第21話 小夜の布包み
小夜の布包みは、懐に入れているだけで胸が痛んだ。
重いものではない。
古い懐紙。
乾いた卵焼きの欠片。
母の字で書かれた紙片。
小夜の字らしき紙片。
それだけだ。
それだけなのに、歩くたびに胸の内側を叩かれているようだった。
小夜、千鳥を奥へ入れるな。
七人目は、近くで泣く。
その二つの文は、昨夜から何度も頭の中で重なった。
母は千鳥を遠ざけようとした。
小夜も千鳥を守ろうとした。
けれど、小夜は同時に布包みを残した。
守りたい。
知らせたい。
巻き込みたくない。
忘れてほしくない。
人の願いは、ひとつではない。
母も小夜も、矛盾を抱えたまま消えたのだ。
朝の御末の間で、千鳥はいつもより無口だった。
お吉が何度かこちらを見たが、今日は余計なことを言わない。昨夜から私たちの周囲に流れている空気を読んだのだろう。あるいは、読んだふりをして自分を守っているのか。
どちらでもよかった。
今は、小夜の布包みをどう扱うか考えなければならない。
「紗代」
千鳥が、小声で呼んだ。
「はい」
「布包み、持ってる?」
「持っています」
「……少しだけ、見てもいい?」
「もちろんです」
私は周囲を確認した。
御末の間では人目が多い。ここで広げるわけにはいかない。
「洗い場の裏へ」
私が言うと、千鳥は頷いた。
私たちは水桶を運ぶふりをして、洗い場の裏手へ向かった。そこは湿った木の匂いが濃く、昼でも薄暗い。水音が会話を隠してくれる。
私は懐から布包みを取り出した。
千鳥は、それを見るだけで唇を噛んだ。
「まだ、信じられない」
「小夜さんのものが残っていたことですか」
「うん。小夜は、何も残せなかったんだと思ってた。名前も、物も、全部消されたんだって」
「残していました」
「うん」
千鳥はそっと布に触れた。
昨夜より、少しだけ落ち着いているように見えた。けれど指先はまだ震えている。
「開けても?」
「はい」
私は布包みを広げた。
古い懐紙に包まれた卵焼きの欠片。
母の紙片。
小夜の紙片。
千鳥はまず、乾いた卵焼きを見た。
「こんなの、よく残ってたよね」
「お久さんが、ずっと隠していたのでしょう」
「お久が持ってたのは腹立つ。でも、捨てなかったのは……少しだけ、よかった」
「はい」
「許したわけじゃないけど」
「許さなくてよいと思います」
千鳥は私を見た。
「紗代って、たまに怖いくらいはっきり言うよね」
「曖昧にすると、もっと痛むことがあります」
「うん。そうかも」
千鳥は懐紙の端を撫でた。
そこには油の染みが残っている。
小夜が、いつか千鳥へ渡そうとした半分の卵焼き。
あるいは、渡せなかった最後の半分。
「小夜、何でこんなの残したんだろう」
「千鳥に思い出してほしかったのでは」
「卵焼きのことを?」
「半分にすることを」
千鳥は黙った。
それから、ぽつりと言った。
「私、一人で持ってたら潰れてたと思う」
「はい」
「小夜は、それを知ってたのかな」
「知っていたから、半分と言ったのかもしれません」
千鳥は、少し笑った。
「ずるいなあ、小夜。いなくなってからも、私に言うこと聞かせるんだから」
「強い方ですね」
「うん。馬鹿で、強くて、泣き虫で、怒ると怖い」
「千鳥に似ています」
「似てない」
即答だった。
けれど、千鳥の頬は少し赤くなっていた。
私は布包みの端を見た。
昨日は中身ばかりに気を取られていたが、あらためて見ると布そのものに違和感がある。
古びた紺色の布。
端は擦り切れている。
だが、ひとつだけ、縫い目が不自然に厚い。
「千鳥」
「何?」
「この縫い目、変ではありませんか」
千鳥が身を乗り出した。
「どこ?」
「ここです」
私は布の端を指で示した。
普通なら薄く折り込んで縫うだけの場所だ。だが、その一辺だけ妙にふくらんでいる。糸の色も、他と微妙に違う。
赤い。
昨夜、水屋に落ちていた糸ほど鮮やかではないが、古びた赤糸が一本、縫い目の奥に混じっていた。
「これ……」
千鳥の声が硬くなる。
「赤い糸」
「縫殿の糸でしょうか」
「分からない。でも、普通の布包みにこんな糸、使わないよ」
私は針を持っていなかった。
千鳥は自分の袖を探り、小さな針を取り出した。
「持っているのですか」
「御末は何でも持ってるの。裾がほつれたら自分で直すから」
「頼もしいです」
「今だけ褒めて」
「頼もしいです」
「二回言われると照れる」
千鳥はそう言いながら、真剣な目で縫い目を解き始めた。
指先は震えているが、針の扱いは思ったより丁寧だった。
「小夜に教わったの?」
私が聞くと、千鳥は小さく頷いた。
「うん。私、針が苦手だったから。指ばっかり刺してた。小夜が『指を縫う前に布を見なさい』って怒った」
「なるほど」
「何?」
「その言葉、少し聞き覚えがあります」
「紗代のお母上?」
「はい。母も似たようなことを言いそうです」
「やっぱり小夜、志乃様と気が合ったのかな」
「かもしれません」
糸が一本、ほどけた。
千鳥が息を止める。
布の端から、小さく折られたものが見えた。
紙だ。
髪の毛ほどに細く畳まれ、縫い目の中へ押し込まれていた。
「まだ、あった……」
千鳥の声は、ほとんど息だった。
私は慎重に紙を取り出した。
湿気を吸っているが、文字は残っている。
広げる前に、千鳥が私の手を掴んだ。
「待って」
「はい」
「一緒に見たい」
「もちろんです」
二人で並び、小さな紙を広げた。
筆跡は小夜のものだった。
昨日見た「七人目は、近くで泣く」と同じ、丸く、急いだ字。
そこには、こう書かれていた。
――鈴が鳴った夜、志乃様を外へ出してはならない。
――近くで泣く女は、鈴の音を聞いていた。
千鳥の手が、私の腕を強く掴んだ。
「鈴……」
御鈴廊下。
将軍が大奥へ渡る時に鳴る鈴。
桔梗の夜、御鈴は藤尾の方の部屋へ向かう途中で止まった。
御子替えの噂は、その夜から始まった。
小夜は、鈴の音を聞いていた。
近くで泣く女も、その音を聞いていた。
「小夜さんは、母を外へ出してはならないと書いています」
「外へ出すなって……」
千鳥の声が震える。
「志乃様は、大奥の外で死んだって梅島様が」
「はい」
「じゃあ、小夜はそれを止めようとしてたの?」
「おそらく」
私は紙片をもう一度読んだ。
鈴が鳴った夜、志乃様を外へ出してはならない。
これは警告だ。
母が外へ出されることを、小夜は事前に知っていた。
いや、事前に知らされたのかもしれない。
誰かが母を外へ出す。
それが危険だと、小夜は知った。
「近くで泣く女は、鈴の音を聞いていた」
千鳥が呟いた。
「お梅……?」
「候補としては強いです」
「でも、鈴の音を聞くって、どういうこと?」
「御鈴廊下の近くにいたということです」
「大御台様付きなら、近づける?」
「分かりません。ただ、普通の御末よりは奥へ入れる可能性があります」
千鳥は考え込んだ。
その顔が、少しずつ変わっていく。
泣くばかりではない。
考えている。
「小夜は、これを私に見せたかったのかな」
「すぐではなく、いつか」
「いつかって、遅いよ」
「はい」
「遅すぎる」
千鳥の声には怒りがあった。
でもそれは小夜だけに向けたものではない。
小夜をそうさせた大奥へ。
自分を守られるだけにした過去へ。
そして、今も真実を小出しにする者たちへ。
「紗代」
「はい」
「この紙、御台様に見せる?」
私はすぐには答えなかった。
御台所に見せれば、彼女は必ず何かを知っている顔をするだろう。
そして、こちらに命じる。
箱へ入れる。
使う。
「今は見せません」
千鳥が少し驚いた顔をした。
「見せないの?」
「はい」
「御台様に黙ってるの?」
「はい」
「紗代が?」
「私も少しは学びます」
千鳥はじっと私を見た。
それから、少しだけ笑った。
「猫っぽくなってきた」
「褒め言葉ですか」
「褒めてる」
「ありがとうございます」
紙片を畳み直し、母の紙片と小夜の紙片と一緒に収める。
だが、布包みの縫い目は開いたままだ。
「このままでは、隠してあったことが分かります」
私が言うと、千鳥は針を持ち直した。
「縫い直す」
「できますか」
「小夜に教わったから」
その声は少しだけ誇らしげだった。
千鳥は赤い糸を抜き、かわりに自分の持っていた地味な糸で縫い直した。
針目は少し不揃いだ。
でも、丁寧だった。
「小夜なら、何て言うでしょう」
私が聞くと、千鳥は針を止めずに答えた。
「『千鳥にしては上出来』」
「厳しいですね」
「うん。でも、そのあと絶対、卵焼きを半分くれる」
千鳥は笑った。
今度の笑みには、少しだけ温かさが戻っていた。
その時、洗い場の奥から水音とは違う音がした。
木の床が、小さく軋む。
誰かいる。
私と千鳥は同時に顔を上げた。
水桶の向こう、薄暗い廊下の端に、人影が立っていた。
薄い衣。
赤い刺繍。
そして、白い指先。
顔は見えない。
だが、その肩が小さく震えている。
泣いているのか。
「お梅さんですか」
私が声をかけると、人影はびくりと揺れた。
そして、すぐに走り去った。
「追う?」
千鳥が立ち上がる。
私は紙片を懐にしまい、首を横に振った。
「追いません」
「また?」
「追わせたいのかもしれません」
「でも」
「今、こちらが持っている紙片を奪われる方が危険です」
千鳥は悔しそうに唇を噛んだ。
「じゃあ、どうするの」
「こちらから呼びます」
「お梅さんを?」
「はい」
「来るかな」
「来させます」
「どうやって」
私は洗い場の水面を見た。
そこに、私と千鳥の顔が揺れている。
「鈴の話を、わざと少しだけ流します」
千鳥の目が丸くなった。
「噂を使うの?」
「大奥では、噂は人を殺します」
「うん」
「なら、人を呼ぶこともできます」
「……御台様みたい」
千鳥は心底嫌そうな顔をした。
「分かっています」
「でも、必要?」
「はい」
「小夜なら怒るかな」
「怒ると思います」
「でも、止めない?」
「たぶん」
千鳥は深く息を吐いた。
「じゃあ、半分持つ」
「ありがとうございます」
「でも、噂で誰かを傷つけないようにしよう」
「はい」
その言葉は大事だった。
御子替えの噂は、女を殺した。
小夜は嫉妬で消えたという紙も、千鳥とお久を傷つけた。
ならば、私たちは同じことをしてはいけない。
噂を使う。
でも、人を潰すためではなく、隠れた者を表へ出すために。
「誰に流しますか」
千鳥が問う。
「お吉様に」
「お吉さん?」
「はい。あの方は怖がりですが、噂を止めておける方ではありません」
「ひどい評価」
「便利な評価です」
「やっぱり御台様っぽい」
「それは嫌です」
私は布包みを再び懐へしまった。
胸の奥で、小さな卵焼きの欠片が揺れるような気がした。
私たちは洗い場を出て、御末の間へ戻った。
お吉は、予想通りこちらを見ていた。
目が合うと、すぐに逸らす。
私はあえて近づかず、千鳥にだけ聞こえるようでいて、お吉にも届く声で言った。
「鈴が鳴った夜のことを、近くで泣いていた女が知っているようです」
千鳥が一瞬こちらを見た。
そして、すぐに話を合わせた。
「その女、赤い糸の衣を着てたんだっけ」
「ええ」
お吉の手が止まった。
聞いている。
「御鈴廊下の近くで泣いていたなら、普通の御末ではありませんね」
「奥の女かな」
「そうでしょう」
お吉の顔が、見る見るこわばっていく。
私はそこで話を切り上げた。
噂は、長く話すより、短く落とした方が広がる。
お吉は、その後しばらく無言だった。
けれど、夕方には別の女中へ何かを囁いていた。
千鳥がそれを見て、渋い顔をする。
「早い」
「はい」
「本当に広がった」
「お吉様は優秀です」
「それ、褒めてないよね」
「はい」
夜になる前に、反応はあった。
御末の間の隅、私の水桶の中に、小さな赤い糸が結ばれていた。
そこには紙片も何もない。
ただ、赤い糸だけ。
千鳥が水桶を見て、息を呑む。
「返事?」
「おそらく」
「奥から?」
「いいえ」
私は赤い糸を摘み上げた。
沈丁花の香が、かすかにした。
「近くで泣く女からです」
その夜、廊下の奥で御鈴が鳴った。
ちりん。
いつもの音。
けれど、今日の私には違って聞こえた。
七年前、小夜が聞いた音。
母を外へ出すなと警告した音。
近くで泣く女が聞いていた音。
千鳥が私の隣に座り、そっと布包みの上から懐に触れた。
「小夜」
彼女は小さく名を呼んだ。
「今度は、寝たふりしないから」
返事はなかった。
けれど、御鈴の音が、どこか遠くでまだ揺れている気がした。




