第28話 傲慢の御簾
大御台様の居所へ近づくにつれ、音が消えていった。
大奥には、静かな場所はいくつもある。
御台所の部屋もそうだ。
松ヶ枝の納戸もそうだ。
縫殿の奥も、針と糸の音だけが沈むような静けさを持っていた。
けれど、大御台様の居所へ続く廊下の静けさは、それらとは違った。
誰かが声を潜めているのではない。
最初から、声など存在してはならない場所のようだった。
廊下の板は磨き上げられ、障子の白は冷たく、香は薄い。薄いのに、そこにあると分かる。年を経た白檀のような、乾いた香だった。
甘くない。
柔らかくもない。
ただ、そこに座る者の格を示すだけの香。
私の隣で、千鳥が息を呑んだ。
「紗代」
「はい」
「ここ、嫌な感じがする」
「はい」
「怖い、じゃないんだよね」
「はい」
「失礼なことを考えただけで、畳に叱られそう」
「分かります」
千鳥は懐の上から、小夜の鈴にそっと手を当てた。
鳴らさない。
でも、そこにあることを確かめている。
「鳴らしてはなりませんよ」
前を歩く初瀬が、振り返らずに言った。
千鳥の肩が跳ねる。
「鳴らしません」
「鈴は、時を選ぶものです」
「御台様にも言われました」
「ならば、よく覚えておくことです」
初瀬の声は、いつも通り平らだった。
けれど今日は、少しだけ緊張しているように感じた。
初瀬でさえ、ここでは気を張る。
大御台様。
その存在が、まだ姿を見せる前から廊下を支配していた。
御台所は、さらに奥の手前で私たちを待っていた。
白に近い淡い小袖。髪は乱れなく整えられ、顔にはいつもの微笑みがある。
しかし、目は笑っていなかった。
「来ましたね」
「はい」
「千鳥も」
「はい」
千鳥は少し緊張した声で答えた。
御台所は彼女の懐元へ一瞬だけ視線を向ける。
「鈴は?」
「持っています」
「鳴らすつもりは?」
「今は、ありません」
「よろしい」
御台所は私へ向き直った。
「篠乃井」
「はい」
「ここから先では、正しさをそのまま口にしてはなりません」
「承知しております」
「本当に?」
「承知しようと努力しております」
「よい返事です」
御台所は少しだけ笑った。
「正しいと思うことほど、一度袖の奥にしまいなさい。言葉は出す時より、しまう時の方が難しい」
「母も、そうしたのですね」
「志乃は、しまいすぎました」
その声は、ほんのわずかに沈んでいた。
「だから、最後に袖の奥から文と赤い紐を出した」
「……はい」
「そなたは、しまったまま死んではなりません」
私は御台所を見た。
彼女は微笑んでいた。
けれどその言葉だけは、妙に本気だった。
「では、どうすれば」
「生きて出すのです」
御台所は短く言った。
「怒りも、正しさも、疑いも。生きていなければ何も出せません」
千鳥が小さく言った。
「小夜も、そうしたかったのかな」
御台所は千鳥を見た。
「だから鈴を鳴らしたのでしょう」
千鳥は黙った。
懐の鈴を握る手に、少し力が入っている。
御台所は、奥へ続く襖を見た。
「大御台様は、そなたに直接お会いにはなりません」
「御簾越しに」
「ええ。声だけです」
「それだけでも、十分なのでしょうね」
「十分すぎるほどです」
御台所は静かに言った。
「大御台様は、姿を見せずとも人を跪かせることに慣れておられます」
襖が開いた。
中はさらに薄暗かった。
部屋の奥に、御簾が下りている。
細かい竹で編まれた御簾。
向こう側は見えない。
けれど、誰かがいる。
そう感じた瞬間、背筋が冷えた。
人がいる気配ではない。
場そのものが、こちらを見ているようだった。
初瀬がそっと下がる。
御台所は少し前へ進み、平伏した。
私と千鳥もそれに倣う。
畳に手をついた時、自分の指が冷えていることに気づいた。
御簾の奥から、声がした。
「その者か」
老いた女の声だった。
だが、弱くない。
静かで、乾いていて、命じることに慣れた声。
人に答えさせる声ではない。
すでに答えを決めている声だった。
「はい。篠乃井志乃の娘、紗代にございます」
御台所が答えた。
「顔を上げさせよ」
「篠乃井」
私はゆっくり顔を上げた。
御簾の向こうは見えない。
影があるだけだ。
けれど、その影から視線が突き刺さるようだった。
「志乃に似ておるか」
大御台様が言った。
誰に問うたのか分からない。
御台所が答える。
「目元に、少し」
「目元」
御簾の奥で、わずかに衣が擦れる音がした。
「正しいことを疑わぬ目か」
胸の奥が熱くなった。
母を、そう言うのか。
正しいことを疑わない女。
それは褒め言葉ではない。
この人にとって、母の正しさは罪だったのだ。
私は袖の中で指を握る。
言うな。
今は、言うな。
御台所の言葉を思い出す。
正しさを袖の奥にしまいなさい。
「篠乃井紗代」
大御台様の声が落ちる。
「はい」
「そなたは、母の名を追っておるそうだな」
「母の死について、知りたいと思っております」
「知ってどうする」
「母が何を見て、何を残したのかを確かめます」
「それで、死者が戻るか」
「戻りません」
「ならば無駄じゃ」
あまりにも簡単に言われた。
母の死を。
小夜の消失を。
残された者の痛みを。
無駄、と。
千鳥の手が、畳の上で震えた。
私だけではない。
千鳥も怒っている。
けれど、鈴は鳴らない。
懸命に堪えている。
「無駄かどうかは、生きている者が決めることにございます」
私がそう言うと、御簾の奥が静まった。
御台所の気配が、わずかに緊張する。
言いすぎたかもしれない。
だが、これ以上引けば、私はここに来た意味を失う。
「口が立つ」
大御台様は言った。
「志乃も、そうであった」
声に、かすかな不快が混じる。
「正しい女ほど、国を乱す」
その言葉は、静かに部屋へ落ちた。
「己の見たものだけを真実と思い、己の感じた痛みだけを正義と思う。そういう女は、国の形を見ぬ」
「国の形、でございますか」
「血じゃ」
御簾の奥の声が、少し強くなる。
「将軍家の血。家の血。国を保つ血。それが乱れれば、女一人の涙どころでは済まぬ」
御子替え。
名のない女。
母が見たもの。
すべてが、その一言へ集まっていく。
「女一人の名誉と、将軍家の血。どちらが重いか、考えるまでもあるまい」
千鳥が、息を詰めた。
私の中で、何かが切れそうになった。
母の名誉。
小夜の名。
怪談にされた女。
嫉妬で消えたと書かれた女。
不義密通の名札を貼られた母。
それらすべてを、この人は天秤に載せ、軽いと言った。
袖の中で爪が掌に食い込む。
怒りを隠せ。
今は切るな。
ほどけ。
「大御台様」
私は頭を下げ直した。
「畏れながら、ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか」
御簾の奥が静まる。
「申せ」
「血を守るために名を踏まれた女たちの恨みは、国の外へ漏れぬものでございましょうか」
御台所が小さく息を呑んだ気がした。
千鳥も私を見る。
御簾の奥の気配が、冷える。
「何が言いたい」
「母の名を踏んだことで、七年後の今、私はここにおります。小夜さんの名を怪談にしたことで、千鳥も鈴を持ってここにおります。消せば終わるものなら、私たちはここに来なかったはずです」
私は顔を上げないまま続けた。
「名は、踏めば土に混じるとは限りません。時に、根になります」
長い沈黙。
その沈黙の間、私は自分の心臓の音を聞いていた。
言いすぎた。
分かっている。
でも、これは袖の奥にしまいきれなかった。
御簾の奥で、大御台様が低く笑った。
「根か」
その笑いは、温かさのないものだった。
「若い者は、すぐ己を草木にたとえる。だが、庭の根は掘れば済む」
千鳥の指が、畳を掴んだ。
私は口を閉じる。
今、反論すれば潰される。
大御台様は、それを待っている。
正しい女が怒りで顔を上げる瞬間を。
その首を落とすために。
「志乃も、そうであった」
大御台様は続けた。
「国のために黙ることを知らなんだ。血筋のために目を伏せることを知らなんだ。御子の噂ひとつで、いくつもの家が揺れることも分からず、ただ女の名を守ろうとした」
「母は、御子替えの噂を止めようとしたのではございませんか」
御簾の奥が沈黙した。
今度の沈黙は、違う。
わずかに、突いた。
「御子替え」
大御台様は、その言葉を口にした。
「よくある噂じゃ」
「御台様も、そう仰いました」
「であろう。御子が生まれれば替えられたと言い、生まれねば隠されたと言う。女たちは血の噂を好む」
「その噂で、消えた女がいます」
「噂で消える女は、噂に耐える力がなかっただけじゃ」
千鳥が小さく震えた。
私は、低く言った。
「小夜さんも、そうでしょうか」
「小夜」
御簾の奥で、その名が微かに転がった。
まるで、取るに足らない小石の名のように。
「知らぬ名じゃ」
嘘だ。
そう思った。
この人は知っている。
少なくとも、小夜の鈴の音を聞いたはずだ。
御簾の奥にいた。
お袖がそう言った。
「小夜さんは、鈴を鳴らしました」
千鳥が口を開いた。
御台所がわずかに千鳥を見た。
止めるべきか迷ったのかもしれない。
でも、千鳥はもう言っていた。
「志乃様が外へ出される夜、小夜は鈴を鳴らしました。誰かに来てほしくて。誰かに止めてほしくて」
「千鳥」
御台所の声が低くなる。
だが、大御台様が先に言った。
「鈴など、鼠でも鳴らす」
千鳥の顔から血の気が引いた。
それは、梅島の言葉と同じだった。
鼠が鳴いたのでしょう。
あの時、梅島は自分の言葉として言ったのではない。
この人の価値観を、そのまま口にしたのだ。
千鳥の手が懐へ向かう。
鈴を鳴らす気配。
私は素早く、その手を押さえた。
千鳥が私を見る。
目に涙と怒りがある。
「今は」
私は小声で言った。
千鳥は歯を食いしばった。
鈴は鳴らなかった。
御簾の奥の大御台様が、静かに言う。
「鳴らせばよい」
千鳥の身体が強張った。
「その鈴とやらを。鳴らして、誰が来るか見てみればよい」
挑発だ。
鈴を鳴らせば、何かが起きる。
味方とは限らない。
御台所の言葉がよぎる。
鈴は、鳴らせば誰かを呼ぶものです。
味方とは限りません。
私は千鳥の手を握った。
「鳴らしません」
私が言った。
「今は」
大御台様が笑う。
「賢くなったつもりか」
「怖くなったのです」
「正直じゃな」
「はい」
「怖いなら、母の名を追うな」
御簾の奥の声が、少し低くなる。
「篠乃井紗代。母の名を追えば、父の家も揺れる。父が守っている箱も、そなたの手には届かぬ。女一人の名を追うために、生きている者まで危うくするか」
父の箱。
やはり知っている。
大御台様は、母の櫛の箱を知っている。
赤い糸を知っているのか。
あるいは、知っている者を使っているのか。
「父の箱に、何があるのですか」
私は問うた。
御簾の奥が沈黙する。
「櫛であろう」
「それだけでしょうか」
「知らぬ」
嘘だ。
でも、ここで追えば潰される。
「そうでございますか」
私は頭を下げた。
御台所の気配が、ほんの少し動いた。
私が退いたことに気づいたのだろう。
大御台様も気づいた。
「つまらぬ」
短い一言だった。
私の怒りを引き出せなかったことへの不満か。
それとも、母ほど正面から噛みつかない私への失望か。
「志乃の娘にしては、刃が鈍い」
胸に刺さった。
だが、今は飲み込む。
「母の刃が折られたのであれば、私は櫛を持ちます」
言った瞬間、御台所が私を見る気配がした。
御簾の奥から、乾いた笑い。
「櫛か」
「はい」
「絡まりは、切った方が早い」
「切れば、結び直せません」
これは母の言葉だ。
新六が伝えてくれた。
母も言っていた。
絡まったものは、切れば早い。でも、切れば結び直せない。
御簾の奥が、再び静まった。
今度は、確かに届いた。
「誰に聞いた」
声が変わった。
ほんの少しだけ。
私は平伏したまま答えた。
「母の言葉だと、外から」
「外」
大御台様の声に、わずかな硬さが混じる。
外という言葉を嫌ったのだ。
大奥の中だけで閉じたはずのものが、外へ残っている。
その事実を。
「下がらせよ」
大御台様は言った。
御台所が頭を下げる。
「御意」
「篠乃井紗代」
「はい」
「母の名を追うな。これが最初で最後の慈悲じゃ」
慈悲。
この人は、それを本気で慈悲と思っているのだろう。
「ありがたく、胸に留め置きます」
「留めるだけにせよ」
「……はい」
襖の外へ下がる時、千鳥はずっと鈴を握っていた。
鳴らさなかった。
それだけで、今日は勝ちだったのかもしれない。
いや、勝ちなどではない。
ただ潰されずに戻っただけだ。
廊下へ出た瞬間、千鳥が大きく息を吐いた。
「息、止まってた」
「私もです」
「鼠って言った」
「はい」
「小夜の鈴を、鼠って」
「はい」
「鳴らしたかった」
「分かっています」
「鳴らさなくて、よかった?」
「はい」
千鳥は唇を噛んだ。
「でも悔しい」
「私もです」
「小夜、怒ってるかな」
「怒っていると思います」
「私に?」
「大御台様に」
千鳥は、涙を溜めたまま少し笑った。
「それならいい」
御台所が振り返った。
「二人とも、よく耐えました」
「御台様に褒められても、あまり嬉しくありません」
千鳥が言うと、初瀬がぎょっとした顔をした。
御台所は笑った。
「それでよいのです。嬉しくなりすぎると、私に飼われます」
「気をつけます」
「篠乃井」
「はい」
「大御台様は、父君の箱を知っていましたね」
「はい」
「そして、外という言葉に反応した」
「はい」
「よく見ていました」
「怒りを袖にしまっていたので、目は使えました」
御台所は満足そうに頷いた。
「少し、大奥の女になりましたね」
「嬉しくありません」
「でしょうね」
その時だった。
奥の部屋の方から、かすかな音がした。
ちりん。
私と千鳥は同時に振り返った。
小夜の鈴ではない。
千鳥の鈴は懐の中で鳴っていない。
音は、御簾の奥から聞こえた。
ちりん。
似ている。
けれど、少し違う。
小夜の鈴よりも、澄んでいる。
千鳥の顔が強張った。
「今の」
「はい」
「鈴?」
御台所の顔から、笑みが消えていた。
初瀬でさえ、御簾の方を見ている。
もう一度、音が鳴った。
ちりん。
御簾の奥の鈴。
小夜の鈴に応えるような、小さな音。
私は、胸の奥が冷えるのを感じた。
鈴は、二つある。
その可能性が、音になって目の前に現れた。
御台所が低く言った。
「……下がりなさい」
「御台様」
「今は、下がりなさい」
その声には、有無を言わせない硬さがあった。
千鳥は懐の鈴を押さえたまま、私の袖を掴む。
私も、これ以上は踏み込まなかった。
今日は、ここまでだ。
御簾の奥から聞こえた鈴の音。
大御台様は、小夜の鈴を鼠と呼んだ。
けれど、その奥には同じような鈴がある。
なぜ。
小夜の鈴と関係があるのか。
対になっているのか。
誰が持っているのか。
母はそれを知っていたのか。
廊下を戻りながら、千鳥が小さく言った。
「紗代」
「はい」
「小夜の鈴、鳴ってないよね」
「はい」
「でも、向こうが鳴った」
「はい」
「呼ばれたのかな」
私は答えられなかった。
味方か。
敵か。
それとも、七年前の夜そのものか。
御簾の奥の鈴の音が、まだ耳に残っている。
ちりん。
それは、今までで一番静かで、一番恐ろしい音だった。




