう真面目な返し、今は困る」


 千鳥は少し困ったように笑った。


 その懐には、小夜の鈴がある。


 私の手元には、父の文がある。


 小さな鈴と、小さな紙。


 大奥を揺らすには、あまりに頼りないものばかりだ。


「ねえ、紗代」


「はい」


「父上は、箱を開けてほしくないんだよね」


「そう書いてあります」


「でも、鈴の紐は燃えてないって教えてくれた」


「はい」


「変じゃない?」


「変です」


「隠したいなら、紐のことまで書かないよね」


「はい」


 千鳥は膝に顎を乗せた。


「だったら、開けるなっていうのは、見せたくないんじゃなくて……開け方を間違えるなってこと?」


 私は千鳥を見た。


 彼女自身も、言ってから少し驚いた顔をしている。


「千鳥」


「何」


「今の、とても大事な考えだと思います」


「本当?」


「はい」


「小夜っぽい?」


「かなり」


 千鳥は一瞬、嬉しそうな顔をした。


 すぐに照れ隠しのように口を尖らせる。


「小夜なら、もっと偉そうに言うよ。『千鳥、やっと少し頭が働いたね』って」


「それは厳しい」


「でも卵焼きはくれる」


「そこは優しいのですね」


「うん」


 千鳥は懐の鈴へ手を当てた。


「箱も、鈴と同じかもしれない」


「同じ?」


「鳴らすだけじゃ駄目。誰を呼ぶか決めて鳴らさないと危ない。箱も、開けるだけじゃ駄目。何を壊さないように開けるか分かってないと危ない」


 父の「開けるな」は、拒絶ではなく、警告。


 あるいは手順を知らない者が開ければ、中身が失われる仕掛けなのかもしれない。


 母の櫛の箱。


 母なら、ただ隠すだけでは終わらない。


 結び目に逃げ道を作ったように、箱にも何かを仕込んでいる可能性がある。


「御台様に相談します」


 私が言うと、千鳥は頷いた。


「うん。でも、全部見せる?」


「父の文は見せます」


「裏も?」


「裏?」


「紙の裏」


 私は文を裏返した。


 昨夜は表の文字ばかり見ていた。


 裏は何もないと思っていた。


 けれど、灯火ではなく朝の薄明かりにかざした時、紙の端にごく薄い影が見えた。


「……印」


 私は息を呑んだ。


 千鳥が身を乗り出す。


「何かあるの?」


「薄く、押されています」


 文の裏、右下の端。


 まるで紙を重ねた時に移ったような、薄い印。


 完全には見えない。


 だが、形には覚えがあった。


 円の中に、細い線が三つ。


 駕籠記録の端にあった、篠乃井家の家紋に似た偽印。


 それと、よく似ている。


「千鳥」


「うん」


「御台様のところへ行きます」


「今すぐ?」


「はい」


「水桶は?」


「あとで叱られます」


「私も一緒に叱られる」


「申し訳ありません」


「半分だから」


 千鳥は立ち上がった。


 懐の鈴を押さえ、父の文を見つめる。


「また名札かな」


「おそらく」


「でも、今度はこっちも見つけた」


「はい」


「貼られる前に、貼った手を見るんだよね」


「はい」


 私たちは御台所の部屋へ向かった。


 途中、何人もの女中がこちらを見た。


 噂はまだ消えていない。


 奥を乱す娘。


 親不孝な娘。


 父の罪を隠す娘。


 それらの札が、見えない紙のように私の背に貼られている。


 しかし、昨日ほど痛くはなかった。


 痛みが消えたのではない。


 貼られていることを知っているから、少しだけ歩ける。


 御台所は、桔梗香炉のそばに座っていた。


 黒塗りの箱は今日はない。


 代わりに、細い文箱が開かれている。


 私たちを見ると、御台所はすぐに言った。


「父君の文ですね」


「はい」


「昨夜のものを、また読み返して何か見つけましたか」


 この人は、本当にこちらの動きを読むのが早い。


 私は文を差し出した。


「裏に印がございます」


 御台所の目が少し変わった。


 受け取ると、光にかざす。


 しばらく黙って見ていた。


「……駕籠記録の偽印と同じですね」


 千鳥が息を呑む。


「やっぱり」


「ただし、こちらは押印ではありません。移りです」


「移り?」


 私が聞くと、御台所は文の裏を指でなぞった。


「別の紙に押された印が、重ねられたことで薄く移ったのでしょう」


「父の文が、その紙と重ねられていた?」


「ええ」


「誰が」


「文の取次に関わった者でしょうね」


 御台所は父の文を畳み、机に置いた。


「父君がこの印を押したわけではなさそうです」


 胸の奥が少しだけ緩む。


 だが御台所は続けた。


「ただし、父君の文がこの偽印に触れたということは、父君の周囲、あるいは文の道筋に偽印を持つ者がいる」


「父を見張っている者」


「可能性は高い」


「大御台様御用の者ですか」


「あるいは、それを名乗る者」


 千鳥が眉を寄せた。


「それ、ずっとややこしいです」


「大奥の厄介事は、だいたいややこしいものです」


「御台様、たまに当たり前のことを怖く言いますね」


「よく言われます」


 御台所は軽く受け流し、父の文へ視線を戻した。


「問題は、櫛の箱です」


「はい」


「父君は『開けるな』と書いた。単に見られたくないなら、箱のことなど書かない。赤い紐が燃えていないと知らせる必要もない」


「では、千鳥の言う通り、開け方の問題でしょうか」


「千鳥が?」


 御台所が千鳥を見る。


 千鳥は少し身構えた。


「はい。箱も鈴みたいに、使い方を間違えると危ないのかなって」


「よい考えです」


 御台所が素直に言うと、千鳥は逆に警戒した顔になった。


「本当に褒めてます?」


「ええ」


「御台様に褒められると、罠かと思う」


「用心深くなりましたね」


「はい。大奥なので」


 御台所は少し笑った。


 そして、私へ言う。


「父君は、箱を守っているだけではないのでしょう」


「では」


「箱が開けられた事実を恐れている」


「開けられた事実?」


「ええ。もし箱に仕掛けがあるなら、開けた瞬間に中身が壊れる。あるいは、開けたことが分かる痕跡が残る。誰が開けたかを責めるための罠かもしれない」


「箱を開けただけで父が危険になる」


「そうです」


 千鳥がぽつりと言った。


「箱って、守るためのものなのに、開けたら人を殺すんですね」


 その言葉に、部屋が静かになった。


 御台所が千鳥を見た。


「ええ。箱は守ります。中身を。秘密を。罪を。けれど、守るものを間違えれば、人を殺します」


「御台様の箱も?」


 千鳥が言った瞬間、初瀬がわずかに動いた。


 私は千鳥を見た。


 言った本人も、しまったという顔をしている。


 だが御台所は怒らなかった。


 むしろ、静かに微笑んだ。


「もちろん」


 認めた。


 あっさりと。


「私の箱も、人を殺せます。守ることもできます。だから、開ける者を選ぶのです」


「父の櫛箱も」


「ええ。志乃が仕込んだものなら、なおさら」


 御台所は父の文をもう一度見た。


「辰巳屋を調べる必要があります」


「辰巳屋?」


「櫛、簪、香箱、文箱などを扱う道具商です。大奥にも出入りしている」


「櫛箱を作った者ですか」


「おそらく」


 新しい名。


 辰巳屋。


 母の櫛箱。


 偽印。


 大御台様御用。


 また線が増えた。


「辰巳屋は、篠乃井家にも?」


「七年前、篠乃井家の櫛箱修繕を請け負った記録があるかもしれません」


「それを調べれば」


「箱の仕組み、偽印、父君を黙らせた者の道筋が見えるかもしれない」


 御台所は初瀬を見る。


「松ヶ枝を呼びなさい。それから、お袖も」


「お袖様も?」


 千鳥が聞く。


「櫛箱の仕組みを見るには、糸と箱の扱いに詳しい者が必要です」


「お袖様、便利ですね」


「便利と言うと怒るでしょう」


「怒る顔、あまり想像できません」


「静かに怒る方です」


「それは怖い」


 千鳥が小さく肩をすくめた。


 しばらくして、松ヶ枝とお袖が来た。


 松ヶ枝は父の文の裏の偽印を見るなり、顔を険しくした。


「これは、駕籠記録の印と同じ」


「やはり」


「ただ、薄い。移りですね」


「御台様もそう仰いました」


 松ヶ枝は文を慎重に扱った。


「父君の文が、この印のある紙と一緒に扱われた。つまり、外から大奥へ届く途中で、何者かが確認した可能性があります」


「父の文は読まれている?」


「そう考えるべきです」


「では、私が父へ書いた二通目も」


「読まれるでしょう」


 分かっていた。


 それでも胸が冷える。


 父と娘の文さえ、誰かの手で開かれる。


 大奥は、外へ出てもまだ大奥だ。


 お袖は文の裏を見つめ、次に小さく言った。


「この印、道具商の仕事ではありません」


「どういうことですか」


「印そのものは似せていますが、線が甘い。職人が本気で作ったものなら、もっと本物に近づけられます」


「では、素人が?」


「いいえ。職人に、わざと少し似せて作らせたように見えます」


 千鳥が首を傾げる。


「わざと似てないように?」


「はい」


「何のために?」


 お袖は父の文を見ながら答えた。


「本物だと言い切らず、偽物だとも逃げられるように」


 部屋が静まった。


 御台所が頷く。


「名札としては十分ですね」


「はい」


「篠乃井家が関わったかもしれない、と疑わせるには十分。でも、追及されれば『似ているだけ』と逃げられる」


「卑怯です」


 千鳥が低く言った。


 松ヶ枝が静かに答える。


「卑怯な札ほど、よく効きます」


 私は文を見つめた。


 父を完全に罪人にするのではない。


 疑いを残す。


 その疑いだけで、父は動けなくなる。


 私も苦しむ。


 御子なき御子替えと同じだ。


 真実を作る必要はない。


 かもしれない、で人は縛れる。


「同じ手ですね」


 私が言うと、御台所が私を見る。


「何がです」


「御子替えと同じです。御子がいたかもしれない。篠乃井家が関わったかもしれない。父が裏切ったかもしれない。確定させず、疑いだけを残す」


「よく気づきました」


「嬉しくありません」


「でしょうね」


 御台所は、少しだけ口元を緩めた。


「大御台様の周囲は、真実より疑いを使うのが上手い。疑いは、証明しなくてよいからです」


「証明しなくてよいものほど、剥がしにくい」


「ええ」


 私は拳を握った。


 母の不義も、父の関与も、御子替えも。


 全部、かもしれないで貼られた札だ。


 だからこそ、紙を追う。


 結び目をほどく。


 箱を壊さず、開け方を探す。


「お袖様」


「はい」


「櫛箱に、開けると壊れる仕掛けは作れますか」


「作れます」


 お袖は即答した。


「薄紙を底板に挟み、箱を普通に開けると破れるようにする。あるいは、糸を結んでおき、開けた瞬間に切れるようにする。箱を開けた者には分からなくても、作った者には分かる仕掛けです」


「父が開けるなと書いた理由は」


「中身を壊さないためか、開けた痕跡を残さないためでしょう」


「父は、守っている」


 思わずそう言った。


 お袖は私を見た。


「その可能性はあります」


 可能性。


 またその言葉。


 でも、今度の可能性は少し温かかった。


「辰巳屋なら、その仕掛けを作れますか」


「はい。辰巳屋は細工箱が得意です。櫛箱、香箱、文箱。表は美しく、内側に仕掛けを隠す」


「大奥にも出入りしている」


「ええ」


 松ヶ枝が口を開いた。


「辰巳屋の出入り控えを探します」


「どこに」


「御用商人の控えは、表使の手元にあります。ただ、古いものは納戸に下がっている可能性も」


「すぐ調べられますか」


「簡単ではありません」


「でも、調べますね」


 松ヶ枝は私を見て、わずかに眉を寄せた。


「そなたは、最近私の返事を先に決めますね」


「松ヶ枝様は動いてくださいますので」


「持ち上げても無駄です」


「持ち上げていません。信頼しています」


 松ヶ枝は、一瞬だけ言葉に詰まった。


 千鳥が横でにやりとする。


「松ヶ枝様、今ちょっと嬉しそう」


「千鳥」


「すみません」


 松ヶ枝は咳払いをした。


「とにかく、辰巳屋を調べます」


 御台所は静かに頷いた。


「急ぎなさい。ただし、大御台様側に気づかれないように」


「それが一番難しいですね」


「ええ。難しいから、あなたに頼んでいます」


 松ヶ枝は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 その後、御台所は父の文を私へ返した。


「これは、そなたが持ちなさい」


「よろしいのですか」


「父君の文です。ただし、肌身離さず」


「はい」


「千鳥」


「はい」


「鈴は?」


「鳴らしていません」


「よろしい」


 千鳥は少し得意そうな顔をした。


「でも、鳴らす時は二人で決めます」


「それも、よろしい」


 御台所は、父の文と小夜の鈴を交互に見た。


「箱と鈴。どちらも、開ける時と鳴らす時を誤れば人を殺します」


「はい」


「けれど、正しく扱えば、死んだ名を戻す鍵になる」


 死んだ名を戻す鍵。


 その言葉が胸に残った。


 母の名。


 小夜の名。


 名のない女の名。


 そして、父の名。


 どれもまだ、完全には戻っていない。


 部屋を下がると、千鳥が隣で小さく言った。


「箱って怖いね」


「はい」


「でも、少しだけ父上のこと信じられる?」


「はい」


「よかった」


「千鳥が考えてくれたおかげです」


「え」


「箱も鈴のように、使い方を間違えると危ないと」


「私、そんなすごいこと言った?」


「言いました」


「……小夜、今の聞いてたかな」


 千鳥は懐の鈴を押さえた。


「聞いていたと思います」


「褒めるかな」


「千鳥にしては上出来、と」


「またそれ」


 千鳥は笑った。


 その笑いは、少しだけ軽かった。


 だが、廊下の向こうに初瀬が現れた瞬間、私たちは同時に足を止めた。


「篠乃井」


「はい」


「松ヶ枝様より、早馬のような知らせです」


「もうですか」


「辰巳屋の名が、出入り控えにございました」


 早い。


 松ヶ枝は本当に動いていた。


「七年前ですか」


「はい」


 初瀬の表情は変わらない。


 だが、声が少し低い。


「辰巳屋は、七年前、篠乃井家の櫛箱修繕を請け負っています」


 胸が鳴った。


「それだけではありません」


「まだ?」


「同じ年、大御台様御用の名でも出入りしています」


 千鳥が小さく呻いた。


「繋がった」


「はい」


 父の櫛箱。


 偽印。


 辰巳屋。


 大御台様御用。


 線がまた一本、確かに繋がった。


 初瀬は続けた。


「松ヶ枝様が、すぐにお越しをと」


 私は父の文を懐にしまった。


 櫛の箱は開けるな。


 父の警告の意味が、少しずつ見えてきている。


 開けてはならないのではない。


 壊してはならない。


 誰が仕掛け、誰が開けようとしているのかを知らないまま触れてはならない。


 母の結び目を切ってはならないように。


 櫛の箱も、切るのではなくほどかなければならない。


 そしてその箱を作った手は、辰巳屋にある。


 私は千鳥と目を合わせた。


「行きましょう」


「うん」


 千鳥は懐の鈴を押さえ、頷いた。


「半分ずつ」


「はい」


 箱の中身は、まだ見えない。


 けれど、箱を作った者の名は見えた。


 大奥の内と外をつなぐ商人。


 辰巳屋。


 次は、その名をほどく番だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ