第23話 父の書状
父の文は、見慣れた字で書かれていた。
細く、まっすぐで、余計な飾りがない。
父らしい字だ。
幼い頃、私はその字を好きだった。母の字が凛としていて、最後の払いに強さがあるなら、父の字は水のようだった。静かで、読みやすく、怒りや迷いを表に出さない。
けれど今、その字は冷たかった。
――紗代。大奥で母のことを追ってはならぬ。
――志乃の死は、もう終わったことだ。
――どうか、忘れなさい。
忘れなさい。
その一文だけが、何度読んでも胸の中で引っかかる。
父は、母を愛していた。
少なくとも、私はそう信じていた。
母が亡くなった後、父は泣かなかった。人前では。けれど、夜更けに母の使っていた櫛を手に取り、ただ黙って座っている姿を何度も見た。
母の着物を捨てられず、箪笥の奥にしまい込んでいた。
母の好んだ茶碗を、欠けても使い続けた。
母の話を私がすると、ほんの少しだけ目元を緩めた。
その父が、母の死を忘れなさいと書いている。
なぜ。
怖いからか。
私を守るためか。
それとも、父も何かを知っているのか。
「紗代」
千鳥の声で、私は我に返った。
文を握る手に力が入りすぎていたらしい。紙が少し皺になっていた。
「大丈夫?」
「……大丈夫ではありません」
「うん。そう見える」
千鳥は隣に膝をついた。
御末の間の隅。周りでは女中たちが寝支度をしている。だが、誰もこちらへ近づこうとはしなかった。
父から文が届いた。
それだけなら珍しいことではない。
しかし、今の私はもう、ただの御末ではない。
御台所に呼ばれ、藤尾の方に簪を預けられ、お柳の灰を暴き、松ヶ枝を動かし、小夜の名を掘り起こしている。
私に近づくことは、火鉢に袖を垂らすようなものだ。
火がつくかもしれない。
皆、それを感じ始めている。
「読んでもいい?」
千鳥が遠慮がちに言った。
私は一瞬迷った。
父の文だ。
家族の言葉だ。
けれど、もう一人で持つべきではない。
一人で持った秘密は、人を殺す。
私は文を千鳥へ渡した。
千鳥は両手で受け取り、真剣な顔で読んだ。
読み終えるまで、長い沈黙があった。
「……忘れなさい、か」
「はい」
「お父上は、紗代を心配してるんだと思う」
「私も、そう思いたいです」
「でも?」
「父は、母の死について何か知っているのかもしれません」
口にした瞬間、胸が痛んだ。
言葉は、形にすると重くなる。
父を疑う。
その重さが、ようやく自分の手に乗った気がした。
千鳥は文を畳み、私へ返した。
「紗代」
「はい」
「疑うの、つらいね」
「はい」
「でも、疑わないふりをするのも、きっとつらい」
「はい」
「どっちも地獄じゃん」
「大奥ですから」
「そういう返し、今は笑えない」
「すみません」
千鳥は苦い顔をした後、小さく息を吐いた。
「でも、分かる。小夜のこともそうだった。私は小夜を信じたかった。小夜が私を置いていくはずないって思いたかった。でも、実際は小夜は私を起こそうとして、やめた。守るために置いていった」
「父も、守るために忘れろと?」
「かもしれない」
「でも、それでは母の名は戻りません」
「うん」
千鳥は少し考え込んだ。
「父上に返事を書く?」
「書けば、届くまで時間がかかります」
「じゃあ今できることは?」
「父の文が大奥へ届いた経路を調べます」
千鳥が眉を上げた。
「そこ?」
「はい」
「文の中身じゃなくて?」
「中身は父の言葉です。ですが、この時機に届いたことが気になります」
「確かに」
千鳥も文を見た。
「小夜の布包みを見て、お梅様に会って、鈴の話が出て、その日のうちに父上から『忘れなさい』って……出来すぎてる」
「はい」
「誰かが、紗代の父上に知らせた?」
「あるいは、父が最初から私が大奥で母を追うことを恐れていた」
「両方かも」
「はい」
文は外から届いた。
大奥の外から届く文は、いくつもの手を通る。
表使。
取次。
御年寄。
場合によっては御台所の目も。
誰かが中を見た可能性がある。
誰かが届くように仕向けた可能性もある。
「松ヶ枝様に聞きます」
私が言うと、千鳥は顔をしかめた。
「また松ヶ枝様」
「文の出入りを知っているはずです」
「それはそうだけど」
「一緒に来ますか」
「行く」
即答だった。
「待つ係でも?」
「もう待つだけは嫌」
「では、一緒に」
千鳥は小さく頷いた。
「半分ずつ」
「はい」
松ヶ枝は、夜更けにもかかわらず起きていた。
古い文箱の前に座り、何かを書き留めていた。灯火の下で見るその顔は、昼間よりもずっと老いて見えた。皺が深く、目の下に疲れが落ちている。
それでも、筆を持つ手は震えていなかった。
怠惰の女は、少しずつ動き始めている。
「このような時刻に何です」
松ヶ枝は顔を上げずに言った。
「父から文が届きました」
その瞬間、筆が止まった。
ほんのわずか。
だが確かに止まった。
「父君から」
「はい」
「何と」
「母のことを追うな。志乃の死は終わったことだ。忘れなさい、と」
松ヶ枝は筆を置いた。
「そうですか」
「驚かないのですね」
「父親ならば、そう書くでしょう」
「本当にそう思われますか」
「半分は」
千鳥が小声で「また半分」と呟いた。
松ヶ枝は聞こえていたのか、少しだけ目を細めた。
「篠乃井。父君を疑っているのですか」
「疑いたくありません」
「答えになっていません」
「疑っています」
言った。
言ってしまった。
父を疑うという言葉が、部屋の空気に沈む。
松ヶ枝は静かに私を見た。
「それは苦しいでしょう」
「はい」
「ならば、まだ引き返せます」
「引き返しません」
「そう言うと思いました」
松ヶ枝は小さく息を吐いた。
「文を見せなさい」
私は父の文を差し出した。
松ヶ枝は受け取り、丁寧に広げた。
目が文字を追う。
その表情は変わらない。
だが、最後の一文で少しだけ眉が寄った。
「どうか、忘れなさい」
松ヶ枝が呟いた。
「父の字ですか」
「間違いなく父の字です」
「そうですか」
「何か気になることが?」
松ヶ枝は返事をしなかった。
沈黙。
最近、私はこの沈黙を読むのが少しだけ上手くなってきた。
これは知らない沈黙ではない。
思い出している沈黙だ。
「松ヶ枝様」
「何です」
「父は七年前、大奥から届いた文を受け取りましたか」
松ヶ枝の顔が変わった。
千鳥も息を呑む。
私は続けた。
「母の死後、父へ何か文が届いたのではありませんか」
「なぜ、そう思うのです」
「父は母の死を病死として受け入れました。けれど、大奥で母に何があったかを全く知らなかったとは思えません。知らなければ、今回のように『追うな』とは書けない」
「……鋭くなりましたね」
「嬉しくありません」
「でしょうね」
松ヶ枝は、しばらく父の文を見つめていた。
そして、低く言った。
「七年前、そなたの父君へ文が届きました」
胸が強く打った。
「誰からですか」
「差出人はありませんでした」
「内容は?」
「私は見ていません」
「本当に?」
「ええ」
松ヶ枝は私の目を見た。
「その文は、父君が受け取った後、すぐに燃やされました」
千鳥が小さく声を漏らした。
私は息を忘れた。
父が、文を燃やした。
母の死後、大奥から届いた差出人不明の文を。
「なぜ、松ヶ枝様がそれを」
「大奥から出した文の一部は、取次の記録に残ります。差出人なし、篠乃井家宛て。急ぎ。そう記されていました」
「中身は知らない」
「はい」
「父が燃やしたことは、どこから」
松ヶ枝は少し迷った。
「当時、篠乃井家に出入りしていた者からです」
「誰ですか」
「まだ言えません」
「またですか」
「ええ。またです」
松ヶ枝の声は苦かった。
「ただ、その者は父君が文を読んだ後、顔色を変え、庭先で燃やしたと証言しました」
「父は、誰にも見せずに?」
「そのようです」
「母の文だったのでしょうか」
「可能性はあります」
父が母の文を燃やした。
その想像だけで、胸の奥が崩れそうになる。
父は母を愛していたはずだ。
愛していたのなら、なぜ燃やした。
私を守るためか。
母の汚名を広げないためか。
それとも、自分が何かを隠すためか。
「父は、母を裏切ったのでしょうか」
声が、自分でも分からないほど小さくなった。
松ヶ枝は、すぐには答えなかった。
千鳥が私の袖を掴む。
「紗代」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
「はい」
千鳥は泣きそうな顔で怒った。
「そういう時まで大丈夫って言わないで」
「……はい」
松ヶ枝が静かに言った。
「父君が志乃を裏切ったかどうかは、まだ分かりません」
「でも、文を燃やした」
「燃やすことが、いつも裏切りとは限りません」
「守るためですか」
「あるいは、脅されたため」
私は顔を上げた。
「脅された?」
「七年前、志乃の死は大奥だけの問題ではありませんでした。御子替えの噂が絡む以上、将軍家の血筋、外の家々、寺社、奥医師、すべてが絡む。そなたの父君の立場では、燃やす以外に選べなかった可能性もあります」
「それなら、なぜ私に何も」
「言えば、そなたが追うからでしょう」
松ヶ枝の答えは、あまりに自然だった。
私は黙った。
言われるまでもない。
私は追う。
今こうして追っている。
父は私の性格を知っている。
母に似ていると、誰より知っている。
だから黙ったのか。
それとも、黙ることを選ばされたのか。
「篠乃井」
松ヶ枝が言った。
「父君を信じたいですか」
「はい」
「疑わねばならないと思いますか」
「はい」
「なら、どちらも持ちなさい」
「どちらも?」
「信じたい気持ちを捨てて疑えば、そなたはただの刃になります。疑うことを捨てて信じれば、また誰かに目を塞がれます」
松ヶ枝の声は、少しだけ柔らかかった。
「どちらも持つのです。重いでしょうが」
「半分持つ?」
千鳥が小さく言った。
私は千鳥を見た。
彼女は真剣だった。
「父上のことは、私には半分持てないかもしれない。でも、紗代が一人で持って潰れそうなら、隣にはいる」
「千鳥」
「私も、小夜のことを一人で持ってたら潰れてた。だから」
千鳥は少し照れたように目を逸らした。
「隣にはいる」
胸が少し熱くなった。
大奥の闇の中で、それは小さな火のようだった。
「ありがとうございます」
「うん」
松ヶ枝は、そのやり取りを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「よい友を持ちましたね」
「御台様にも同じことを言われました」
「それは不吉ですね」
「松ヶ枝様がそう仰ると、本当に不吉です」
千鳥が小さく吹き出した。
重い空気が、少しだけ緩んだ。
しかし、松ヶ枝はすぐに真顔へ戻った。
「父君の文が今届いたことは、偶然ではないでしょう」
「やはり」
「誰かが外へ知らせた可能性があります」
「誰が」
「大奥から外へ文を出せる者は限られています。御台様、御年寄、大御台様の周辺、表使。それから、奥医師筋」
「大御台様」
「可能性の一つです」
「父を動かし、私を止めようとした」
「あるいは、父君自身が誰かから聞いて、急ぎ書いた」
「父は今、誰と繋がっているのでしょう」
「それを調べるには、外の手が必要です」
外。
大奥の外。
今の私には届かない場所。
父がいる場所。
母が死んだ場所かもしれない場所。
「私から父へ返事を書くことはできますか」
「できます。ただし、読まれると思いなさい」
「なら、読まれる前提で書きます」
「何を書くのです」
私は少し考えた。
父を問い詰める言葉を書けば、届く前に止められるかもしれない。
何も知らないふりをすれば、父はまた黙るかもしれない。
ならば。
「母の櫛のことを書きます」
松ヶ枝が眉を動かした。
「櫛?」
「父が母の死後も持っていたものです。母の櫛を、今も持っているかと」
「なぜ」
「父にしか分からない問いです。もし父が本当に何かを隠しているなら、その櫛に何かを思い出すかもしれません」
「文を読む者には?」
「ただの父娘の会話に見えるはずです」
松ヶ枝はしばらく私を見ていた。
「そなた、本当に大奥の女になってきましたね」
「嬉しくありません」
「でしょうね」
千鳥が横で言った。
「でも、それなら私も書くの手伝う」
「千鳥が?」
「字は下手だけど、父上に心配かけすぎない言い方とか、少しは考えられる」
「助かります」
「えへん」
「ただし、字は私が書きます」
「分かってる!」
松ヶ枝は、父の文を私へ返した。
「返事を書く前に、御台様へ報告しますか」
「……迷います」
「報告しなければ、御台様は怒るでしょう」
「報告すれば、箱へ入れられます」
「そうですね」
松ヶ枝は静かに言った。
「ならば、報告する内容を選びなさい。すべてを差し出す必要はありません」
「松ヶ枝様が、そういうことを教えてくださるのですね」
「私は、動くことにしましたので」
「よいことです」
「そなたに言われると腹が立ちますね」
松ヶ枝の声には、少しだけ昔にはなかった軽さがあった。
部屋を出ると、廊下は冷えていた。
千鳥は私の隣を歩きながら、父の文をちらちら見ている。
「紗代」
「はい」
「お父上を信じたい?」
「はい」
「疑うの、怖い?」
「はい」
「じゃあ、今日は少しだけ信じる方を多めにしたら?」
「多め?」
「うん。半分ずつが苦しい日は、信じたい方を少し多めにする」
「それは、よいのでしょうか」
「知らない。でも、ずっと半分ぴったりなんて無理じゃない?」
千鳥らしい言葉だった。
正確ではない。
理屈として強いわけでもない。
でも、人が生きるには、たぶんそれくらいの曖昧さが必要なのだ。
「では、今日は少しだけ父を信じます」
「うん」
「明日は分かりません」
「それでいいよ」
私たちは御末の間へ戻り、灯火の下で父への返事を書いた。
紙を前にすると、なかなか筆が動かなかった。
書きたいことは山ほどある。
なぜ燃やしたのですか。
母の死を知っていたのですか。
私に何を隠しているのですか。
母を愛していたのですか。
私を守っているのですか。
それとも、自分を守っているのですか。
けれど、そのどれも書けない。
書けば、父へ届く前に誰かの手で折られる。
私は息を整えた。
そして、書いた。
――父上。お文、確かに拝見いたしました。
――母上のことを忘れよとのお言葉、胸に留め置きます。
――ただ、こちらで母上の使っていた櫛に似た品を見かけ、幼き日のことを思い出しました。
――父上は、今も母上の櫛をお持ちでしょうか。
――もしお持ちなら、どうか大切にしてくださいませ。
――紗代は、母上のことを忘れるのではなく、父上と母上に恥じぬよう務めます。
千鳥が横から覗き込む。
「うまい」
「本当ですか」
「うん。表向きは素直な娘っぽい」
「ぽい、ですか」
「でも、中身は全然忘れる気ない」
「はい」
「父上、気づくかな」
「気づいてほしいです」
「気づかなかったら?」
「その時は、また別の文を」
「文で戦うのね」
「紙で殺されるなら、紙で追います」
千鳥は少しだけ笑った。
「紗代らしい」
返事を書き終え、松ヶ枝へ預ける段取りをつけた。
その夜は、なかなか眠れなかった。
父の文を何度も読み返した。
忘れなさい。
その言葉は痛い。
けれど、痛みの奥に父の震えがあるような気もした。
父は何かを恐れている。
私を失うことか。
篠乃井家が潰れることか。
それとも、七年前に燃やした文の中身か。
答えはまだない。
布団の中で、千鳥が小声で言った。
「紗代、起きてる?」
「はい」
「寝てないと思った」
「千鳥も」
「うん」
「小夜さんのことを?」
「小夜と、お久と、お梅と、父上の文と、全部ぐちゃぐちゃ」
「私もです」
「大奥、ぐちゃぐちゃすぎる」
「はい」
「でも、少しずつほどけてる?」
「絡まっている糸が見え始めました」
「糸、嫌だなあ。赤い糸を思い出す」
「では、櫛にしましょう」
「櫛?」
「御台様が言いました。正しさを刃ではなく櫛にしろと」
「御台様の言葉って、役に立つのに嫌な感じ」
「分かります」
千鳥は小さく笑った。
「じゃあ、櫛でほどく?」
「はい」
「切らないで?」
「できるだけ」
「できるだけ、が怖い」
その時、廊下の外で足音がした。
深夜にしては、はっきりした足音。
私と千鳥は同時に起き上がった。
襖の向こうから、低い声がした。
「篠乃井」
松ヶ枝だった。
私はすぐに襖を開けた。
松ヶ枝は、灯火を持って立っていた。
顔が険しい。
「何か」
「父君の文について、もう一つ思い出しました」
「今、ですか」
「ええ」
松ヶ枝は、周囲を確認し、声を落とした。
「七年前、父君が燃やした文には、添え物があったそうです」
「添え物?」
「小さな鈴の飾り紐」
息が止まった。
千鳥が後ろで口元を押さえる。
「赤い糸の?」
「そこまでは分かりません」
「それが、なぜ父の文に」
「志乃が持っていたものかもしれません」
小夜の鈴。
赤い飾り紐。
母に渡された可能性。
そして、父が燃やした文の添え物。
繋がった。
父は、母が持っていた鈴の飾り紐を受け取っていた。
それを燃やしたのか。
それとも、まだ持っているのか。
母の櫛と同じように。
「父は、その飾り紐も燃やしたのですか」
松ヶ枝は首を横に振った。
「分かりません」
「誰が見たのです」
「それも、まだ言えません」
私は歯を食いしばった。
まただ。
でも、今度は怒りを抑えた。
松ヶ枝は動いている。
完全ではないが、動いている。
「その者は、今も生きていますか」
「はい」
「大奥に?」
「いいえ」
外にいる。
父の近くかもしれない。
「松ヶ枝様。私の返事を出してください」
「よろしいのですか」
「はい」
「父君が答えるとは限りません」
「答えなくても、揺れるかもしれません」
「そなたは、父君を揺らすのですね」
「はい」
言ってから、胸が痛んだ。
父を揺らす。
父が隠しているものを、こちらから揺さぶる。
親子の文ではない。
これはもう、探り合いだ。
「つらいでしょう」
松ヶ枝が言った。
「はい」
「それでも?」
「母の名を取り戻すためです」
「それだけですか」
私は黙った。
そして、正直に答えた。
「父を、まだ信じたいからです」
松ヶ枝は、少しだけ目を伏せた。
「ならば、文を出しましょう」
「お願いします」
松ヶ枝は去っていった。
私は襖を閉め、しばらく立ち尽くした。
千鳥が背後から言った。
「紗代」
「はい」
「父上を疑うのと、父上を信じたいの、どっちが勝ってる?」
「今日は」
「うん」
「信じたい方が、少しだけ」
千鳥は頷いた。
「それでいいと思う」
布団に戻っても、眠りは来なかった。
鈴の飾り紐。
父が燃やした文。
母の櫛。
小夜の布包み。
赤い糸。
すべてが一本の糸に見えてきた。
その糸の先は、大奥の奥だけでなく、私の家にも伸びている。
七人目は、最も近き者。
一番近い人を信じちゃ駄目。
小夜の言葉が、胸に刺さる。
でも私は、今夜だけは父を少し信じることにした。
信じたい気持ちを捨てたら、私は母の名を取り戻す前に、自分の家まで失ってしまう気がしたから。
窓の外で、遠く御鈴が鳴った。
ちりん。
その音が、七年前の夜へ続く道のように聞こえた。




