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大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第29話 御簾の奥の鈴

 御簾の奥から鳴った鈴の音は、御末の間へ戻っても耳の奥に残っていた。


 ちりん。


 小夜の鈴とは違う。


 けれど、似ている。


 似すぎている。


 千鳥は布団に入ってからも、眠る気配がなかった。懐に入れた小夜の鈴を、何度も服の上から確かめている。


「鳴ってないよね」


 その問いは、今夜だけで三度目だった。


「鳴っていません」


「でも、聞こえたよね」


「はい」


「御簾の奥から」


「はい」


 千鳥は布団を握りしめた。


「じゃあ、あれ何?」


「分かりません」


「小夜の鈴じゃない。でも、小夜の鈴に似てた」


「はい」


「大御台様、鼠って言ったのに」


 千鳥の声に、怒りが滲む。


「小夜の鈴を鼠って言ったのに、自分の近くにも鈴があるなんて、ずるい」


「ずるい、ですか」


「ずるいよ。踏みつけたものと同じ音を、自分の奥に隠してるんだから」


 その言葉は、妙に胸に残った。


 大御台様は、小夜の鈴を鼠と呼んだ。


 助けを求める小さな音を、取るに足らないものとして扱った。


 だが、御簾の奥には似た音があった。


 それが何を意味するのか、まだ分からない。


 ただ一つだけ確かなことがある。


 大御台様は、鈴の音を知らないわけではない。


「明日、お袖様に聞きます」


 私が言うと、千鳥は顔だけこちらへ向けた。


「やっぱり」


「はい」


「小夜の鈴のことなら、お袖様が一番分かる気がする」


「結び目も見抜きましたから」


「でも、御簾の奥の鈴のことを聞いたら、お袖様も危ない?」


「危ないでしょう」


「じゃあ、聞かない?」


「聞きます」


「だよね」


 千鳥は小さくため息をついた。


「紗代って、危ないって言いながら進むよね」


「千鳥もです」


「うつった」


「小夜さんにも似てきたそうですし」


「それ言われると、ちょっと嬉しいから困る」


 千鳥は、鈴を握ったまま目を閉じた。


「でも、鳴らさない。今は」


「はい」


「次に鳴らす時は、ちゃんと決めてから鳴らす」


「半分、相談してください」


「うん。半分ね」


 その夜、私はなかなか眠れなかった。


 御簾の奥の鈴。


 小夜の鈴。


 母の赤い紐。


 父の櫛の箱。


 すべてが、音のない輪のように繋がっている。


 鈴は二つあるのか。


 片方が鳴れば、もう片方が応えるのか。


 小夜は、誰に助けを求めていたのか。


 母は、何を知ってその鈴の紐を結び直したのか。


 そして大御台様の御簾の奥にある鈴は、誰のために鳴るのか。


 答えのない問いが、夜の畳に沈んでいった。


 翌朝、縫殿へ向かう廊下はいつもより長く感じた。


 千鳥は小夜の鈴を懐に入れている。


 鳴らさないよう、布に包んでいるらしい。


「厳重ですね」


 私が言うと、千鳥は真顔で頷いた。


「勝手に鳴ったら困るから」


「鈴は勝手には鳴らないと思います」


「でも、昨日の御簾の奥の音、呼ばれた感じがした」


「呼ばれた?」


「うん。こっちの鈴が鳴ってないのに、向こうが鳴ったでしょう。まるで、こっちに『いる』って言ってるみたいだった」


 いる。


 その言葉に、背筋が冷えた。


 御簾の奥にいるもの。


 大御台様。


 もう一つの鈴。


 あるいは、七年前から残った何か。


「お袖様に確認しましょう」


「うん」


 縫殿に入ると、沈丁花の糊の香がした。


 お袖は奥で白い衣を畳んでいた。


 昨日より顔色が少し悪い。


 私たちを見ると、静かに手を止める。


「御簾の奥で鈴が鳴ったそうですね」


 こちらが口を開く前に言われた。


 千鳥が目を丸くする。


「知ってるんですか」


「縫殿にいると、音の噂は早いのです」


「音の噂?」


「どの廊下で誰の衣擦れがしたか。どの御簾の奥で鈴が鳴ったか。どの女が泣いたか。大奥では、音も糸のように伝わります」


 お袖はそう言って、小夜の鈴へ視線を向けた。


「見せてください」


 千鳥は少し迷い、それから懐から鈴を出した。


 小さな銀の鈴。


 赤い紐は、志乃の結び目を取り戻したまま、丁寧に収まっている。


 お袖は鈴を受け取らず、千鳥の手の上にある状態でじっと見た。


「鳴らしても?」


 千鳥が聞く。


 お袖は首を横に振った。


「ここでは、まだ」


「まだ?」


「鳴らすなら、比べるものが必要です」


「比べるもの?」


「御簾の奥の鈴と同じものは、ここにはありません。ですが、音の作りは分かります」


 お袖は針箱を開け、小さな布袋を取り出した。


 その中には、古い鈴がいくつか入っていた。


 衣の飾りに使う鈴だろうか。


 大きさも形も少しずつ違う。


「縫殿では、衣に付ける飾り鈴を扱うことがあります。音が良すぎるものは、逆に使えません。歩くたびに鳴っては失礼ですから」


「鈴にも失礼とかあるんですね」


 千鳥がぼそりと言った。


「あります」


 お袖は真面目に答えた。


「音は身分を表します。鳴ってよい鈴と、鳴ってはならぬ鈴があるのです」


 鳴ってよい鈴。


 鳴ってはならぬ鈴。


 小夜の鈴は、どちらだったのだろう。


 助けを呼ぶために鳴らしたのに、鼠と言われた。


 なら、大奥にとって小夜の鈴は、鳴ってはならぬ鈴だったのだ。


「お袖様」


 私は尋ねた。


「小夜さんの鈴と、御簾の奥の鈴は対になっている可能性がありますか」


 お袖はすぐには答えなかった。


 小さな鈴を一つ持ち上げ、耳元で軽く振る。


 ちり、と乾いた音がした。


 違う。


 次の鈴。


 少し低い音。


 また違う。


 そして三つ目。


 ちりん。


 千鳥がびくりとした。


「似てる」


「材が近いのでしょう」


 お袖は言った。


「小夜の鈴は、普通の飾り鈴ではありません。音を揃えて作られた鈴です」


「音を揃える?」


「同じ職人が、同じ金で、同じ大きさに近づけて打つ。完全に同じ音にはなりませんが、聞く者には分かる程度に似せられます」


「つまり、最初から二つ作るつもりだった?」


「その可能性があります」


 千鳥が小夜の鈴を見た。


「二つで一つ……」


 お袖は頷いた。


「片方が鳴れば、もう片方が応えるように作られていたのかもしれません」


「本当に応えるんですか?」


「勝手に鳴るわけではありません」


 お袖は淡々と言った。


「ただ、片方の音を知る者が、もう片方で返事をする。そういう取り決めだった可能性があります」


 取り決め。


 小夜が鳴らす。


 誰かが応える。


 助けが必要な時に。


 七年前、小夜は鳴らした。


 だが、誰も来なかった。


 応えるはずの鈴は、鳴らなかったのか。


 それとも、御簾の奥で鳴ったのか。


「御簾の奥の鈴は、返事だったのでしょうか」


 私が言うと、お袖の指が止まった。


「七年前の?」


「はい」


「……分かりません」


「昨日鳴ったのは?」


「誰かが、あなた方に聞かせたのでしょう」


「大御台様が?」


「大御台様ご自身が鈴を鳴らすとは考えにくいです」


「では、誰が」


「御簾の奥に控える者です」


 千鳥が身を乗り出した。


「誰ですか」


「大御台様の御側にいる女。梅島様以外にも、何人かおります」


「お袖様は知っているんですか」


「衣を通してなら」


「衣を通して?」


「御簾の奥に入る女たちの衣は、縫殿を通ります。袖口、裾、紐、鈴。人は顔を隠せても、衣の癖は隠しきれません」


 お袖らしい見方だった。


 顔ではなく、糸を見る。


 声ではなく、布を見る。


 「昨日、御簾の奥から鳴った鈴の音は、小夜の鈴より少し高かった」


 私は記憶を辿った。


「はい。澄んでいました」


 千鳥も頷く。


「小夜の鈴は少し掠れる感じ。あっちは、もっときれいだった」


「なら、片割れの鈴は、よく磨かれているのでしょう」


 お袖は言った。


「小夜の鈴は長く隠され、黒ずんでいます。御簾の奥の鈴は、今も手入れされている」


「つまり、誰かが持ち続けている」


「はい」


 誰かが、七年前から。


 小夜の鈴の片割れを。


 大御台様の御簾の奥で。


「お袖様。その鈴を持っている女に心当たりは?」


 お袖は少し考えた。


「お房様」


「お房様」


「大御台様の御側に長くいる女です。梅島様ほど表には出ませんが、御簾の奥の細々した道具を扱う役でした」


「鈴も?」


「飾り紐や小物を扱います。鈴があるなら、お房様が知っているはずです」


「小夜さんと関わりは?」


「直接は分かりません。ただ、小夜が消えた後、お房様が一度、縫殿へ赤い糸を探しに来たことがあります」


「赤い糸」


 千鳥が鈴を握りしめる。


「何に使うためか、言いましたか」


「鈴の紐を替える、と」


 部屋の空気が静まった。


「いつですか」


「小夜が消えた数日後」


「では、小夜の鈴の片割れの紐を替えた?」


「可能性はあります」


 私は頭の中で線を繋げた。


 小夜の鈴には赤い紐があった。

 半分は母へ渡され、母が結び直した。

 その紐は父の櫛の箱へ繋がった。

 一方で、もう一つの鈴は御簾の奥に残った。

 小夜が消えた後、お房という女が赤い糸を替えた。


 つまり、御簾の奥の鈴にも赤い紐があった。


 そして、それは替えられた。


 何かを隠すために。


「お房様に会う必要があります」


 私が言うと、お袖は首を横に振った。


「簡単には会えません」


「でしょうね」


「御簾の奥の者は、大御台様の許しなく外へ出ません」


「なら、出る時を待ちます」


「危険です」


「知っています」


「知っていて行くのですね」


「はい」


 お袖は私を見た。


「志乃様に似ています」


「よく言われます」


「褒め言葉ではありません」


「存じております」


 千鳥が横で小さく笑った。


「そのやり取り、もう慣れてきた」


「慣れてはいけません」


 お袖は静かに言いながら、小夜の鈴を見た。


「もう一つ、確かめる方法があります」


「何ですか」


「この鈴を、御簾の近くで鳴らすことです」


 千鳥の顔が強張った。


「鳴らすと、どうなりますか」


「片割れを持つ者がいれば、反応するでしょう。音で。動きで。あるいは、沈黙で」


「御台様に怒られます」


「怒られるだけなら、よい方です」


 お袖の声は冷静だった。


「大御台様の前で鈴を鳴らすことは、鼠を御膳の上へ放すようなものです」


「それ、ひどい例え」


「大御台様なら、そう思われるでしょう」


 千鳥は唇を噛んだ。


「でも、小夜は鼠じゃない」


「だからこそ、鳴らすなら覚悟が必要です」


 お袖は千鳥をまっすぐ見た。


「その鈴は、小夜の声です。怒りで鳴らすものではありません」


 千鳥の目が揺れた。


「昨日は、少し怒りで鳴らしました」


「分かっています」


「駄目でしたか」


「駄目とは言いません。あれで私も話しました」


「じゃあ」


「でも、次は違います」


 お袖の声が、少しだけ強くなった。


「次に鳴らす時は、呼ぶ相手を決めてからにしなさい」


 呼ぶ相手。


 味方とは限らない。


 御台所の言葉が重なる。


 千鳥はゆっくり頷いた。


「分かりました」


 本当に分かったのか、不安そうな顔ではあった。


 でも、昨日とは違う。


 鈴を鳴らしたい衝動を、言葉で受け止めようとしている。


 小夜の鈴を持つ者として、千鳥は少しずつ変わっている。


「お袖様」


 私は尋ねた。


「お房様について、もう少し教えてください」


「年は五十前後。長く大御台様の御側におります。梅島様が外の女たちを動かす手なら、お房様は御簾の内側の手です」


「内側の手」


「はい。大御台様が何を手元に置き、何を捨て、何を隠すか。それを知っている女です」


「鈴も」


「はい」


「御子替えの噂も?」


「そこまでは分かりません。ただ、七年前、御子替えの噂が流れた頃、お房様はよく鈴の紐を替えていました」


「何度も?」


「はい。赤、白、紫。色を変えて」


「なぜ」


「分かりません」


 お袖はそう言った後、少し迷った。


「ただ、鈴の紐の色を変えることに意味があったのかもしれません」


「合図ですか」


「ええ」


 赤い糸。


 白い糸。


 紫の糸。


 色が合図になる。


 赤は危険か。

 白は隠し事か。

 紫は大御台様か。


 まだ分からない。


 けれど、鈴はただ鳴るものではない。


 紐の色、結び目、音。


 すべてが言葉の代わりだった可能性がある。


「母は、それを知っていた」


「志乃様なら、気づいたでしょう」


「小夜さんも」


「はい」


「だから消された」


 お袖は否定しなかった。


 縫殿を出る前に、お袖が千鳥へ言った。


「鈴を守りなさい」


「はい」


「でも、鈴だけを守ってはなりません」


「どういう意味ですか」


「鈴を守るあまり、自分を消しては小夜が怒ります」


 千鳥は目を瞬かせた。


 それから、少しだけ笑った。


「小夜、怒ってばっかりですね」


「そういう子でした」


「うん」


 千鳥は鈴を懐へしまった。


「私も、怒られないようにします」


「たぶん怒られます」


「お袖様まで」


「小夜に似たなら、怒られることも増えるでしょう」


 千鳥は困った顔をしながらも、少し嬉しそうだった。


 私たちは御台所の部屋へ向かった。


 報告しないわけにはいかない。


 だが、何をどこまで伝えるかは選ぶ必要がある。


 御台所は、桔梗香炉のそばに座っていた。


 珍しく、香が焚かれていない。


 部屋の空気は澄んでいた。


「お袖から聞きましたか」


「はい」


「鈴は二つ」


「その可能性が高いと」


 御台所は目を伏せた。


「やはり」


「ご存じだったのですか」


「疑っていました」


「なぜ」


「七年前、志乃が外へ出された夜、御簾の奥で鈴の音を聞いた者がいると知っていたからです」


「御台様は、その時どこに」


「私の部屋にいました」


「では、なぜ」


「後で聞いたのです」


「誰から」


 御台所は答えなかった。


 私は一歩踏み込もうとして、止めた。


 今は別の問いが先だ。


「御簾の奥の鈴を持つ者は、お房様ではないかと」


「お房」


 御台所は、その名を静かに繰り返した。


「大御台様の手元の箱を開ける女ですね」


「箱?」


「大御台様も箱をお持ちです」


 胸が冷えた。


 御台所の強欲の箱。


 父の櫛の箱。


 そして、大御台様の箱。


 この物語には、箱が多すぎる。


「その箱に、鈴が?」


「あるかもしれません」


「開けられますか」


「大御台様の箱を?」


 御台所は笑った。


「篠乃井。そなた、時々とても無茶を言いますね」


「自覚はあります」


「開けられるものなら、とっくに開けています」


「では、どうすれば」


「お房を動かすのです」


「どうやって」


「鈴で」


 千鳥の手が懐へ動いた。


 御台所は彼女を見た。


「ただし、今すぐではありません」


「はい」


「小夜の鈴を鳴らせば、お房は必ず反応します。けれど、反応するのはお房だけではない」


「大御台様も」


「ええ」


 御台所の声が少し低くなる。


「だから、鳴らす場所と時を選びます」


「いつ」


「大御台様が御簾の奥にいながら、直接人を動かせない時」


「そのような時が?」


「あります」


 御台所は、桔梗香炉へ視線を向けた。


「明後日、大御台様は御経の時間に入られます。その時、御簾の近くにお房が残る」


「そこで鈴を」


「鳴らすかどうかは、そなたたちが決めなさい」


 千鳥が目を見開いた。


「私たちが?」


「ええ。小夜の鈴は千鳥が持っている。志乃の結び目は篠乃井がほどいた。ならば、鳴らすかどうかは二人で決めるべきです」


 重い選択だった。


 鈴を鳴らせば、お房が動くかもしれない。


 同時に、大御台様の怒りも呼ぶかもしれない。


 味方とは限らない。


 敵かもしれない。


 七年前の夜そのものが、また目を覚ますかもしれない。


「考えます」


 私は答えた。


 千鳥も頷く。


「半分ずつ考えます」


 御台所は微笑んだ。


「よいでしょう」


 部屋を下がる時、御台所が言った。


「篠乃井」


「はい」


「鈴の音は、聞く者の罪を呼び起こします」


「罪を」


「ええ。七年前、鈴を聞いて動かなかった者たちがいます。次に鳴らせば、その者たちの沈黙が割れるかもしれない」


「それを望みます」


「割れた沈黙は、刃にもなります」


「承知しております」


「ならば、よく噛みなさい」


「お柳さんのように?」


「ええ」


 御台所は少し笑った。


「秘密は、丸呑みすると腹を壊します」


 廊下へ出ると、千鳥が深く息を吐いた。


「鈴を鳴らすかどうか、私たちで決めるって」


「はい」


「重すぎる」


「はい」


「でも、小夜の鈴だもんね」


「はい」


「紗代」


「はい」


「今すぐ答え出さなくていい?」


「もちろんです」


「今日は、まだ持ってるだけにしたい」


「それでよいと思います」


 千鳥は懐の鈴に触れた。


 鳴らないように。


 大切に。


「小夜、もう少し待って」


 小さな声だった。


「今度は、ちゃんと呼ぶ相手を決めるから」


 鈴は鳴らなかった。


 けれど、私にはその沈黙が、少しだけ返事のように思えた。

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