第26話 志乃の結び目
結び目というものは、ほどこうとすればするほど固くなることがある。
力を入れれば、糸は食い込む。
焦れば、指先が滑る。
刃を当てれば簡単に切れるが、切ってしまえば、もう元の形には戻らない。
大奥の秘密も、それに似ている。
母の死。
小夜の鈴。
父が燃やした文。
大御台様の御簾の奥。
どれも絡まり、固く結ばれていた。
そして昨日、お袖は言った。
小夜の鈴に残る赤い紐は、小夜の結びではない。
志乃様が結び直したものです、と。
母の結び目。
その言葉が、朝になっても私の胸から離れなかった。
「紗代、また顔が難しい」
千鳥が横から言った。
御末の間の朝は、今日も騒がしい。水桶、布巾、火鉢、膳。女中たちは昨日と同じように動いている。小夜の鈴が鳴ったことも、御台所が大御台様の御簾近くへ行く話をしたことも、表向きには何も起きていないことになっていた。
大奥は、何もなかった顔をするのが本当に上手い。
「顔が難しいとは、どのような顔ですか」
「糸が絡まった針箱を前にして、怒るか泣くか迷ってる顔」
「分かりやすいような、分かりにくいような」
「つまり、いつもの紗代より三割くらい怖い」
「それは困ります」
「困ってる顔も怖い」
千鳥はそう言って、小さく笑った。
その懐には、小夜の鈴がある。
彼女は昨日から、何度もそこへ手を当てている。確かめるように。守るように。あるいは、鈴の方から自分を呼んでいるかを聞くように。
「鈴、大丈夫ですか」
私が聞くと、千鳥は懐を押さえた。
「大丈夫。鳴らしてない」
「鳴らしたくなりましたか」
「少し」
「なぜ」
「小夜が本当にいたんだって、音で確かめたくなる」
千鳥は少し目を伏せた。
「でも、御台様が言ってたでしょ。鈴は味方だけを呼ぶとは限らないって」
「はい」
「だから、我慢してる。えらい?」
「えらいです」
「素直に褒められると落ち着かない」
「では、ほどほどにえらいです」
「急に雑」
千鳥の軽口に、私も少しだけ笑った。
けれど、すぐに気持ちは縫殿へ戻る。
お袖。
糸と結び目を読む女。
母の結び目を見抜いた女。
もう一度、会わなければならない。
「今日、お袖様のところへ行きます」
「やっぱり」
「小夜さんの鈴の紐を、もっと詳しく見てもらいます」
「お袖様、話してくれるかな」
「昨日よりは」
「昨日、鈴を鳴らしたから?」
「はい」
千鳥は少し複雑な顔をした。
「小夜の鈴、便利な鍵みたいになってる」
「鍵は、開ける相手を間違えると危険です」
「御台様みたいなこと言う」
「それは嫌ですね」
「うん。嫌そうな顔してる。よかった」
千鳥は鈴を懐の上から押さえ、立ち上がった。
「行こう。半分ずつ」
「はい」
縫殿は、今日も沈丁花の糊の匂いがした。
昨日より少し空気が張っている。小夜の鈴を鳴らしたことが、もう縫殿の内側に伝わっているのだろう。
女中たちはこちらを見るなり、針を持つ手を少し止めた。
恐れている。
好奇心もある。
そして、関わりたくないという顔もある。
どれも見慣れてきた顔だった。
お袖は奥の部屋にいた。
赤い糸ではなく、今日は淡い銀糸を扱っている。大御台様のものだろうか。布は白に近い薄鼠で、袖口にだけ細かな文様が入っている。
彼女は私たちを見ると、針を置いた。
「来ると思っていました」
「お袖様も、皆様と同じことを仰るのですね」
「大奥では、来る者はだいたい顔に書いてあります」
千鳥がぼそりと言う。
「顔に書かれすぎじゃない?」
「千鳥もです」
「え、私も?」
「はい」
お袖は淡々と言った。
「怖いけれど逃げない、と書いてあります」
千鳥は一瞬言葉に詰まった。
それから、少し赤くなって顔を逸らす。
「そういうの、急に言わないでください」
「失礼しました」
「謝られても困る」
お袖の無表情の奥に、ほんのわずかな笑みが見えた気がした。
この人は、感情がないのではない。
出し方を忘れているだけなのかもしれない。
「お袖様」
私は本題へ入った。
「小夜さんの鈴を、もう一度見ていただきたいのです」
「鈴を」
「はい。紐の結び目を、詳しく」
千鳥は懐から小夜の鈴を取り出した。
昨日より、手つきは落ち着いている。
それでも、鈴が空気に触れた瞬間、縫殿の奥で誰かの息が止まる気配がした。
お袖は両手で鈴を受け取った。
昨日と同じように、職人の目になる。
赤い紐の半分。
小夜が残し、母が結び直したかもしれない結び目。
お袖はしばらく黙って見ていた。
「この結びは、やはり志乃様です」
「なぜ、そこまで分かるのですか」
「糸は、触った人の癖を覚えます」
お袖は静かに言った。
「小夜は急ぐと結びを丸くします。お梅は泣く時に指先まで力が抜けるので、結びが緩い。梅島様は女中に結ばせるので、ご自分の癖はほとんど残しません。私はほどけないように結ぶ癖がある。志乃様は……」
そこで、お袖は少し言葉を切った。
「志乃様は、ほどく人のことを考えて結びます」
「ほどく人」
「はい。強く結ぶのに、どこか一箇所だけ指を入れる隙がある。結び目の裏に、逃げ道を作るのです」
母らしいと思った。
母はいつもそうだった。
きっちりしているようで、最後に少しだけ余白を残す。私が間違えても直せるように。父が疲れていても、気づかないふりで休めるように。
見えないところに、逃げ道を作る人。
「母は、この紐にも逃げ道を作っていたのですね」
「はい」
お袖は鈴の紐をそっと指で示した。
「ここです」
赤い紐の結び目の裏側。
たしかに、わずかに輪がある。
知らなければ見逃すほど小さい。
「この輪に細い針を通せば、切らずにほどけます」
「ほどくと、何か分かるのですか」
「分かるかもしれません」
千鳥がすぐに鈴を抱え込むように手を伸ばした。
「ほどくんですか?」
声が不安で揺れていた。
「ほどけば、元に戻せますか」
お袖は千鳥を見た。
「私なら戻せます」
「本当に?」
「嘘は苦手です」
「紗代みたいなこと言う」
「私も小夜にそう言われました」
千鳥は、少しだけ息を吐いた。
「……小夜が残したものを壊したくない」
「壊しません」
お袖の声は静かだった。
「切らずにほどきます」
千鳥は迷った。
小夜の鈴は、彼女にとって遺品以上のものになっている。小夜がいた証であり、最後に鳴らされた声だ。
それをほどくのは、もう一度小夜を失うように感じるのかもしれない。
私は千鳥に言った。
「決めるのは千鳥です」
「紗代じゃなくて?」
「小夜さんの鈴を持つのは千鳥です」
「でも、志乃様の結び目でもある」
「はい」
「じゃあ、二人で決める?」
「はい」
千鳥は鈴を見た。
長い沈黙。
やがて、小さく頷いた。
「ほどこう」
お袖は針箱から、ごく細い針を取り出した。
普通の針よりも細く、先がほんの少し曲がっている。結び目をほどくための道具だろう。
「糸は、力でほどいてはいけません」
お袖は言った。
「結んだ人の手順を辿るのです」
その言葉は、今の私たちがしていることそのものだった。
母が何を見たのか。
小夜が何を聞いたのか。
父が何を燃やしたのか。
大御台様が何を命じたのか。
私たちは今、結んだ人の手順を辿っている。
切るのではなく、ほどくために。
お袖は針先を赤い紐の裏側へ差し入れた。
千鳥は息を止めている。
私も、無意識に手を握っていた。
小さな結び目が、ほんの少し緩む。
お袖は焦らない。
糸の流れを確かめ、わずかに引き、また戻し、もう一度針を入れる。
時間がかかった。
しかし、赤い紐は切れなかった。
やがて結び目の内側から、さらに細いものが現れた。
「これは」
お袖が目を細めた。
赤い糸の中に、白い糸が一本だけ通されていた。
ただの補強ではない。
あまりに細く、意図的だった。
「白糸……?」
千鳥が呟く。
お袖は慎重に白糸を引き出した。
その先に、小さな紙が巻きつけられていた。
髪の毛ほどに細く畳まれた紙。
昨日の布包みの縫い目と同じだ。
千鳥が震えた。
「また……」
「母は、ここにも隠した」
私は声を抑えた。
お袖が紙を私へ差し出す。
「開けてください」
「お袖様は?」
「これは、あなた方が読むべきものです」
私は千鳥と並び、小さな紙を開いた。
母の字だった。
短い。
だが、はっきりしていた。
――鈴の半分は外へ。
――櫛の箱を見よ。
櫛の箱。
父へ書いたばかりの、母の櫛。
胸が強く鳴った。
「櫛の箱……」
千鳥が私を見る。
「紗代、父上に書いたよね」
「はい」
「母上の櫛をまだ持っているかって」
「はい」
偶然ではない。
母は、鈴の半分を外へ出そうとした。
そして、櫛の箱を見よ、と残した。
父が母の櫛を持っているなら、その箱の底に何かがある。
赤い糸。
文。
あるいは、母が本当に伝えたかったもの。
「父は、知っている」
私の声は震えていた。
「少なくとも、櫛の箱に何かがある可能性を」
「でも、父上が知らない可能性もある」
千鳥が急いで言った。
「箱に入ってるって知らずに、ずっと持ってたのかもしれない」
「はい」
「今日は、信じたい方を少し多めにする日でしょ」
その言葉に、胸が少しだけ緩んだ。
「はい」
お袖は、紙片をじっと見つめていた。
「志乃様は、外へ届く手がかりを二つに分けたのですね」
「鈴の半分と、櫛の箱」
「はい」
「小夜さんの鈴は、大奥の中に残る。紐の半分は外へ出る。父が持つ櫛の箱と繋がるように」
「志乃様らしい」
お袖は静かに言った。
「一つが潰されても、もう一つが残るように」
母は、そこまで考えていたのか。
自分が外へ出され、戻れないかもしれないと知りながら。
小夜が危険に晒されると知りながら。
それでも、残す道を作った。
強い。
けれど、苦しい。
なぜ母は一人でそんなことを背負ったのか。
いや、一人ではなかった。
小夜がいた。
お袖が見逃した。
誰かが鈴を聞いた。
父が何かを受け取った。
母の正しさは孤独だったかもしれないが、完全に一人ではなかったのだ。
「お袖様」
私は紙片を丁寧に畳んだ。
「この結び目、元に戻せますか」
「戻します」
お袖は、今度は白糸を紙片なしでそっと収め、赤い紐を結び直した。
ただし、まったく同じではなかった。
「戻したのですか」
千鳥が聞く。
「はい。ただ、今度はあなたがほどけるようにしておきました」
「私が?」
「ええ」
お袖は鈴を千鳥へ返した。
「もう、この鈴は小夜だけのものではありません。千鳥、あなたが持つものです」
千鳥は鈴を両手で受け取った。
ちりん、と小さく鳴る。
今度は怯えなかった。
「ありがとう、ございます」
千鳥はぎこちなく頭を下げた。
お袖は軽く頷いた。
「お礼を言われるほどのことではありません」
「でも、言います」
「小夜に似てきましたね」
千鳥は目を見開いた。
それから、少し困ったように笑った。
「怒られるかな」
「おそらく」
「やっぱり」
私たちは、さらにお袖から話を聞いた。
母が外へ出される直前、袖の中に何かを隠していたこと。
お袖はそれに気づいたが、言わなかったこと。
母の衣の袖口に、赤い糸のほつれがあったこと。
それは小夜の鈴の紐と同じ色だったこと。
そして母が、外へ出される時に一度だけ振り返ったこと。
「志乃様は、誰を見たのですか」
私が問うと、お袖は少し考えた。
「小夜ではありません」
「では」
「御鈴廊下の方を」
「鈴を?」
「はい。鈴の音を待っているようにも見えました」
母は、小夜の鈴を待っていたのかもしれない。
あるいは、鈴が鳴ったことを確認しようとしたのか。
でも、誰も来なかった。
そのまま母は外へ出された。
「お袖様は、母を見送ったのですね」
「見送りました」
「何を思いましたか」
お袖は、少しだけ目を伏せた。
「美しい結び目が、切られると思いました」
「それだけですか」
「当時は、それだけでした」
「今は?」
「ほどき直せなかったことを、悔いています」
その言葉は、静かだった。
松ヶ枝のように大きな後悔ではない。お柳のように腹から吐き出す秘密でもない。お袖の悔いは、糸の中に細く残っている。
それでも、確かにあった。
私たちが縫殿を出ようとした時、初瀬が現れた。
最近、彼女はどこにでも現れる。
音もなく、気配もなく。
千鳥が小声で言った。
「初瀬様、壁から生えてるのかな」
「聞こえますよ」
初瀬が言った。
千鳥が固まる。
「申し訳ございません」
「御台様がお呼びです」
「またですか」
「はい」
初瀬は私を見た。
「ただし、今回は急ぎではありません。先に松ヶ枝様のもとへ」
「松ヶ枝様?」
「外から急使が来ました」
胸が鳴った。
「父からですか」
「いいえ」
初瀬は首を横に振った。
「父君からではありません」
「では、誰から」
「篠乃井家に近い者、とだけ」
千鳥が私を見る。
父からの返事ではない。
だが、外から来た。
しかも、篠乃井家に近い者。
「参ります」
私は言った。
縫殿を出る前に、お袖が小さく呼び止めた。
「篠乃井さん」
「はい」
「櫛の箱を見る時は、底を叩いてください」
「底を?」
「箱に隠し底を作るなら、音が少し違います」
「なぜ、それを」
「志乃様なら、そうします」
私は頭を下げた。
「覚えておきます」
「切らずに、ほどいてください」
「はい」
廊下へ出ると、千鳥が隣に並んだ。
「急使って、何だろう」
「分かりません」
「父上じゃないんだよね」
「はい」
「でも、篠乃井家に近い人」
「はい」
千鳥は鈴に手を当てた。
「鳴らす?」
「今は鳴らしません」
「分かってる。聞いてみただけ」
「鳴らしたいのですか」
「少し。怖い時に鳴らしたら、小夜が怒りながら来てくれそうだから」
「今は私がいます」
千鳥が目を丸くした。
それから、耳を赤くする。
「急にそういうこと言うの、やめて」
「本当です」
「もっとやめて」
そう言いながら、千鳥は少し嬉しそうだった。
松ヶ枝の部屋へ向かう廊下は、夕方の光で赤く染まっていた。
赤い糸。
鈴の紐。
父へ届いたかもしれない飾り紐。
母の結び目。
すべてが一本の線になり、外へ伸びている。
松ヶ枝は、すでに文を広げて待っていた。
顔が険しい。
「来ましたね」
「急使とは」
「篠乃井家の古い家臣筋からです」
父ではない。
けれど、父の近くにいる者。
松ヶ枝は私へ文を差し出した。
「読みなさい」
私は受け取った。
手が震えた。
文には、短くこうあった。
――父君、近頃何者かに見張られております。
――奥方様の櫛の箱は、今も父君の手元にございます。
――ただし、箱を開けようとすると、父君は必ず人払いをなさいます。
――箱の底に、赤き糸らしきものを見た者あり。
――大奥より御用の名を借りた者、近頃屋敷に出入りしております。
私は文の端を見た。
そこに、小さな紙片が挟まっていた。
薄い紙。
そこには、たった一言。
――大御台様御用。
背筋が冷たくなった。
大御台様の手は、外にも伸びている。
父の屋敷にまで。
母の櫛の箱にまで。
「紗代」
千鳥が私の袖を掴んだ。
「箱の底に赤い糸って」
「はい」
「燃えてない」
「はい」
父は、燃やしていない。
少なくとも、赤い糸はまだ残っている可能性がある。
信じたい方を、今日は少し多めにする。
千鳥の言葉が胸に蘇った。
父は、何かを守っているのかもしれない。
ただし、その父は今、見張られている。
大御台様の名を借りた者によって。
松ヶ枝が低く言った。
「第四章は、ここから本当に危険になります」
「章?」
千鳥が首を傾げる。
松ヶ枝は咳払いをした。
「……言葉の綾です」
「珍しいですね、松ヶ枝様が変なこと言うの」
「忘れなさい」
「大奥でそれ言われると怖いです」
そんなやり取りをしている場合ではないのに、少しだけ空気が緩んだ。
松ヶ枝は真顔に戻った。
「篠乃井。父君は完全な裏切り者ではない可能性が高まりました」
「はい」
「ですが、安全でもありません」
「分かっています」
「大御台様の御用を名乗る者が外へ出入りしている以上、父君への文も返事も、すべて見られる可能性があります」
「では、どうすれば」
「次は、大御台様の御簾近くへ行くしかありません」
いよいよだ。
傲慢の女。
正しい女ほど国を乱すと考える女。
将軍家の血を、自分のものだと思っている女。
その御簾の奥へ。
私は懐の紙片に触れた。
鈴の半分は外へ。
櫛の箱を見よ。
母は、外へ届く道を作っていた。
ならば私は、内側からその道をほどく。
切らずに。
できる限り。
千鳥が隣で、小夜の鈴を握った。
ちりん、と鳴らさず、ただ握る。
「紗代」
「はい」
「今度は、鈴を鳴らす前に言う」
「はい」
「でも、鳴らす時は鳴らす」
「はい」
「小夜が怒っても」
「はい」
私は千鳥を見た。
「その時は、私も一緒に怒られます」
千鳥は、泣きそうに笑った。
「半分ずつ?」
「半分ずつ」
夕闇の中で、母の結び目が少しだけほどけた。
だが、その先には大御台様の御簾がある。
鈴の音は、まだそこまで届いていない。
次に鳴らす時、何が来るのか。
味方か。
敵か。
それとも、七年前の夜そのものか。
私は、父からではない急使の文を握りしめた。
赤い糸は、まだ燃えていない。
そして母の結び目は、まだ切れていない。




