第22話 近くで泣く女
水桶に結ばれていた赤い糸は、まるで小さな傷口のようだった。
水は澄んでいる。
桶も古いが、よく洗われている。
そこに一本だけ、沈丁花の香を含んだ赤い糸が結ばれていた。
誰かが返事をした。
鈴が鳴った夜。
志乃様を外へ出してはならない。
近くで泣く女は、鈴の音を聞いていた。
その言葉を、誰かが聞いた。
そして、赤い糸を置いた。
「これ、挑発かな」
千鳥が水桶を見下ろしながら言った。
「返事かもしれません」
「返事って、文字もないのに?」
「文字にすれば証になります」
「糸なら証にならない?」
「糸も証になります」
「じゃあ、結局うっかりしてるじゃない」
「あるいは、見つけてほしかった」
千鳥は黙った。
赤い糸を怖がるように、けれど目を逸らせないように見ている。
「お梅さんかな」
「可能性は高いです」
「泣くのが上手な女」
「お久さんの話では」
「嫌な言い方」
「でも、分かりやすいです」
千鳥は私を見た。
「紗代、今すぐ縫殿に行こうとしてる?」
「はい」
「だと思った」
「駄目ですか」
「駄目って言っても行くでしょ」
「はい」
「じゃあ、聞かないでよ」
千鳥は息を吐いた。
それから、赤い糸をそっと懐紙に包んだ。
「行くなら、私も行く」
「危険です」
「聞き飽きた」
「お梅さんは、千鳥の嫉妬や罪悪感を突くかもしれません」
「知ってる」
「自分が七人目かもしれないと、また思わされるかもしれません」
千鳥の顔が少しだけ強張った。
けれど、逃げなかった。
「それでも行く。私が行かないと、小夜の話がまた私の知らないところで進む」
「分かりました」
「素直」
「半分ずつですので」
「うん」
千鳥は短く頷いた。
「半分ずつ」
その言葉は、もう合言葉のようになっていた。
怖さも、秘密も、罪悪感も、怒りも。
一人で持つと潰れるものを、半分にするための言葉。
小夜が残した、優しさであり、呪いでもある言葉だった。
縫殿へ向かう廊下は、御末の女中が普段近づく場所ではなかった。
衣を縫う場所というだけなら、針仕事の部屋と大差ないように思える。だが、縫殿は違う。扱うのは、大御台様や御台所、側室たちの衣。布も糸も、ただの道具ではなく、身分そのものを形にするものだった。
廊下の匂いも違う。
糊。
沈丁花。
古い絹。
そして、しまい込まれた香。
千鳥は袖で鼻を押さえた。
「この匂い、あの紙と同じ」
「はい」
「何か、息が詰まる」
「長居はしない方がよさそうです」
「でも、長くなりそう」
「はい」
「嫌な予感しかしない」
「同感です」
縫殿の前には、年若い女中が一人立っていた。
顔は白く、眉は細い。こちらを見るなり、すぐに目を伏せる。
「何の御用でしょう」
「篠乃井紗代にございます。お梅様にお目通り願えますか」
女中の肩が揺れた。
「お梅様は、ただいま」
「いらっしゃらないのですか」
「……奥で、お仕事を」
「では、お待ちします」
女中は困ったように唇を噛んだ。
その時、奥から声がした。
「通してあげて」
細い声だった。
泣いた後のように掠れている。
女中が慌てて頭を下げ、襖を開ける。
縫殿の奥は、赤い糸で満ちていた。
もちろん、部屋中が赤いわけではない。
白い布もある。青い絹も、紫の紐も、金糸もある。
だが、私の目には赤い糸ばかりが映った。
畳の上に置かれた糸巻き。
針箱の脇に垂れた細い糸。
未完成の衣の裾に施された赤い刺繍。
そして、その中央に座る女。
お梅は、思ったより若かった。
年は二十を少し越えたくらいだろうか。色白で、目元が伏し目がちで、いかにも庇護欲を誘う顔立ちをしている。
けれど、泣いてはいなかった。
涙の跡だけが、頬に残っている。
泣いた後の顔を、あえて残しているように見えた。
「あなたが、篠乃井志乃様の娘」
「はい。篠乃井紗代にございます」
「そして、千鳥さん」
千鳥の肩が跳ねた。
「私のこと、知ってるんですね」
「小夜さんが、よくお名前を」
その一言で、千鳥の顔が変わった。
「小夜が?」
「ええ」
お梅は、かすかに微笑んだ。
「泣き虫だけど、逃げ足が速くて、卵焼きを渡すと怒りながら食べる子だって」
千鳥の唇が震えた。
同じだ。
お久が言っていた小夜の記憶と同じ。
小夜は本当に、千鳥の話をあちこちでしていたのだ。
守るために遠ざけながら、誰かには話していた。
それは矛盾している。
でも、人は矛盾したまま誰かを大切にする。
「お梅様」
私は一歩前へ出た。
「水桶の赤い糸は、あなたが?」
お梅は笑みを消した。
そして、ゆっくり首を横に振った。
「私ではありません」
「では、誰が」
「赤い糸を扱う者は、縫殿には何人もおります」
「沈丁花の糊を使う者も?」
「ええ」
「小夜さんの名を知る者も?」
お梅の指が、膝の上で小さく動いた。
「……小夜さんの名は、ここではあまり」
「呼んではいけない?」
「呼ぶと、奥から返事が来るそうですから」
千鳥が怒りで息を吸った。
私は先に言った。
「小夜さんは怪談ではありません」
お梅の目が、私を見た。
涙を含んだような目。
だが、その奥が読めない。
「そうですね。怪談にしたのは、生きている者たちです」
「お梅様も、その一人ですか」
千鳥が言った。
声が震えている。
けれど、退かなかった。
お梅は千鳥を見る。
「私は、小夜さんを忘れていません」
「忘れてないなら、どうして名前を呼ばなかったの」
「呼べなかったのです」
「怖かったから?」
「ええ」
お梅は素直に頷いた。
「怖かった。梅島様も、大御台様も、御鈴の音も、桔梗の香も。全部が怖かった」
「泣けば、誰かが助けてくれるから?」
千鳥の言葉は鋭かった。
お梅の顔が少し歪む。
「お久さんに聞いたのですね」
「聞きました」
「私が泣いて、人を動かす女だと」
「違うんですか」
「違うと言えば、信じますか」
「信じません」
千鳥は即答した。
お梅は少しだけ笑った。
笑ったのに、泣きそうに見えた。
「でしょうね」
私は二人の間に入るように言った。
「お梅様。小夜さんが消えた夜、あなたは御鈴の音を聞いていましたか」
お梅の表情が変わった。
それまでの弱々しい顔が、一瞬だけ凍る。
「……どなたから」
「小夜さんの布包みから」
お梅の目が見開かれた。
「残っていたのですか」
「はい」
「お久さんが持っていたのですね」
「ご存じだったのですか」
「知っていたわけではありません。ただ、小夜さんなら何かを残すと思っていました」
お梅は視線を落とした。
「志乃様と似ていたから」
「小夜さんが、母と?」
「ええ。正しくあろうとするところが」
正しくあろうとする女は危うい。
何度も聞いた言葉だ。
この大奥では、正しさは時に刃よりも危険なものになる。
「お梅様は、その夜、どこにいたのですか」
お梅は黙った。
千鳥が前へ出る。
「答えてください」
「御鈴廊下の近くです」
ようやく、お梅は言った。
部屋の空気が重くなる。
「なぜ」
「大御台様のお召し物を届ける途中でした」
「夜に?」
「急な仰せでした」
「誰から」
「梅島様から」
梅島。
またその名だ。
「そこで、御鈴の音を聞いたのですか」
「はい」
「鈴は、どこへ向かっていましたか」
お梅は唇を噛んだ。
「藤尾様の方へ向かうはずでした」
「はず」
「でも、途中で止まりました」
「その後は」
「別の廊下へ」
「どの廊下ですか」
「大御台様の奥向きへ続く方です」
千鳥が息を呑んだ。
藤尾の方の話とも、奥医師の記録とも繋がる。
桔梗の夜、将軍は藤尾の方の部屋へ向かわず、大御台様の奥向きに近い場所へ進んだ。
そこに名のない女がいたのか。
それとも、御子の噂を作るための空の部屋があったのか。
「お梅様は、その時泣いていたのですね」
私が問うと、お梅は目を伏せた。
「はい」
「なぜですか」
「怖かったからです」
「何が」
「その夜、誰かが消えると分かったから」
千鳥の手が震えた。
「小夜?」
「いいえ」
お梅は首を横に振った。
「最初に消されるはずだったのは、小夜さんではありません」
胸の奥が冷えた。
「では、誰ですか」
お梅は私を見た。
「志乃様です」
分かっていたはずなのに、言葉にされると胸が詰まった。
小夜の紙片。
鈴が鳴った夜、志乃様を外へ出してはならない。
小夜は、母が消されることを知っていた。
お梅も知っていた。
「あなたは、母が外へ出されると知っていたのですね」
「はい」
「なぜ止めなかったのですか」
お梅の目に涙が浮かんだ。
やはり、泣く。
泣こうとしている。
でも今は、その涙に飲まれてはいけない。
「泣いていたからですか」
私は言った。
お梅は息を呑んだ。
「泣けば、誰かが代わりに動いてくれる。泣けば、自分が決めなくて済む。泣けば、罪が少し薄くなる」
「違います」
「違うなら、なぜ止めなかったのですか」
お梅の涙が頬を伝った。
「止められなかった」
「誰に止められたのですか」
「梅島様に」
「何と言われましたか」
「見なかったことにしなさい、と」
また、その言葉。
見なかったことにしろ。
この大奥は、その一言でどれだけの女を消してきたのか。
「私は、泣きました」
お梅は言った。
「怖いと。志乃様が外へ出されたら戻らないのではないかと。小夜さんが何かを知っているのではないかと。そう言ったら、梅島様は……」
「梅島様は?」
「泣くなら、役に立つ泣き方をしなさい、と」
千鳥が小さく「ひどい」と呟いた。
「役に立つ泣き方?」
「はい」
お梅は袖で涙を拭った。
「泣いて、お久さんに話しかけなさいと言われました。小夜さんが紙包みを持っていることを、お久さんが気にしている。あの子は小夜さんを妬んでいる。だから、お久さんの口から梅島様へ話が届くようにしなさい、と」
お久の嫉妬を、お梅が撫でた。
だが、お梅もまた誰かに命じられていた。
梅島。
そしてその背後に、大御台様。
罪は連なっている。
一人を裁てば終わるものではない。
「お梅様は、お久さんを利用したのですね」
「はい」
「小夜さんが消えるきっかけを作った」
「はい」
「母を外へ出すことも、止めなかった」
「はい」
お梅は認めた。
涙を流しながら。
それが余計に腹立たしかった。
泣きながら認めれば、少しだけ軽くなるように見えるから。
「あなたが七人目なのですか」
千鳥が言った。
お梅は千鳥を見た。
「七人目?」
「小夜が残したの。七人目は、近くで泣くって」
お梅の顔が、はっきり強張った。
「小夜さんが……」
「あなたのこと?」
お梅は答えない。
その沈黙は、恐怖に見えた。
でも、肯定ではない。
「私は、七人目ではありません」
やがて、お梅は言った。
「なら、誰ですか」
「分かりません」
「逃げないで」
千鳥の声は震えていた。
「また泣いて逃げるの?」
「逃げたいです」
お梅は、涙をこぼしながら言った。
「今も、本当は逃げたい。あなたたちに責められるのも、小夜さんの名を聞くのも、志乃様のことを思い出すのも、全部嫌です」
「なら、どうして赤い糸を」
「私ではありません」
「でも、今ここにいる」
「呼ばれると思ったから」
「呼ばれたかった?」
お梅は黙った。
私はその顔を見て、少しだけ分かった気がした。
お梅もまた、誰かに呼ばれたかったのだ。
泣けば誰かが来る。
泣けば誰かが気づく。
泣けば誰かが自分を見てくれる。
その弱さを、大奥は利用した。
「お梅様」
私は言った。
「近くで泣く女とは、あなたかもしれません。でも、あなた一人ではないのではありませんか」
お梅の目が揺れる。
「何を」
「千鳥も泣いていました。お久さんも泣いていました。あなたも泣いていた。小夜さんも、どこかで泣いていたかもしれない」
私は懐の布包みに触れた。
「近くで泣く女は、一人ではない」
千鳥が息を呑んだ。
お梅は、ぽろぽろと涙をこぼした。
「小夜さんは、私を責めるために書いたのではないのですか」
「分かりません」
「では」
「でも、小夜さんなら、たぶん一つの意味だけで残さない」
小夜は半分にした。
守る言葉と、知らせる言葉を同時に残した。
なら、この言葉もそうだ。
誰か一人を告発するだけではない。
近くで泣く女たちすべてに、問いを投げている。
あなたは何を見たのか。
泣きながら何をしたのか。
泣いたことで誰を動かしたのか。
そして、誰を見捨てたのか。
「お梅様」
「はい」
「母が外へ出された夜、誰が付き添いましたか」
お梅は泣きながら首を横に振った。
「見ていません。私は、途中で部屋へ戻されました」
「誰に」
「梅島様に」
「その後、何を聞きましたか」
「鈴の音」
「御鈴ですか」
「いいえ」
お梅は小さく震えた。
「小さな鈴です」
千鳥が私を見た。
小夜の布包み。
まだ鈴は出ていない。
けれど、小夜の紙片には鈴のことが書かれていた。
「小さな鈴とは」
「御鈴廊下の鈴ではありません。手の中で鳴るような、小さな鈴。小夜さんが持っていたものです」
「小夜さんが?」
「はい。何かあれば鳴らすと、誰かに知らせるために」
「誰に」
「……分かりません」
「その鈴は今どこに」
お梅は、泣きながら言った。
「お梅様」
千鳥が詰め寄る。
「どこにあるの」
「小夜さんが消えたあと、梅島様が拾いました」
梅島。
またそこへ戻る。
けれど、お梅は続けた。
「でも、全部ではありません」
「全部?」
「鈴には、飾り紐がついていました。赤い糸で編んだ紐です。小夜さんが自分でほどいて、誰かに渡したはずです」
「誰に」
お梅は、私を見た。
そして、ゆっくり言った。
「おそらく、志乃様です」
母が、小夜の鈴の飾り紐を持っていた。
それはどういう意味なのか。
小夜は母に何を知らせようとしていたのか。
あるいは、母が小夜へ何かを託した証なのか。
「お梅様。あなたは、なぜそれを今まで言わなかったのですか」
「言えば、私が泣いただけでは済まなくなるからです」
「もう済んでいません」
「そうですね」
お梅は小さく笑った。
泣きながら。
「小夜さんは、最後に言いました。『泣くなら、千鳥の前で泣いて』と」
千鳥が固まった。
「私の前で?」
「ええ。千鳥なら、たぶん怒るからって」
「小夜……」
「私は、怖くて行けませんでした。千鳥さんに怒られるのが怖かった。自分がしたことを知られるのが怖かった。だから、泣く場所を間違えた」
お梅は、深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
千鳥は、何も言わなかった。
怒りを飲み込んでいる。
許すわけではない。
でも、目の前で泣く女をただ叩き潰すこともできない。
それが、また苦しいのだ。
「私は、お梅様を許せない」
千鳥は言った。
「はい」
「でも、泣いて逃げるのを、もう許さない」
お梅が顔を上げた。
「次に泣くなら、ちゃんと話して。誰かを動かすためじゃなくて、自分が見たものを言うために泣いて」
お梅の涙がまた落ちた。
今度は、少し違う涙に見えた。
「はい」
その時、縫殿の外で女中の声がした。
「お梅様、大御台様のお召し物の件で」
お梅の顔が一瞬で青くなる。
「行かなくては」
「最後に一つ」
私は言った。
「赤い糸を水桶に結んだのは、誰ですか」
お梅は迷った。
そして、低い声で言った。
「お久さんではありません。私でもありません」
「では」
「縫殿には、もう一人、赤い糸を扱える女がいます」
「誰ですか」
「お袖」
新たな名。
「大御台様の衣を直す役です。普段はほとんど姿を見せません。でも、小夜さんが消えた夜も、鈴の音を聞いていたはずです」
「なぜ分かるのですか」
「私の隣で、震えていましたから」
お梅はそれだけ言って、襖の向こうへ消えた。
残された私と千鳥は、縫殿の赤い糸の中で立ち尽くした。
「一人じゃない」
千鳥が呟いた。
「近くで泣く女は、一人じゃない」
「はい」
「じゃあ、七人目も」
「まだ分かりません」
「でも、少し分かった気がする」
千鳥は布包みのある私の懐元を見た。
「小夜は、誰か一人を指したんじゃない。近くで泣いて、でも何もしなかった女たち全員に怒ってたのかもしれない」
「そうかもしれません」
「私にも」
私は答えなかった。
千鳥は、自分で頷いた。
「うん。私にも」
縫殿を出ると、廊下の光はすでに夕暮れに近かった。
赤い糸の匂いが、まだ手に残っている。
そして、私たちの前にまた新しい道が伸びていた。
小夜の鈴。
赤い飾り紐。
お袖という女。
母が持っていたかもしれない鈴の一部。
御末の間へ戻ると、思いがけないものが届いていた。
私宛ての文だった。
外からの文。
差出人の名を見た瞬間、胸が強く鳴った。
父だった。
千鳥が私の顔を見て、すぐに察した。
「父上から?」
「はい」
指先が震える。
母の死を忘れなさい。
父はそう書いてくるだろうか。
あるいは、何かを知っているのだろうか。
私は文を開いた。
そこには、父の整った字でこう書かれていた。
――紗代。大奥で母のことを追ってはならぬ。
――志乃の死は、もう終わったことだ。
――どうか、忘れなさい。
文字が滲んだわけではない。
でも、読めなくなった。
父の字が、こんなにも遠く感じたのは初めてだった。
千鳥が小さく言った。
「忘れなさい、って」
「はい」
「お父上は、何か知ってるのかな」
私は文を握りしめた。
優しい父。
母の死後、静かに私を育ててくれた父。
その父が、母の死を忘れろと書いている。
七人目は、最も近き者。
一番近い人を信じちゃ駄目。
小夜の言葉が、胸の奥で冷たく響いた。
信じたい人ほど、疑わなければならない。
大奥は、とうとう私の家の中にまで手を伸ばしてきた。




