第15話 御子替えの噂
御子替え。
その言葉は、朝になっても私の胸から離れなかった。
大奥の朝は、いつも通り始まる。
女中たちは畳を拭き、火鉢の灰を整え、襖を開け、湯を運ぶ。庭の木々には薄い朝日がかかり、昨日の夜に国を傾ける言葉が出たことなど、誰も知らない顔で一日が動き出していた。
けれど、私には分かっていた。
何かが変わった。
いや、変わったのではない。
隠されていたものが、ほんの少し見えただけだ。
御子は替えられたのではない。
替えられたことにされた。
お柳が腹の底から吐き出した母の言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。
御子替え。
将軍家の血に関わる噂。
大御台様。
母、志乃。
小夜。
そして、私。
「紗代」
千鳥が小声で呼んだ。
私が雑巾を持ったまま同じ場所を拭き続けていることに気づいたらしい。
「そこ、もう畳が透けるわよ」
「すみません」
「謝るのは私じゃなくて畳にして」
「申し訳ございません、畳」
「本当に言うとは思わなかった」
千鳥は呆れた顔をしたが、すぐに周囲へ目を走らせた。
お吉たちは少し離れたところで、こちらをちらちら見ている。
昨日から、私と千鳥の周りには妙な距離ができていた。
近づけば巻き込まれる。
けれど、気になる。
大奥の女たちは、そういう顔をしている。
「考えてたの?」
「はい」
「御子替え?」
「声が大きいです」
千鳥は慌てて口を押さえた。
「ごめん」
「いいえ」
「でも、あれ……どういう意味なの」
千鳥の声は震えていた。
「御子が替えられたんじゃなくて、替えられたことにされたって」
「分かりません」
「紗代でも?」
「分からないことだらけです」
「珍しく弱気」
「強気で分かったふりをすると、御台様に似そうなので」
「それは嫌」
「私もです」
千鳥は少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐに消える。
「小夜は、その別の欠片を持って消えたんだよね」
「お柳さんは、そう言っていました」
「じゃあ、小夜はもっと知ってたのかな」
「おそらく」
「それで、消えた」
千鳥の手が、ぎゅっと布巾を握った。
「千鳥」
「大丈夫」
「大丈夫ではない顔です」
「うん。大丈夫じゃない。でも、もう何も聞かなかったことにはしたくない」
千鳥は、私を見た。
その目はまだ怖がっている。
でも、逃げる目ではなかった。
「半分ずつ、だったよね」
「はい」
「じゃあ、今日も半分持つ」
「ありがとうございます」
「でも、危ない時は先に言って。紗代、勝手に一人で崖の縁まで行くから」
「気をつけます」
「その返事、崖を覗く気がある人の返事」
「覗くだけなら」
「駄目!」
千鳥の声が少しだけ大きくなった。
お吉がこちらを見る。
千鳥は咳払いをして、いかにも何でもありませんという顔で雑巾を絞った。
私は少しだけ笑いそうになり、堪えた。
それから、廊下の奥を見た。
藤尾の方の部屋へ続く廊下。
まず、聞くべき相手はあの人だ。
桔梗の夜、将軍は藤尾の方の部屋へ渡るはずだった。
けれど、別の部屋へ向かった。
その別の部屋にいた女。
その女が御子を宿したという噂。
藤尾の方なら、何か知っている。
たとえ知っていなくても、誰を憎んでいたかは覚えているはずだ。
怒りは記録になる。
紙よりも歪みやすいが、紙よりも消えにくい記録に。
「藤尾様のところへ行きます」
私が言うと、千鳥は目を細めた。
「今度は何を聞くの」
「桔梗の夜、将軍様がどなたの部屋へ向かったのか」
「それ、聞いた瞬間に扇で叩かれない?」
「叩かれるだけなら、まだ」
「まだ、じゃない」
千鳥はため息をついた。
「私も行く」
「藤尾様の部屋へは」
「廊下で待つ。もう待つ係でいい」
「心の盆係も兼ねていますね」
「そうよ。忙しいの、私は」
そう言いながら、千鳥は少しだけ口元を緩めた。
藤尾の方の部屋は、いつもより静かだった。
香も薄い。
怒りが少し鎮まったのか、それとも嵐の前の静けさなのかは分からない。
志津に取り次ぎを頼むと、意外にもすぐ通された。
藤尾の方は鏡台の前ではなく、窓辺に座っていた。
髪には、簪がない。
母の銀の桔梗は、まだ私が預かっている。
それが藤尾の方の髪にないことに、私は少しずつ慣れ始めていた。
でも、藤尾の方はまだ慣れていないのかもしれない。
時折、無意識に髪へ手をやり、何もないことに気づいて指を止める。
「来ると思っていたわ」
藤尾の方は、こちらを見ずに言った。
「なぜでございますか」
「昨日の夜、あんなものを見たでしょう。あなたが大人しく御末の間で雑巾だけ握っていられるはずがない」
「よくお分かりで」
「腹立たしいくらい分かるわ」
藤尾の方は、ようやくこちらを見た。
「御子替えのことね」
私は頭を下げた。
「はい」
「聞きたいことは?」
「桔梗の夜、将軍様は藤尾様の部屋ではなく、どなたの部屋へ渡られたのですか」
沈黙。
藤尾の方の指が、扇の端を強く握った。
やはり、傷口だ。
七年経っても、まだ血が滲む傷。
「名は知らない」
「藤尾様でも?」
「知らないのではないわ。知らされなかったの」
藤尾の方の声が低くなる。
「その夜、私は待っていた。御鈴が鳴るのを聞いた。衣も香も整えて、志乃にも何度も髪を直させた。御台様からも、今宵はよい夜になるでしょう、などと白々しい言葉をかけられていた」
「御台様が?」
「ええ。今思えば、あれも何かの布石だったのかもしれないわ」
藤尾の方は皮肉に笑った。
「御鈴は鳴った。けれど途中で止まった。廊下の気配が変わった。誰も私の部屋へ来なかった。夜が更けても、朝になっても、誰も説明しなかった」
「母は、その時」
「いたわ」
藤尾の方の目が、遠くを見る。
「志乃は、最後まで部屋にいた。私が髪飾りを投げつけても、香炉を倒しても、何も言わなかった。私はあの女に当たり散らした。なぜ来ないの。誰のところへ行ったの。調べて。文を書いて。誰かのせいにして。そう言った」
「母は」
「拒んだ」
藤尾の方は、苦く笑った。
「それで私は、志乃に言ったのよ。あなたは誰の女中なの、と。私の側にいるくせに、私を選ばないのかと」
「母は、何と」
「覚えているわ」
藤尾の方の声が、少しだけ震えた。
「『藤尾様をお守りしたいからこそ、嘘は書けません』と」
母らしい言葉だった。
そして、藤尾の方には最も残酷な言葉だったのだろう。
「その後、噂が流れた」
「御子の噂ですか」
「ええ。将軍様が渡った先の女が、御子を宿したと。でも、その女の名は出なかった。誰も知らない。誰も見ていない。ただ、噂だけが廊下を歩いた」
「誰が流したのでしょう」
「大奥で噂を流す女は、たいてい自分の口を持っていないわ」
「どういう意味ですか」
「言わせる者がいるということよ」
藤尾の方は、私を見た。
「お吉のような御末が噂をする。志津のような女中が広げる。御膳場で茶を飲みながら、誰かが少しだけ言い添える。けれど最初の火種は、もっと上から落ちる」
「御台様」
「御台様も火を扱うわ。でも、あの時の火は……もっと古い匂いがした」
「古い匂い」
「大御台様よ」
部屋の空気が重くなった。
名前を口にしたのは、藤尾の方だ。
それでも、声を低めずにはいられない。
「大御台様は、直接噂を流すような方なのですか」
「直接? まさか」
藤尾の方は鼻で笑った。
「大御台様は、直接人を踏まないわ。踏まれて当然の場所に、人を立たせるの」
「傲慢の女」
「夕霧に聞いたの?」
「はい」
「あの子、余計なことばかり言うわね。でも間違っていない」
藤尾の方は、窓の外へ視線を移した。
「大御台様は、将軍様を産んだ方。あの方にとって、大奥の女たちは皆、将軍家の血を守る器か、乱す塵よ。御台様でさえ、嫁いできた外の女。私たち側室など、言うまでもない」
「母は、その血に触れた」
「そうなのでしょうね」
藤尾の方は苦しげに目を細めた。
「志乃は、あの夜から変わった。私への態度は変わらなかったけれど、時々、廊下の奥を見るようになった。何かを数えるように。誰かを待つように」
「小夜さんですか」
「小夜?」
「御末の女中です。千鳥の知人で、母から紙包みを預かっていた可能性があります」
藤尾の方は少し考えた。
「名は覚えていない。でも、志乃が若い御末の子に何かを頼んでいたのは見たことがある」
「いつ頃ですか」
「桔梗の夜のあと。志乃が私の部屋から遠ざけられ始めた頃よ」
「遠ざけられた?」
「ええ。御台様の命で、志乃は私付きから外されかけていた。表向きは体調を案じて。実際には、志乃を私から切り離すためだったのでしょう」
母は、藤尾の方の側から外され、孤立させられた。
そして、御子替えの噂と香炉の密書へ近づいた。
「藤尾様は、その時、母を助けようとは」
「しなかった」
藤尾の方は即答した。
「腹が立っていたもの。志乃が私を選ばなかったことに。将軍様が来なかったことに。若い女たちが陰で笑っていることに。私は怒ることに忙しくて、志乃がどこへ追い詰められているか見ようとしなかった」
藤尾の方は自分の手を見た。
「憤怒の女、というなら、その通りね。怒りは便利よ。自分の痛みだけ見ていられるから」
私は何も言えなかった。
藤尾の方は、母を直接殺したわけではない。
だが、母を助けなかった。
怒りに呑まれ、母の危機を見なかった。
七つの罪は、やはり一人ひとりに少しずつ母の死を背負わせている。
「篠乃井」
「はい」
「御子替えの噂を追うなら、御末の噂ではなく、御年寄たちの古い記憶を探りなさい」
「御年寄」
「大御台様に近い古参たちよ。あの方々は、何もかも忘れた顔をしているけれど、忘れていない。忘れたふりが上手いだけ」
「誰に当たればよいでしょう」
藤尾の方は少し迷った。
「梅島」
「梅島様」
「大御台様付きだった古参の女中よ。今は半ば隠居のように奥の小部屋にいる。口は重いけれど、志乃のことを知っているはず」
「なぜ、藤尾様がそれを」
「一度だけ、志乃と梅島が言い争っているのを見た」
「何と」
「細かい言葉までは聞こえなかった。でも、志乃がこう言っていた」
藤尾の方は、母の声を思い出すように目を伏せた。
「『御子の名を使って女を殺すなど、仏罰が下ります』」
御子の名を使って女を殺す。
御子替えの噂を流した者、奥にあり。
やはり、御子替えは実際の入れ替えではないのかもしれない。
噂そのものが、誰かを殺す道具だった。
「ありがとうございます」
私が頭を下げると、藤尾の方は不機嫌そうに扇を鳴らした。
「礼を言われることではないわ。私も知りたいだけ」
「何をですか」
「私が、何に怒っていたのか」
藤尾の方は、私を見た。
その目には、炎がある。
けれど、その炎の色は少しずつ変わり始めていた。
「私はずっと、将軍様を奪った女を憎んでいた。でも、もし奪った女など最初からいなかったのなら。御子の噂そのものが、誰かを潰すための道具だったのなら」
藤尾の方の唇が震えた。
「私は七年間、誰に怒っていたの」
答えはなかった。
私は、ただ頭を下げた。
藤尾の方の部屋を出ると、千鳥が廊下で待っていた。
柱にもたれ、腕を組み、いかにも不機嫌そうな顔をしている。
「長い」
「すみません」
「生きてる?」
「はい」
「髪は?」
「あります」
「変なものは持たされた?」
「情報を」
「一番厄介なやつ」
千鳥はため息をついた。
「何が分かったの」
「大御台様付きだった古参、梅島様が母と御子替えの噂について話していた可能性があります」
「梅島様……」
千鳥の顔が曇った。
「知っていますか」
「見たことはある。怖い人よ。松ヶ枝様とは違う怖さ」
「どう違いますか」
「松ヶ枝様は、怖いけど人間っぽい。梅島様は……古い箪笥みたい」
「箪笥」
「開けたら絶対よくないものが入ってる感じ」
「分かりやすいような、分かりにくいような」
「つまり、近づきたくない」
「行きます」
「でしょうね」
千鳥はもう止めなかった。
止めても無駄だと分かってきたのだろう。
かわりに言った。
「行くなら、一人じゃない」
「はい」
「私も行く」
「はい」
「素直だと逆に怖い」
「半分ずつですので」
千鳥は少しだけ笑った。
その笑みが戻ってきたことに、私は少し安心した。
しかし、梅島の小部屋へ向かう前に、私たちは別の女に呼び止められた。
夕霧の方だった。
廊下の曲がり角で、薄い香をまとって立っている。
まるで、こちらが来ることを知っていたように。
「あら、どこへ行くの?」
「お役目でございます」
「嘘が下手」
「よく言われます」
「梅島様のところ?」
千鳥が息を呑んだ。
夕霧の方は扇で口元を隠して笑った。
「顔に書いてあるわ」
「夕霧様は、梅島様をご存じですか」
「知っているわ。大御台様の古い影」
「影」
「ええ。大御台様が口にしないことを、先に察して動く女。昔は、あの人に睨まれた女は三日以内に配置が変わると言われていたわ」
「配置だけですか」
「そう聞きたいの?」
「はい」
「可愛げがないわね」
夕霧の方は少しだけ真顔になった。
「梅島様に会うなら、気をつけて。あの方は自分が悪いことをしたとは思っていない」
「大御台様と同じですか」
「少し違うわ。大御台様は、自分が正しいことすら疑わない。梅島様は、自分が正しくなくても、必要だったと言える女」
必要だった。
秩序のため。
家のため。
将軍家の血のため。
そうやって、母は殺されたのだ。
「夕霧様」
「何?」
「御子替えの噂は、誰を殺すためのものだったのですか」
夕霧の方は、しばらく私を見ていた。
そして、小さく言った。
「一人ではないわ」
「また」
「本当よ。噂はね、一人だけを刺すためには使わない。広く流して、複数の女を同時に縛るの」
「母と、小夜さん」
「それだけではない」
夕霧の方の目が、一瞬だけ遠くなる。
「藤尾様。名を消された女。もしかしたら、御台様自身も」
「御台様も?」
「あの方は強欲よ。でも、強欲な女ほど、他人の欲に利用されることもある」
「御台様が利用されたと?」
「さあ」
夕霧の方はまた笑った。
「これ以上は、梅島様に聞いて」
「夕霧様は、なぜ私に教えるのですか」
「面白いから」
「本当は?」
夕霧の方の笑みが、少し薄くなった。
「私も知りたいのよ」
「何を」
「自分が今、誰の噂で生かされているのか」
その言葉は、艶やかな衣の下に隠した震えのようだった。
「寵愛される女は、噂で上がる。そして、噂で落ちる。御子替えの噂で誰かが殺されたのなら、いつか私も別の噂で殺されるかもしれない」
「怖いのですね」
「ええ」
夕霧の方は、あっさり頷いた。
「だから先に知りたい。私を殺す噂が、どこから来るのか」
女たちは皆、生きるために真実を欲しがっている。
母のためだけではない。
自分の怒りのため。
自分の空腹のため。
自分の怠惰を終わらせるため。
自分の寒さをしのぐため。
そして、未来の自分を殺す噂を避けるため。
「梅島様は、昼過ぎなら一人です」
夕霧の方は言った。
「ただし、長く話すと誰かに知られるわ」
「誰に」
「大御台様」
その名が落ちると、廊下の空気が少し重くなった。
夕霧の方は私の耳元へ顔を寄せた。
千鳥が露骨に警戒した顔をする。
「篠乃井紗代。大御台様へ近づく前に、覚えておきなさい」
「何を」
「あの方の前では、正しさは礼儀知らずになる」
夕霧の方はそう囁いた。
「そして、礼儀知らずな女は、簡単に消される」
夕霧の方は何事もなかったように去っていった。
香だけが残る。
千鳥が鼻を押さえた。
「本当に、あの方の香って心臓に悪い」
「頭はぼんやりしませんか」
「怒りで醒めてる」
「頼もしいです」
「褒めてる?」
「はい」
「ならいいけど」
昼過ぎ、私たちは梅島の小部屋へ向かった。
奥へ行くほど、人の気配が少なくなる。
新しい畳の匂いは消え、古い木材と乾いた紙の匂いが強くなった。
千鳥の言う通り、古い箪笥の中へ進んでいるようだった。
部屋の前に着くと、襖の向こうから声がした。
「入りなさい」
名乗る前だった。
千鳥が私を見る。
知られている。
私は頭を下げ、襖を開けた。
部屋の中には、老いた女が座っていた。
梅島。
髪は白く、顔には深い皺が刻まれている。だが目だけは異様に澄んでいた。老いで濁るのではなく、余計なものが削がれすぎて石のようになった目。
その目に見られた瞬間、背筋が冷えた。
この女は、松ヶ枝とは違う。
後悔の匂いがしない。
「篠乃井志乃の娘か」
最初の言葉が、それだった。
「はい。篠乃井紗代にございます」
「似ておらぬ」
意外な言葉だった。
多くの者に似ていると言われてきたのに。
「母を、ご存じなのですね」
「知っている」
梅島は短く答えた。
「では、御子替えの噂もご存じですね」
千鳥が横で息を呑んだ。
あまりに真っ直ぐすぎたかもしれない。
だが、梅島相手に遠回りをしても無駄だと感じた。
梅島は、表情を変えなかった。
「御子替えなど、昔からある噂じゃ」
「昔から?」
「奥では、御子が生まれれば替えられたと言われ、生まれねば隠されたと言われ、死ねば殺されたと言われる。女たちは、血の噂が好きじゃ」
「その噂で母は死にました」
「一人の女が死んだくらいで、奥は止まらぬ」
千鳥が小さく震えた。
私は手を握った。
怒るな。
今は聞く。
「梅島様」
「何じゃ」
「母は、梅島様に『御子の名を使って女を殺すなど、仏罰が下ります』と言ったそうです」
梅島の目が、初めて少し動いた。
「藤尾か」
「はい」
「あの怒り女、余計なことを覚えておる」
「事実ですか」
「言った」
「誰が、御子の名を使って女を殺したのですか」
「噂じゃ」
「噂にも、流した者がいます」
「流した者だけが悪いと思うか」
梅島の声は、乾いていた。
「聞いた者、信じた者、面白がった者、利用した者、止めなかった者。皆、噂に薪をくべた」
「その最初の火をつけたのは、大御台様ですか」
部屋の空気が凍った。
千鳥が私の袖を掴む。
梅島は、ゆっくり笑った。
笑みというより、皺が動いたような顔だった。
「若い」
「答えてください」
「答えておる。若い、と」
「それが答えですか」
「大御台様が火をつける必要などない。あの方が寒いと言えば、周りが勝手に火を焚く」
夕霧の言葉と同じだ。
大御台様は、直接踏まない。
踏まれる場所に人を立たせる。
「では、梅島様が」
「わしも火を焚いた一人じゃろうな」
梅島は、あっさり認めた。
後悔はない。
その顔にあるのは、過去をただ過去として置く冷たさだけだ。
「なぜ」
「必要だった」
やはり、その言葉だった。
「何のために」
「大奥のため。将軍家のため。御台様のため。大御台様のため。ついでに、泣き叫ぶ女たちを黙らせるため」
「母は、泣き叫んでなど」
「志乃は泣かぬ女だった」
梅島は言った。
「だから厄介だった」
私は息を止めた。
「泣く女は慰めればよい。怒る女は叱ればよい。欲しがる女は物を与えればよい。だが、泣かず、怒らず、欲しがらず、ただ正しいことを言う女は始末に困る」
「だから殺したのですか」
「わしは殺しておらぬ」
「見捨てた」
「それは松ヶ枝の役目じゃ」
千鳥が怒りで身を乗り出しそうになった。
私は袖を押さえた。
「では、梅島様の役目は?」
「噂を整えること」
「整える」
「不義密通。御子替え。病。里下がり。女を消すには、名札がいる。名札のない消え方は、人の記憶に引っかかる」
名札。
藤尾の方の菓子に添えられた私の名札を思い出した。
大奥では、人を潰す時、まず名を与える。
盗人。
不義密通。
病。
御子替え。
「母に、不義密通の名札を貼ったのは誰ですか」
梅島は、私をじっと見た。
「知ってどうする」
「剥がします」
「剥がせば、下から別の札が出るぞ」
「それでも」
「その下にも、また別の札がある」
「それでも」
梅島は少しだけ笑った。
「志乃に似ておる」
「先ほど、似ていないと」
「顔は似ておらぬ。愚かさが似ておる」
「褒め言葉ではありませんね」
「もちろんじゃ」
梅島は、少し身を乗り出した。
「篠乃井紗代。御子替えの噂を追うなら、まず覚えておけ。御子替えなど起きておらぬ」
「では」
「御子がいたかどうかも、分からぬ」
心臓が跳ねた。
お柳と同じ話。
本当に御子がいたのかどうか、まずそこから疑え。
「では、何のために噂を?」
「女を消すため」
「どの女を」
梅島は答えなかった。
かわりに、視線を千鳥へ移した。
千鳥がびくりとした。
「そこの娘」
「……はい」
「小夜の名を、まだ覚えているか」
千鳥の顔から血の気が引いた。
「なぜ」
「覚えておるかと聞いた」
「覚えています」
「なら、忘れるな」
梅島は、静かに言った。
「小夜は、忘れられたくなかった」
千鳥の目に、涙が浮かんだ。
「小夜は、生きていますか」
千鳥の声は震えていた。
梅島は答えない。
長い沈黙。
そして。
「知らぬ方が、生きていると思える」
それは、残酷な答えだった。
千鳥の肩が震える。
私は千鳥の手を握った。
半分。
この痛みも半分にできるなら。
「梅島様」
私は言った。
「母が消された時、小夜さんは何を持っていたのですか」
「紙包み」
「中身は?」
「見ておらぬ」
「本当に?」
「見ておらぬ。見れば、わしも持たねばならなくなる」
まただ。
見なかった罪。
松ヶ枝だけではない。
梅島も見なかった。
ただし、梅島は後悔していない。
「最後に一つだけ」
私は言った。
「母は、どこで死んだのですか」
梅島の目が、一瞬だけ変わった。
それまで石のようだった目に、かすかな影が走った。
「大奥の外じゃ」
息が止まった。
「外?」
「そう記録されておる」
「記録ではなく、事実を」
「事実など、誰が持っておる」
「梅島様は」
「わしは、記録を整えただけじゃ」
「母は、大奥の中で殺されたのではないのですか」
「殺す場所を選ぶほど、奥は愚かではない」
その答えは、答えになっていない。
けれど、意味はあった。
母は大奥の中で死んだのではない。
大奥の外へ出された。
そして、その後、病死として家へ戻された。
父は知っていたのか。
知らされていたのか。
知らずに、母の亡骸を迎えたのか。
胸が潰れそうだった。
「もう下がれ」
梅島が言った。
「これ以上は、大御台様のお耳に入る」
「すでに入っているのでは」
「ならば、早く逃げた方がよい」
私は頭を下げた。
「ありがとうございました」
「礼を言われることなどしておらぬ」
「はい。だから、母のためではなく、今生きている私のために言います」
梅島は、少しだけ目を細めた。
「可愛げのない娘じゃ」
「よく言われます」
「志乃より口が悪い」
「母より長生きするつもりですので」
梅島は、初めてかすかに笑った。
「ならば、覚えておけ」
「はい」
「御子替えの噂を流した者は、奥にある。だが、その噂で最も得をした者は、奥にはおらぬかもしれん」
「どういう意味ですか」
「考えろ」
それだけ言って、梅島は目を閉じた。
これ以上は話さない、という合図だった。
部屋を出ると、千鳥は廊下で立ち止まった。
手が震えている。
「小夜、忘れられたくなかったって」
「はい」
「私、忘れてなかったよね」
「はい」
「でも、名前を口にしなかった」
「忘れていません」
「でも」
「千鳥」
私は彼女の手を握った。
「小夜さんの名は、今、戻りました」
千鳥は泣かなかった。
ただ、何度も頷いた。
「うん」
その時、廊下の向こうから初瀬が現れた。
相変わらず、音もなく。
「篠乃井紗代」
「はい」
「御台様がお呼びです」
千鳥が小さく呻いた。
「また……」
初瀬は表情を変えない。
「御子替えの噂について、お話があるとのこと」
私は頷いた。
「参ります」
御台所の部屋へ向かうと、彼女はすでに待っていた。
桔梗香炉は、今日は部屋の隅に戻されている。
御台所は私を見るなり、静かに言った。
「梅島に会いましたね」
「はい」
「何を聞きました」
「御子替えなど起きていない。御子がいたかどうかも分からない。噂は女を消すために使われた、と」
「そう」
御台所は、少しだけ目を伏せた。
「梅島らしい言い方です」
「御台様」
「何です」
「御子替えなど、よくある噂なのですか」
御台所は顔を上げた。
そして、あの静かな微笑みを浮かべた。
「御子替えなど、よくある噂です」
予想していた言葉なのに、胸が冷えた。
「けれど噂で国は傾きます」
御台所は続けた。
「本当に御子が替わったかどうかではありません。人々が替わったと信じること。あるいは、替わったかもしれないと疑うこと。それだけで、血は汚れ、家は揺れ、女は殺される」
「母は、その噂を止めようとしたのですね」
「志乃は、噂の火元を探ろうとしました」
「火元は大御台様ですか」
御台所はすぐには答えなかった。
沈黙が落ちる。
やがて、静かに言った。
「大御台様は、火をつけたとは仰らないでしょう」
「では」
「寒かった、と仰るだけです」
藤尾の方の言葉と同じ。
大御台様が寒いと言えば、周りが勝手に火を焚く。
「篠乃井」
「はい」
「そなたはまだ、大御台様に近づいてはなりません」
「なぜですか」
「今のそなたは、正しすぎる」
「それは悪いことですか」
「大御台様の前では、悪になります」
夕霧の方も同じようなことを言っていた。
あの方の前では、正しさは礼儀知らずになる。
「では、どうすれば」
「正しさを、刃ではなく櫛にしなさい」
「櫛?」
「絡まった髪を、いきなり切るのではなく、少しずつ梳くのです」
御台所は桔梗香炉を見た。
「大御台様の周囲には、古い髪が絡まりすぎています。梅島だけではない。御年寄、御膳場、奥医師、御用取次、寺社とのつながり。そこを一つずつ梳きなさい」
「母は、切ろうとしたのですか」
「志乃は、急ぎすぎました」
御台所の声は、少しだけ遠くなった。
「そして、急がねばならない理由があった」
「それは何ですか」
「まだ言えません」
「また」
「ええ。また、です」
御台所は、私を見た。
「言えば、そなたは今日中に大御台様のところへ乗り込むでしょう」
「否定はできません」
「だから言いません」
「では、私は周囲から調べます」
「それがよい」
「御台様は、私を使って何をしたいのですか」
御台所の目が細くなる。
「大奥の膿を出す」
「膿」
「七年前、私は膿を押し込めました。表面を綺麗に整え、奥へ奥へと押し込めた。その結果、今も腐っている」
「それを、私に出させると?」
「ええ」
「それで、母は戻りますか」
「戻りません」
「小夜さんは」
「分かりません」
「父の名は守られますか」
「そなた次第」
「御台様は、ずるい方です」
初瀬が息を呑んだ。
御台所は、少しだけ笑った。
「ええ。ずるい女でなければ、大奥の頂には座れません」
「私は、御台様の道具にはなりません」
「もうなっています」
その言葉は、静かに刺さった。
「ですが、道具にも使い方があります。飼い主の手を噛む猫もいるのでしょう?」
「千鳥が言いました」
「よい友を持ちましたね」
友。
御台所の口からその言葉が出ると、妙に危うく聞こえた。
「篠乃井。御子替えの噂を追いなさい。次は奥医師の記録です」
「奥医師」
「噂が御子に関わるなら、必ず身体の記録が絡みます。懐妊、流産、病、薬湯。御膳場だけでは足りません」
「その記録は、どこに」
「松ヶ枝が知っています」
「松ヶ枝様が」
「ええ。あの女は、動かない罪を悔いています。ならば、今度は動かしてあげなさい」
御台所は、そう言って微笑んだ。
「怠惰な女には、仕事を与えるのが一番です」
私は頭を下げた。
「承知いたしました」
部屋を下がる時、御台所が最後に言った。
「篠乃井」
「はい」
「御子替えという言葉に、呑まれないように」
「はい」
「噂は、真実より甘い。甘いものに飢えた者ほど、簡単に食べてしまいます」
私はお柳のことを思い出した。
食べすぎた女。
秘密を腹に入れた女。
「私は、よく噛みます」
そう答えると、御台所は楽しそうに笑った。
「お柳に似てきましたね」
「それは嫌です」
「では、気をつけなさい」
部屋を出ると、千鳥が待っていた。
彼女は何も聞かず、ただ横に並んだ。
「次は?」
「奥医師の記録です」
「また記録」
「大奥は紙で人を殺します。なら、紙で追います」
「紗代らしい」
「そうでしょうか」
「うん。怖いくらい」
千鳥は少しだけ笑った。
「小夜のことも、出てくるかな」
「出てくると思います」
「怖い」
「はい」
「でも、行く」
「はい」
私たちは並んで廊下を歩いた。
御子替えの噂。
奥医師の記録。
大御台の影。
母と小夜。
見えない火元。
まだ答えは遠い。
けれど、確かに近づいている。
御子が替えられたのではない。
替えられたことにされた。
ならば、その噂で殺された女たちの名を、私は一つずつ拾い上げる。
母の名も。
小夜の名も。
そして、まだ名も知らぬ女の名も。
大奥の奥には、血よりも濃い噂が流れている。
その流れの先に、傲慢の女がいる。
私はまだ、その女に届かない。
けれど、届く日まで進む。
半分ずつ、秘密を分け合いながら。




