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大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第31話 志乃を乗せた駕籠

 駕籠の記録は、思っていたより薄い紙束だった。


 母の最後の道が、たったこれだけの紙に収められている。


 そう思うと、指先に力が入らなかった。


 御台所の部屋を下がった後、私と千鳥は松ヶ枝の部屋へ向かった。御台所の前で読むには、あまりにも重すぎた。あの人の視線がある場所で母の最後の道を追えば、私は怒りを袖にしまっておける自信がなかった。


 松ヶ枝は何も言わず、文机を空けてくれた。


 灯火を一つ増やし、襖の外に人払いを命じる。


 千鳥は私の隣に座った。


「一緒に読む」


 短く、そう言った。


「はい」


「途中で苦しくなったら言って」


「千鳥も」


「うん」


 松ヶ枝は向かいに座り、静かに紙束を見つめている。


「これは写しではありません。元の控えです」


「元の控え……」


「ええ。だから、扱いには気をつけなさい。破れば、二度と戻りません」


 その言葉は、紙だけのことではないように聞こえた。


 私は深く息を吸い、最初の紙を開いた。


 墨は薄れている。


 だが、読める。


 ――七年前、霜月十七日。

 ――病養生につき、篠乃井志乃、奥を下がる。

 ――駕籠一挺。供二名。表門を避け、裏御門より出す。


 病養生。


 奥を下がる。


 その綺麗な言葉に、胸の奥が冷たくなった。


 母は病で下がったのではない。


 病養生という名札を貼られ、外へ出された。


「表門ではなく、裏御門」


 私が呟くと、松ヶ枝が頷いた。


「表向きの記録に残したくない時、よく使われる道です」


「よく、ですか」


「大奥では、表から出られないものが多いのです」


 千鳥が唇を噛んだ。


「人も?」


「ええ」


 松ヶ枝は逃げずに答えた。


「人も」


 私は次の行を読んだ。


 ――同刻、別駕籠一挺。

 ――名、削除。

 ――印、三点桔梗。

 ――同じく裏御門より出す。


 手が止まった。


 同刻。


 別駕籠。


 名は削られている。


 だが、印が残っている。


 三点桔梗。


 奥医師の記録にあった、名のない女の印と同じ。


「同じ……」


 千鳥が声を震わせた。


「志乃様と、名のない女が、同じ時に外へ出されたってこと?」


「その可能性が高いです」


 松ヶ枝の声は低い。


「志乃だけではなかった。もう一人、女が出された」


「その女が、御子を宿したかもしれない女」


 私は紙から目を離せなかった。


「あるいは、そう思わせるために使われた女」


 名のない女。


 記録から名を削られた女。


 御子がいたかもしれないという疑いを背負わされ、母と同じ夜に外へ出された女。


「その女は、どこへ」


 千鳥が問う。


 私は次の紙を開いた。


 ――第一駕籠、篠乃井志乃。

 ――行先、芝口御用屋敷。

 ――第二駕籠、名削除。

 ――行先、同上。のち変更。


「のち変更」


 私はその四文字を何度も見た。


「同じ場所へ向かうはずだったのに、途中で行き先が変えられた」


 松ヶ枝が顔を険しくする。


「芝口御用屋敷は、一時的な隔離や尋問に使われることがありました」


「尋問」


 千鳥が小さく繰り返した。


「母は、そこへ連れていかれたのですか」


「記録上は」


「実際には?」


「分かりません」


 また、分からない。


 けれど今回は、分からないこと自体が怖かった。


 母を乗せた駕籠が、どこまで本当に記録通りに進んだのか。


 名のない女の駕籠は、どこで道を変えられたのか。


 その女は、生きていたのか。


 母と顔を合わせたのか。


 母は、その女を救おうとしていたのか。


「小夜は」


 千鳥が、鈴の上から懐を押さえた。


「小夜は、これを止めようとしたのかな」


「母を外へ出すな、とは書いていました」


「でも、もう一つ駕籠があったなら」


 千鳥の声が強くなる。


「小夜が鳴らした鈴は、志乃様だけじゃなくて、その女も止めるためだったんじゃない?」


 私は顔を上げた。


 松ヶ枝も千鳥を見る。


「小夜は、名のない女のことも知っていた?」


「分からない。でも、小夜は紙包みを持ってた。志乃様から何かを預かってた。鈴も鳴らした。だったら、志乃様だけじゃなくて、もう一人も危ないって知ってたかもしれない」


 千鳥の言葉には、もう怯えだけではない。


 考える力があった。


 小夜の鈴を持つ者として、彼女は小夜の行動を追っている。


「千鳥の言う通りです」


 私が言うと、千鳥は少し驚いた顔をした。


「え」


「小夜さんは、母だけでなく名のない女の駕籠も止めようとした可能性があります」


「じゃあ、鈴は二人分の音だったんだ」


 千鳥は鈴を握った。


 ちりん、と鳴らない。


 でも、その音が聞こえたような気がした。


 母を止めて。

 もう一人も止めて。

 誰か来て。


 それなのに、誰も来なかった。


 私は次の紙をめくった。


 そこには道筋が書かれていた。


 裏御門。

 柳の辻。

 芝口へ向かう脇道。

 途中、増上寺末寺前にて一時停止。


「寺」


 私は呟いた。


「父の屋敷に出入りしていた者も、寺社方を名乗っていました」


 松ヶ枝が頷く。


「寺社筋が絡んでいる可能性はあります」


「ここで、何があったのでしょう」


 記録には短くこうあった。


 ――第二駕籠、ここより別道。

 ――理由、急病。


「急病」


 千鳥が低く言った。


「便利すぎる」


「はい」


「病養生で外へ出されて、途中で急病で道を変える。何でも病にすればいいと思ってる」


「大奥では、病は便利な帳です」


 松ヶ枝の声は苦かった。


「女を隠すにも、遠ざけるにも、死を整えるにも」


 私は紙の端を見た。


 古い紙の隅。


 そこに、小さな印があった。


 最初は汚れかと思った。


 だが違う。


 手が止まる。


「これは……」


「どうしたの」


 千鳥が覗き込む。


 紙の端に押された、ごく薄い印。


 円の中に、細い線が三つ。


 桔梗ではない。


 篠乃井家の家紋に似ていた。


 完全に同じではない。


 だが、幼い頃から屋敷の道具や父の文箱で見てきた紋に、よく似ている。


「父の家紋に似ています」


 私の声は、自分でも驚くほど冷たかった。


 千鳥が息を呑む。


「父上の?」


「正確には、篠乃井家のものに似た印です」


 松ヶ枝が紙を寄せ、目を凝らした。


 顔が険しくなる。


「これは……確かに」


「なぜ、母を乗せた駕籠の記録に、篠乃井家に似た印があるのですか」


「分かりません」


「松ヶ枝様」


「本当に分かりません」


 松ヶ枝は、今度は逃げていなかった。


 顔に困惑がある。


 彼女も知らなかったのだ。


「篠乃井家が駕籠の手配に関わった?」


 千鳥の声が震える。


「それとも、父君が?」


「まだ決められません」


 私は言った。


 言いながら、胸の奥がきしむ。


 父を信じたい。


 でも、駕籠の記録に篠乃井家に似た印がある。


 父が関わったのか。


 父の名を利用されたのか。


 篠乃井家の印を偽造されたのか。


 分からない。


 分からないことが、また噂の種になる。


 それを私はもう知っている。


「決めつけません」


 私は自分に言い聞かせるように言った。


「今は、決めつけません」


 千鳥が私の袖を握った。


「うん。今日は、信じたい方を少し多めでいい日」


「はい」


 でも、少し多めにしても、疑いは消えない。


 私は紙の端の印を見つめた。


 父の家紋に似た小さな印。


 それは、紙の隅で静かにこちらを見返していた。


 次の紙には、さらに短い記述があった。


 ――第一駕籠、芝口御用屋敷着。

 ――篠乃井志乃、以後奥戻りなし。

 ――第二駕籠、行方記録なし。


 奥戻りなし。


 母は戻らなかった。


 分かっていたことなのに、記録で見ると息が詰まった。


 行方記録なし。


 名のない女も、消えた。


「二人とも、戻ってない」


 千鳥が呟いた。


「志乃様も、名のない女も」


「はい」


「じゃあ、御子替えの噂は、二人の女を消すためのものだった?」


「少なくとも、二人を消す結果になっています」


「小夜は、それを止めたかった」


「はい」


 千鳥は目を閉じた。


「小夜、鈴を鳴らしたのに」


 その声には、涙よりも怒りがあった。


 私も同じだった。


 鈴は鳴った。


 だが、誰も来なかった。


 母は駕籠に乗せられ、戻らなかった。


 名のない女は別道へ逸らされ、行方を消された。


 その後、母には不義密通の名札が貼られ、御子替えの噂は奥を縛り、小夜は怪談にされた。


 紙は静かだ。


 でも、その静けさの中に、何人もの叫びが沈んでいる。


「篠乃井」


 松ヶ枝が言った。


「この記録は、御台様へ戻しますか」


「いいえ」


「え?」


「写しを取ります」


「それは危険です」


「原本だけでは、また消されます」


 松ヶ枝は口を閉じた。


 自分でも分かっているのだ。


 大奥では、紙は消える。


 だから母は写しを分けた。


 香炉へ。


 お柳へ。


 小夜へ。


 父へ。


 ならば私も、同じようにしなければならない。


「写しは、三つに分けます」


 私は言った。


「一つは松ヶ枝様。もう一つは御台様。もう一つは……」


「私が持つ」


 千鳥が言った。


 私は彼女を見る。


「危険です」


「知ってる」


「鈴も持っています」


「だから持つ」


 千鳥はまっすぐ私を見た。


「小夜が鈴を鳴らしたのに、誰も来なかった。その記録を、私が持つ。もう聞こえないふりをしないために」


 松ヶ枝が静かに息を吐いた。


「千鳥、そなたも本当に厄介になりましたね」


「小夜に似てきたってことで」


「そうですね」


 今度は、松ヶ枝も否定しなかった。


 写しを取るには時間がかかった。


 松ヶ枝の筆は正確だった。


 私は紙の隅にある印を何度も確認した。


 篠乃井家に似た印。


 それを写す時、手が震えた。


 千鳥が横から言う。


「紗代」


「はい」


「線が曲がってる」


「……はい」


「私が見てる」


「お願いします」


「父上のこと、今決めない」


「はい」


「でも、この印は忘れない」


「はい」


「半分」


「半分」


 写し終える頃には、外は暗くなっていた。


 灯火の明かりに、三つの写しが並ぶ。


 母の最後の道。


 名のない女の消えた道。


 父の家紋に似た印。


 それを三つに分ける。


 母がしたように。


 ただし、今度は一人ではない。


 私たちは御台所の部屋へ戻った。


 御台所は写しと原本を見比べ、しばらく何も言わなかった。


 そして、紙の隅の印で目を止める。


「これは」


「篠乃井家の家紋に似ています」


 私は言った。


「父が関わったかどうかは、まだ分かりません」


「先に言いましたね」


「決めつけたくありませんので」


「よいことです」


 御台所は印をじっと見た。


「これは、本物の篠乃井家の印ではありません」


 胸が鳴った。


「分かるのですか」


「少し違います。線の角度が違う」


「では、偽の印?」


「その可能性があります」


 膝から力が抜けそうになった。


 父ではない。


 まだ、そう決まったわけではない。


 でも、本物ではない可能性がある。


 千鳥が隣で小さく息を吐いた。


「よかった……って言っていいのか分からないけど」


「はい」


 御台所は続けた。


「ただし、偽の印を使うには、本物を知っている必要があります」


 つまり、篠乃井家に近い者。


 あるいは、父の文や家の道具を見たことがある者。


 疑いは消えない。


 形を変えただけだ。


「御台様」


「何です」


「この印を使った者は、母の駕籠と篠乃井家を結びつけようとしたのでしょうか」


「あるいは、あとで父君を黙らせるための札でしょう」


「札」


「ええ。そなたの父君が何かを言えば、篠乃井家も関わっていたと言える。黙らせるには十分です」


 父が沈黙した理由。


 母の文を燃やした理由。


 少し見えた気がした。


 父は、脅されていたのかもしれない。


 篠乃井家に似た印を使われ、母の死に関わったことにされかねない状況で。


 母の名を守るために動けば、家ごと潰される。


 だから、燃やした。


 でも、赤い紐は燃やせなかった。


「父は、母を守れなかった」


 私は呟いた。


「でも、裏切ったとはまだ限らない」


 千鳥がすぐ言った。


「はい」


「まだ、信じたい方を少し多め」


「はい」


 御台所は私たちのやり取りを聞いて、少しだけ目を伏せた。


「信じたいものがあるうちは、まだ人でいられます」


「御台様にも、ありますか」


 私が問うと、彼女は微笑んだ。


「昔は、ありました」


「今は?」


「箱の中です」


「また箱ですか」


「ええ。私は強欲なので」


 その自嘲のような言葉に、返す言葉が見つからなかった。


 御台所は原本を戻し、写しの一つを私へ渡した。


「千鳥に持たせる写しは、小さく畳みなさい。鈴と同じ場所に入れてはなりません」


「なぜですか」


「一度に奪われます」


「……はい」


 千鳥が少し青ざめながら頷く。


「御台様、そういうところ本当に怖いです」


「褒め言葉として」


「受け取らないでください」


「残念です」


 御台所は、最後に原本の端を指でなぞった。


「二つの駕籠。志乃と名のない女。同じ夜、同じ門、途中で別道」


「はい」


「次は、その名のない女を探します」


「どうやって」


「駕籠の行先が変えられた場所。増上寺末寺前。寺社筋を洗います」


「外と繋がりますね」


「ええ」


「父の屋敷に出入りした者とも」


「繋がるでしょう」


 御台所は私を見た。


「ただし、その前に大御台様が動きます」


「なぜ」


「そなたが御簾の奥の鈴に気づいた。駕籠の記録に辿り着いた。父君の箱にも近づいている」


「つまり」


「そろそろ、名札を貼りに来るでしょう」


 名札。


 不義密通。


 病養生。


 御子替え。


 嫉妬で消えた。


 そうやって女を殺す札。


「私に、どんな名札を?」


 御台所は静かに言った。


「母と同じものか、あるいは父を巻き込むもの」


 千鳥が息を呑む。


「篠乃井」


「はい」


「明日は、用心なさい。大御台様は、そなたをただの娘としては見なくなりました」


「では、何として?」


「根です」


 昨日、私は言った。


 名は、踏めば土に混じるとは限りません。時に、根になります。


 大御台様は、その根を掘りに来る。


「承知いたしました」


 私は写しを懐にしまった。


 母を乗せた駕籠。


 名のない女を乗せた駕籠。


 父の家紋に似た偽の印。


 大奥の奥と外を結ぶ道が、ようやく見えてきた。


 しかし、その道の先には、大御台様の名札が待っている。


 今度は、私の名が貼られるのかもしれない。


 それでも、もう戻れない。


 小夜の鈴は鳴った。


 母の駕籠は出た。


 誰も来なかった夜を、今度こそ終わらせるために。

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