第13話 香炉の中の灰
朝の御末の間に、卵焼きは出なかった。
それだけのことなのに、千鳥の箸はしばらく膳の上で止まっていた。
白粥、味噌汁、香の物。いつも通りの質素な朝餉である。御末の女中に贅沢なものなど出ない。だが、いつもなら千鳥は何かしら文句を言いながらも、器用に箸を動かす。
今朝は違った。
小夜。
昨夜、千鳥がようやく口にした名だ。
甘い卵焼きを半分くれた女中。
桔梗の香を追うなと言い残し、ある日いなくなった女。
誰も行き先を教えず、聞けば次はお前が消えると言われた女。
千鳥は膳を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……あの子、卵焼きが好きだったの」
周りに聞こえないほどの声だった。
私は箸を置いた。
「小夜さんですか」
「うん。甘いやつ。御膳場の残りが出た時、いつも半分くれた。私は、そんなのいらないって言ってたんだけど」
「本当は好きだった」
「……うん」
千鳥は小さく笑おうとした。
けれど、笑みにはならなかった。
「小夜はね、何でも半分にする子だった。卵焼きも、お饅頭も、嫌な仕事も。『半分なら怖くないでしょ』って」
「優しい方だったのですね」
「優しいっていうか、馬鹿だったのよ」
千鳥は無理に強い言葉を選んだ。
「自分だって余裕ないくせに、人の分まで背負って。私が泣いてたら、泣いてないふりをしろって怒って。そのあと、自分の袖で私の涙を拭いて」
箸を握る手が震えていた。
「それで、いなくなった」
大奥では、人がいなくなる。
死んだと言われるよりも曖昧に。
処分されたと言われるよりも静かに。
最初からそこにいなかったように。
「千鳥」
「何」
「今日、御台様の御前へ参ります」
「知ってる」
「香炉を見ます」
「それも知ってる」
「千鳥は、廊下で待っていてください」
「嫌」
即答だった。
「昨日も言いましたが」
「昨日も言ったけど、嫌」
「危険です」
「それ、もう聞き飽きた」
「小夜さんのこともあります」
千鳥の目が揺れた。
私は続けた。
「小夜さんが桔梗の香を追うなと言ったなら、千鳥はなおさら」
「なおさら、行く」
千鳥は私を見た。
目の奥に、昨日までとは違うものがある。
怯えだけではない。
怒り。
後悔。
それから、ようやく手にした細い覚悟。
「私は、小夜がいなくなった時、何もしなかった。何も聞かなかった。怖くて、寝たふりをした。みんなが小夜の名前を言わなくなっても、私も言わなかった」
「千鳥」
「だから、今度は見る。聞く。怖くても、半分なら何とかなるかもしれない」
「半分」
「紗代と半分」
その言葉は、思っていたより深く胸に残った。
母は一人で進んだ。
だから潰されたのかもしれない。
ならば、私は一人で進んではならない。
大奥では、一人で見た真実は一人分の嘘で潰される。
松ヶ枝の言葉が蘇る。
「分かりました」
私がそう言うと、千鳥は少しだけ目を丸くした。
「え、素直」
「一緒に来てください」
「……そこで急に素直になるの、ずるい」
「嫌ですか」
「嫌じゃないけど」
千鳥は顔を逸らした。
「心の盆がまたひっくり返る」
「拾います」
「そういうこと言うから!」
声が少し大きくなり、お吉がこちらを見た。
千鳥は咳払いをして、何事もなかったように粥を口へ運ぶ。
私は少しだけ笑った。
その笑いは、すぐに消えた。
今日、桔梗香炉へ近づく。
御台所の部屋で。
御台所が見ている場所で。
それは、罠に足を入れることと同じだった。
だが、罠だと分かっていても入らねばならない時がある。
罠の中にしか、母の声が残っていないのなら。
御台所の部屋へ呼ばれたのは、巳の刻の少し前だった。
朝の支度が一段落し、廊下の空気にかすかな茶の香が混じり始める頃。
御台所の居所へ向かう廊下は、今日も余計な音がなかった。女中たちの足音さえ、ここでは薄くなる。誰もが音を立てないのではない。音を立てることを許されていないのだ。
千鳥は少し後ろを歩いていた。
表向きは茶道具を運ぶ手伝いである。御台所の部屋に入ることは許されないかもしれない。それでも、廊下までは来られる。
「紗代」
襖の前で、千鳥が小さく呼んだ。
「はい」
「香袋、持ってる?」
「はい」
「松ヶ枝様に嗅がせるの?」
「機会があれば」
「機会って、勝手に生えてこないわよ」
「では、作ります」
「作るのが怖いのよ」
千鳥は眉を寄せた。
「本当に、無茶しないで」
「半分なら怖くないのでしょう」
「言ったけど、そういう使い方じゃない」
その時、襖の向こうから初瀬の声がした。
「篠乃井紗代。入りなさい」
千鳥の顔が引き締まる。
「戻ってきて」
「はい」
「約束」
「心がけます」
「弱い」
「戻ります」
そう言い直すと、千鳥はようやく小さく頷いた。
襖が開く。
御台所は、いつものように奥に座っていた。
薄鼠の小袖に、白い打掛。
派手さはない。だが、今日の彼女はいつもより少しだけ冷たく見えた。あるいは、私がそう見ているだけかもしれない。
部屋の隅には、桔梗香炉がある。
昨日よりも蓋の位置は整えられていた。
まるで、昨夜のずれなど最初からなかったように。
「おはよう、篠乃井」
「おはようございます」
「よく眠れましたか」
「眠る努力はいたしました」
「できなかったのですね」
「はい」
御台所は微笑んだ。
「正直でよろしい」
私は平伏したまま、香炉を見ないようにした。
見れば、見ていることを読まれる。
だが、見なければ何も分からない。
大奥では、目を上げても下げても危うい。
「茶を」
「はい」
今日も茶の支度を命じられた。
私は道具の配置を確かめるふりをしながら、部屋全体を覚える。
御台所の座る場所。
初瀬の位置。
障子から入る光の向き。
香炉までの距離。
昨日と違うところ。
ある。
香炉の下に敷かれた黒漆の台。
その右端に、細かな灰が一粒ついていた。
普通なら見逃すほどの、小さな灰。
だが、手入れの行き届いた御台所の部屋で、灰が残るのはおかしい。
香炉は、やはり開けられている。
しかも、完全に灰を取り切れてはいない。
「手が止まっています」
御台所が言った。
「申し訳ございません」
「何を見ていました」
「己の手際の悪さを」
「嘘が下手ですね」
「よく言われます」
「誰に?」
「多くの方に」
「大奥に慣れてきましたね。嘘が下手だと自覚しながら、嘘をつけるようになっている」
褒めているのか、警告しているのか分からない。
御台所は続けた。
「ところで、夕霧から何をもらいました」
来た。
私は手を止めずに答えた。
「香袋を」
「見せなさい」
拒むことはできない。
私は懐から薄紫の香袋を取り出し、両手で差し出した。
初瀬が受け取り、御台所へ運ぶ。
御台所は香袋を手に取り、わずかに鼻先へ近づけた。
表情は変わらない。
「懐かしい香です」
「御台様も、ご存じなのですね」
「この大奥で、桔梗の香を知らぬ者は幸せです」
幸せ。
つまり、知っている者は不幸だということ。
「夕霧は、これをどうせよと?」
「松ヶ枝様に嗅がせるように、と」
御台所は声を立てずに笑った。
「夕霧らしい。あの子は、人の蓋を香で開けたがる」
「蓋」
「記憶の蓋です」
御台所は香袋を初瀬に戻した。
「松ヶ枝を呼びなさい」
初瀬が一礼し、部屋を出る。
私は息を殺した。
早い。
御台所は、こちらがどう動くかを先回りしている。
松ヶ枝に香袋を嗅がせる機会を、こちらが作る前に、御台所自身が作った。
これは助けではない。
罠でもない。
見物だ。
御台所は、私と松ヶ枝がどう反応するかを見たいのだ。
ほどなくして、松ヶ枝が部屋へ入ってきた。
いつもの濃鼠の小袖。
厳しい顔。
だが、私を見た瞬間、わずかに眉が動いた。
香袋を見たからだろうか。
「御台様」
「松ヶ枝。夕霧から篠乃井へ香袋が渡されたそうです」
「……左様でございますか」
「桔梗の香です。懐かしいでしょう」
松ヶ枝の顔から、血の気が引いた。
本当に、目に見えて。
昨日、御膳場で母を見捨てたと語った時でさえ、ここまで露骨には崩れなかった。
「御台様」
「嗅ぎなさい」
優しい声だった。
逃げ道のない声だった。
初瀬が香袋を松ヶ枝へ差し出す。
松ヶ枝は一瞬、受け取りを拒もうとした。
だが、御台所の前でそれはできない。
震える手で香袋を受け取る。
香袋を鼻先へ近づけた。
次の瞬間、松ヶ枝の指が大きく震えた。
「……雨」
彼女が呟いた。
私は顔を上げた。
「松ヶ枝様」
「雨が、降っていた」
松ヶ枝の目は、今この部屋ではなく、七年前を見ていた。
「志乃が、濡れていた。髪の端から水が落ちて、畳に染みて……香炉を抱いて……」
御台所は何も言わない。
ただ、見ている。
松ヶ枝は香袋を握りしめた。
「小夜が、襖の外に」
千鳥が廊下の向こうで小さく息を呑んだ気がした。
部屋の外にいるはずの千鳥にも、聞こえただろうか。
小夜。
ついに、松ヶ枝の口からもその名が出た。
「小夜さんが、そこにいたのですか」
私は問うた。
松ヶ枝は、はっとしたように私を見た。
自分が何を口にしたか、今気づいた顔だった。
御台所が微笑む。
「懐かしい名ですね」
「御台様」
「よいではありませんか。篠乃井も知りたいのでしょう」
御台所は、そう言って私を見る。
「聞きなさい。聞きたいことがあるなら」
親切に見える。
だが、違う。
これは、私に松ヶ枝を刺させるための言葉だ。
私は御台所の望む通りに動いているのかもしれない。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「松ヶ枝様。小夜さんは、母と一緒にいたのですか」
松ヶ枝は唇を引き結んだ。
答えたくない。
だが、香が記憶の蓋を開けてしまっている。
「小夜は、志乃から何かを預かっていました」
「何を」
「分かりません」
「本当に?」
「……小さな紙包みでした」
千鳥の息遣いが、廊下から聞こえた気がした。
「それは、今どこに」
松ヶ枝は首を横に振った。
「小夜は、その翌日に消えました」
部屋が静まり返った。
千鳥は、今どんな顔をしているのだろう。
振り返ることはできない。
ここで振り返れば、千鳥の動揺を御台所に見せることになる。
「小夜さんは、母の文を預かっていたのですか」
「分かりません」
「小夜さんが消えたのは、母の後ですか」
「……志乃が大奥を下がったことになった後です」
「大奥を下がったことになった?」
言葉が引っかかった。
母は大奥で処分されたのではないのか。
不義密通の疑いにより、内々に処分。
そう記録にはあった。
だが松ヶ枝は今、大奥を下がったことになった、と言った。
「母は、大奥から出されたのですか」
松ヶ枝の顔が歪んだ。
御台所が口を開く。
「篠乃井」
声は穏やかだった。
「すべてを一度に聞いては、松ヶ枝が壊れます」
壊れます。
この人がそれを言うのか。
壊した側にいるかもしれない人が。
松ヶ枝は香袋を初瀬へ返した。
その手はまだ震えている。
「御台様、私は」
「よいのです」
御台所は優しく言った。
「昔のことです」
「昔で済ませてよいことではありません」
思わず、私の声が出た。
部屋の空気が冷えた。
初瀬が私を見る。
松ヶ枝も、御台所も。
御台所だけは、笑みを崩さない。
「そうですね。そなたにとっては、昔ではない」
「はい」
「では、今の話は胸にしまいなさい。小夜という名が出たことも」
「なぜですか」
「小夜の名を出せば、千鳥が傷つきます」
御台所は、廊下の方を見ずに言った。
知っている。
千鳥が外にいることも。
小夜と千鳥が繋がっていることも。
全部、知っている。
「御台様は、千鳥と小夜さんのことをご存じだったのですか」
「大奥の中で、知らないことを減らすのが私の務めです」
「知らないふりをすることも?」
「もちろん」
平然と認めた。
私は、指先が冷えるのを感じた。
知らないふり。
それもまた、大奥の罪だ。
松ヶ枝だけではない。
御台所も、知っていながら知らぬふりをしてきた。
あるいは、それを支配と呼んでいる。
「篠乃井」
御台所が言った。
「香炉が気になるのでしょう」
心臓が跳ねた。
「はい」
「見せてあげましょう」
松ヶ枝が顔を上げた。
「御台様」
「触れさせるとは言っていません」
御台所は初瀬に目を向ける。
「香炉をこちらへ」
初瀬が動いた。
音もなく、部屋の隅へ行き、黒漆の台ごと桔梗香炉を運んでくる。
香炉が私の前に置かれた。
こんなに近くで見るのは初めてだった。
青銅の肌には細かな傷があり、桔梗の紋は少し擦れている。長く人の手に触れられてきたものだ。
母も、この香炉を抱いた。
雨に濡れながら。
中に文を隠して。
「蓋を開けなさい、初瀬」
「はい」
初瀬が蓋を開けた。
中には灰があった。
だが、少ない。
底を薄く覆う程度。
昨夜、初瀬が小箱へ移した後だからだ。
私は香炉の中を見つめた。
灰の表面は平らにならされている。
だが、端の方にわずかな黒い点があった。
焦げた紙の欠片。
たぶん、爪の先ほどの。
初瀬は、それを取り残したのだろうか。
それとも、わざと残したのか。
「何か見えますか」
御台所が問う。
「灰が」
「他には」
「小さな燃え残りが」
初瀬の目が一瞬だけ動いた。
御台所は微笑んだ。
「取ってみますか」
松ヶ枝が声を上げた。
「御台様!」
「冗談です」
御台所は楽しそうに言った。
冗談。
今の言葉で、私の心臓がどれほど跳ねたか、分かっていて言っている。
「篠乃井。そなたはまだ触れてはなりません」
「いつなら、触れられますか」
「触れる覚悟と、触れた後に沈黙できる覚悟が揃った時です」
「沈黙するために触れるのですか」
「時には、真実を知っても黙ることが必要です」
「母は黙らなかった」
「だから死んだ」
御台所の声は静かだった。
私は、息を止めた。
怒りで視界が少し白くなる。
松ヶ枝が私を見ている。
駄目だ。
ここで怒れば、御台所の思う壺だ。
「……母は死にました」
私はゆっくり言った。
「ですが、黙った方々も生きながら死んでいるように見えます」
松ヶ枝の顔が、はっきり痛みに歪んだ。
御台所の目が細くなる。
「そなたは、なかなか酷いことを言う」
「申し訳ございません」
「いいえ。事実です」
御台所は香炉の灰を見た。
「黙って生きることを、死と呼ぶ者もいるでしょう。騒いで死ぬことを、生きたと呼ぶ者もいるでしょう。どちらが正しいかなど、残った者が決めることです」
「私は、母がなぜ死んだかを知りたいだけです」
「本当に?」
御台所の問いは鋭かった。
「母の死を知りたいだけですか。母を殺した者を裁きたいのではなく? 母を見捨てた者を憎みたいのではなく? 母の名を取り戻すことで、自分の痛みを鎮めたいのではなく?」
言葉が刺さる。
御台所は、私の中にある醜いものまで拾い上げる。
母のため。
そう言えば美しい。
でも本当は、私自身のためでもある。
母を奪われた私。
母の名を汚された私。
何も知らされずに育った私。
その痛みを、どこかへぶつけたい私。
「……全部です」
私は答えた。
御台所の笑みが深くなる。
「よろしい」
よろしい?
「欲は、隠すより認めた方が扱いやすい」
また、御台所の言葉だ。
強欲の女。
欲を恥じない女。
「篠乃井。香炉の灰は、今はここまでです」
初瀬が蓋を閉じた。
桔梗の紋が、私の前から隠れる。
御台所は続ける。
「ただし、そなたが見た燃え残りは覚えておきなさい。いつか役に立つかもしれません」
「御台様は、なぜ私に見せたのですか」
「そなたが、見たい顔をしていたから」
「それだけですか」
「ええ」
嘘だ。
それだけではない。
御台所は私に見せたかったのだ。
灰の中に燃え残りがあることを。
そして、それにまだ触れられない自分の弱さも。
欲しいものを目の前に置き、手を伸ばさせない。
これも飼うための紐だ。
「下がりなさい」
御台所が言った。
「松ヶ枝は残って」
「はい」
松ヶ枝が頭を下げる。
私は退出するしかなかった。
襖の外へ出ると、千鳥が待っていた。
顔色が悪い。
聞こえていたのだろう。
小夜の名も。
松ヶ枝の言葉も。
御台所が千鳥のことまで知っていたことも。
「千鳥」
「……小夜、母上の文を預かってたの?」
「まだ分かりません」
「でも、松ヶ枝様はそう言った」
「紙包みを預かっていたと」
千鳥は唇を噛んだ。
「だから、いなくなったのかな」
「まだ、決めるには早いです」
「でも」
「千鳥」
私は低く言った。
「一人で決めないでください」
千鳥が私を見た。
「小夜さんが消えた理由を、一人で抱えないでください。半分、と言ったでしょう」
千鳥の目が揺れた。
泣きそうだった。
でも泣かなかった。
「……うん」
小さく頷いた。
その時、初瀬が襖の中から出てきた。
手には黒塗りの小箱。
昨夜見たものと同じ。
千鳥が息を止める。
初瀬は私たちを見た。
「篠乃井紗代」
「はい」
「御台様より。今日見たものを、勝手に広めぬようにとのこと」
「承知いたしました」
「千鳥」
初瀬が千鳥の名を呼んだ。
千鳥の身体が強張る。
「小夜の名もです」
千鳥の顔から血の気が引いた。
初瀬は表情を変えずに続けた。
「死者の名は、呼ぶ場所を選びなさい」
「小夜は……死んだんですか」
千鳥の声は、震えていた。
初瀬はすぐには答えなかった。
「大奥では、戻らぬ者を生者とは呼びません」
「答えになってません」
「答えを求めるなら、相応の覚悟を」
初瀬の視線が、私へ移る。
「御台様は、そう仰せです」
初瀬は小箱を持って廊下を進んだ。
行き先は分かっている。
御膳場。
お柳のところだ。
千鳥が私を見る。
「行くの?」
「今すぐ追えば、見つかります」
「じゃあ」
「少し間を置きます」
「珍しく慎重」
「猫なので」
「猫って便利ね」
千鳥は無理に笑った。
だが、その手は震えていた。
私はその手に、そっと自分の手を重ねた。
「行きましょう。小夜さんのためにも」
「うん」
「でも、今回は無理に聞き出しません」
「え?」
「まず、お柳さんが灰をどこへ置くかを見ます」
「本当に慎重」
「御台様に、欲を認めろと言われました」
「何それ」
「私は灰が欲しい。だからこそ、すぐ飛びつかないようにします」
千鳥は、少しだけ笑った。
「紗代、御台様に似てきたら嫌だなと思ってたけど」
「はい」
「今のは、ちょっと頼もしい」
「褒め言葉として受け取ります」
「これは褒めてる」
「ありがとうございます」
「でも調子には乗らないで」
「努力します」
「それ、乗る返事」
私たちは、しばらくしてから御膳場へ向かった。
御膳場の前には、昼の支度の音が満ちていた。
包丁の音。
湯の音。
器の触れ合う音。
そして、その奥に、灰の気配がある。
音のしない秘密の気配。
お柳は、御膳場の奥で座っていた。
役目を控えているはずなのに、彼女は相変わらずそこにいる。
人は役目から外されても、場所からは簡単に剥がされない。
お柳は私たちを見ると、にこりと笑った。
「あら。今日はお昼を待てなかったのですか」
「灰を見に来ました」
「食いしん坊ですねえ」
「お柳さんほどでは」
「まあ、失礼」
そのやり取りの間、お柳の膝元には小箱がない。
隠した。
どこへ。
私は御膳場の中を見た。
棚。
薬草箱。
火鉢の横。
水瓶。
古い文箱。
違う。
香炉の灰を置くなら、ただの箱には入れない。
湿気を避け、火を避け、人目を避ける場所。
お柳が腹に手を当てた。
「そんなに見つめられると、穴が開きますよ」
「穴が開けば、中が見えます」
「怖いことを」
「お柳さんの腹の中ほどでは」
お柳は笑った。
「だんだん、大奥の会話に慣れてきましたね」
「嬉しくありません」
「でしょうね」
千鳥が横から言った。
「小箱、どこにやったんですか」
「小箱?」
「とぼけないでください」
「千鳥さん、今日は声が尖っていますね」
「小夜の名前を聞いたからです」
お柳の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「小夜」
「知ってるんですね」
「大奥で消えた女の名は、御膳場にも残ります。食べなくなった膳の数で」
千鳥の顔が歪んだ。
私は、彼女の手を軽く押さえた。
半分。
怒りも半分にする。
「お柳さん。小夜さんは、母から紙包みを預かったのですか」
「さあ」
「また、それですか」
「便利な言葉ですもの」
「では、灰はどこですか」
「灰なら、どこにでもあります」
お柳は火鉢を見た。
「火のあるところには、必ず」
「桔梗香炉の灰です」
「それは、御台様のもの」
「御台様は、なぜお柳さんに預けるのですか」
「私が食べ物を扱うからでしょう」
「灰は食べ物ではありません」
「でも、腹には入れられます」
千鳥が顔をしかめた。
「本当に食べたんですか?」
「まさか」
お柳はころころ笑う。
「秘密は食べても、灰は食べません。喉が荒れます」
「冗談に聞こえません」
「冗談ですよ。半分」
お柳の半分は信用できない。
私は御膳場の奥の棚を見た。
古い陶器の壺が並んでいる。
味噌。
塩。
砂糖。
薬草。
灰を隠すなら。
灰に似たものの中。
「塩ですか」
私が呟くと、お柳の目が動いた。
一瞬。
それで十分だった。
「千鳥」
「何」
「塩壺を」
千鳥が動こうとした瞬間、お柳が声を上げた。
「触れてはなりません」
柔らかい声ではなかった。
御膳場全体が止まる。
お柳自身も、言った後で表情を戻した。
「あら、ごめんなさい。塩は湿気を嫌いますから」
「灰も、湿気を嫌いますね」
私は言った。
お柳は笑った。
「篠乃井さん」
「はい」
「本当に、よく見ますね」
「母の娘ですので」
「その言葉は、便利な刀です」
「はい」
「でも、刀は抜きすぎると刃こぼれしますよ」
お柳は塩壺の前に座り直した。
守っている。
あの中にある。
桔梗香炉の灰。
母の文の燃え残り。
私は確信した。
けれど、今は取れない。
御膳場には人が多すぎる。
お柳は守っている。
無理に手を出せば、こちらが盗人になる。
まただ。
大奥では、欲しいものほど目の前に置かれ、手を出せば罪になる。
「今日は、引きます」
私が言うと、千鳥が驚いた顔をした。
お柳も少しだけ目を丸くした。
「あら。珍しい」
「よく噛め、と言われましたので」
「私の言葉を覚えていたのですね」
「役に立つものは覚えます」
「では、私は役に立つ女ですか」
「危険な女です」
「それは褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めていません」
「よく言われます」
どこかで聞いたような返しだった。
千鳥が小さく「うつってる」と呟いた。
私たちは御膳場を出た。
塩壺の中に灰がある。
だが、まだ手は出せない。
ならば、次は塩壺に触れる理由を作る。
料理。
薬湯。
あるいは、御台所の命。
私が考えていると、千鳥が隣で言った。
「紗代、今すごく悪い顔してる」
「そうですか」
「御台様に似てるって言われたくなかったら、少し戻して」
「難しいです」
「怖い」
「でも、分かりました。塩壺です」
「うん。私も見た。お柳さん、珍しく焦ってた」
「今夜、動くかもしれません」
「私たちが?」
「お柳さんが」
灰の隠し場所が気づかれた。
お柳なら、動かす。
そして動かす時に、隙が生まれる。
「見張ります」
私が言うと、千鳥はため息をついた。
「結局、夜も寝ないやつだ」
「半分寝てください」
「どうやって」
「交代で」
「なるほど」
千鳥は少しだけ笑った。
「小夜もよく言ってた。半分ずつなら、夜も短いって」
私は何も言わなかった。
小夜の名が、少しずつこの大奥に戻ってきている。
消えた女の名が、また誰かの口に上る。
それは小さな反逆だった。
その夜、御膳場の火は落とされた。
しかし、私たちは眠らなかった。
御膳場へ続く廊下の陰で、千鳥と二人、息を殺す。
しばらくして、柔らかな足音がした。
お柳だった。
手には小さな包み。
塩壺から取り出したものだろう。
彼女は御膳場の奥から出て、廊下を進む。
行き先は、御台所の部屋ではない。
もっと奥。
古い道具がしまわれた方角。
私たちは距離を取って追った。
途中、お柳は一度だけ振り返った。
私たちは柱の影に隠れる。
千鳥の手が震えている。
私はその手を握った。
半分。
恐怖も半分。
お柳は再び歩き出した。
そして、古い水屋の前で立ち止まった。
そこには、普段は使われない小さな火鉢があった。
お柳は包みを開いた。
中に、灰。
その灰の中から、黒い小さな欠片をつまみ上げる。
焦げた紙。
私は息を止めた。
お柳はそれを火鉢へ近づけた。
燃やす気だ。
残ったものを、今度こそ完全に。
千鳥が動こうとした。
私は止めるより早く、自分が前へ出ていた。
「お柳さん」
お柳の手が止まった。
ゆっくり振り返る。
夜の廊下で、彼女は笑っていた。
「あら」
その指先には、焦げた紙片。
母の密書の一部かもしれないもの。
「夜食には、ずいぶん遅いですよ」
「それを燃やす前に、見せてください」
「これは灰です」
「灰なら、燃やす必要はありません」
お柳の笑みが消えた。
初めて、はっきりと。
その瞬間、私は悟った。
あの紙片には、読める文字が残っている。
お柳はそれを燃やそうとしている。
御台所の命か。
それとも、自分を守るためか。
千鳥が私の隣に並んだ。
「お柳さん。小夜も、それを見たんですか」
お柳の目が、千鳥へ向いた。
「……千鳥さん」
「小夜は、そのせいで消えたんですか」
お柳は答えなかった。
答えないまま、紙片を握った。
だが、その時。
廊下の奥から、別の声がした。
「燃やしてはなりません」
松ヶ枝だった。
息を切らしている。
老女らしからぬ速さで来たのだろう。
その後ろには、藤尾の方の姿もあった。
なぜ、藤尾の方が。
藤尾の方は、髪に簪を挿していない。
だが、その目には怒りがあった。
「お柳」
藤尾の方が言った。
「今度は、私の知らないところで何を食べるつもり?」
お柳は、しばらく黙っていた。
そして、困ったように笑った。
「皆様、夜更かしはお身体に障りますよ」
「その紙を渡しなさい」
松ヶ枝が言う。
「御台様の命で預かっております」
「ならば、御台様の前で燃やすべきでしょう」
「御台様は、燃やせとは仰っていません」
「では、誰の命です」
お柳は答えない。
答えない代わりに、紙片を強く握った。
私は一歩前へ出た。
「お柳さん」
「近づかないで」
声が鋭かった。
その声に、藤尾の方が目を細める。
「やっと本性が出たわね」
お柳は藤尾の方を見た。
「本性など、皆様お持ちでしょう」
「その紙は、母のものですか」
私が問うと、お柳は私を見た。
表情が揺れる。
怒りではない。
悲しみでもない。
腹に溜め込んだ秘密が、とうとう喉元まで上がってきたような顔だった。
「志乃様の文の燃え残りです」
千鳥が息を呑む。
私の胸が強く打つ。
「見せてください」
「見れば、戻れません」
「もう戻れません」
「小夜も、そう言いました」
千鳥の肩が震えた。
「小夜が?」
「ええ」
お柳は、千鳥を見た。
「小夜さんも、同じ目をしていました。怖いくせに、引かない目」
「小夜は、何を見たんですか」
「この紙の、別の欠片を」
夜の廊下が、しんと静まり返った。
「別の欠片は、どこですか」
私が問う。
お柳は小さく首を横に振った。
「小夜さんが持って消えました」
千鳥の目に、涙が浮かぶ。
「小夜は、生きているんですか」
その問いに、お柳は答えなかった。
だが、今度の沈黙は違った。
死んだと決める沈黙ではない。
生きていると言えない沈黙。
千鳥がそれに気づいたのか、顔を上げた。
「お柳さん」
「私は何も言えません」
「でも、小夜は」
「何も言えません」
お柳は繰り返した。
その手から、松ヶ枝が紙片を奪い取った。
お柳は抵抗しなかった。
松ヶ枝は紙片を開く。
焦げて、端が黒くなっている。
文字は一部しか読めない。
私は身を乗り出した。
そこに、二文字だけが残っていた。
御子。
いや。
その下に、もう一文字。
替。
御子替え。
藤尾の方が息を呑んだ。
松ヶ枝の顔が真っ白になる。
千鳥は意味が分からず、私を見る。
お柳は目を閉じた。
御子替え。
将軍家の血に関わる偽り。
大御台様の傲慢。
御台所の強欲。
母の死。
小夜の消失。
すべてが、この二文字へ繋がった。
その時、廊下の奥から静かな拍手が聞こえた。
一度。
二度。
三度。
御台所だった。
いつからそこにいたのか。
初瀬を従え、薄闇の中から歩いてくる。
その顔には、いつもの微笑みがあった。
「よく辿り着きましたね、篠乃井」
私は、紙片から目を離せなかった。
御台所は微笑んだまま言う。
「けれど、その文字は国を傾けます」
御子替え。
たった三文字。
それだけで、夜の大奥が音もなく崩れ始めるのを、私は確かに感じた。




