逃亡劇の始まり
殺すつもりは最初から無い。そんなことをしたら『天律聖教』に本格的に敵とみなされる。だから、俺のやることはこの場から逃げること。
異端審問官。イリス・クロウベルに剣の刃ではなく腹を叩きこんで、無理矢理吹き飛ばす。有効打としてはこれでも十分だろう。
吹き飛ばされたイリス・クロウベルが吹き飛ばされながら、それでも体勢を立て直そうと空中で身をよじっているのを視界に収めつつ、俺は地面に煙玉を叩きつけて、自分の姿を隠す。
本来、魔眼持ち相手にこんなやり方は無意味。
「逃げられるとでも――」
立ち込める煙の向こうからでも見える黒鉄色の輝きに冷や汗をかきながら。俺は女神化を解除して、久しぶりに元々の姿に戻る。
そしてワイヤーを使って建物の屋根へと逃げるとそこから大急ぎで立ち去った。
「ぷはっ」
屋根伝いに人混みと視線を避け、落ち着けそうな場所までやって来て、ようやく一息つく。
ずっと俺の背中に背負われて、外套の下にいたカイにとっちゃ暑くて大変だっただろう。降ろしてやると、大きく息を吐いてから差し出された水をぐびぐびと飲んでいた。
「とんだ目にあったな」
「あの人は一体誰なんですか? 『天律聖教』のいたんしんもん? って言ってましたけど、僕のことを追っているのはあくまでベルゼルド卿ですよね?」
「あぁ、なんともややこしい話になって来たぜ」
一部始終を聴いていたカイがごもっともな意見をぶつけてくる。難しい言葉はわからないが、何か面倒なことが起こっていることは分かっているらしい。
しかし、本当に面倒なことになった。こりゃ、この街にも長居出来ないぞ。あの魔眼がある限り、街にいるのはそれだけで危険だ。
「アイツは『天律聖教』の異端審問庁ってのに所属しているらしい。まぁ、異端審問庁ってのが何なのかって言うと、そうだなぁ……」
率直に言うと『天律聖教』のためなら暗殺なんて当たり前の連中。『天律聖教』の闇の部分でヤツだな。
『天律聖教』が『天律聖教』であり続けるため、ではあるが子供に話すような内容でもない。というか、話せる内容じゃない。
だからぼやかす必要があるんだが、どう話したもんか。
「……『天律聖教』と敵対しそうなやつを探して捕まえる仕事、か?」
苦し紛れになんとか異端審問庁が何をしているのかを言うと、カイは一応納得してくれたらしい。
良かったぜ、突っ込んだ質問をされたらどうしようかと思ったが、今のところは大丈夫そうだ。
「でも、それならなんで僕達が追いかけられたんでしょう? 僕ら、『天律聖教』には何もしていないですよね?」
「何をしたか、じゃないだよ。何をしそうなら、アイツらにとっては敵なんだ。疑わしきは罰せよ、ってヤツだな」
「そんなっ、勝手です!!」
カイが怒るのはごもっともだ。一般的な感性で言えば、何もしていない内から一方的に犯罪者扱いだからな。
これに関してはベルゼルド卿も似たようなもんだから、俺からすれば今さらだけどな。
だが、別々の話が絡んで来るとなるとめんどくささは倍じゃ済まなくなって来る。
「アイツは俺のことを『天律聖教』にとって異端者だと判断した。だから捕まえて、確かめようとしたんだ」
「セイルさんが異端者って、おかしいですよ。何もしてないのにっ」
「『ディバインシフター』のせいさ。『天律聖教』は唯一神のアルヴェリオス以外の神は認めてないからな」
女神そのものに変身する『ディバインシフター』は連中から見れば自分達の教義を脅かすまさに異端の能力。
連中からすれば、これを排除しない理由は無い。
この考えを理解しろってのは難しいよな。俺だって、理解はしていない。知識として異端審問庁ってのはそういう組織だって言うのを知っているってだけだ。
流石に実体験するのは初めてだけどな。




