第33話 櫛の箱は開けるな
父の文は、短かった。
短いからこそ、何度読んでも逃げ場がなかった。
――櫛の箱は開けるな。
――鈴の紐は、まだ燃えていない。
その二行は、夜が明けても私の胸に残っていた。
開けるな。
父は、なぜそう書いたのか。
箱を開ければ、中の証が見つかるからか。
箱を開ければ、父自身の罪が露わになるからか。
それとも、箱を開けることで、守ってきた何かが壊れてしまうからか。
母の櫛の箱。
幼い頃、父が大切にしまっていた箱を見たことがある。
黒檀ではない。
もっと柔らかい色の、古い桑の箱だった。
母の櫛は、飾り気のないものだった。華やかな蒔絵も、金の細工もない。ただ、手に馴染むように磨かれた櫛。母は髪を結う時、その櫛を使っていた。
私の髪を梳く時も。
――痛くないですか、紗代。
母の声が蘇る。
痛くないと言うと、母はいつも少し笑った。
――絡まったところは、無理に引いてはいけません。切れば早いけれど、切る前にほどけるか見なければ。
その言葉は、母のものだった。
父も聞いていたはずだ。
そして今、父は書いてきた。
櫛の箱は開けるな、と。
「紗代」
千鳥の声で、私は顔を上げた。
御末の間の隅。朝の雑務が始まる前の、わずかな静けさの中だった。
千鳥は膝を抱え、私の顔をじっと見ている。
「また、読んでる」
「はい」
「もう紙が覚えちゃうよ」
「紙が覚えるなら、心強いです」
「そういう真面目な返し、今は困る」
千鳥は少し困ったように笑った。
その懐には、小夜の鈴がある。
私の手元には、父の文がある。
小さな鈴と、小さな紙。
大奥を揺らすには、あまりに頼りないものばかりだ。
「ねえ、紗代」
「はい」
「父上は、箱を開けてほしくないんだよね」
「そう書いてあります」
「でも、鈴の紐は燃えてないって教えてくれた」
「はい」
「変じゃない?」
「変です」
「隠したいなら、紐のことまで書かないよね」
「はい」
千鳥は膝に顎を乗せた。
「だったら、開けるなっていうのは、見せたくないんじゃなくて……開け方を間違えるなってこと?」
私は千鳥を見た。
彼女自身も、言ってから少し驚いた顔をしている。
「千鳥」
「何」
「今の、とても大事な考えだと思います」
「本当?」
「はい」
「小夜っぽい?」
「かなり」
千鳥は一瞬、嬉しそうな顔をした。
すぐに照れ隠しのように口を尖らせる。
「小夜なら、もっと偉そうに言うよ。『千鳥、やっと少し頭が働いたね』って」
「それは厳しい」
「でも卵焼きはくれる」
「そこは優しいのですね」
「うん」
千鳥は懐の鈴へ手を当てた。
「箱も、鈴と同じかもしれない」
「同じ?」
「鳴らすだけじゃ駄目。誰を呼ぶか決めて鳴らさないと危ない。箱も、開けるだけじゃ駄目。何を壊さないように開けるか分かってないと危ない」
父の「開けるな」は、拒絶ではなく、警告。
あるいは手順を知らない者が開ければ、中身が失われる仕掛けなのかもしれない。
母の櫛の箱。
母なら、ただ隠すだけでは終わらない。
結び目に逃げ道を作ったように、箱にも何かを仕込んでいる可能性がある。
「御台様に相談します」
私が言うと、千鳥は頷いた。
「うん。でも、全部見せる?」
「父の文は見せます」
「裏も?」
「裏?」
「紙の裏」
私は文を裏返した。
昨夜は表の文字ばかり見ていた。
裏は何もないと思っていた。
けれど、灯火ではなく朝の薄明かりにかざした時、紙の端にごく薄い影が見えた。
「……印」
私は息を呑んだ。
千鳥が身を乗り出す。
「何かあるの?」
「薄く、押されています」
文の裏、右下の端。
まるで紙を重ねた時に移ったような、薄い印。
完全には見えない。
だが、形には覚えがあった。
円の中に、細い線が三つ。
駕籠記録の端にあった、篠乃井家の家紋に似た偽印。
それと、よく似ている。
「千鳥」
「うん」
「御台様のところへ行きます」
「今すぐ?」
「はい」
「水桶は?」
「あとで叱られます」
「私も一緒に叱られる」
「申し訳ありません」
「半分だから」
千鳥は立ち上がった。
懐の鈴を押さえ、父の文を見つめる。
「また名札かな」
「おそらく」
「でも、今度はこっちも見つけた」
「はい」
「貼られる前に、貼った手を見るんだよね」
「はい」
私たちは御台所の部屋へ向かった。
途中、何人もの女中がこちらを見た。
噂はまだ消えていない。
奥を乱す娘。
親不孝な娘。
父の罪を隠す娘。
それらの札が、見えない紙のように私の背に貼られている。
しかし、昨日ほど痛くはなかった。
痛みが消えたのではない。
貼られていることを知っているから、少しだけ歩ける。
御台所は、桔梗香炉のそばに座っていた。
黒塗りの箱は今日はない。
代わりに、細い文箱が開かれている。
私たちを見ると、御台所はすぐに言った。
「父君の文ですね」
「はい」
「昨夜のものを、また読み返して何か見つけましたか」
この人は、本当にこちらの動きを読むのが早い。
私は文を差し出した。
「裏に印がございます」
御台所の目が少し変わった。
受け取ると、光にかざす。
しばらく黙って見ていた。
「……駕籠記録の偽印と同じですね」
千鳥が息を呑む。
「やっぱり」
「ただし、こちらは押印ではありません。移りです」
「移り?」
私が聞くと、御台所は文の裏を指でなぞった。
「別の紙に押された印が、重ねられたことで薄く移ったのでしょう」
「父の文が、その紙と重ねられていた?」
「ええ」
「誰が」
「文の取次に関わった者でしょうね」
御台所は父の文を畳み、机に置いた。
「父君がこの印を押したわけではなさそうです」
胸の奥が少しだけ緩む。
だが御台所は続けた。
「ただし、父君の文がこの偽印に触れたということは、父君の周囲、あるいは文の道筋に偽印を持つ者がいる」
「父を見張っている者」
「可能性は高い」
「大御台様御用の者ですか」
「あるいは、それを名乗る者」
千鳥が眉を寄せた。
「それ、ずっとややこしいです」
「大奥の厄介事は、だいたいややこしいものです」
「御台様、たまに当たり前のことを怖く言いますね」
「よく言われます」
御台所は軽く受け流し、父の文へ視線を戻した。
「問題は、櫛の箱です」
「はい」
「父君は『開けるな』と書いた。単に見られたくないなら、箱のことなど書かない。赤い紐が燃えていないと知らせる必要もない」
「では、千鳥の言う通り、開け方の問題でしょうか」
「千鳥が?」
御台所が千鳥を見る。
千鳥は少し身構えた。
「はい。箱も鈴みたいに、使い方を間違えると危ないのかなって」
「よい考えです」
御台所が素直に言うと、千鳥は逆に警戒した顔になった。
「本当に褒めてます?」
「ええ」
「御台様に褒められると、罠かと思う」
「用心深くなりましたね」
「はい。大奥なので」
御台所は少し笑った。
そして、私へ言う。
「父君は、箱を守っているだけではないのでしょう」
「では」
「箱が開けられた事実を恐れている」
「開けられた事実?」
「ええ。もし箱に仕掛けがあるなら、開けた瞬間に中身が壊れる。あるいは、開けたことが分かる痕跡が残る。誰が開けたかを責めるための罠かもしれない」
「箱を開けただけで父が危険になる」
「そうです」
千鳥がぽつりと言った。
「箱って、守るためのものなのに、開けたら人を殺すんですね」
その言葉に、部屋が静かになった。
御台所が千鳥を見た。
「ええ。箱は守ります。中身を。秘密を。罪を。けれど、守るものを間違えれば、人を殺します」
「御台様の箱も?」
千鳥が言った瞬間、初瀬がわずかに動いた。
私は千鳥を見た。
言った本人も、しまったという顔をしている。
だが御台所は怒らなかった。
むしろ、静かに微笑んだ。
「もちろん」
認めた。
あっさりと。
「私の箱も、人を殺せます。守ることもできます。だから、開ける者を選ぶのです」
「父の櫛箱も」
「ええ。志乃が仕込んだものなら、なおさら」
御台所は父の文をもう一度見た。
「辰巳屋を調べる必要があります」
「辰巳屋?」
「櫛、簪、香箱、文箱などを扱う道具商です。大奥にも出入りしている」
「櫛箱を作った者ですか」
「おそらく」
新しい名。
辰巳屋。
母の櫛箱。
偽印。
大御台様御用。
また線が増えた。
「辰巳屋は、篠乃井家にも?」
「七年前、篠乃井家の櫛箱修繕を請け負った記録があるかもしれません」
「それを調べれば」
「箱の仕組み、偽印、父君を黙らせた者の道筋が見えるかもしれない」
御台所は初瀬を見る。
「松ヶ枝を呼びなさい。それから、お袖も」
「お袖様も?」
千鳥が聞く。
「櫛箱の仕組みを見るには、糸と箱の扱いに詳しい者が必要です」
「お袖様、便利ですね」
「便利と言うと怒るでしょう」
「怒る顔、あまり想像できません」
「静かに怒る方です」
「それは怖い」
千鳥が小さく肩をすくめた。
しばらくして、松ヶ枝とお袖が来た。
松ヶ枝は父の文の裏の偽印を見るなり、顔を険しくした。
「これは、駕籠記録の印と同じ」
「やはり」
「ただ、薄い。移りですね」
「御台様もそう仰いました」
松ヶ枝は文を慎重に扱った。
「父君の文が、この印のある紙と一緒に扱われた。つまり、外から大奥へ届く途中で、何者かが確認した可能性があります」
「父の文は読まれている?」
「そう考えるべきです」
「では、私が父へ書いた二通目も」
「読まれるでしょう」
分かっていた。
それでも胸が冷える。
父と娘の文さえ、誰かの手で開かれる。
大奥は、外へ出てもまだ大奥だ。
お袖は文の裏を見つめ、次に小さく言った。
「この印、道具商の仕事ではありません」
「どういうことですか」
「印そのものは似せていますが、線が甘い。職人が本気で作ったものなら、もっと本物に近づけられます」
「では、素人が?」
「いいえ。職人に、わざと少し似せて作らせたように見えます」
千鳥が首を傾げる。
「わざと似てないように?」
「はい」
「何のために?」
お袖は父の文を見ながら答えた。
「本物だと言い切らず、偽物だとも逃げられるように」
部屋が静まった。
御台所が頷く。
「名札としては十分ですね」
「はい」
「篠乃井家が関わったかもしれない、と疑わせるには十分。でも、追及されれば『似ているだけ』と逃げられる」
「卑怯です」
千鳥が低く言った。
松ヶ枝が静かに答える。
「卑怯な札ほど、よく効きます」
私は文を見つめた。
父を完全に罪人にするのではない。
疑いを残す。
その疑いだけで、父は動けなくなる。
私も苦しむ。
御子なき御子替えと同じだ。
真実を作る必要はない。
かもしれない、で人は縛れる。
「同じ手ですね」
私が言うと、御台所が私を見る。
「何がです」
「御子替えと同じです。御子がいたかもしれない。篠乃井家が関わったかもしれない。父が裏切ったかもしれない。確定させず、疑いだけを残す」
「よく気づきました」
「嬉しくありません」
「でしょうね」
御台所は、少しだけ口元を緩めた。
「大御台様の周囲は、真実より疑いを使うのが上手い。疑いは、証明しなくてよいからです」
「証明しなくてよいものほど、剥がしにくい」
「ええ」
私は拳を握った。
母の不義も、父の関与も、御子替えも。
全部、かもしれないで貼られた札だ。
だからこそ、紙を追う。
結び目をほどく。
箱を壊さず、開け方を探す。
「お袖様」
「はい」
「櫛箱に、開けると壊れる仕掛けは作れますか」
「作れます」
お袖は即答した。
「薄紙を底板に挟み、箱を普通に開けると破れるようにする。あるいは、糸を結んでおき、開けた瞬間に切れるようにする。箱を開けた者には分からなくても、作った者には分かる仕掛けです」
「父が開けるなと書いた理由は」
「中身を壊さないためか、開けた痕跡を残さないためでしょう」
「父は、守っている」
思わずそう言った。
お袖は私を見た。
「その可能性はあります」
可能性。
またその言葉。
でも、今度の可能性は少し温かかった。
「辰巳屋なら、その仕掛けを作れますか」
「はい。辰巳屋は細工箱が得意です。櫛箱、香箱、文箱。表は美しく、内側に仕掛けを隠す」
「大奥にも出入りしている」
「ええ」
松ヶ枝が口を開いた。
「辰巳屋の出入り控えを探します」
「どこに」
「御用商人の控えは、表使の手元にあります。ただ、古いものは納戸に下がっている可能性も」
「すぐ調べられますか」
「簡単ではありません」
「でも、調べますね」
松ヶ枝は私を見て、わずかに眉を寄せた。
「そなたは、最近私の返事を先に決めますね」
「松ヶ枝様は動いてくださいますので」
「持ち上げても無駄です」
「持ち上げていません。信頼しています」
松ヶ枝は、一瞬だけ言葉に詰まった。
千鳥が横でにやりとする。
「松ヶ枝様、今ちょっと嬉しそう」
「千鳥」
「すみません」
松ヶ枝は咳払いをした。
「とにかく、辰巳屋を調べます」
御台所は静かに頷いた。
「急ぎなさい。ただし、大御台様側に気づかれないように」
「それが一番難しいですね」
「ええ。難しいから、あなたに頼んでいます」
松ヶ枝は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
その後、御台所は父の文を私へ返した。
「これは、そなたが持ちなさい」
「よろしいのですか」
「父君の文です。ただし、肌身離さず」
「はい」
「千鳥」
「はい」
「鈴は?」
「鳴らしていません」
「よろしい」
千鳥は少し得意そうな顔をした。
「でも、鳴らす時は二人で決めます」
「それも、よろしい」
御台所は、父の文と小夜の鈴を交互に見た。
「箱と鈴。どちらも、開ける時と鳴らす時を誤れば人を殺します」
「はい」
「けれど、正しく扱えば、死んだ名を戻す鍵になる」
死んだ名を戻す鍵。
その言葉が胸に残った。
母の名。
小夜の名。
名のない女の名。
そして、父の名。
どれもまだ、完全には戻っていない。
部屋を下がると、千鳥が隣で小さく言った。
「箱って怖いね」
「はい」
「でも、少しだけ父上のこと信じられる?」
「はい」
「よかった」
「千鳥が考えてくれたおかげです」
「え」
「箱も鈴のように、使い方を間違えると危ないと」
「私、そんなすごいこと言った?」
「言いました」
「……小夜、今の聞いてたかな」
千鳥は懐の鈴を押さえた。
「聞いていたと思います」
「褒めるかな」
「千鳥にしては上出来、と」
「またそれ」
千鳥は笑った。
その笑いは、少しだけ軽かった。
だが、廊下の向こうに初瀬が現れた瞬間、私たちは同時に足を止めた。
「篠乃井」
「はい」
「松ヶ枝様より、早馬のような知らせです」
「もうですか」
「辰巳屋の名が、出入り控えにございました」
早い。
松ヶ枝は本当に動いていた。
「七年前ですか」
「はい」
初瀬の表情は変わらない。
だが、声が少し低い。
「辰巳屋は、七年前、篠乃井家の櫛箱修繕を請け負っています」
胸が鳴った。
「それだけではありません」
「まだ?」
「同じ年、大御台様御用の名でも出入りしています」
千鳥が小さく呻いた。
「繋がった」
「はい」
父の櫛箱。
偽印。
辰巳屋。
大御台様御用。
線がまた一本、確かに繋がった。
初瀬は続けた。
「松ヶ枝様が、すぐにお越しをと」
私は父の文を懐にしまった。
櫛の箱は開けるな。
父の警告の意味が、少しずつ見えてきている。
開けてはならないのではない。
壊してはならない。
誰が仕掛け、誰が開けようとしているのかを知らないまま触れてはならない。
母の結び目を切ってはならないように。
櫛の箱も、切るのではなくほどかなければならない。
そしてその箱を作った手は、辰巳屋にある。
私は千鳥と目を合わせた。
「行きましょう」
「うん」
千鳥は懐の鈴を押さえ、頷いた。
「半分ずつ」
「はい」
箱の中身は、まだ見えない。
けれど、箱を作った者の名は見えた。
大奥の内と外をつなぐ商人。
辰巳屋。
次は、その名をほどく番だ。




