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大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第14話 暴食の腹に眠る灰

御台所の拍手は、夜の廊下に奇妙なほどよく響いた。


 一度。


 二度。


 三度。


 大きな音ではない。むしろ、指先だけで鳴らしたような静かな音だった。けれどその場にいた誰もが、胸の奥を叩かれたように動きを止めた。


 松ヶ枝の手には、焦げた紙片。


 そこに残された文字。


 御子替え。


 たった三文字。


 けれどその三文字は、母の死も、小夜の失踪も、藤尾の方の憤怒も、お柳の沈黙も、すべてを一瞬で別の場所へ押し流した。


 女同士の憎しみではない。


 寵愛争いでもない。


 汚名でも、簪でも、香炉だけの話でもない。


 将軍家の血。


 国の根に触れる言葉だった。


「よく辿り着きましたね、篠乃井」


 御台所は、薄闇の中から歩いてきた。


 白い打掛が、夜の廊下でぼんやり浮かんで見える。背後には初瀬が控えている。初瀬の表情はいつも通り何も読めない。だが、その手が袖の中でわずかに握られているのを、私は見逃さなかった。


 初瀬でさえ、今は警戒している。


 それほどの言葉なのだ。


「けれど、その文字は国を傾けます」


 御台所は、静かに言った。


 松ヶ枝が紙片を握りしめた。


「御台様」


「松ヶ枝。その手を開きなさい。焦げた紙は脆い。強く握れば、国が傾く前に粉になります」


 冗談のように聞こえる声だった。


 でも、誰も笑わなかった。


 松ヶ枝はゆっくり手を開いた。


 焦げた紙片は、彼女の掌の上でかろうじて形を保っている。端は黒く、中央だけが茶色く残り、そこに墨が滲んでいた。


 御子替え。


 私はその文字から目を離せなかった。


「御台様」


 藤尾の方が低い声を出した。


「これは、何なのです」


「見た通りです」


「見た通りで済ませられる文字ではございません」


「ええ。だから、今まで済ませてきたのです」


 藤尾の方の顔が怒りで歪んだ。


「御台様!」


「声を荒げないで、藤尾。夜ですよ」


 御台所は穏やかに言った。


「それに、あなたはまだ病み上がりです。怒りで胸を乱せば、またお柳に薬湯を作らせることになります」


 お柳が、微かに頭を下げた。


 この状況でも、彼女は笑っていた。


 だが、いつもの柔らかな笑みとは少し違う。


 追い詰められた女が、まだ自分の腹の中に逃げ道を探している顔だった。


「お柳」


 御台所は彼女へ視線を向けた。


「なぜ燃やそうとしたのです」


「湿気が入っておりましたので」


 お柳は即座に答えた。


「灰は湿気ると、役に立ちません」


「紙片も灰ですか」


「燃え残りでございます」


「燃え残りを燃やせば、灰になりますね」


「はい」


「では、なぜ完全な灰にしようとしたのです」


 お柳は笑みを深くした。


「御台様のお手元に置くには、少々、形が残りすぎておりました」


 御台所は、しばらくお柳を見ていた。


 それから、微笑んだ。


「私が命じたように聞こえますね」


「そのつもりはございません」


「では、誰のために燃やそうとしたのです」


 お柳は答えなかった。


 御台所の微笑みは変わらない。


 だが、その場の温度が一つ下がったように感じた。


 私は、初めて見た。


 御台所の怒りを。


 声を荒げない。顔色も変えない。ただ、相手の周囲から空気を少しずつ奪っていくような怒り。


 藤尾の方の怒りが火なら、御台所の怒りは水だ。


 気づいた時には、溺れている。


「答えなさい、お柳」


 御台所は言った。


「その灰は、誰の腹に入れるつもりでしたか」


 お柳の頬が、ほんのわずかに動いた。


「腹、でございますか」


「そなたは何でも腹にしまうでしょう。菓子も、薬も、女の弱みも、私の命も、私に命じられていないことも」


「買いかぶりでございます」


「いいえ。私はそなたを買っています」


 御台所の声は優しかった。


「だから今まで、御膳場に置いてきた」


 その言葉に、お柳の笑みが消えた。


 置いてきた。


 飼うでも、任せるでもない。


 置いてきた。


 お柳もまた、御台所の箱の中のひとつだったのだ。


「篠乃井」


 御台所が私を呼んだ。


「はい」


「そなたはどう見ます」


 突然、話を振られた。


 松ヶ枝が私を見る。


 藤尾の方も。


 千鳥は隣で息を呑んでいる。


 お柳だけが、静かにこちらを見ていた。


 試されている。


 御台所はこの場で、私に判断させようとしているのだ。


 私の口から、お柳を刺させるために。


 あるいは、お柳を庇わせるために。


 どちらに転んでも、御台所は私の性質を測ることができる。


「……お柳さんは、御台様のためだけに燃やそうとしたのではないと思います」


 私が言うと、お柳の目が少し細くなった。


 御台所は面白そうに微笑む。


「なぜ」


「御台様の命なら、もっと堂々とできます。初瀬様に持たせて、御台様の御前で燃やせばよい。お柳さんが一人で夜中に、古い火鉢で燃やす必要はございません」


「では、誰のために?」


「自分のためです」


 お柳の笑顔が、完全に消えた。


 私は続けた。


「お柳さんは、灰を守っていたのではありません。食べていました」


 千鳥が小さく「食べて?」と呟いた。


「秘密を、です」


 私はお柳を見た。


「御台様から預かった灰。母の文の燃え残り。小夜さんが見た別の欠片。お柳さんはそれらを隠し、分け、時に誰かへ渡し、時に燃やそうとした。秘密そのものを腹に入れて、大奥で生きるための糧にしていたのではありませんか」


 お柳は黙っていた。


 その沈黙は、否定ではなかった。


 御台所は、静かに笑った。


「暴食ですね」


 その言葉が落ちた瞬間、お柳の顔が少し歪んだ。


 初めてだった。


 彼女が傷ついたような顔を見せたのは。


「暴食、でございますか」


「ええ。そなたは食べすぎた」


「食べなければ、生きられませんでした」


 お柳の声が低くなった。


 千鳥が身を固くする。


 藤尾の方は扇を握りしめた。


 お柳は、ゆっくりと私を見た。


「篠乃井さん。あなたは、腹が空いたことがありますか」


「あります」


「違います」


 お柳は首を振った。


「明日の膳が来るか分からない空腹です。失敗すれば御膳場から追われ、追われれば住む場所も食べるものもなくなる。誰かの残した菓子ひとつに頭を下げ、冷えた粥をありがたいと思いながら飲み込む。そういう空腹です」


 私は何も言えなかった。


 お柳の声に、初めて彼女自身の過去が滲んでいた。


「私は食べました。生きるために。菓子も、残飯も、女たちの弱みも。藤尾様が何を食べられなくなったか。御台様がどの香を嫌ったか。夕霧様がどの薬湯を捨てたか。松ヶ枝様が夜中に何を戻したか」


 松ヶ枝の顔が強張った。


「皆様、食べ物の前では油断するのです。好きなものを見れば顔が緩む。嫌いなものを前にすれば目が泳ぐ。毒を疑えば手が止まる。愛する者へ菓子を残す。憎む者の膳には手をつけない。食は、口より正直です」


「だから、秘密を集めた」


「集めなければ、御膳場の女など、いつでも捨てられます」


 お柳は、静かに笑った。


「私には寵愛もありません。家の後ろ盾もありません。若さも、美しさも、御台様のような血筋も、藤尾様のような怒りも、夕霧様のような香もない。ただ、腹があった。食べて、覚えて、しまい込む腹が」


「それで、母の秘密も食べたのですか」


 私の声は、自分でも驚くほど冷たかった。


 お柳は私を見た。


「志乃様は、私に食べさせようとしたのです」


「母が?」


「ええ」


 お柳は焦げた紙片へ視線を落とした。


「七年前、志乃様は御膳場へ来ました。雨に濡れて、顔色をなくして、それでも背筋だけは伸びていた。私に言いました。『お柳さん。あなたは忘れない方ですね』と」


「母が、なぜお柳さんに」


「私が食べる女だと、見抜いていたのでしょう」


 お柳は少しだけ苦笑した。


「ひどい方でした。優しい顔をして、人の腹の底まで見る」


「母は、何を預けたのですか」


「灰になる前の文の、写しの一部」


 その場にいた全員が息を止めた。


 写し。


 母は、密書を一つだけ残したのではない。


 写しを作っていた。


 人に裏切られることを前提に。


 燃やされることを前提に。


 いくつかの場所へ、分けていた。


「その写しは、どこに」


 私が問うと、お柳は首を横に振った。


「今はありません」


「燃やしたのですか」


「食べました」


 千鳥が「え」と声を漏らした。


 お柳は、淡々と言った。


「紙を小さく裂いて、粥に混ぜて、飲み込みました」


 背筋が冷たくなった。


「なぜ」


「見つかれば殺されると思ったからです」


「なら、内容は」


「覚えています」


 お柳の目が、まっすぐ私を見た。


「食べたものは、腹に残ります」


 御台所が、ほんの少しだけ目を細めた。


 この人も知らなかったのか。


 いや、知っていて黙っていたのか。


 分からない。


「お柳」


 御台所の声が静かに落ちた。


「そなた、私にも黙っていましたね」


「はい」


 お柳は頭を下げた。


「死にたくありませんでしたので」


「正直でよろしい」


「御台様に学びました」


 初瀬の目が鋭くなった。


 御台所は笑った。


「では、今ここで吐き出しなさい」


 お柳は、すぐには答えなかった。


 腹に手を当てる。


 長い年月、秘密をしまい込んできた腹。


 その中に、母の言葉が残っている。


「すべては言えません」


 お柳は言った。


「今ここで言えば、本当に国が傾きます」


「では、少し」


 御台所が促す。


「少しなら、国は傾きませんか」


「傾くかもしれません」


「それでも?」


「ええ」


 御台所は微笑んだ。


「大奥は、少しくらい傾いた方が風通しがよくなるでしょう」


 藤尾の方が呆れたように笑った。


「御台様は、そういうところが本当に恐ろしい」


「褒め言葉として受け取ります」


「褒めておりません」


 お柳は二人のやり取りを聞きながら、静かに目を閉じた。


 そして、低く語り始めた。


「桔梗の夜、将軍様は藤尾様の部屋へ渡るはずでした。けれど御鈴は途中で止まり、別の部屋へ向かわれた」


 藤尾の方の顔が強張る。


 知っていることのはずだ。


 けれど、他人の口から聞かされると、古傷はまた開く。


「その部屋にいた女は、表向きには寵愛を受けたことになっておりません。記録にも残っていない。名も消されました」


「誰」


 藤尾の方が問う。


 お柳は答えなかった。


「今は言えません」


「またそれ?」


「言えば、藤尾様が今すぐその女の名を叫びます」


「叫ぶわよ」


「だから言えません」


 藤尾の方は歯を食いしばった。


 でも、それ以上は迫らなかった。


 自分でも分かっているのだ。


 叫べば負ける。


 御台所は静かに言った。


「続けなさい」


「その女は、後に御子を宿したと噂されました」


 御子。


 千鳥が私の袖を掴む。


「ですが、御子は表に出なかった。産まれたとも、死んだとも、流れたとも、記録にはありません」


「御子替えとは」


 私が問う。


 お柳は、ゆっくり目を開いた。


「志乃様の文には、こうありました」


 その場の誰もが、お柳を見る。


「御子は、替えられたのではない。替えられたことにされた」


 意味が、すぐには分からなかった。


 御子が替えられたのではない。


 替えられたことにされた。


「どういうことですか」


「本当に御子がいたのかどうか。まず、そこから疑えという意味です」


 松ヶ枝が息を呑んだ。


 御台所の目が、初めて少しだけ鋭くなった。


「お柳」


「はい」


「そこまででよい」


「御台様」


「それ以上は、今は言うな」


 御台所の声には、命令があった。


 お柳は素直に口を閉じた。


 私は御台所を見た。


「御台様は、ご存じなのですね」


「何を」


「本当に御子がいたのかどうか」


「知っていたら、どうします」


「聞きます」


「答えなければ」


「調べます」


「そなたは、そればかりですね」


 御台所は呆れたように、けれどどこか愉しげに言った。


「でも、今は駄目です」


「なぜですか」


「まだそなたには、御子の重みが分かっていない」


「母の死より重いのですか」


「国は、母一人より重い」


 言葉は冷たかった。


 でも、それが御台所の本音なのだろう。


 私にとって母は世界そのものだ。


 けれど御台所にとっては、大奥の秩序、将軍家、国の方が重い。


 その重さの下で、母は潰された。


「国のためなら、母は死んでもよかったのですか」


 私の声が震えた。


 怒りで。


 御台所は、すぐには答えなかった。


 長い沈黙。


 やがて、静かに言った。


「よいわけがありません」


 意外な答えだった。


「よいわけがない。けれど、それでも選ばねばならぬ時がある。そう信じた者たちが、七年前、そなたの母を殺しました」


「御台様も、その一人ですか」


 初瀬が一歩前へ出かけた。


 御台所が手で制す。


「ええ」


 御台所は認めた。


 あまりにも静かに。


「私も、その一人です」


 藤尾の方が目を見開く。


 松ヶ枝は目を閉じた。


 お柳は、ただ腹に手を当てていた。


 私は、息ができなかった。


 御台所が母を殺した。


 いや、違う。


 彼女は言った。


 一人ではない、と。


 七つの罪が、母を押し潰した。


 その中に、自分も含まれていると。


「なぜ」


 声が掠れた。


「なぜ、今それを」


「そなたがそこまで来たからです」


 御台所は言った。


「そして、まだ来すぎてはいないから」


「意味が分かりません」


「今なら、怒るだけで済む。もう少し進めば、怒ることすらできなくなります」


「それでも進みます」


「でしょうね」


 御台所は、お柳へ視線を戻した。


「灰は、こちらへ」


 お柳は、しばらく動かなかった。


「御台様」


「何」


「この灰は、すべてお渡しすれば、私は空になります」


「空腹になりますか」


「ええ」


「ならば、また食べればよい」


「何を」


「己の罪を」


 お柳の顔が、静かに歪んだ。


 それは怒りではない。


 笑うことに疲れた女の顔だった。


 お柳は袖の奥から、小さな包みを取り出した。


 先ほどの灰だけではない。


 さらに二つ。


 小さな紙包み。


 塩壺だけではなかった。


 彼女は灰を分け、いくつも腹のように隠していたのだ。


「全部ではありません」


 お柳は言った。


「ですが、今出せるものは、これでございます」


「まだ隠しているのですか」


 私は問う。


「もちろん」


 お柳は、疲れた顔で笑った。


「食べ物を一度に全部出す女がいますか」


「本当に暴食ですね」


「ええ」


 彼女は、初めて自分で頷いた。


「私は暴食の女です。食べて、隠して、生き延びた。志乃様の真実も、小夜さんの願いも、御台様の命も、自分の恐怖も、全部腹に入れた」


 千鳥が前へ出た。


「小夜の願い?」


 お柳は、千鳥を見た。


「小夜さんは、言いました。『千鳥には、何も食べさせないで』と」


「何、それ」


「秘密を、です」


 千鳥の目に涙が浮かんだ。


「小夜さんは、あなたを守ろうとしました。桔梗の香を追うなと言ったのも、そのためです」


「じゃあ、小夜は」


「生きているかどうかは、言えません」


「どうして!」


「言えば、その可能性まで殺すことになります」


 千鳥は口を閉じた。


 可能性。


 小夜が生きている可能性。


 そのわずかな火を、お柳はまだ消していない。


 お柳は秘密を食べる女だ。


 けれど、食べたすべてを腐らせていたわけではないのかもしれない。


 守るために飲み込んだ秘密もある。


 許せるわけではない。


 でも、ただの悪女としては切れない。


 大奥の女は、いつもそうだ。


 罪の奥に、誰かを守ろうとした形跡がある。


 そして、その守り方がまた誰かを傷つける。


 御台所が初瀬に目配せした。


 初瀬が包みを受け取り、御台所へ渡す。


 御台所はそのうち一つを開いた。


 中には、黒い灰と、焦げた紙の欠片が入っていた。


 御台所はじっと見た。


 それから、私へ差し出した。


「読みなさい」


「よろしいのですか」


「読ませるために開きました」


 私は受け取った。


 手が震えた。


 焦げた紙片には、文字が残っている。


 完全ではない。


 だが、読める。


 ――御子替えの噂を流した者、奥にあり。


 そこまでだった。


「噂を流した者」


 私は呟いた。


「御子が替えられたのではなく、替えられたことにされた。そして、その噂を流した者が奥にいる」


 藤尾の方が顔を歪める。


「誰よ」


 御台所は答えない。


 お柳も。


 松ヶ枝も。


 ただ、空気だけが一つの名を避けているように感じた。


 大御台。


 夕霧の方が口にした名。


 将軍の母。


 傲慢の女。


「大御台様ですか」


 私は口にした。


 その瞬間、全員の顔が動いた。


 藤尾の方は怒りで。


 松ヶ枝は恐れで。


 お柳は諦めで。


 初瀬は警戒で。


 御台所は、微笑みのまま目だけを細めた。


「その名は、軽々しく口にしてはなりません」


「では、重く口にします」


 千鳥が横で小さく「紗代」と制した。


 でも、もう止まれなかった。


「母は、大御台様の何を知ったのですか」


 御台所は、ゆっくりと私へ近づいた。


 そして、私の目の前で足を止めた。


「篠乃井紗代」


「はい」


「今夜のことは、ここにいる者だけの腹に収めます」


「また、腹ですか」


「そうです」


 御台所は言った。


「お柳の腹は、秘密を食べすぎました。今度は、皆で少しずつ分けて持ちなさい」


「分ければ、罪は軽くなりますか」


「いいえ」


「では、なぜ」


「一人で持つと、死ぬからです」


 その言葉だけは、妙に真実味があった。


 母は、一人で持ったのだろうか。


 だから死んだのだろうか。


 小夜も、一人で持ったのだろうか。


 だから消えたのだろうか。


 ならば今、ここにいる私たちは何だ。


 罪人たちか。


 共犯者か。


 それとも、母が残した真実を少しずつ背負わされる者たちか。


「灰は、私が預かります」


 御台所は言った。


「お柳はしばらく、御膳場から離れなさい」


「御台様」


「そなたの腹を空にする時間です」


 お柳は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 その声は、少しだけ軽かった。


 罰を受ける女の声ではなく、ようやく食べすぎたものを少し吐き出せた女の声だった。


「篠乃井」


「はい」


「そなたには、ひとつ命じます」


「何でございましょう」


「御子替えの噂を追いなさい。ただし、大御台様にはまだ近づいてはなりません」


「なぜですか」


「そなたでは、まだ踏み潰されます」


「ならば、どうすれば」


「周囲から」


 御台所は言った。


「噂は、人から人へ渡るものです。最初に火をつけた者がいて、風を送った者がいて、見て見ぬふりをした者がいて、面白がって語った者がいる。火元だけを見ては、火事の広がりは分かりません」


「その中に、七人の罪がある」


「ええ」


 御台所は、ほんの少しだけ満足そうに頷いた。


「強欲、憤怒、暴食、傲慢、怠惰、色欲、嫉妬。志乃を殺したのは一人ではない。そなたが探すべきものは、犯人ではなく、罪の連なりです」


 罪の連なり。


 その言葉が胸に沈んだ。


「私は、探します」


「でしょうね」


「ですが、御台様」


「何です」


「御台様も、その連なりの中にいることを忘れません」


 初瀬が目を見開いた。


 松ヶ枝が息を呑む。


 藤尾の方が、少しだけ笑った。


 御台所は私を見つめた。


 長い沈黙のあと、静かに言った。


「忘れなくてよろしい」


 そして、微笑んだ。


「忘れられた罪ほど、腐りますから」


 その夜は、それで解散となった。


 誰も多くを語らなかった。


 語れば、次の火種になるからだ。


 お柳は初瀬に連れられ、御膳場から下がった。


 松ヶ枝は焦げた紙片の写しを取るため、御台所と共に奥へ戻った。


 藤尾の方は、去り際に私を見た。


「篠乃井」


「はい」


「御子替えの女を見つけたら、私にも教えなさい」


「なぜですか」


「怒る相手が、ようやく分かるかもしれないから」


 それは冗談のようで、冗談ではなかった。


「承知いたしました」


「あと」


 藤尾の方は小さく言った。


「志乃は、やはり馬鹿ね」


「母が?」


「ええ。こんなものを残して、娘まで地獄に呼び込むなんて」


「そうですね」


 私は懐の簪に触れた。


「でも、母はたぶん、私に来てほしかったわけではありません」


「では、何」


「誰かに、見つけてほしかったのだと思います」


 藤尾の方は黙った。


 そして、少しだけ目を伏せた。


「それが、あなたでよかったのかどうかは、まだ分からないわ」


「私もです」


「正直ね」


「嘘が下手ですので」


「本当に腹立たしい娘」


 藤尾の方はそう言って去った。


 私と千鳥は、御末の部屋へ戻る廊下を歩いた。


 夜はまだ深い。


 けれど、さっきまでとは違う闇に感じた。


 御子替え。


 噂を流した者。


 大御台。


 小夜の持って消えた別の欠片。


 そして、お柳の腹から出てきた母の言葉。


「紗代」


 千鳥が言った。


「小夜、生きてると思う?」


 答えはなかった。


 でも、私はすぐには否定したくなかった。


「可能性はあります」


「可能性って、ずるい言葉だね」


「はい」


「でも、今はそれでいい」


 千鳥は小さく息を吐いた。


「小夜が私を守ろうとして、秘密を食べさせなかったなら」


「はい」


「私は、今度は自分で食べる」


「秘密を?」


「うん」


 千鳥は顔を上げた。


「半分だけなら、食べられる気がするから」


 私は頷いた。


「では、半分ずつ」


「うん」


 その約束は、危険だった。


 秘密を分け合うことは、罪を分け合うことでもある。


 でも、一人で抱えれば死ぬ。


 御台所が言った通りなら。


 母と小夜がそうだったのなら。


 私たちは、一人で進んではならない。


 御末の部屋へ戻る前、私は一度だけ振り返った。


 御台所のいる奥は、闇の向こうに沈んでいる。


 さらにその奥に、大御台がいる。


 傲慢の女。


 将軍家の血を、自分のものだと信じて疑わない女。


 母は、その女の何に触れたのか。


 御子替えは、実際に起きたのか。


 それとも、起きたことにされたのか。


 そして、誰がその噂を流したのか。


 大奥の夜は、答えをくれない。


 けれど、今夜は確かに一つ、灰の中から文字が戻った。


 御子替え。


 その三文字は、母の声のように、私の胸で燃え続けていた。

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