7. 弟の字と、叔父の靴
辺境から、手紙が二通来た。
一通は父から。もう一通は、封の縁が指の跡で黒くなっている。
ミヒェルの字は、まっすぐ書こうとして必ず右へ下がる。一行目の終わりが、二行目の頭より下にある。
◇
あねうえ、おげんきですか。
いのししが、はたけにきました。かぶを、ぜんぶ。
ぼくが、なべをたたいてかえしました。
かたみみは、まだ山にいます。うらの木のかわを、ことしもはがしていました。
はしは、まだありません。
◇
最後の一行のところで、紙が少し波打っている。
濡れて、乾いた跡である。
書き直したのだと思う。書き直して、それでも同じことを書いたのだと思う。
うちの弟は、鍋を叩いて猪を追い返せる。十二で、もうそれができる。けれど橋は、鍋ではなんともならない。
わたくしは字の下がっていく行を、指でたどった。指の腹に、薪の紐の跡が横に走っている。この手で薪を背負って峠を回った回数と、あの子が鍋を叩いた回数は、たぶん似たようなものである。
喉の奥が、急に熱くなった。
――涙は、拭くのではない。触れるだけ。
教練の一行をきちんと思い出したのに、指はもう目の下へ行きかけていた。途中で止める。今のわたくしが麻に触れば、四枚目もまた裂ける。
「便りは、よいものでございます」
ゲルトルートが、卓の上の茶を替えながら言った。
「はい」
「涙は、こちらへ」
差し出された麻を見て、わたくしは笑ってしまった。やはり四枚目である。
父の手紙は、行が二つしかない。
――かぶは惜しい。だがミヒェルが鍋を叩いたのは上出来だ。
――橋の話は、おまえが決めてよい。
決めてよい、と父は書く。
村でいちばん力のある男が、十八の娘に決めさせるのである。それだけで、あの家の台所の狭さと、冬の川の幅が、いっぺんに思い出せてしまう。
◇
書斎へ礼を言いに行くと、卓の上に大きな紙が広げてあった。
橋の図面である。
石橋。橋台が二つ、桁が三本。端に細い字で寸法が書き込まれていて、下の隅には数が並んでいる。
石、木、鉄――百二十。
工賃と渡し賃――八十。
合わせて、二百。
わたくしが受け取る約定の額が、そのまま二つに割られて、そこに書いてあった。
「……いつ、お取り寄せに?」
「先月です」
「先月」
「貴女がお受けになるかどうか、分からない時分でした」
公爵様は、図面の端を指で押さえていらっしゃる。
「架ける先の川幅も、雪の深さも分かりませんでしたので、三通取り寄せて、いちばん高いものを残しました」
「高いもの」
「安い橋は、二度落ちます」
二度落ちる橋のことを、わたくしはよく知っている。落ちた年の冬に、村の年寄りが一人、薬に間に合わなかった。
わたくしは何か申し上げようとして、言葉が出てこなかった。
この方は礼を言われるのを待っていらっしゃらない。ただ紙の端を押さえて、寸法をもう一度確かめていらっしゃる。
――先月。
わたくしがまだ崖を上っていた月に、この方は落ちた橋の寸法を三通取り寄せて、いちばん高いものを選んで残していた。断られるかもしれない相手の、断られるかもしれない村のために。
守れなかった数を三つ抱えた人の、守り方はこういう形をしているのだと思った。剣より先に、紙の端を押さえる手つきのほうが、たぶんこの方の本当である。
「――お礼は」
「まだ、架かっておりません」
それだけおっしゃった。
◇
その日の午後、門前に靴音がした。
家令が知らせに来る前に、音の重さで分かった。市の通りを歩いていたときと同じ、歩幅の揃った歩き方である。
「家門会議の長様が、ご挨拶にとのことでございます」
「公爵様は?」
「王宮でございます。お戻りは、夕でございます」
主が留守の家に、家門会議の長が挨拶に来る。
――そういうことか。
客人がひとりで応対して、うっかり何かを言えば、それは証言になる。うっかり何かをすれば、それは物証になる。
わたくしは、二の徴と三の徴を頭の中で並べ、それから最後にもう一つ、教練の作法を思い出した。
――客人は、自ら門を開けてはなりません。
これは徴ではない。ゲルトルートに教わった、ただの作法である。
石段の向こうで、靴音が二度、間を置いて鳴った。
取っ手は真鍮で、午後の日に温まっている。開ければ、廊下の空気が一度入れ替わる。あちらは丁寧に挨拶をなさって、丁寧に世間話をなさって、丁寧に、こちらの言葉を一つずつ持ち帰るだろう。
わたくしの手が、扉の取っ手のほうへ少し動く。
動いて、止まった。
息を細く吐く。指を戻す。爪の先まで、力を抜く。
村の家の戸は、外から押せば誰でも開く。誰でも開くから、誰も待たされなかった。開けないという選択を、わたくしは十八年、一度もしたことがない。
――開けない。
「コルネリウス」
「はい」
「わたくしは、門を開けられません」
家令は、一秒だけ間を置く。それから、いつもの声で言った。
「手順に、いたしましょう」
あの人は玄関へ出て、たいへん丁寧に、たいへん長く、公爵様のお戻りの時刻を説明しはじめた。
日没から数えると何刻になるか。ここ十日の日の入りが毎日どれだけ遅くなっているか。去年の同じ時期はどうであったか。
わたくしは廊下の奥から、それを聞いていた。
家令の手順というのは、こういう形もするのである。
靴音は、しばらく石段の上に留まっている。
やがて、ひとつ長い間があって、遠ざかった。
「……では、次の照らしで」
◇
その夕、社交界にはもう新しい一行が回っていた。
――辺境のご客人は、家門会議の長を門前で立たせた。
わたくしは、立たせていない。開けなかっただけである。
しかし夜会の令嬢たちは、それを「動かずに追い返す」の続きとして数えたらしい。熊、馬、それに叔父上。三つ並べば、もう血筋の話になるのだそうである。
噂が屋敷より速く走るのは、王都でいちばん厄介な決まりである。
ゲルトルートは、髪を結い直しながら言った。
「六日後、一の照らしでございます」
「はい」
「あちらは、三十日ぶんを一度に出してまいります」
◇
庇の三月、第二十四日。三つの徴、いずれも守られたり。損ないの兆し、無し。ただし記す——本日午後、家門会議の長が来訪せしが、主は不在にて、客人はこれに応対せず。門は開かれず。客人は取っ手へ手を伸ばしかけて戻したり。作法によるものと見る。なお辺境より便り二通。客人はこれを読みし後、目の下へ指を運びかけて中止したり。当家の麻は、本日は無事である。




