逃亡劇の始まり
カイの表情が硬くなるが、振り返ることはしない。偉いぞ。下手に振り返れば相手に悟られる。
幸い、声を直接聞かれる距離では無い。読唇術を持っているとすると話は別だが、そうでないなら振り返らないってだけでバレる確率は全然違うからな。
「一旦このまま泳がせる。無理に振り切ることもしない。出来るだけ今まで通りに振るまえ」
「わかりました」
「距離を詰めて来ようとしたらこっちも動く。それまでは後ろを振り向くな」
相手の出方がわからない。何より、何が目的なのかがわからない。今のところ、ソレイユの街にベルゼルト家の私兵騎士達の姿は無い。
わざわざ私服の騎士達を潜り込ませるような面倒な真似を貴族様はしないだろう。ベルゼルト家の書面とその紋が入った甲冑を着て活動した方がよっぽど周囲が協力してくれるからな。
事態が更に進んで、カイをもう一度手中に収める直前ならその行動もわかるが、目星も付いていない段階での潜入捜査みたいなことはあんま意味が無いからな。
「このまま地図と街の実際の構造を頭に叩き込むのを優先する。何かあった時の逃走経路に目星を付ける」
「はい、地図ですね」
目的が分からない以上、下手に接触するのは危険だ。藪をつついて蛇を出すことは避けた方が良い。
単純に俺の女神の姿を見て、そのケツを追いかけ回しているだけの迷惑な輩か。昨日の夜ボコボコにしたチンピラ三人の仲間ってのが有力で特別楽で良いんだがな。
面倒なのは当然ながらベルゼルト家の関係者だが、さっきの仮定を考えればその可能性は低い。
更に面倒くさいのはそれらとは全く別の理由だった場合だ。そうなるともう読めない。何をして来るのかがわからないからな。
だからまずは目的を探る。ただ距離を保ってくるならそれで良い。一日だけで終わるのか、数時間で飽きるか諦めるか。
それとも突然距離を詰めてくるのか。
全部を考慮しなきゃいけないって時点で気を張るポイントが多過ぎるからな。
「おう、サンキュー」
「あそこで見るのが良いんじゃないですか?」
地図を鞄から取り出して俺に手渡してくれたカイ。歩きながら開くわけにもいかないし、カイが示した通り、運河沿いの通りにちょうど良く低い塀があった。腰かけるなりなんなりするのにはちょうどいいし、尾行者をそれとなく監視することも出来る。
良く頭が回るもんだぜ。何も教えてないのにこの対応力だからな。生粋の自頭の良さと回転速度。
若い才能ってのは凄いもんだ。
カイのそれとない判断力の高さに驚きつつ、俺達は運河沿いの塀に腰かけて、地図を広げた。
「良い作戦だぜ。地図で口元も隠れるからあっちからすれば嫌な時間だ」
「へへへ……。でも、尾行して来ているのは一体誰なんでしょうか? ベルゼルト家、ではないですよね?」
「それを知るために泳がせるぞ。見極めるのに時間がかかる可能性もある。覚悟しておけよ」
地図を指差しながら、全然別のことを話す。カイも不思議がっているが、とにかく今は耐えの時間だ。
それを伝えた後は本当に地図と実際の地形や建物の高さや構造、目印になる店の位置や特徴的なランドマークを頭に叩き込む。
ソレイユの街はデカいから同じ系列の店も多い。ちゃんと叩き込んでおかないと迷いかねないのは本当のことだしな。
「よし、実際に歩いてみるぞ。相手は距離を詰めて来てない。監視の体勢だ」
「このまま知らんぷり、ですね」
「そういうことだ。行くぞ」
読唇術とかでバレているのなら、もう距離を詰めて来てもおかしくないが、それも無い。相手は相当に警戒心の高いと見て良い。
となると、普通のヤツじゃないな。隠密行動にある程度慣れているし、何か明確な目的がある。
少なくとも、突発的にストーカー行為に及んでいたり、昨日のチンピラみたいな質の低い連中じゃないってことだ。
残念ながら、俺の予想は悪い方向に転んだらしい。さぁて、どう動くかな。




