第20話 願っただけの罪
赤い糸は、指に絡めると妙に冷たかった。
針仕事に使う糸とは違う。普段、御末が扱う白糸や黒糸よりもずっと細く、光に当てるとわずかに艶がある。飾り縫いか、奥向きの上等な衣に使うものだろう。
お久は、それを見るなり顔色を変えた。
「縫殿の糸です」
水屋の薄暗がりの中で、彼女の声はかすれていた。
「普通の針仕事の部屋には置かれません。御台様や大御台様のお召し物、あるいは特別な包み物の飾りに使う糸です」
「お梅さんが関わっている可能性は?」
私が問うと、お久はすぐには答えなかった。
代わりに、小夜の布包みを抱えた千鳥の方を見た。
千鳥は布包みを胸に押し当てている。まるで、誰かに奪われるのを恐れているようだった。
「お梅様は……大御台様付きの方でした。けれど、ただの女中ではありません」
「どういう方ですか」
「泣くのが上手な方でした」
お久は、奇妙な言い方をした。
千鳥が眉をひそめる。
「泣くのが上手?」
「はい。怒られて泣くのではありません。誰かを怒らせるために泣くのです」
その言葉に、水屋の空気が冷えた。
「泣きながら、人を動かす方です。『私は何もできません』と言いながら、周りに何かをさせる。『怖い』と言いながら、誰かに告げ口をさせる。『かわいそう』と言われる場所へ、自分から立つ」
近くで泣く女。
小夜の紙片の言葉が、背筋をなぞる。
七人目は、近くで泣く。
「お久さんは、お梅さんと話したことが?」
お久は唇を噛んだ。
「あります」
「小夜さんが消える前に?」
「……はい」
千鳥が一歩近づく。
「それ、まだ言ってない」
「言えませんでした」
「どうして」
「言えば、私の罪が増えるから」
お久の声は、もう逃げていなかった。
ただ、ひどく苦しそうだった。
「小夜を梅島様に告げたのは私です。でも、その前に、お梅様に会いました」
「どこで」
「洗い場の奥です。小夜が紙包みを隠しているのを見た日、私は落ち着かなくて……仕事も手につかず、何度も水を汲みに行くふりをしました」
お久は、赤い糸を見つめた。
「そこで、お梅様に言われたのです。『また小夜さんだけが大事なことを任されたのね』と」
千鳥の手が、布包みを強く握った。
「お梅様は、それを知っていたの?」
「分かりません。でも、私の顔を見て、そう言いました。私は何も答えませんでした。答えなかったのに、お梅様は続けたのです」
お久の声が少し震える。
「『悔しいでしょう』と」
悔しいでしょう。
それは、刃よりも深く刺さる言葉かもしれない。
嫉妬している者に、嫉妬しているでしょう、と言う。
本人が隠していた醜さを、優しい顔で照らす。
「私は、違うと言いました。でも、お梅様は泣きそうな顔で笑って……『分かるわ。私も、いつも梅島様のそばにいるのに、大事なことは別の女に任されるの。近くにいるのに、選ばれないのはつらいわね』と」
「近くにいるのに、選ばれない」
私はその言葉を繰り返した。
お久は頷いた。
「私は、その時、初めて自分の気持ちに名前をつけられた気がしました。悔しい。惨め。小夜ばかり選ばれるのが嫌だ。小夜が悪くないことは分かっている。でも、それでも嫌だと」
千鳥は黙っている。
お久の言葉が、自分の胸にも触れているのだろう。
「お梅様は、何を言ったのですか」
私が促すと、お久は深く息を吸った。
「『願うだけなら、罪ではないわ』と」
水屋の古い棚が、きしりと鳴った。
まるで、その言葉を嫌がったように。
「『小夜さんが少し叱られればいい。大事なものを預かるほどの人ではないと、誰かに分かってもらえればいい。そう願うだけなら、誰にも咎められない』と」
「それで、梅島様に告げた」
「はい」
お久は涙を落とした。
「私は、小夜が消えてほしいと本気で思ったわけではありません。ただ、少し困ればいいと思った。少し叱られればいいと思った。皆に頼られてばかりいる小夜が、私と同じように俯けばいいと思った」
「願っただけのつもりだった」
「はい」
お久は、震えながら頷いた。
「願っただけのつもりでした。でも、私は口にした。口にしたら、お梅様が言いました。『なら、正しい方に知らせるべきね』と」
「正しい方」
「梅島様です」
私は、ようやく筋が見え始めた。
お久は自分の嫉妬だけで動いたのではない。
その嫉妬を、誰かに撫でられた。
罪悪感を薄める言葉を与えられ、正しさの衣を着せられた。
願っただけなら罪ではない。
知らせるだけなら正しい。
小夜が叱られるだけなら構わない。
そうして、小さな嫉妬が大奥の仕組みへ流し込まれた。
「お久」
千鳥が低く言った。
お久は顔を上げられない。
「願っただけじゃないよね」
「……はい」
「思っただけなら、私は何も言えなかった。私も思ったから。小夜が私だけ見てくれたらいいのにって。でも、お久は言った。梅島様に言った。小夜が隠してるって」
「はい」
「それで、小夜は消えた」
「はい」
千鳥の目に涙が浮かんだ。
でも、今度は流さなかった。
「私は、お久を許せない」
「はい」
「でも、お梅様にも会う」
お久が驚いたように顔を上げた。
千鳥は布包みを抱えたまま、震える声で続けた。
「お久の嫉妬を使った人がいるなら、その人にも聞く。小夜を怪談にした人にも、紙包みを奪った人にも、みんなに聞く」
「千鳥……」
「私、もう小夜のことで寝たふりしない」
その言葉に、お久の顔が歪んだ。
小夜が消えた夜、寝たふりをした二人。
怖くて声を出せなかった千鳥。
嫉妬と罪悪感で動けなかったお久。
二人の間にあるものは、簡単には埋まらない。
でも、そこに小夜の名前があった。
怪談ではなく、人の名として。
「お久さん」
私は赤い糸を小さく畳んだ懐紙に包んだ。
「お梅さんは、今どこにいるのですか」
「縫殿の奥にいるはずです。けれど、すぐには会えません」
「なぜ」
「大御台様のお召し物に関わる者は、出入りが厳しいからです。それに……お梅様はこちらが会いたいと思った時には、たぶん会えません」
「向こうが会いたいと思った時に現れる方ですか」
お久は、暗い顔で頷いた。
「そういう方です」
千鳥が吐き捨てるように言った。
「嫌な人」
「嫌な人で済めばよいのですが」
私は赤い糸を懐にしまった。
「小夜さんの布包みは、千鳥が持っていてください」
「うん」
「ただし、隠し場所を変えましょう。御末の寝所では危険です」
「どこに?」
千鳥が問う。
私は少し考えた。
御台所の元へ持っていけば、強欲の箱に収められる。
藤尾の方へ預ければ、怒りの火種になる。
お柳は今、御膳場から離されているが、秘密を腹に入れる女に渡すのは危うい。
松ヶ枝なら、隠しはするだろう。だが、隠しすぎてまた動かなくなるかもしれない。
「今夜だけは、私が持ちます」
私が言うと、千鳥は不安そうに布包みを見た。
「紗代が?」
「はい」
「なくさない?」
「なくせば、千鳥に怒られます」
「怒るよ」
「なら、なくしません」
千鳥は少しだけ迷い、布包みを私へ差し出した。
手渡す瞬間、彼女の指が離れない。
「千鳥」
「ごめん」
それでも、彼女は布包みを手放した。
受け取ると、思ったより軽い。
乾いた卵焼き。
母の紙片。
小夜の紙片。
小さな布包みに、消えた女たちの声が詰まっている。
「お久さん」
私は言った。
「この紙を書いた方に心当たりはありますか」
私は寝所に差し込まれていた紙片を見せた。
――小夜は、嫉妬で消えた。
お久は紙を見つめ、ゆっくり首を横に振った。
「私ではありません」
「筆跡に覚えは」
「……お梅様の字は、見たことがありません。ただ」
「ただ?」
「この紙、針仕事の糊の匂いがします。縫殿で使う糊は、少し沈丁花の香を混ぜるのです。虫除けになるから」
私は紙片を鼻先へ近づけた。
確かに、墨の奥にかすかな花の匂いがある。
桔梗の香とは違う。
沈丁花。
小さく甘く、どこか冷たい香。
「お梅さん、でしょうか」
「分かりません」
お久はまたそう言った。
でも今度は、逃げるための分からないではなかった。
「ただ、お梅様なら、千鳥を刺すためにこの言葉を選ぶと思います」
「私を?」
千鳥が身を固くする。
「はい。千鳥が小夜に嫉妬していたことを、あの方は知っていたかもしれません。私の嫉妬も知っていた。だから、小夜は嫉妬で消えたと書けば、千鳥も私も自分を責める」
「嫌な人」
千鳥がもう一度言った。
今度は先ほどより低い声だった。
「本当に嫌な人」
「泣きながら人を動かす方ですから」
お久はそう言い、ふと目を伏せた。
「でも、あの方も何かを妬んでいたのかもしれません」
「お梅様も?」
「近くにいたのに、選ばれなかったと言っていましたから」
近くで泣く女。
その言葉が、ますますお梅へ近づいていく。
だが、御台所の箱の紙片は言った。
七人目は、最も近き者。
最も近い者とは誰なのか。
小夜に近い者か。
母に近い者か。
大御台に近い者か。
それとも、私に近い者か。
近いという言葉ほど、危ういものはない。
近ければ見えるわけではない。
近いからこそ、見えなくなることもある。
水屋を出る前に、お久が千鳥へ頭を下げた。
「千鳥」
「何」
「ごめんなさい」
「謝らないでって言った」
「それでも、言わせてください」
お久の声は震えていた。
「私は、小夜が消えてからずっと、自分は願っただけだと言い聞かせていました。手を下したわけじゃない。消したのは私じゃない。梅島様に言っただけ。そうやって、自分を生かしてきました」
千鳥は何も言わない。
「でも、違いました。願っただけじゃなかった。私は言った。小夜の秘密を渡した。あの子が危ないと分かる場所へ、押した」
「うん」
「許さなくていいです」
「許さない」
千鳥ははっきり言った。
お久は、少しだけ泣き笑いのような顔をした。
「はい」
「でも」
千鳥は苦しそうに続けた。
「小夜のこと、忘れないで」
「忘れません」
「小夜を嫌いだったお久の中にも、小夜がいるんでしょう」
「います」
「なら、その小夜も消さないで」
お久の目から涙が落ちた。
「はい」
その返事は、ようやく少しだけ本物に聞こえた。
水屋を出ると、廊下は冷えていた。
千鳥はしばらく無言で歩いた。
布包みを私に預けたせいか、両手が落ち着かなさそうに袖の中で動いている。
「持ちますか」
私が問うと、千鳥は首を横に振った。
「今は、紗代が持ってて」
「分かりました」
「持ってたら、たぶん私、泣くから」
「泣いてもよいのでは」
「今日はもう、目が腫れる」
「それは困りますか」
「困る。お吉さんに何か言われたら、今なら噛みつく」
「猫ですね」
「うつった」
千鳥は少しだけ笑った。
けれど、すぐに真面目な顔になった。
「紗代」
「はい」
「願っただけでも、罪なのかな」
私はすぐには答えられなかった。
その問いは、お久だけのものではない。
私自身にも向いている。
私は、母を陥れた者たちが苦しめばいいと思ったことがある。
藤尾の方が涙を流した時、少しだけ胸がすくような気がした。
お柳が追い詰められた時、当然だと思った。
松ヶ枝が自分の怠惰を認めた時、もっと苦しめばいいと思った。
御台所が、いつか自分の箱に閉じ込められればいいとも思った。
それは願いだ。
まだ手を下していなくても、私の中には確かに黒い願いがある。
「願っただけでは、人は消えません」
私はゆっくり言った。
「でも、その願いを誰かに渡した時、罪になることがあります」
「お久みたいに?」
「はい」
「じゃあ、私が小夜を独り占めしたいって思ったのは?」
「千鳥は、それを小夜を傷つけるために誰かへ渡していません」
「でも、寝たふりした」
「怖かったからです」
「怖かったら、罪じゃない?」
「罪ではないとは言い切れません」
千鳥が私を見る。
私は続けた。
「でも、今からどうするかは選べます」
「今から?」
「はい。寝たふりしたことをずっと自分だけの罪にして閉じ込めるのか。それとも、小夜さんの名を取り戻すために使うのか」
千鳥は俯いた。
「痛いこと言う」
「すみません」
「謝らないで。痛いけど、逃げられないことだから」
彼女は息を吐いた。
「紗代は?」
「私?」
「誰かが苦しめばいいって思ったこと、ある?」
「あります」
即答すると、千鳥は少し驚いた顔をした。
「あるんだ」
「はい」
「誰?」
「たくさん」
「たくさん」
「藤尾様、お柳さん、松ヶ枝様、御台様、梅島様。時には、父にも」
「父上にも?」
「母の死について何かを隠しているのではないかと思うと、なぜ教えてくれなかったのかと」
口にした瞬間、胸が痛んだ。
父を疑う。
それは、まだ自分でも見たくない感情だった。
「でも、苦しめばいいと思うことと、本当に苦しめることは同じではありません」
「同じにならないようにする?」
「はい」
「難しいね」
「とても」
二人で廊下を歩く。
大奥の夜は、静かだった。
でも、その静けさの奥で、誰かがこちらを見ている気配がした。
赤い糸の主。
お梅か。
それとも別の誰かか。
私たちは立ち止まらなかった。
御末の間へ戻る直前、廊下の角に小さな影が見えた。
すぐに消えた。
薄い衣の端。
そこに、赤い糸の刺繍が揺れた気がした。
「今の」
千鳥も気づいたらしい。
「追いますか」
「追う?」
千鳥は私を見た。
私は少し迷った。
今すぐ追えば、罠にかかるかもしれない。
追わなければ、手がかりを失うかもしれない。
けれど、今の私たちは小夜の布包みを持っている。
これを奪われるわけにはいかない。
「追いません」
千鳥が驚いた顔をした。
「紗代が?」
「よく噛みます」
「本当に成長してる」
「少しだけ」
「じゃあ、どうするの」
「赤い糸の刺繍を覚えます。縫殿で使われる糸。沈丁花の糊。お梅さん。これだけあれば、次にこちらから動けます」
千鳥は頷いた。
「半分、私も覚える」
「お願いします」
「赤い糸。沈丁花。泣く女」
「はい」
御末の間に戻ると、女中たちはもう眠る支度に入っていた。
お吉がこちらを見たが、何も言わなかった。
今夜はその沈黙がありがたかった。
私は小夜の布包みを、自分の荷の奥ではなく、肌身離さず持つことにした。
盗人にされた時のことを思えば、荷の中など一番危ない。
懐に入れると、乾いた卵焼きと紙片の重みが胸元に収まった。
軽いはずなのに、重かった。
千鳥は布団に入っても、なかなか目を閉じなかった。
「紗代」
「はい」
「小夜は、私を奥へ入れるなって言ったんだよね」
「はい」
「でも、私、入っちゃった」
「はい」
「怒るかな」
「怒ると思います」
「やっぱり」
「でも、最後には卵焼きを半分くれると思います」
千鳥は、布団の中で小さく笑った。
涙の混じった笑いだった。
「それ、小夜っぽい」
「でしょうか」
「うん。すごく」
その夜、私は眠る前にもう一度、赤い糸を確認した。
細く、艶やかで、血のように鮮やかな糸。
嫉妬の色だと思った。
誰かを羨み、誰かに選ばれず、誰かの近くで泣いた女の色。
願っただけの罪。
けれど、願いは誰かの手に渡れば刃になる。
小夜を消したのは、お久一人ではない。
お久の嫉妬を撫でた者がいる。
梅島へ繋いだ者がいる。
大御台の影に隠れ、近くで泣きながら人を動かした女がいる。
お梅。
次は、その名を呼ぶ番だ。
大奥は呼ぶなと言うだろう。
でも私たちは呼ぶ。
小夜の名を呼んだように。
消された女たちを、もう一度人として取り戻すために。




