第32話 傲慢の名札
大奥では、人を殺す前に名札を貼る。
病養生。
不義密通。
御子替え。
嫉妬。
行儀知らず。
親不孝。
奥を乱す女。
名札を貼られた者は、まだ息をしていても半分死ぬ。
周りの目が変わる。
声の温度が変わる。
差し出される膳の置き方が変わる。
廊下ですれ違う女たちの視線が、針になる。
母は、そうやって殺されたのだ。
そして今度は、私の番が来た。
朝から御末の間の空気が違っていた。
お吉が、いつものように私へ皮肉を投げてこない。代わりに、少し離れた場所からこちらを見ている。ほかの女中たちも同じだった。
近づきたい。
でも近づけない。
聞きたい。
でも聞いたら自分まで巻き込まれる。
そういう顔だ。
千鳥は水桶を持ちながら、低く呟いた。
「何か流れてる」
「噂ですね」
「また?」
「大奥は噂でできていますから」
「嫌な材料」
千鳥は唇を尖らせたが、その目は鋭かった。
以前の千鳥なら、怖がって私の後ろへ隠れていたかもしれない。けれど今の千鳥は、怖がりながら周りを見る。
小夜の鈴を持つようになってから、彼女は変わった。
懐に小さな鈴を隠している。
鳴らさない。
でも、音を忘れない。
「お吉さんに聞く?」
千鳥が言った。
「聞けば、たぶん逃げます」
「じゃあ、逃げ道塞ぐ?」
「千鳥」
「冗談。半分だけ」
「半分は本気ですね」
「うん」
私がため息をついたところで、お吉がこちらへ来た。
珍しい。
向こうから近づいてくるとは。
だが、顔色は悪い。
「あの……篠乃井さん」
「はい」
「あなた、何かしたの?」
「何か、とは」
「だから、その……」
お吉は周囲を気にして、声を潜めた。
「今朝から、変な話が流れているのよ」
「どのような話ですか」
「言いたくない」
「では、なぜ近づいてきたのですか」
「聞きたいからよ!」
千鳥が横でぼそりと言った。
「正直」
お吉は千鳥を睨み、それからすぐに視線を落とした。
「あなたが、外の家と通じて奥の記録を盗み見ているって」
来た。
私は顔を動かさなかった。
千鳥の手が、水桶の柄を強く握る。
「それだけですか」
「それだけって顔しないで。十分危ない話よ」
「続きがあるのでしょう」
お吉は唇を噛んだ。
「あなたの父上が、七年前の奥の騒ぎに関わっていたかもしれないって。篠乃井家が、志乃様を外へ出す駕籠に印を押したって」
千鳥が息を呑んだ。
父の偽印。
駕籠記録の端にあった、篠乃井家の家紋に似た印。
それが、もう噂になっている。
早すぎる。
御台所の部屋で見たものが、どうして御末の間まで流れているのか。
誰かが意図的に流したのだ。
「それで、私は何と呼ばれていますか」
私が問うと、お吉は目を逸らした。
「……奥を乱す娘」
軽い名札だ。
まだ。
だが、ここから重くなる。
「ほかには」
「父の罪を隠すために、母の汚名を利用している、とか」
千鳥が我慢できずに言った。
「逆でしょう!」
お吉が肩を震わせる。
「私に怒らないでよ。私は聞いただけ」
「誰から」
「それは」
「誰から聞いたの」
千鳥の声が低くなる。
お吉は完全に怯えた顔になった。
私は千鳥の袖に触れた。
「千鳥」
「でも」
「聞きます。怒りは半分」
千鳥は息を吐いた。
お吉は、私たちを交互に見た。
「最近、あなたたち本当に怖いわ」
「それで、誰から聞いたのですか」
私が尋ねると、お吉は小さく答えた。
「御年寄付きの女中から。大御台様の方に近い人よ。名前は知らない」
「衣に特徴は?」
「紫の紐を結んでいた」
紫。
鈴の紐の色の話が頭をよぎる。
赤、白、紫。
お房。
御簾の奥の鈴。
大御台様の箱。
「ありがとうございます」
私が言うと、お吉は驚いたような顔をした。
「怒らないの?」
「お吉様は、私に教えてくださいました」
「別に、あなたのためじゃないわ。私まで巻き込まれたくないだけ」
「それでも助かりました」
お吉は気まずそうに唇を尖らせた。
「……変な人」
「よく言われます」
「それ、開き直るところじゃないから」
お吉は逃げるように去っていった。
千鳥はその背中を見送りながら、低く言った。
「名札、貼りに来たね」
「はい」
「奥を乱す娘。父の罪を隠す娘」
「次は、母と同じ札を貼りに来るかもしれません」
「不義密通?」
「あるいは、父を巻き込む札です」
父の名。
篠乃井家。
偽印。
櫛の箱。
大御台様は、私を止めるために母ではなく父を使うつもりなのかもしれない。
それが一番効くと分かっているから。
私が母の名を追うほど、父が危うくなる。
だから、忘れなさい。
父の文も、あの人の恐怖から出たものだったのだろう。
「御台様に報告しますか」
千鳥が聞いた。
「はい」
「怒ってる?」
「怒っています」
「顔が静かすぎるから怖い」
「袖の奥に入れています」
「袖、燃えない?」
「今のところは」
御台所の部屋へ向かう途中、初瀬が現れた。
やはり、音もなく。
「御台様がお呼びです」
「こちらから伺うところでした」
「噂は届いております」
「早いですね」
「噂は足が速いものです」
初瀬はそう言い、千鳥の懐へ目を向けた。
「鈴は鳴らさぬように」
千鳥がむっとした顔をする。
「分かっています」
「怒りで鳴らす鈴は、味方を呼びません」
千鳥は言い返そうとして、口を閉じた。
それから、少し不満そうに言った。
「……分かっています」
初瀬は頷いた。
「ならば、よろしい」
御台所は桔梗香炉の前に座っていた。
今日は、黒塗りの箱が横にある。
強欲の箱。
その姿を見ただけで、部屋の空気が重くなる。
「来ましたね」
「噂の件でしょうか」
「ええ」
御台所は微笑んでいなかった。
「予想より早かった」
「大御台様ですか」
「大御台様ご自身か、その周囲か」
「紫の紐を結んだ女中から流れたようです」
「紫」
御台所の目が細くなる。
「お房の周りですね」
「お房様が?」
「まだ断定はできません。ただ、紫は大御台様の御側道具を扱う者が使うことが多い」
「鈴の紐の色にも意味が?」
「おそらく」
御台所は黒塗りの箱へ手を置いた。
「篠乃井。今日、大御台様に呼ばれます」
「御簾越しに?」
「ええ」
「また警告でしょうか」
「今回は、名札です」
千鳥が息を呑む。
御台所は私を見つめた。
「そなたに貼る札を、御簾の奥から直接示すのでしょう」
「何と呼ばれるのでしょうね」
「落ち着いているふりをしても、手が震えていますよ」
私は自分の手を見た。
本当に、わずかに震えていた。
「怖いです」
「よいことです」
「よいのですか」
「怖いと認める者は、無謀にはなりにくい」
「御台様も怖いと思うことがありますか」
御台所は少しだけ笑った。
「箱を開ける時には」
「閉じる時ではなく?」
「閉じる時は、もう強欲が勝っています」
千鳥が小声で「自覚あるのが怖い」と言った。
御台所は聞こえたはずだが、何も言わなかった。
「篠乃井」
「はい」
「今日、何を言われても父君を庇いすぎてはなりません」
胸が痛んだ。
「なぜですか」
「父君を庇う言葉は、父君の関与を認める言葉に変えられるからです」
「では、黙れば」
「黙れば、認めたと言われます」
「どうすれば」
「問い返しなさい」
御台所の目が冷える。
「名札を貼られたら、札の文字を読まず、札を貼った手を見なさい」
「貼った手」
「ええ。『誰がそう言ったのか』『どの記録にあるのか』『なぜ今それを問うのか』。怒る前に、手を見なさい」
「母は、それができなかった?」
「志乃は、札を剥がそうとしました」
「私は、貼った手を見る」
「そうです」
御台所は千鳥へ視線を移した。
「千鳥」
「はい」
「鈴は持っていなさい。ただし、鳴らすなら篠乃井と目を合わせてから」
「はい」
「二人で決めた音なら、まだ耐えられます」
「一人で鳴らしたら?」
「潰されます」
あまりに真っ直ぐな答えだった。
千鳥は青ざめたが、頷いた。
「分かりました」
再び大御台様の居所へ向かう。
廊下の静けさは、前よりも重かった。
昨日はまだ、知らない場所へ向かう恐怖だった。
今日は違う。
相手は私に名札を貼りに来る。
分かっている場所へ向かう恐怖は、知らない恐怖より冷たい。
御簾の前に座ると、すぐに声がした。
「来たか」
老いた声。
乾いた香。
見えない視線。
「篠乃井紗代にございます」
「奥で、ずいぶんと動いておるそうだな」
「御役目の範囲でございます」
「御役目」
大御台様が、低く笑った。
「御末の役目に、古い駕籠の記録を漁ることが含まれておるとは知らなんだ」
やはり知っている。
昨日見た駕籠記録のことまで。
「母の名に関わることにございます」
「母の名か。親孝行な娘じゃ」
声には、棘があった。
「だが、親孝行も過ぎれば家を潰す」
父。
篠乃井家。
来る。
「そなたの父は、七年前のことを知っておった」
千鳥の指が畳を掴む。
私は袖の奥で拳を握った。
「そのようでございます」
御簾の奥が、少し動いた。
私が否定しないことに、意外そうな気配があった。
「認めるか」
「父が何かを知っていた可能性は、否定いたしません」
「では、父は志乃を見捨てたのじゃな」
胸が痛む。
でも、すぐに庇ってはいけない。
札を見るな。
貼った手を見ろ。
「大御台様」
「何じゃ」
「そのお話は、どの記録に基づくものでございましょうか」
御簾の奥が静まる。
「記録?」
「はい。父が母を見捨てたという記録があるなら、拝見したく存じます」
「生意気な」
「父の罪を問われるなら、娘として確かめねばなりません」
「娘として?」
「はい」
「ならば、母の罪も受け取るか」
来た。
御簾の奥の声が、少し低くなる。
「志乃には、不義の疑いがあった」
千鳥の息が止まる。
私は目を伏せたまま、声を整えた。
「その疑いは、どなたが最初に記されたものでしょうか」
「疑いに始まりなどない」
「ございます」
御台所の気配が、わずかに動いた。
私は続けた。
「噂にも火元がございます。母に不義の疑いを貼った最初の手が、必ずございます」
「女が一人、怪しき動きをした。それだけで十分じゃ」
「十分ならば、記録もあるはずです」
「記録、記録と」
大御台様の声に、苛立ちが混じった。
「若い女は紙を頼りすぎる」
「紙で母は殺されました」
言ってしまった。
部屋の空気が凍った。
千鳥が私を見る。
御台所も、きっと息を止めた。
でも、もう引けなかった。
「ならば、紙で追います」
長い沈黙。
御簾の奥で、衣擦れの音。
「志乃は、不義を働いたのではない」
大御台様が言った。
私は息を止めた。
今、何と言った。
「母は、不義を働いていないと?」
「当たり前じゃ」
声は冷たかった。
「志乃ごときが、将軍家の血を乱せるわけがなかろう」
千鳥が小さく震えた。
怒りか、恐怖か。
私の中でも、何かが逆流する。
母の汚名を、貼った側が否定した。
不義などなかった。
知っていた。
知っていて、貼った。
「では、なぜ」
声が震えた。
「なぜ、母に不義の名札を」
「必要だったからじゃ」
大御台様は言った。
その声には、一片の後悔もなかった。
「御子替えの噂が広がれば、血が乱れる。女たちが騒げば、奥が乱れる。志乃は、その騒ぎを止めるどころか火元を暴こうとした。火元など、暴けばさらに火が広がるだけじゃ」
「だから、母を」
「名札は、火を止めるための蓋じゃ」
蓋。
母の名は、蓋にされた。
御子なき御子替えの噂を押さえるために。
名のない女を消すために。
将軍家の血を揺らさないために。
母には不義の汚名が必要だった、と。
「女一人の名を汚せば済むなら、安いもの」
千鳥が、今度こそ鈴へ手を伸ばした。
私も伸ばしかけた手を止めた。
鳴らしたい。
今、この場で鳴らしたい。
小夜の鈴を。
母の名を。
でも、鳴らすな。
今はまだ。
私は千鳥を見た。
千鳥も私を見る。
涙で潤んだ目。
怒りで震える指。
私はゆっくり首を横に振った。
千鳥は歯を食いしばり、鈴から手を離した。
よく耐えた。
私は大御台様へ向き直る。
「大御台様」
「何じゃ」
「ならば、母の名を踏んだ国は、正しい国なのでしょうか」
御簾の奥が、静まり返った。
私は続けた。
「血を守るために名を踏み、秩序を守るために女を消し、噂を蓋するために罪なき者へ罪を着せる。そうして守られた国は、本当に正しいのでしょうか」
「黙れ」
初めて、大御台様の声に明確な怒りが混じった。
御簾の向こうの影が動く。
「女一人が国を語るな」
「女一人の名を踏んで国を語ったのは、どなたでしょうか」
言った瞬間、御台所が息を呑んだ。
初瀬の気配も変わる。
千鳥が、泣きそうな顔で私を見ている。
御簾の奥から、重い沈黙が落ちた。
私は頭を下げたまま、動かなかった。
怖い。
今までで一番怖かった。
この一言で、私は消されるかもしれない。
母と同じように。
小夜と同じように。
でも、言わなければならなかった。
母の名を、蓋として扱わせるわけにはいかなかった。
「篠乃井紗代」
大御台様の声は低かった。
「そなたの名札は決まった」
千鳥が震える。
私は息を整えた。
「何でございましょう」
「奥を乱す、親不孝な娘」
想像より軽い。
だが、その先がある。
「母の汚名を暴くと称して父の家を危うくし、御末の分を忘れて奥の記録を漁り、鈴などという鼠の玩具で御簾を騒がす」
千鳥が唇を噛む。
「その名札は、母のものより軽いですね」
私は言った。
「何?」
「母へ貼られた札は、母の名を殺しました。私の札は、まだ私が生きております」
大御台様の気配が冷える。
「生きている者は、名札を剥がせます」
「剥がす前に、貼り重ねればよい」
「ならば、一枚ずつ剥がします」
「強情な」
「母の娘ですので」
御簾の奥から、乾いた笑いが漏れた。
怒りと不快の混じった笑い。
「下がれ」
それだけだった。
御台所が深く頭を下げる。
私たちも下がる。
御簾の奥からまた、かすかな鈴の音がした。
ちりん。
小夜の鈴ではない。
けれど、今度は前よりも近く聞こえた。
大御台様の怒りの奥で、誰かが鳴らしたのか。
それとも、何かの合図か。
千鳥が懐を押さえた。
小夜の鈴は鳴っていない。
しかし、彼女の顔には決意があった。
次は、鳴らす時を選ぶ。
そう言っているようだった。
御簾の間を出た瞬間、千鳥が私の袖を掴んだ。
「紗代」
「はい」
「怖かった」
「私もです」
「でも、言った」
「言いました」
「すごかった」
「震えています」
「うん。私も」
千鳥は泣きながら笑った。
「鈴、鳴らさなかったよ」
「はい」
「褒めて」
「とても、よく耐えました」
「小夜みたいに言って」
「小夜さんなら、何と?」
千鳥は少し考えてから、鼻をすすった。
「『千鳥にしては上出来』」
「千鳥にしては上出来です」
「真顔で言われると腹立つ」
千鳥は泣き笑いのまま、少しだけ肩を震わせた。
御台所は私たちを見て、静かに言った。
「よく生きて戻りました」
「大げさではありませんね」
「ええ」
御台所は、珍しく笑っていなかった。
「大御台様が、母君の不義を否定しました」
「はい」
「大きな一歩です」
「母の汚名は、必要な蓋だったと」
「ええ」
「許せません」
「許さなくてよい」
御台所は短く言った。
「でも、今は覚えておきなさい。大御台様は、志乃の不義を真実として扱ってはいなかった。必要な札として使っただけ」
「それを証明できれば」
「母君の名は動きます」
動く。
戻るとは言わなかった。
完全には戻らないのかもしれない。
でも、動く。
死んだように貼られた札が、剥がれ始める。
その時、初瀬が廊下の向こうから急ぎ足で現れた。
珍しい。
初瀬が急ぐなど。
「御台様」
「何です」
「外より文が」
胸が跳ねた。
「父からですか」
初瀬は私を見た。
「はい」
手が冷たくなる。
父からの返事。
母の櫛の箱についての文。
初瀬は御台所へ文を渡すのではなく、私へ差し出した。
御台所が頷く。
「読みなさい」
私は文を受け取った。
封は開いていない。
父の字で、私の名が書かれている。
手が震える。
千鳥が隣に寄った。
「半分」
「はい」
私は封を切った。
中には、短い文だけが入っていた。
父の字だった。
以前より乱れている。
急いで書いたのだろう。
――紗代。
――櫛の箱は開けるな。
――鈴の紐は、まだ燃えていない。
呼吸が止まった。
千鳥が文を覗き込み、目を見開く。
「燃えてない……」
「はい」
父は、赤い紐を持っている。
母が残した帰る道を、まだ燃やしていない。
だが、櫛の箱は開けるな、とある。
なぜ。
箱に何がある。
開ければ何が起きる。
御台所が静かに言った。
「父君は、生きていますね」
「はい」
「そして、まだ守っている」
「はい」
「ですが、開けるなと書いた」
「はい」
私は文を握りしめた。
父を信じたい方が、今度こそ少し重くなった。
けれど同時に、恐怖も増した。
開けるな。
その言葉は、ただの警告ではない。
箱の中に、開ければ誰かが死ぬほどのものがあるのかもしれない。
母の名を戻す鍵。
父を潰す証。
名のない女の正体。
御子なき御子替えの火元。
何があるにせよ、赤い糸はまだ燃えていない。
私は文を胸に当てた。
小夜の鈴が鳴らなかった夜。
母を乗せた駕籠。
大御台様の名札。
父の櫛の箱。
すべてが、一本の赤い糸で繋がっている。
そしてその糸は、まだ燃えていない。




