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大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第13話 香炉の中の灰

朝の御末の間に、卵焼きは出なかった。


 それだけのことなのに、千鳥の箸はしばらく膳の上で止まっていた。


 白粥、味噌汁、香の物。いつも通りの質素な朝餉である。御末の女中に贅沢なものなど出ない。だが、いつもなら千鳥は何かしら文句を言いながらも、器用に箸を動かす。


 今朝は違った。


 小夜。


 昨夜、千鳥がようやく口にした名だ。


 甘い卵焼きを半分くれた女中。

 桔梗の香を追うなと言い残し、ある日いなくなった女。

 誰も行き先を教えず、聞けば次はお前が消えると言われた女。


 千鳥は膳を見つめたまま、ぽつりと言った。


「……あの子、卵焼きが好きだったの」


 周りに聞こえないほどの声だった。


 私は箸を置いた。


「小夜さんですか」


「うん。甘いやつ。御膳場の残りが出た時、いつも半分くれた。私は、そんなのいらないって言ってたんだけど」


「本当は好きだった」


「……うん」


 千鳥は小さく笑おうとした。


 けれど、笑みにはならなかった。


「小夜はね、何でも半分にする子だった。卵焼きも、お饅頭も、嫌な仕事も。『半分なら怖くないでしょ』って」


「優しい方だったのですね」


「優しいっていうか、馬鹿だったのよ」


 千鳥は無理に強い言葉を選んだ。


「自分だって余裕ないくせに、人の分まで背負って。私が泣いてたら、泣いてないふりをしろって怒って。そのあと、自分の袖で私の涙を拭いて」


 箸を握る手が震えていた。


「それで、いなくなった」


 大奥では、人がいなくなる。


 死んだと言われるよりも曖昧に。


 処分されたと言われるよりも静かに。


 最初からそこにいなかったように。


「千鳥」


「何」


「今日、御台様の御前へ参ります」


「知ってる」


「香炉を見ます」


「それも知ってる」


「千鳥は、廊下で待っていてください」


「嫌」


 即答だった。


「昨日も言いましたが」


「昨日も言ったけど、嫌」


「危険です」


「それ、もう聞き飽きた」


「小夜さんのこともあります」


 千鳥の目が揺れた。


 私は続けた。


「小夜さんが桔梗の香を追うなと言ったなら、千鳥はなおさら」


「なおさら、行く」


 千鳥は私を見た。


 目の奥に、昨日までとは違うものがある。


 怯えだけではない。


 怒り。


 後悔。


 それから、ようやく手にした細い覚悟。


「私は、小夜がいなくなった時、何もしなかった。何も聞かなかった。怖くて、寝たふりをした。みんなが小夜の名前を言わなくなっても、私も言わなかった」


「千鳥」


「だから、今度は見る。聞く。怖くても、半分なら何とかなるかもしれない」


「半分」


「紗代と半分」


 その言葉は、思っていたより深く胸に残った。


 母は一人で進んだ。


 だから潰されたのかもしれない。


 ならば、私は一人で進んではならない。


 大奥では、一人で見た真実は一人分の嘘で潰される。


 松ヶ枝の言葉が蘇る。


「分かりました」


 私がそう言うと、千鳥は少しだけ目を丸くした。


「え、素直」


「一緒に来てください」


「……そこで急に素直になるの、ずるい」


「嫌ですか」


「嫌じゃないけど」


 千鳥は顔を逸らした。


「心の盆がまたひっくり返る」


「拾います」


「そういうこと言うから!」


 声が少し大きくなり、お吉がこちらを見た。


 千鳥は咳払いをして、何事もなかったように粥を口へ運ぶ。


 私は少しだけ笑った。


 その笑いは、すぐに消えた。


 今日、桔梗香炉へ近づく。


 御台所の部屋で。


 御台所が見ている場所で。


 それは、罠に足を入れることと同じだった。


 だが、罠だと分かっていても入らねばならない時がある。


 罠の中にしか、母の声が残っていないのなら。


 御台所の部屋へ呼ばれたのは、巳の刻の少し前だった。


 朝の支度が一段落し、廊下の空気にかすかな茶の香が混じり始める頃。


 御台所の居所へ向かう廊下は、今日も余計な音がなかった。女中たちの足音さえ、ここでは薄くなる。誰もが音を立てないのではない。音を立てることを許されていないのだ。


 千鳥は少し後ろを歩いていた。


 表向きは茶道具を運ぶ手伝いである。御台所の部屋に入ることは許されないかもしれない。それでも、廊下までは来られる。


「紗代」


 襖の前で、千鳥が小さく呼んだ。


「はい」


「香袋、持ってる?」


「はい」


「松ヶ枝様に嗅がせるの?」


「機会があれば」


「機会って、勝手に生えてこないわよ」


「では、作ります」


「作るのが怖いのよ」


 千鳥は眉を寄せた。


「本当に、無茶しないで」


「半分なら怖くないのでしょう」


「言ったけど、そういう使い方じゃない」


 その時、襖の向こうから初瀬の声がした。


「篠乃井紗代。入りなさい」


 千鳥の顔が引き締まる。


「戻ってきて」


「はい」


「約束」


「心がけます」


「弱い」


「戻ります」


 そう言い直すと、千鳥はようやく小さく頷いた。


 襖が開く。


 御台所は、いつものように奥に座っていた。


 薄鼠の小袖に、白い打掛。


 派手さはない。だが、今日の彼女はいつもより少しだけ冷たく見えた。あるいは、私がそう見ているだけかもしれない。


 部屋の隅には、桔梗香炉がある。


 昨日よりも蓋の位置は整えられていた。


 まるで、昨夜のずれなど最初からなかったように。


「おはよう、篠乃井」


「おはようございます」


「よく眠れましたか」


「眠る努力はいたしました」


「できなかったのですね」


「はい」


 御台所は微笑んだ。


「正直でよろしい」


 私は平伏したまま、香炉を見ないようにした。


 見れば、見ていることを読まれる。


 だが、見なければ何も分からない。


 大奥では、目を上げても下げても危うい。


「茶を」


「はい」


 今日も茶の支度を命じられた。


 私は道具の配置を確かめるふりをしながら、部屋全体を覚える。


 御台所の座る場所。


 初瀬の位置。


 障子から入る光の向き。


 香炉までの距離。


 昨日と違うところ。


 ある。


 香炉の下に敷かれた黒漆の台。


 その右端に、細かな灰が一粒ついていた。


 普通なら見逃すほどの、小さな灰。


 だが、手入れの行き届いた御台所の部屋で、灰が残るのはおかしい。


 香炉は、やはり開けられている。


 しかも、完全に灰を取り切れてはいない。


「手が止まっています」


 御台所が言った。


「申し訳ございません」


「何を見ていました」


「己の手際の悪さを」


「嘘が下手ですね」


「よく言われます」


「誰に?」


「多くの方に」


「大奥に慣れてきましたね。嘘が下手だと自覚しながら、嘘をつけるようになっている」


 褒めているのか、警告しているのか分からない。


 御台所は続けた。


「ところで、夕霧から何をもらいました」


 来た。


 私は手を止めずに答えた。


「香袋を」


「見せなさい」


 拒むことはできない。


 私は懐から薄紫の香袋を取り出し、両手で差し出した。


 初瀬が受け取り、御台所へ運ぶ。


 御台所は香袋を手に取り、わずかに鼻先へ近づけた。


 表情は変わらない。


「懐かしい香です」


「御台様も、ご存じなのですね」


「この大奥で、桔梗の香を知らぬ者は幸せです」


 幸せ。


 つまり、知っている者は不幸だということ。


「夕霧は、これをどうせよと?」


「松ヶ枝様に嗅がせるように、と」


 御台所は声を立てずに笑った。


「夕霧らしい。あの子は、人の蓋を香で開けたがる」


「蓋」


「記憶の蓋です」


 御台所は香袋を初瀬に戻した。


「松ヶ枝を呼びなさい」


 初瀬が一礼し、部屋を出る。


 私は息を殺した。


 早い。


 御台所は、こちらがどう動くかを先回りしている。


 松ヶ枝に香袋を嗅がせる機会を、こちらが作る前に、御台所自身が作った。


 これは助けではない。


 罠でもない。


 見物だ。


 御台所は、私と松ヶ枝がどう反応するかを見たいのだ。


 ほどなくして、松ヶ枝が部屋へ入ってきた。


 いつもの濃鼠の小袖。


 厳しい顔。


 だが、私を見た瞬間、わずかに眉が動いた。


 香袋を見たからだろうか。


「御台様」


「松ヶ枝。夕霧から篠乃井へ香袋が渡されたそうです」


「……左様でございますか」


「桔梗の香です。懐かしいでしょう」


 松ヶ枝の顔から、血の気が引いた。


 本当に、目に見えて。


 昨日、御膳場で母を見捨てたと語った時でさえ、ここまで露骨には崩れなかった。


「御台様」


「嗅ぎなさい」


 優しい声だった。


 逃げ道のない声だった。


 初瀬が香袋を松ヶ枝へ差し出す。


 松ヶ枝は一瞬、受け取りを拒もうとした。


 だが、御台所の前でそれはできない。


 震える手で香袋を受け取る。


 香袋を鼻先へ近づけた。


 次の瞬間、松ヶ枝の指が大きく震えた。


「……雨」


 彼女が呟いた。


 私は顔を上げた。


「松ヶ枝様」


「雨が、降っていた」


 松ヶ枝の目は、今この部屋ではなく、七年前を見ていた。


「志乃が、濡れていた。髪の端から水が落ちて、畳に染みて……香炉を抱いて……」


 御台所は何も言わない。


 ただ、見ている。


 松ヶ枝は香袋を握りしめた。


「小夜が、襖の外に」


 千鳥が廊下の向こうで小さく息を呑んだ気がした。


 部屋の外にいるはずの千鳥にも、聞こえただろうか。


 小夜。


 ついに、松ヶ枝の口からもその名が出た。


「小夜さんが、そこにいたのですか」


 私は問うた。


 松ヶ枝は、はっとしたように私を見た。


 自分が何を口にしたか、今気づいた顔だった。


 御台所が微笑む。


「懐かしい名ですね」


「御台様」


「よいではありませんか。篠乃井も知りたいのでしょう」


 御台所は、そう言って私を見る。


「聞きなさい。聞きたいことがあるなら」


 親切に見える。


 だが、違う。


 これは、私に松ヶ枝を刺させるための言葉だ。


 私は御台所の望む通りに動いているのかもしれない。


 それでも、聞かずにはいられなかった。


「松ヶ枝様。小夜さんは、母と一緒にいたのですか」


 松ヶ枝は唇を引き結んだ。


 答えたくない。


 だが、香が記憶の蓋を開けてしまっている。


「小夜は、志乃から何かを預かっていました」


「何を」


「分かりません」


「本当に?」


「……小さな紙包みでした」


 千鳥の息遣いが、廊下から聞こえた気がした。


「それは、今どこに」


 松ヶ枝は首を横に振った。


「小夜は、その翌日に消えました」


 部屋が静まり返った。


 千鳥は、今どんな顔をしているのだろう。


 振り返ることはできない。


 ここで振り返れば、千鳥の動揺を御台所に見せることになる。


「小夜さんは、母の文を預かっていたのですか」


「分かりません」


「小夜さんが消えたのは、母の後ですか」


「……志乃が大奥を下がったことになった後です」


「大奥を下がったことになった?」


 言葉が引っかかった。


 母は大奥で処分されたのではないのか。


 不義密通の疑いにより、内々に処分。


 そう記録にはあった。


 だが松ヶ枝は今、大奥を下がったことになった、と言った。


「母は、大奥から出されたのですか」


 松ヶ枝の顔が歪んだ。


 御台所が口を開く。


「篠乃井」


 声は穏やかだった。


「すべてを一度に聞いては、松ヶ枝が壊れます」


 壊れます。


 この人がそれを言うのか。


 壊した側にいるかもしれない人が。


 松ヶ枝は香袋を初瀬へ返した。


 その手はまだ震えている。


「御台様、私は」


「よいのです」


 御台所は優しく言った。


「昔のことです」


「昔で済ませてよいことではありません」


 思わず、私の声が出た。


 部屋の空気が冷えた。


 初瀬が私を見る。


 松ヶ枝も、御台所も。


 御台所だけは、笑みを崩さない。


「そうですね。そなたにとっては、昔ではない」


「はい」


「では、今の話は胸にしまいなさい。小夜という名が出たことも」


「なぜですか」


「小夜の名を出せば、千鳥が傷つきます」


 御台所は、廊下の方を見ずに言った。


 知っている。


 千鳥が外にいることも。


 小夜と千鳥が繋がっていることも。


 全部、知っている。


「御台様は、千鳥と小夜さんのことをご存じだったのですか」


「大奥の中で、知らないことを減らすのが私の務めです」


「知らないふりをすることも?」


「もちろん」


 平然と認めた。


 私は、指先が冷えるのを感じた。


 知らないふり。


 それもまた、大奥の罪だ。


 松ヶ枝だけではない。


 御台所も、知っていながら知らぬふりをしてきた。


 あるいは、それを支配と呼んでいる。


「篠乃井」


 御台所が言った。


「香炉が気になるのでしょう」


 心臓が跳ねた。


「はい」


「見せてあげましょう」


 松ヶ枝が顔を上げた。


「御台様」


「触れさせるとは言っていません」


 御台所は初瀬に目を向ける。


「香炉をこちらへ」


 初瀬が動いた。


 音もなく、部屋の隅へ行き、黒漆の台ごと桔梗香炉を運んでくる。


 香炉が私の前に置かれた。


 こんなに近くで見るのは初めてだった。


 青銅の肌には細かな傷があり、桔梗の紋は少し擦れている。長く人の手に触れられてきたものだ。


 母も、この香炉を抱いた。


 雨に濡れながら。


 中に文を隠して。


「蓋を開けなさい、初瀬」


「はい」


 初瀬が蓋を開けた。


 中には灰があった。


 だが、少ない。


 底を薄く覆う程度。


 昨夜、初瀬が小箱へ移した後だからだ。


 私は香炉の中を見つめた。


 灰の表面は平らにならされている。


 だが、端の方にわずかな黒い点があった。


 焦げた紙の欠片。


 たぶん、爪の先ほどの。


 初瀬は、それを取り残したのだろうか。


 それとも、わざと残したのか。


「何か見えますか」


 御台所が問う。


「灰が」


「他には」


「小さな燃え残りが」


 初瀬の目が一瞬だけ動いた。


 御台所は微笑んだ。


「取ってみますか」


 松ヶ枝が声を上げた。


「御台様!」


「冗談です」


 御台所は楽しそうに言った。


 冗談。


 今の言葉で、私の心臓がどれほど跳ねたか、分かっていて言っている。


「篠乃井。そなたはまだ触れてはなりません」


「いつなら、触れられますか」


「触れる覚悟と、触れた後に沈黙できる覚悟が揃った時です」


「沈黙するために触れるのですか」


「時には、真実を知っても黙ることが必要です」


「母は黙らなかった」


「だから死んだ」


 御台所の声は静かだった。


 私は、息を止めた。


 怒りで視界が少し白くなる。


 松ヶ枝が私を見ている。


 駄目だ。


 ここで怒れば、御台所の思う壺だ。


「……母は死にました」


 私はゆっくり言った。


「ですが、黙った方々も生きながら死んでいるように見えます」


 松ヶ枝の顔が、はっきり痛みに歪んだ。


 御台所の目が細くなる。


「そなたは、なかなか酷いことを言う」


「申し訳ございません」


「いいえ。事実です」


 御台所は香炉の灰を見た。


「黙って生きることを、死と呼ぶ者もいるでしょう。騒いで死ぬことを、生きたと呼ぶ者もいるでしょう。どちらが正しいかなど、残った者が決めることです」


「私は、母がなぜ死んだかを知りたいだけです」


「本当に?」


 御台所の問いは鋭かった。


「母の死を知りたいだけですか。母を殺した者を裁きたいのではなく? 母を見捨てた者を憎みたいのではなく? 母の名を取り戻すことで、自分の痛みを鎮めたいのではなく?」


 言葉が刺さる。


 御台所は、私の中にある醜いものまで拾い上げる。


 母のため。


 そう言えば美しい。


 でも本当は、私自身のためでもある。


 母を奪われた私。


 母の名を汚された私。


 何も知らされずに育った私。


 その痛みを、どこかへぶつけたい私。


「……全部です」


 私は答えた。


 御台所の笑みが深くなる。


「よろしい」


 よろしい?


「欲は、隠すより認めた方が扱いやすい」


 また、御台所の言葉だ。


 強欲の女。


 欲を恥じない女。


「篠乃井。香炉の灰は、今はここまでです」


 初瀬が蓋を閉じた。


 桔梗の紋が、私の前から隠れる。


 御台所は続ける。


「ただし、そなたが見た燃え残りは覚えておきなさい。いつか役に立つかもしれません」


「御台様は、なぜ私に見せたのですか」


「そなたが、見たい顔をしていたから」


「それだけですか」


「ええ」


 嘘だ。


 それだけではない。


 御台所は私に見せたかったのだ。


 灰の中に燃え残りがあることを。


 そして、それにまだ触れられない自分の弱さも。


 欲しいものを目の前に置き、手を伸ばさせない。


 これも飼うための紐だ。


「下がりなさい」


 御台所が言った。


「松ヶ枝は残って」


「はい」


 松ヶ枝が頭を下げる。


 私は退出するしかなかった。


 襖の外へ出ると、千鳥が待っていた。


 顔色が悪い。


 聞こえていたのだろう。


 小夜の名も。


 松ヶ枝の言葉も。


 御台所が千鳥のことまで知っていたことも。


「千鳥」


「……小夜、母上の文を預かってたの?」


「まだ分かりません」


「でも、松ヶ枝様はそう言った」


「紙包みを預かっていたと」


 千鳥は唇を噛んだ。


「だから、いなくなったのかな」


「まだ、決めるには早いです」


「でも」


「千鳥」


 私は低く言った。


「一人で決めないでください」


 千鳥が私を見た。


「小夜さんが消えた理由を、一人で抱えないでください。半分、と言ったでしょう」


 千鳥の目が揺れた。


 泣きそうだった。


 でも泣かなかった。


「……うん」


 小さく頷いた。


 その時、初瀬が襖の中から出てきた。


 手には黒塗りの小箱。


 昨夜見たものと同じ。


 千鳥が息を止める。


 初瀬は私たちを見た。


「篠乃井紗代」


「はい」


「御台様より。今日見たものを、勝手に広めぬようにとのこと」


「承知いたしました」


「千鳥」


 初瀬が千鳥の名を呼んだ。


 千鳥の身体が強張る。


「小夜の名もです」


 千鳥の顔から血の気が引いた。


 初瀬は表情を変えずに続けた。


「死者の名は、呼ぶ場所を選びなさい」


「小夜は……死んだんですか」


 千鳥の声は、震えていた。


 初瀬はすぐには答えなかった。


「大奥では、戻らぬ者を生者とは呼びません」


「答えになってません」


「答えを求めるなら、相応の覚悟を」


 初瀬の視線が、私へ移る。


「御台様は、そう仰せです」


 初瀬は小箱を持って廊下を進んだ。


 行き先は分かっている。


 御膳場。


 お柳のところだ。


 千鳥が私を見る。


「行くの?」


「今すぐ追えば、見つかります」


「じゃあ」


「少し間を置きます」


「珍しく慎重」


「猫なので」


「猫って便利ね」


 千鳥は無理に笑った。


 だが、その手は震えていた。


 私はその手に、そっと自分の手を重ねた。


「行きましょう。小夜さんのためにも」


「うん」


「でも、今回は無理に聞き出しません」


「え?」


「まず、お柳さんが灰をどこへ置くかを見ます」


「本当に慎重」


「御台様に、欲を認めろと言われました」


「何それ」


「私は灰が欲しい。だからこそ、すぐ飛びつかないようにします」


 千鳥は、少しだけ笑った。


「紗代、御台様に似てきたら嫌だなと思ってたけど」


「はい」


「今のは、ちょっと頼もしい」


「褒め言葉として受け取ります」


「これは褒めてる」


「ありがとうございます」


「でも調子には乗らないで」


「努力します」


「それ、乗る返事」


 私たちは、しばらくしてから御膳場へ向かった。


 御膳場の前には、昼の支度の音が満ちていた。


 包丁の音。


 湯の音。


 器の触れ合う音。


 そして、その奥に、灰の気配がある。


 音のしない秘密の気配。


 お柳は、御膳場の奥で座っていた。


 役目を控えているはずなのに、彼女は相変わらずそこにいる。


 人は役目から外されても、場所からは簡単に剥がされない。


 お柳は私たちを見ると、にこりと笑った。


「あら。今日はお昼を待てなかったのですか」


「灰を見に来ました」


「食いしん坊ですねえ」


「お柳さんほどでは」


「まあ、失礼」


 そのやり取りの間、お柳の膝元には小箱がない。


 隠した。


 どこへ。


 私は御膳場の中を見た。


 棚。


 薬草箱。


 火鉢の横。


 水瓶。


 古い文箱。


 違う。


 香炉の灰を置くなら、ただの箱には入れない。


 湿気を避け、火を避け、人目を避ける場所。


 お柳が腹に手を当てた。


「そんなに見つめられると、穴が開きますよ」


「穴が開けば、中が見えます」


「怖いことを」


「お柳さんの腹の中ほどでは」


 お柳は笑った。


「だんだん、大奥の会話に慣れてきましたね」


「嬉しくありません」


「でしょうね」


 千鳥が横から言った。


「小箱、どこにやったんですか」


「小箱?」


「とぼけないでください」


「千鳥さん、今日は声が尖っていますね」


「小夜の名前を聞いたからです」


 お柳の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。


「小夜」


「知ってるんですね」


「大奥で消えた女の名は、御膳場にも残ります。食べなくなった膳の数で」


 千鳥の顔が歪んだ。


 私は、彼女の手を軽く押さえた。


 半分。


 怒りも半分にする。


「お柳さん。小夜さんは、母から紙包みを預かったのですか」


「さあ」


「また、それですか」


「便利な言葉ですもの」


「では、灰はどこですか」


「灰なら、どこにでもあります」


 お柳は火鉢を見た。


「火のあるところには、必ず」


「桔梗香炉の灰です」


「それは、御台様のもの」


「御台様は、なぜお柳さんに預けるのですか」


「私が食べ物を扱うからでしょう」


「灰は食べ物ではありません」


「でも、腹には入れられます」


 千鳥が顔をしかめた。


「本当に食べたんですか?」


「まさか」


 お柳はころころ笑う。


「秘密は食べても、灰は食べません。喉が荒れます」


「冗談に聞こえません」


「冗談ですよ。半分」


 お柳の半分は信用できない。


 私は御膳場の奥の棚を見た。


 古い陶器の壺が並んでいる。


 味噌。


 塩。


 砂糖。


 薬草。


 灰を隠すなら。


 灰に似たものの中。


「塩ですか」


 私が呟くと、お柳の目が動いた。


 一瞬。


 それで十分だった。


「千鳥」


「何」


「塩壺を」


 千鳥が動こうとした瞬間、お柳が声を上げた。


「触れてはなりません」


 柔らかい声ではなかった。


 御膳場全体が止まる。


 お柳自身も、言った後で表情を戻した。


「あら、ごめんなさい。塩は湿気を嫌いますから」


「灰も、湿気を嫌いますね」


 私は言った。


 お柳は笑った。


「篠乃井さん」


「はい」


「本当に、よく見ますね」


「母の娘ですので」


「その言葉は、便利な刀です」


「はい」


「でも、刀は抜きすぎると刃こぼれしますよ」


 お柳は塩壺の前に座り直した。


 守っている。


 あの中にある。


 桔梗香炉の灰。


 母の文の燃え残り。


 私は確信した。


 けれど、今は取れない。


 御膳場には人が多すぎる。


 お柳は守っている。


 無理に手を出せば、こちらが盗人になる。


 まただ。


 大奥では、欲しいものほど目の前に置かれ、手を出せば罪になる。


「今日は、引きます」


 私が言うと、千鳥が驚いた顔をした。


 お柳も少しだけ目を丸くした。


「あら。珍しい」


「よく噛め、と言われましたので」


「私の言葉を覚えていたのですね」


「役に立つものは覚えます」


「では、私は役に立つ女ですか」


「危険な女です」


「それは褒め言葉として受け取っておきます」


「褒めていません」


「よく言われます」


 どこかで聞いたような返しだった。


 千鳥が小さく「うつってる」と呟いた。


 私たちは御膳場を出た。


 塩壺の中に灰がある。


 だが、まだ手は出せない。


 ならば、次は塩壺に触れる理由を作る。


 料理。


 薬湯。


 あるいは、御台所の命。


 私が考えていると、千鳥が隣で言った。


「紗代、今すごく悪い顔してる」


「そうですか」


「御台様に似てるって言われたくなかったら、少し戻して」


「難しいです」


「怖い」


「でも、分かりました。塩壺です」


「うん。私も見た。お柳さん、珍しく焦ってた」


「今夜、動くかもしれません」


「私たちが?」


「お柳さんが」


 灰の隠し場所が気づかれた。


 お柳なら、動かす。


 そして動かす時に、隙が生まれる。


「見張ります」


 私が言うと、千鳥はため息をついた。


「結局、夜も寝ないやつだ」


「半分寝てください」


「どうやって」


「交代で」


「なるほど」


 千鳥は少しだけ笑った。


「小夜もよく言ってた。半分ずつなら、夜も短いって」


 私は何も言わなかった。


 小夜の名が、少しずつこの大奥に戻ってきている。


 消えた女の名が、また誰かの口に上る。


 それは小さな反逆だった。


 その夜、御膳場の火は落とされた。


 しかし、私たちは眠らなかった。


 御膳場へ続く廊下の陰で、千鳥と二人、息を殺す。


 しばらくして、柔らかな足音がした。


 お柳だった。


 手には小さな包み。


 塩壺から取り出したものだろう。


 彼女は御膳場の奥から出て、廊下を進む。


 行き先は、御台所の部屋ではない。


 もっと奥。


 古い道具がしまわれた方角。


 私たちは距離を取って追った。


 途中、お柳は一度だけ振り返った。


 私たちは柱の影に隠れる。


 千鳥の手が震えている。


 私はその手を握った。


 半分。


 恐怖も半分。


 お柳は再び歩き出した。


 そして、古い水屋の前で立ち止まった。


 そこには、普段は使われない小さな火鉢があった。


 お柳は包みを開いた。


 中に、灰。


 その灰の中から、黒い小さな欠片をつまみ上げる。


 焦げた紙。


 私は息を止めた。


 お柳はそれを火鉢へ近づけた。


 燃やす気だ。


 残ったものを、今度こそ完全に。


 千鳥が動こうとした。


 私は止めるより早く、自分が前へ出ていた。


「お柳さん」


 お柳の手が止まった。


 ゆっくり振り返る。


 夜の廊下で、彼女は笑っていた。


「あら」


 その指先には、焦げた紙片。


 母の密書の一部かもしれないもの。


「夜食には、ずいぶん遅いですよ」


「それを燃やす前に、見せてください」


「これは灰です」


「灰なら、燃やす必要はありません」


 お柳の笑みが消えた。


 初めて、はっきりと。


 その瞬間、私は悟った。


 あの紙片には、読める文字が残っている。


 お柳はそれを燃やそうとしている。


 御台所の命か。


 それとも、自分を守るためか。


 千鳥が私の隣に並んだ。


「お柳さん。小夜も、それを見たんですか」


 お柳の目が、千鳥へ向いた。


「……千鳥さん」


「小夜は、そのせいで消えたんですか」


 お柳は答えなかった。


 答えないまま、紙片を握った。


 だが、その時。


 廊下の奥から、別の声がした。


「燃やしてはなりません」


 松ヶ枝だった。


 息を切らしている。


 老女らしからぬ速さで来たのだろう。


 その後ろには、藤尾の方の姿もあった。


 なぜ、藤尾の方が。


 藤尾の方は、髪に簪を挿していない。


 だが、その目には怒りがあった。


「お柳」


 藤尾の方が言った。


「今度は、私の知らないところで何を食べるつもり?」


 お柳は、しばらく黙っていた。


 そして、困ったように笑った。


「皆様、夜更かしはお身体に障りますよ」


「その紙を渡しなさい」


 松ヶ枝が言う。


「御台様の命で預かっております」


「ならば、御台様の前で燃やすべきでしょう」


「御台様は、燃やせとは仰っていません」


「では、誰の命です」


 お柳は答えない。


 答えない代わりに、紙片を強く握った。


 私は一歩前へ出た。


「お柳さん」


「近づかないで」


 声が鋭かった。


 その声に、藤尾の方が目を細める。


「やっと本性が出たわね」


 お柳は藤尾の方を見た。


「本性など、皆様お持ちでしょう」


「その紙は、母のものですか」


 私が問うと、お柳は私を見た。


 表情が揺れる。


 怒りではない。


 悲しみでもない。


 腹に溜め込んだ秘密が、とうとう喉元まで上がってきたような顔だった。


「志乃様の文の燃え残りです」


 千鳥が息を呑む。


 私の胸が強く打つ。


「見せてください」


「見れば、戻れません」


「もう戻れません」


「小夜も、そう言いました」


 千鳥の肩が震えた。


「小夜が?」


「ええ」


 お柳は、千鳥を見た。


「小夜さんも、同じ目をしていました。怖いくせに、引かない目」


「小夜は、何を見たんですか」


「この紙の、別の欠片を」


 夜の廊下が、しんと静まり返った。


「別の欠片は、どこですか」


 私が問う。


 お柳は小さく首を横に振った。


「小夜さんが持って消えました」


 千鳥の目に、涙が浮かぶ。


「小夜は、生きているんですか」


 その問いに、お柳は答えなかった。


 だが、今度の沈黙は違った。


 死んだと決める沈黙ではない。


 生きていると言えない沈黙。


 千鳥がそれに気づいたのか、顔を上げた。


「お柳さん」


「私は何も言えません」


「でも、小夜は」


「何も言えません」


 お柳は繰り返した。


 その手から、松ヶ枝が紙片を奪い取った。


 お柳は抵抗しなかった。


 松ヶ枝は紙片を開く。


 焦げて、端が黒くなっている。


 文字は一部しか読めない。


 私は身を乗り出した。


 そこに、二文字だけが残っていた。


 御子。


 いや。


 その下に、もう一文字。


 替。


 御子替え。


 藤尾の方が息を呑んだ。


 松ヶ枝の顔が真っ白になる。


 千鳥は意味が分からず、私を見る。


 お柳は目を閉じた。


 御子替え。


 将軍家の血に関わる偽り。


 大御台様の傲慢。


 御台所の強欲。


 母の死。


 小夜の消失。


 すべてが、この二文字へ繋がった。


 その時、廊下の奥から静かな拍手が聞こえた。


 一度。


 二度。


 三度。


 御台所だった。


 いつからそこにいたのか。


 初瀬を従え、薄闇の中から歩いてくる。


 その顔には、いつもの微笑みがあった。


「よく辿り着きましたね、篠乃井」


 私は、紙片から目を離せなかった。


 御台所は微笑んだまま言う。


「けれど、その文字は国を傾けます」


 御子替え。


 たった三文字。


 それだけで、夜の大奥が音もなく崩れ始めるのを、私は確かに感じた。

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