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大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第27話 外から来た急使

 外から来た文には、風の匂いがした。


 大奥の中にいると、匂いはどうしても閉じていく。


 香。

 白粉。

 古い紙。

 火鉢の灰。

 沈丁花の糊。

 女たちの袖に染みた湿った恐れ。


 けれど、その文には違う匂いがあった。


 土埃。


 馬の汗。


 夜露を含んだ紙。


 そして、急いで走ってきた者の焦り。


 篠乃井家に近い古い家臣筋から届いたというその文を、私は何度も読み返した。


 ――父君、近頃何者かに見張られております。

 ――奥方様の櫛の箱は、今も父君の手元にございます。

 ――ただし、箱を開けようとすると、父君は必ず人払いをなさいます。

 ――箱の底に、赤き糸らしきものを見た者あり。

 ――大奥より御用の名を借りた者、近頃屋敷に出入りしております。


 そして、挟まれていた小さな紙片。


 ――大御台様御用。


 大御台様。


 その名が、大奥の奥だけでなく、父の屋敷にまで届いている。


 母の櫛の箱にまで。


 父の手元にあるはずの、私の知らない母の遺品にまで。


「紗代」


 千鳥が心配そうに私の顔を覗き込んだ。


「紙、穴が開くよ」


「すでに何度も読みました」


「だからだよ」


 彼女は私の手から、そっと文を取った。


 無理に奪うのではなく、指先でほどくように。


 小夜の鈴を受け継いでから、千鳥は時々、妙に慎重な手つきをするようになった。


 物を雑に扱わなくなった、というだけではない。


 小さなものの中に大事な声が残ることを、知ってしまったのだ。


「父上は、櫛の箱を持ってる」


 千鳥は文を見ながら言った。


「はい」


「箱の底に赤い糸がある」


「はい」


「じゃあ、燃やしてない」


「そうであってほしいです」


「今日は、信じたい方を多めにする日でしょ」


 私は千鳥を見た。


 彼女は少し照れたように視線を逸らす。


「昨日から、そればっかり言ってるけど」


「助かっています」


「じゃあ、今日も多めで」


「はい」


 そう答えたものの、胸の奥は重かった。


 父を信じたい。


 でも、疑わずにはいられない。


 父は七年前、大奥から届いた文を読んで燃やした。


 そこに小夜の鈴の飾り紐が添えられていた可能性がある。


 そして今も、母の櫛の箱を人払いしてまで開けている。


 守っているのか。


 隠しているのか。


 その違いは、時に紙一枚より薄い。


「松ヶ枝様は、急使本人に会えると言っていました」


 私は文を畳み直しながら言った。


「本人?」


「はい。文だけでなく、急使が大奥の外控えに留め置かれているそうです」


「外の人に会えるの?」


「直接ではありません。表使を通して、仕切り越しになるでしょう」


「仕切り越しでも、外の人の声が聞けるんだ」


 千鳥は小さく息を吐いた。


「外って、もうそれだけで遠いね」


「はい」


 大奥へ入ってから、外は急に遠くなった。


 空は見える。


 風も入る。


 けれど、外へは出られない。


 父のいる家も、母の墓も、私が育った部屋も、ここからは別の国のように遠い。


 その遠い場所から、誰かが走ってきた。


 父が見張られていると知らせるために。


 母の櫛の箱に赤い糸があると伝えるために。


 大御台様の名を持つ者が、篠乃井家の屋敷へ出入りしていると知らせるために。


「行きましょう」


 私が立ち上がると、千鳥も頷いた。


「うん。半分ずつ」


 松ヶ枝は、外控えへ続く廊下の手前で待っていた。


 いつもの濃鼠の小袖。


 だが、今日は表情がいつも以上に険しい。


「篠乃井」


「はい」


「急使と会わせます。ただし、時間は短い。余計なことは聞かないこと」


「余計かどうかは、聞いてみなければ分かりません」


「そういう返しをすると思いました」


 松ヶ枝は疲れたように眉間を押さえた。


 千鳥が小声で言う。


「松ヶ枝様、最近紗代の扱いに慣れてきましたね」


「慣れたくはありません」


「それも分かります」


「千鳥、そなたも人ごとのように言える立場ではありません」


「私もですか」


「ええ。最近は、そなたも十分に厄介です」


 千鳥は目を丸くした。


 それから、少し嬉しそうに小声で言った。


「厄介、だって」


「褒め言葉ではありません」


 松ヶ枝が即座に言った。


「分かってます。でも、ちょっと小夜っぽいかなって」


 その言葉に、松ヶ枝の顔が少しだけ和らいだ。


「小夜は、もっと厄介でした」


 千鳥の目が揺れる。


「……そうなんですか」


「ええ。あの子は、怖がりのくせに引きませんでした」


「小夜らしい」


「そなたも、少し似てきました」


 千鳥は何も言わなかった。


 ただ、懐の鈴に手を当てた。


 ちりん、と鳴らさないように。


 松ヶ枝は襖の前で足を止めた。


「中へ。仕切りの向こうに急使がいます。名は佐伯新六。篠乃井家の旧臣筋の者です」


「佐伯……」


 聞き覚えがあった。


 幼い頃、父の屋敷に出入りしていた男だ。私に竹とんぼを作ってくれたことがある。母がまだ元気だった頃、庭先で父と何かを話していた姿も記憶の端に残っている。


「知っているのですか」


 松ヶ枝が問う。


「幼い頃に、少し」


「ならば、声を聞けば分かるでしょう」


 襖が開いた。


 中は狭い控えだった。


 中央に低い衝立が立てられている。こちら側には私と千鳥と松ヶ枝。向こう側に人の気配がある。


 荒い呼吸。


 少し掠れた男の声。


「……紗代様で、ございますか」


 胸が詰まった。


 聞き覚えがある。


 少し老いた。


 でも、確かにあの人の声だ。


「佐伯新六殿」


「はい。お久しゅうございます」


「このような場所まで、よく」


「奥方様には、昔、恩がございますゆえ」


 奥方様。


 母のことだ。


 大奥の中で母は志乃と呼ばれ、罪の名札を貼られ、香炉の灰の中に閉じ込められていた。


 だが、この人は今、母を奥方様と呼んだ。


 その一言だけで、喉の奥が熱くなった。


「父は、無事ですか」


 私が尋ねると、衝立の向こうで衣擦れがした。


 新六が頭を下げたのだろう。


「今のところは。ただ、屋敷の周りに見慣れぬ者が増えております」


「大御台様御用の者ですか」


「名乗りは、そうでございました」


「どのような者です」


「表向きは、寺社方に関わる取次と申しておりました。ですが、動きが妙でございます。屋敷の門前を通るだけの日もあれば、薬種問屋の者として裏手へ回る日もある」


「薬種問屋」


 千鳥が小さく呟いた。


 奥医師筋。


 御子替えの噂には、医師の記録が絡んでいた。


 薬種問屋として外を動く者がいるなら、奥医師筋と大御台様の周辺が繋がっている可能性がある。


「父は、その者たちと会っていますか」


「会っております」


 胸が沈んだ。


 新六はすぐ続けた。


「ただし、自ら望んでいるようには見えませぬ」


「どういうことですか」


「旦那様は、彼らが来ると必ず人払いをなさいます。しかし、帰った後は長く母屋に籠もり、奥方様の櫛の箱を出されます」


「櫛の箱を」


「はい」


「箱の底に赤い糸があると書いてありました」


「それは、屋敷の女中が見たものでございます」


「女中が?」


「旦那様が一度、箱を開けたまま眠ってしまわれたことがございました。その時、箱の底板の隙間に、赤いものが挟まっていたと」


 私は手を握った。


「父は、その赤い糸を隠しているのですか」


「おそらく」


「燃やしてはいない」


「はい。少なくとも、今も箱の中にあると思われます」


 胸の奥で、何かがほどけた。


 完全ではない。


 けれど、少し。


 父は燃やしていなかった。


 少なくとも、すべてを燃やしたわけではない。


「旦那様は、奥方様の櫛だけは、誰にも触れさせません」


 新六の声が、少し柔らかくなった。


「時折、箱を開いて、じっと見ておられます。何かを読むように。何かを悔いるように」


「悔いる……」


「紗代様」


「はい」


「旦那様は、奥方様を忘れたわけではございません」


 その言葉に、目の奥が熱くなった。


 忘れなさいと書いた父。


 けれど、母を忘れてはいない父。


 その矛盾が、痛くて、少しだけ救いでもあった。


「では、なぜ私に忘れろと」


「恐れておいでなのです」


「何を」


「紗代様まで、奥方様と同じ道を辿ることを」


 千鳥が隣で、そっと私の袖に触れた。


 私は息を整えた。


「父は、七年前に大奥から届いた文を燃やしましたか」


 衝立の向こうが静かになった。


 新六は、すぐには答えなかった。


「答えてください」


「……燃やしました」


 分かっていた。


 それでも、心臓を直接握られたようだった。


「なぜ」


「それは、私にも分かりませぬ。ただ、燃やす前に旦那様は泣いておられました」


「父が?」


 私の知る父は、人前で泣かない人だった。


「はい。声は出しておりません。ただ、文を持つ手が震えておりました。庭の火鉢に文を入れた後も、ずっと火を見ておられました」


「赤い飾り紐は」


「それは燃やしておりません」


 私は息を止めた。


「見たのですか」


「はい。旦那様は文だけを燃やし、赤い紐は懐へしまわれました」


 父は、紐を燃やしていない。


 母の結び目を、捨てていない。


 信じたい方が、また少しだけ重くなった。


「その紐が、櫛の箱に?」


「おそらく」


「父は、その紐について何か」


「一度だけ、申されました」


「何と」


 新六の声が低くなった。


「『志乃は、最後まで帰る道を残した』と」


 胸が熱くなった。


 母は帰る道を残した。


 しかし、帰れなかった。


 父はそれを知っている。


 知っていて、燃やした。


 燃やしたが、紐は残した。


 守るためか。


 隠すためか。


 たぶん、どちらもだ。


「新六殿」


「はい」


「父は今、危険なのですね」


「はい」


「大御台様御用の者は、父に何を求めていますか」


「櫛の箱かと」


 千鳥が息を呑んだ。


「つまり、向こうも箱に何かあると知っている」


「そのようです」


「父は渡していない」


「はい。旦那様は、櫛の箱は奥方様の形見であると申して、誰にも渡しておりません」


 よかった。


 そう思った直後、別の恐怖が来た。


 渡していないから、父は見張られている。


 渡さなければ、いつか奪われるかもしれない。


「父に伝えてください」


 私は言った。


「櫛の箱を守ってください、と」


 松ヶ枝が隣で少し動いた。


 この言葉も、誰かに聞かれる可能性がある。


 でも、今は言わずにいられなかった。


 新六は低く答えた。


「必ず」


「そして、私もこちらで母の結び目をほどいていると」


「ほどく、でございますか」


「はい。切らずに」


 衝立の向こうで、新六が小さく息を呑む。


「奥方様も、よくそう仰っていました」


「母が?」


「絡まったものは、切れば早い。でも、切れば結び直せない、と」


 母の声が、遠くから戻ってきた気がした。


 私は目を伏せた。


「やはり母の言葉なのですね」


「はい」


 その時、外の廊下で足音がした。


 松ヶ枝の顔が変わる。


 初瀬だった。


 襖の向こうから、静かな声がする。


「御台様より、そろそろお時間です」


 短すぎる。


 まだ聞きたいことが山ほどある。


 父は何を知っているのか。

 母の櫛の箱には何があるのか。

 大御台様御用の者は誰なのか。

 寺社方、薬種問屋、奥医師筋の繋がりは何なのか。


 けれど、時間がない。


「新六殿」


「はい」


「父へ、どうか」


 言葉が詰まった。


 どうか無事で。


 どうか信じさせて。


 どうか母を裏切っていないと示して。


 そのどれも、口にするには重すぎた。


 新六は、静かに言った。


「旦那様は、紗代様を愛しておられます」


 それは、今ほしい答えだった。


 真実ではないかもしれない。


 でも、今だけはすがりたい言葉だった。


「ただ、愛することと、正しく守ることは違うのだと、近頃ひどく悔いておられるように見えます」


 父もまた、守ることに失敗したのかもしれない。


 母を。


 私を。


 そして自分自身を。


「また文を送ります」


 私は言った。


「旦那様へ必ず」


「お気をつけて」


「新六殿も」


 襖が閉じられた。


 外から来た風の匂いが、少しずつ薄れていく。


 私はその場にしばらく立ったままだった。


 千鳥が隣で、何も言わずに袖を握ってくれた。


 松ヶ枝は、低く言った。


「父君は、完全な敵ではなさそうですね」


「はい」


「ですが、完全な味方とも言い切れません」


「分かっています」


「つらいでしょう」


「はい」


「それでも、今日は信じたい方を少し多めに?」


 松ヶ枝がそんなことを言うとは思わず、私は顔を上げた。


 千鳥が目を丸くする。


「松ヶ枝様、それ聞いてたんですか」


「聞こえました」


「盗み聞き」


「大奥では情報収集と言います」


「ずるい」


「ええ。大奥ですから」


 千鳥は複雑な顔をしたが、少しだけ笑った。


 その小さな笑いが、私を支えてくれた。


 御台所の部屋へ行くと、彼女はすでに急使の内容を知っている顔をしていた。


「外は、騒がしくなってきましたね」


「御台様は、どこまで」


「全部ではありません」


「では、どこまで」


「父君が見張られていること。櫛の箱に赤い糸があること。大御台様御用の紙片が混じっていたこと」


「十分ではありませんか」


「大切なのは、誰がその紙片を混ぜたかです」


 御台所は静かに言った。


「大御台様の名を本当に使った者か。大御台様の名を利用した者か。それとも、こちらに大御台様を疑わせたい者か」


「御台様は、大御台様を庇うのですか」


「いいえ」


「では」


「大御台様は傲慢な方です。けれど、傲慢な者ほど、自分の名を使う下々の細工に気づかないこともある」


「つまり、周囲も調べろと」


「ええ」


 御台所は微笑んだ。


「大御台様へ近づきたいなら、まず御簾の周りの埃を見なさい」


「御簾の周り」


「明日、そなたを大御台様の居所近くへ連れていきます」


 千鳥の手が、私の袖を強く握った。


「直接、お会いするのですか」


「まだです」


「御簾越しに?」


「声だけを聞くことになるでしょう」


 大御台様の声。


 傲慢の女。


 母を外へ出す命を出したかもしれない女。


 御子替えの噂を、寒いと言うだけで焚かせたかもしれない女。


「御台様」


「何です」


「母は、大御台様に何を見たのでしょう」


 御台所はすぐには答えなかった。


 桔梗香炉の方へ目を向ける。


「国の形です」


「国の形?」


「大御台様にとって、国とは血筋です。血筋とは秩序です。秩序とは、女一人の名など踏んでよいものです」


 胸の奥が冷えた。


「私は、その考えを認めません」


「御簾の前でそれを言えば、潰されます」


「分かっています」


「分かっているなら、明日は怒りを袖の奥に隠しなさい」


「母のように?」


 御台所は私を見た。


「ええ」


「母は袖の奥に文と赤い紐を隠しました」


「なら、そなたは怒りを隠しなさい」


「隠した怒りは、どうすれば」


「ほどく時に使いなさい」


 御台所は、静かに笑った。


「切るためではなく」


 縫殿でお袖が言った言葉と重なった。


 切らずに、ほどいてください。


 私は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 部屋を下がると、千鳥が大きく息を吐いた。


「明日、大御台様の近く」


「はい」


「怖い」


「はい」


「でも、行く」


「はい」


「鈴、鳴らさない方がいいよね」


「時を選びましょう」


「鳴らす可能性はあるんだ」


「あります」


「そこは否定してほしかった」


「嘘が下手なので」


「知ってる」


 千鳥は懐の鈴に手を当てた。


「小夜、明日は怒らないでね」


 鈴は鳴らなかった。


 けれど、私はその沈黙の中に、小夜の気配が少しだけあるように思えた。


 夜、父への二通目の文を書くことにした。


 今度は短く。


 読まれてもよい。


 だが、父だけが分かるように。


 ――父上。櫛の箱は、切らずにほどいてくださいませ。

 ――母上の結び目は、まだ私の手にも残っております。

 ――赤い糸は、燃えていないと信じています。


 千鳥が横から覗き込み、静かに頷いた。


「今度は、かなり攻めてる」


「はい」


「でも、父上なら分かる?」


「分かってほしいです」


「うん」


 文を畳むと、胸の中で何かが鳴った気がした。


 鈴ではない。


 たぶん、母の結び目が少しだけほどけた音だ。


 外から来た急使は、父がまだ完全には沈黙していないことを教えてくれた。


 だが同時に、大御台様の手が外へ伸びていることも示した。


 明日、私はその手の主に近づく。


 御簾の奥の声を聞く。


 怒りを袖の奥に隠して。


 母がそうしたように。


 でも、母と同じ結末にはしない。


 小夜の鈴が鳴ったのに、誰も来なかった夜を繰り返さないために。

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