第19話 嫉妬の女、お久
夜の水屋は、昼間よりもずっと狭く感じた。
古い棚には、使われなくなった器や欠けた茶碗、蓋の合わない水差しが並んでいる。どれも捨てられず、かといって表へ出されることもない。役目を失った物たちが、埃を被りながら息を潜めている場所だった。
大奥には、こういう場所が多い。
壊れてはいない。
けれど、もう使われない。
忘れられてはいない。
けれど、誰も見ない。
小夜も、そういう場所へ押し込められたのだろうか。
水屋の隅で、千鳥は私の手を握っていた。
冷たい手だった。
けれど、今朝よりは力がある。
「来るかな」
千鳥が小声で言った。
「お久さんですか」
「うん」
「来ます」
「どうして分かるの」
「来なければ、ずっと小夜さんの布包みを一人で持ち続けることになります」
千鳥は黙った。
水屋の外では、夜の大奥が静かに動いている。
遠くで衣擦れがした。誰かの咳払い。廊下を渡る足音。御鈴廊下の方から、かすかに金具の触れる音。
その一つ一つが、今夜は妙に大きく聞こえた。
「紗代」
「はい」
「私、怖い」
「はい」
「お久を責めたい気持ちもある。でも、責めたら自分にも返ってきそうで怖い」
「千鳥も嫉妬していたからですか」
「うん」
千鳥は素直に頷いた。
「小夜は、私だけの小夜じゃなかった。そんなの当たり前なのに、当時の私はそれが嫌だった。小夜がお久に優しくすると、何でって思った。私が一番近いと思ってたから」
「近い人ほど、見えないことがあります」
「紗代も?」
「はい」
「お母上のこと?」
「はい」
母のことを知りたいと思って大奥へ来た。
けれど、知るたびに分かる。
私は母を知らなかった。
父の隣で笑う母。
私の髪を結う母。
病の床で細くなった指を私に伸ばした母。
それだけが母ではなかった。
大奥で正しさを捨てられず、女たちに憎まれ、御台所に利用され、香炉に密書を隠した母もいた。
近かったからこそ、見えなかった母だ。
「でも、見たいのですね」
千鳥が言った。
「はい」
「怖くても?」
「怖くても」
「小夜も、そうなのかな」
「はい」
千鳥は私の手を少し強く握った。
「なら、見る」
その時、廊下の向こうから足音がした。
軽い足音ではない。
一歩ごとに迷うような、重い足音。
お久だった。
彼女は水屋の入口で立ち止まり、しばらく中へ入ってこなかった。
手には、小さな風呂敷包みを抱えている。
紺色の布は古びていて、端が擦り切れていた。何度も開こうとして、何度も開けられなかったもののように見える。
「来ました」
お久はそう言った。
「見れば分かります」
千鳥が少しだけ硬い声で返す。
お久は苦く笑った。
「昔の千鳥なら、そんなこと言わなかった」
「昔の私は、小夜がいなくなっても寝たふりしてた」
千鳥の声が震えた。
「だから今は言う」
お久は何も返せなかった。
私は二人の間に立つように、一歩前へ出た。
「お久さん。その包みが」
「はい」
お久は水屋の中へ入り、古い台の上に風呂敷包みを置いた。
すぐには開かない。
指先が布の結び目に触れたまま、止まっている。
「開ける前に、ひとつだけ言わせてください」
お久が言った。
千鳥が身構える。
「何」
「私は、小夜を嫌っていました」
「もう聞いた」
「でも、嫌っていただけではありません」
お久の声は細かった。
「羨ましかった。小夜になりたかった。小夜みたいに、誰かに必要とされたかった。千鳥に名前を呼ばれたかった」
千鳥の顔が揺れた。
「私に?」
「あなたは、いつも小夜を探していた」
お久は目を伏せた。
「水桶を持つ時も、御膳を運ぶ時も、叱られた後も。すぐ小夜を見る。小夜が笑うと安心して、小夜がいないと不安そうにしていた」
「それは……」
「分かっています。千鳥は悪くありません。でも私は、それを見るたびに思っていました。私が同じ場所にいても、あなたは私を見ない。私が失敗した時だけ、迷惑そうに見る」
千鳥は唇を噛んだ。
言い返せないのだろう。
お久の嫉妬は、醜い。
けれど、嘘ではない。
誰にも見られない場所に置かれた女が、見られている女を憎む。
その痛みは、たぶん大奥のあちこちに沈んでいる。
「だから、紙包みを見た時、思ったんです」
お久は続けた。
「また小夜だけが、大事なことを任されている。小夜だけが、誰かに必要とされている。私は何も知らないまま、また置いていかれる」
「それで梅島様に言った」
私が言うと、お久は頷いた。
「はい」
「梅島様は、何と?」
「最初は何も。私の話を聞いて、ただ『どこに隠した』と」
「お久さんは答えた」
「答えました」
千鳥が拳を握った。
でも、今度は叫ばなかった。
怒りを飲み込んでいる。
「そのあと、梅島様は?」
「私に、何も見なかったことにしなさいと言いました。誰にも言ってはならない。小夜にも、千鳥にも」
「それで」
「私は戻りました。でも怖くなって、小夜の寝具を見に行きました。紙包みは、もうありませんでした」
「その代わりに、これがあったのですね」
私は台の上の風呂敷包みを見た。
お久は頷いた。
「はい。小夜の布包みです。小さなものだったから、最初はただの忘れ物だと思いました。でも、持って戻って、中を見て……」
「怖くなった」
「はい」
お久の指が震えた。
「捨てようと何度も思いました。でも、捨てたら本当に小夜がいなくなる気がした。かといって千鳥に渡す勇気もなかった。私の告げ口で小夜が消えたかもしれないと、知られるのが怖かった」
「だから、今まで隠していた」
「はい」
千鳥が低く言った。
「ずっと、私の近くにいたのに」
「ごめんなさい」
「謝れば戻る?」
「戻りません」
「じゃあ、謝らないで」
お久は口を閉じた。
千鳥の声は冷たかったが、涙が混じっていた。
私は風呂敷包みに手を伸ばした。
「開けてもよろしいですか」
お久は小さく頷いた。
結び目は固かった。
何年も開かれ、また結ばれ、持ち主の恐怖を吸ったような固さだった。
布をほどくと、中からさらに薄い白布が出てきた。
その中に、小さな懐紙と、折られた紙片が二つ。
そして、乾いて硬くなった黄色いものが少し。
千鳥が息を呑んだ。
「卵焼き……?」
それは、もう食べ物とは呼べないものだった。
薄く乾き、色も変わっている。
けれど、確かに卵焼きの端らしい形をしていた。
懐紙には油の染みが残っている。
千鳥の目から、涙が溢れた。
「小夜……」
彼女は指を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触っても、いいかな」
「千鳥のものだと思います」
私が言うと、千鳥は小さく頷き、震える指で懐紙に触れた。
触れた瞬間、泣き声を噛み殺すように肩が震えた。
「馬鹿」
千鳥は小さく言った。
「こんなの、残してどうするの。食べ物は食べないと駄目って、いつも言ってたの小夜じゃん」
お久も泣いていた。
でも、声は出さなかった。
私は紙片を一つ手に取った。
筆跡を見た瞬間、胸が詰まる。
母の字だった。
癖の少ない、静かな字。
最後の払いだけが、少し強い。
そこには、短くこう書かれていた。
――小夜、千鳥を奥へ入れるな。
千鳥が涙のまま顔を上げた。
「え……」
私はもう一度読んだ。
「小夜、千鳥を奥へ入れるな」
「志乃様の字?」
千鳥が問う。
「はい」
「お母上が……私を?」
「母は、千鳥を危険から遠ざけようとしていたようです」
千鳥は言葉を失った。
小夜だけではない。
母も、千鳥を守ろうとしていた。
千鳥が知らないところで。
知らせないまま。
「私、志乃様とは、ほとんど話したことなかった」
「それでも母は、千鳥の名を知っていました」
「どうして」
お久が震える声で言った。
「小夜が、よく話していたからだと思います」
千鳥が、お久を見る。
お久は涙を拭いもせず、続けた。
「小夜は、千鳥の話をよくしていました。あの子はすぐ泣くけど、逃げ足は速いとか。卵焼きをあげると、いらないって言いながら絶対食べるとか。叱られると口を尖らせるとか」
「小夜……」
「志乃様に頼まれた時も、小夜は言っていました。千鳥は巻き込まないでくださいって」
千鳥は、懐紙の上の乾いた卵焼きを見つめた。
守られていた。
守られていたから、知らなかった。
知らなかったから、生きていた。
でも、置いていかれた。
それは救いなのか、罰なのか。
たぶん、どちらでもある。
私は二つ目の紙片を開いた。
筆跡が違う。
母ではない。
小夜の字だろうか。
少し丸く、急いで書かれている。
――七人目は、近くで泣く。
部屋の空気が凍った。
御台所の箱から出た紙片。
七人目は、最も近き者。
そして今、小夜の布包みから出た言葉。
七人目は、近くで泣く。
千鳥の顔が、真っ白になった。
「私……?」
「まだ分かりません」
私は即座に言った。
「でも、近くで泣いてたの、私だよ」
「千鳥だけとは限りません」
「でも」
「決めつけてはいけません」
強く言った。
千鳥は唇を震わせた。
「小夜が、私のことを七人目って書いたの?」
「違うと思います」
「どうして分かるの」
「小夜さんは、千鳥を守ろうとしていました。母も。もし千鳥を罪人として告発するつもりなら、この布包みを千鳥に残そうとはしないはずです」
千鳥は答えられない。
お久が小さく言った。
「近くで泣く女……」
私はお久を見る。
「心当たりが?」
「分かりません。でも、小夜が消えた夜、泣いていた女がいました」
「誰ですか」
「名前は……」
お久は言いよどんだ。
「言ってください」
「お梅様」
「梅島様?」
「いえ、梅島様ではなく、大御台様付きの若い女中です。梅島様の配下で、皆からお梅と呼ばれていました」
また新しい名。
大御台様の周辺。
近くで泣く女。
「なぜ泣いていたのですか」
「分かりません。ただ、小夜が呼び出された後、廊下の隅で泣いていました。声を殺して」
「小夜さんと関係が?」
「小夜は、その人にも何かを渡そうとしていたのかもしれません」
千鳥が目を上げた。
「小夜、色んな人に残そうとしてたの?」
「おそらく」
私は母のことを思い出した。
母も密書を分けていた。
香炉。
お柳の腹。
小夜。
そして、まだ知らない誰か。
小夜も同じことをしたのかもしれない。
自分が消えると悟り、欠片を分けた。
守るために。
残すために。
「お久さん」
私は尋ねた。
「お梅さんは今も大奥に?」
「分かりません。小夜が消えた少し後、姿を見なくなりました」
「また消えた女」
千鳥の声が掠れた。
お久は頷いた。
「でも、お梅様は小夜とは違って、表向きには大御台様の身の回りから外されただけと聞きました」
「どこへ」
「奥の縫殿の方へ移されたと」
「針仕事に関わる場所ですね」
「はい」
私は紙片を見つめた。
七人目は、近くで泣く。
千鳥だけではない。
お久でもないかもしれない。
お梅という女。
小夜の失踪と、大御台様の周囲。
嫉妬の罪は、まだ底が見えない。
千鳥が、震える手で母の紙片を握った。
「志乃様は、私を奥へ入れるなって書いてた」
「はい」
「でも、私、今ここにいる」
「はい」
「駄目だったかな」
「今の千鳥は、あの時の千鳥ではありません」
私は言った。
「小夜さんが守ろうとした千鳥は、何も知らず、怖くて寝たふりをするしかなかった子です。今の千鳥は、小夜さんの名を呼んで、自分で見ようとしている」
「それでも、小夜は怒るかな」
「怒るかもしれません」
千鳥が目を丸くした。
「そこは怒らないって言ってよ」
「小夜さんは、怒る時は怒る方だったのでしょう」
千鳥は涙のまま、少し笑った。
「うん。怒る。絶対怒る」
「でも、止めはしないと思います」
「どうして」
「布包みを残したからです」
千鳥は、卵焼きの残った懐紙をそっと撫でた。
「そっか」
お久が小さく言った。
「小夜は、最後まで半分にしたんですね」
「半分?」
「千鳥を遠ざける言葉と、千鳥がいつか見るためのもの。両方残した」
私は頷いた。
小夜も矛盾していた。
守りたい。
でも、忘れてほしくない。
巻き込みたくない。
でも、いつか気づいてほしい。
人は一つの願いだけで動くわけではない。
母も、きっとそうだった。
私を守りたかった。
でも、誰かに真実を見つけてほしかった。
その矛盾が今、私をここへ連れてきている。
「お久さん」
千鳥が言った。
声はまだ震えている。
「私は、お久を許せない」
「はい」
「小夜を梅島様に告げ口したこと、許せない」
「はい」
「でも」
千鳥は、お久をまっすぐ見た。
「小夜が優しいから憎かったっていう気持ちは、少し分かる」
お久の顔が歪んだ。
「千鳥」
「私も小夜を独り占めしたかったから。小夜が誰かに優しくするの、嫌だったから」
「あなたは告げ口していない」
「でも、気持ちはあった」
「それは違う」
お久は首を振った。
「思うことと、口にすることは違う。口にすることと、誰かに渡すことは違う。私は渡した。小夜を危ない場所へ押した」
「うん」
千鳥は頷いた。
「だから許さない」
「はい」
「でも、一緒に小夜のことを見て」
お久は目を見開いた。
「私が?」
「お久も、小夜を覚えてるんでしょう」
「覚えています」
「嫌いだった小夜でも、覚えてるんでしょう」
「……はい」
「なら、忘れたふりしないで」
お久の涙が落ちた。
長い間、自分の嫉妬と罪悪感を布包みごと隠していた女が、ようやく泣いた。
それは和解ではなかった。
許しでもない。
でも、小夜の名を怪談から人の名へ戻すための、小さな一歩だった。
その時、外で微かな物音がした。
私たちは一斉に振り返る。
水屋の入口には、誰もいない。
けれど、床に小さなものが落ちていた。
赤い糸。
針仕事に使う糸だった。
誰かが聞いていた。
お久が顔色を変える。
「今の糸……」
「心当たりが?」
「縫殿で使う糸です。普通の針仕事の部屋にはありません」
「縫殿」
お梅が移されたという場所。
近くで泣く女。
今、私たちの話を聞いていた者が縫殿に関わっている。
千鳥が紙片を握りしめた。
「小夜の話、また誰かに聞かれた」
「ええ」
「今度は、こっちから追う」
その声には、恐怖より怒りがあった。
でも、ただの怒りではない。
小夜を取り戻すための怒り。
「行きましょう」
私は言った。
「今すぐ?」
「追えば危険です。ですが、糸は手がかりです」
「また慎重」
「よく噛みます」
「お柳さんっぽい」
「それは嫌です」
千鳥が少しだけ笑った。
お久は、布包みをもう一度丁寧に畳んだ。
「これは、千鳥が持ってください」
「私が?」
「小夜のものだから」
千鳥は迷った。
それから、両手で布包みを受け取った。
まるで赤子を抱くように、大切に。
「小夜」
彼女は小さく名を呼んだ。
今度も返事はなかった。
でも、私は思った。
返事は、もう少し別の形で返ってきているのかもしれない。
卵焼きの欠片。
母の字。
小夜の紙片。
赤い糸。
消された女たちは、黙っていない。
誰かが、その名をもう一度呼ぶ限り。




