第十六話:激昂 その二
「……私を侮辱することは大いに結構だ。現にこのような状態では返す言葉もない。ただな」
愛奈さんはジェレミから一時も視線を外さずに、大きく息を吸って、こう続けた。
「この店と! この店の人間を侮辱することだけは断じて許さんッ!」
なぜか、胸がすっとした。
この人は本気で怒ってくれている。まだここに来て数か月しか経っていないのに、本気でこの店のことを想ってくれている。
そして、愛奈さんの言葉を聞いたこの時、僕の中である決心が芽生えた。曇天の寒空から一筋の光が差し込んだかのような、不思議な感覚。
「まだそんな元気を残していたか。いいだろう。その挑発、乗ってやる」
ジェレミは不敵に微笑み、愛奈さんと対峙する。
でも、一触即発な空気のところで大変恐縮なのですが、ちょっと一言いいでしょうか。
「あ……愛奈さん? 表に出ろって、それは勘弁してもらっていいですか? 朝っぱらから駐車場で軽い戦争を勃発されても困るんで……」
「……言われてみればそうだな」
僕に言われて愛奈さんは我に返る。
「私から啖呵を切っておいてなんだが、表に出るのは中止だ」
「な……!?」
愛奈さんのドタキャンにジェレミはぽかんと口を開ける。
「貴様らはどれだけ俺の興を醒めさせたら気が済むのだ……!」
ジェレミは怒りにも似た呆れ顔を披露すると、再びロッカーに足を踏み入れる。
「もう俺は帰る。また気が向き次第、貴様を潰しにかかるからな。心しておけ」
「ならば今晩――」
「む?」
「今晩深夜二時、もう一度ここに来い。決着を付けよう」
「ほう?」
「あのような屈辱を受けてそのまま黙っていられるほど私は温厚ではないのでな」
愛奈さんは小さく笑うとジェレミを睨み付ける。結局ここで戦うんですか。いくら深夜だからと言ってもうるさくされたりしたら困るんですが。
「……よかろう。その言葉、忘れるなよ。それまでせいぜい準備でもしているがいい」
ジェレミはそう言い捨てるとロッカーの中に消えていった。途端、僕は床にへたり込んでしまう。
「……あー怖かったぁ……」
「大丈夫か、顔色が悪いぞ」
「あんなデタラメなのが来たら悪くもなりますよ」
「まだまだ精神面での鍛錬が必要だな。しかし、あの時はよくジェレミに立ちはだかってくれたな。お蔭でとどめを刺されずに済んだ」
「いや……あれは自分でもよくわからなくて。ただ単に錯乱状態に陥っていただけだと思いますよ」
「どっちにしろ、私がお前に助けられたことは事実だ。感謝する」
「……本当にやるんですか」
「当たり前だ」
「でもそんな体じゃまだ……!」
「あのようなことを言われて黙っていられるはずがなかろう。佑樹はどうなのだ」
「それは……」
「だからお前はジェレミに向かっていったのだろう。そういうことだ」
「……無理はしないでくださいね」
「それは保障できん。そうならないように、これから準備を整えてくる」
「はい。行ってらっしゃい」
「ああ、すぐに戻ってくる……ところで佑樹」
「はい?」
「学校とやらには行かなくていいのか」
「…………え」
僕は恐る恐る時計に目を向ける。
九時半。見事なまでの遅刻だった。
「ああああ! 大変な時間になってる! それじゃ愛奈さん、僕はもう行くんで!」
「ふっ、気をつけてな」
愛奈さんは吹き出すとロッカーに消えていった。
「どうしよう……笹子先生になんて言い訳すれば……」
愛奈さんが言ったのを確認してから僕は大急ぎでカバンを拾って従業員室を飛び出そうとする。すると。
「……ねえ、佑樹くん」
「え? あ、明日香さん、まだそんな所にいたんですか」
ジェレミが現れてからずっと机の下で体育座りをしていた明日香さんが僕に話しかけてきた。はっきり言って今は明日香さんなんかの相手をしている余裕はない。
「もう大丈夫ですから、出てきていいですよ」
「いや、なんというかね。足が固まっちゃって動けないんだよ」
「それじゃそのままでいてください。避難訓練ということで」
「冷たいなあ!」
「まあしかし、びっくりもしますよね。突然あんなのが出てきたりしたら」
「私は特にそうは思わなかったかな」
「じゃあ今のその状態はなんですか」
「これは、その……来たるべき災害に備えて、さ」
「避難訓練だ!」
茶番でしかなかった。
それじゃあ社長出勤、行ってきます。明日香さんはもちろん、放置です。




