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8. 押すは、持ち上げるにあたらず

 一の照らしは、大広間で行われた。


 卓が中央に一つ。両側に椅子が並び、片側に公爵家の者、もう片側に家門会議の者が座る。腕木の折れた椅子は、隅で修繕を待っている。


 窓は東と南。朝の光が寄木の床に二本の帯を落とし、埃がその中でゆっくり回っていた。


 記録官ハイデマリー様が、黒い表紙の帳を開いて立たれる。


「庇の三月、第一日より第三十日まで。読み上げます」


 三十日ぶんが、湯を注ぐような声で読まれていく。


 椅子の腕木、一つ。麻のハンカチ、二枚。象牙の扇、一本。姿見が指一本ぶん動いたこと。卓が滑ったこと。侯爵邸の飾り柱、一本。菓子が一つ、客人の口の前から消えて見えたこと。荷馬が向きを変えて去ったこと。轅が車の輪ひとつぶん動いたこと。金物屋の鍋を、客人が持たなかったこと。


 自分の三十日を人の声で聞くのは、たいへん妙な心持ちである。


 ずいぶん壊しているし、ずいぶん押している。それでいて、一つも持ち上げていない。


 「持たなかったこと」まで拾われるのを聞いて、家門会議の側の誰かが咳をした。


「――以上。三つの徴、いずれも守られたり」


 記録官様が、帳から目を上げた。


「損ないの四箇条、いずれも成らず」


 公爵家の側で、誰かが息を吐いた。


 わたくしも吐きたかったが、そこで家門会議の側の椅子が静かに鳴った。


       ◇


「申し立てを、一つ」


 オズヴァルト様が立ち上がる。


 声を荒げない人の申し立ては、こういう声である。低く、丁寧で、聞き取りやすい。


「客人は、一の徴を破っております」


 大広間の空気が、少し薄くなった。


「侯爵邸の夜会にて、折れた柱の下から、客人は老侯爵を持ち上げて助けました。証人は二名。侯爵邸の従僕でございます」


 従僕が二人、扉の近くから進み出た。


 二人はほとんど同じ言い方をした。客人が老侯爵の身体を両手で抱え、持ち上げて、柱の下から出したのだと。


 記録官様が、帳から目を上げた。


「手は、どこへ入れましたか?」


「……脇の下と、背中でございます」


 一人目が答え、二人目も同じ言葉を繰り返した。


「脇の下と、背中に」


「肩へは?」


「触れておりません。抱え上げるには、脇と背でございます」


 二人が、揃って言い切った。


 ――規則どおりの申し立てである。証人二名、証言も一致している。


 わたくしは口を開かなかった。「押しただけです」と申し上げても、当事者の言い分にすぎない。


「客人。反証はございますか?」


 答える前に、扉の方で杖の音がした。


       ◇


「わしが来た」


 ヴェンデリン老侯爵である。


 七十四のお歳で杖を突き、抱えているのは畳んだ上衣が一着。


「あの晩の上衣だ。洗っておらん。妻に三度捨てられかけたが、守り抜いた」


「……三度」


「二度目がいちばん危なかった」


 老侯爵は卓の上へ上衣を広げて、肩のあたりを指した。


 濃い青の毛織りで、袖の縁が擦れて薄くなっている。


 その肩に、白い塗りが横に一筋。


 指の幅で四本。押した形のまま、織り目に食い込んで乾いている。


「柱の塗りだ。この娘の手袋に付いていた分が、わしの肩へ移った」


 わたくしは、あの晩の手袋を思い出した。指の先が白く汚れていて、あれを見たとき、押したのだと自分で確かめている。


 あの塗りが二十三日を跨いで、毛織りの織り目の中でまだ乾いている。


「……肩に、一筋」


「横向きだ」老侯爵は、それから自分の脇の下を杖の先で指した。「そこの二人は、肩へは触れておらんと言うたな? 脇と背だけだと」


「……はい」


「では、この肩の白いのは何だ?」


 老侯爵は上衣を裏返し、脇の下と背の側をこちらへ向けた。


「こちらには塗りが一つも付いておらん。触れておらんと言うた場所にだけ、手の形で付いておるのだ」


 従僕の一人が、口を開いて、閉じた。


 老侯爵は、上衣の肩をぱんと叩いた。


「押された。実に見事に押された」


 大広間が、しんとする。


 ぷふっと音がして、わたくしは思わず横を見た。


 公爵様が、口元を片手で押さえていらっしゃる。


「……いえ。埃が、目に」


 埃は、たしかに舞っていた。


       ◇


 記録官様は上衣を両手で受け取り、肩の一筋を光にかざされた。


 それから脇の下の縫い目を指の腹でなぞり、背の中心も確かめられる。


 光を通すために、上衣を持つ手の高さを二度変えられた。


 誰も何も言わない時間が、二十ほど続いた。


「塗りは肩へ横一筋。脇の下と背に、塗りは無し」


 帳へ書き込む音がする。


「証人二名の証言は、この物と合わず。よって、申し立ては退ける」


 従僕の二人が、目を伏せた。


「――押すは、持ち上げるにあたらず」


 わたくしは、膝の上で指を組んでいた。


 組んだ指の力を抜くのを、その日は少し忘れている。


       ◇


 照らしのあと、回廊で公爵様と行き合う。


 東の窓の光が、石の床へ格子の影を落としている。庭の水鉢で、鳥が水を弾く音がした。


「三十日で、五つ壊しました」


 わたくしは指を折って数えた。


「腕木が一つ。ハンカチが二枚。扇が一本。柱が一本」


「数えていました」


 公爵様が、そうおっしゃった。


 それから、こちらを見て――笑われる。


 噛み殺さず、横も向かず、埃のことも言わずに、ただ笑われた。


 わたくしは何も言えなくなり、東の窓の方を見ている。


 この九十日を守り切りたい、と思った。


 橋のためである。冬の川と、間に合わなかった薬の包みと、弟の字のために、わたくしはここへ来ている。


 ――上衣を洗わずに取っておいた人。


 ――先月のうちに、三通の図面を取り寄せていた人。


 ――四枚目の麻を、何も言わずに差し出す人。


 組んでいた指をほどく。手袋の内側が湿っていて、それを袖の裏で押さえた。


 窓の光が、格子の形で床に落ちている。その格子が一つぶんこちらへ寄るあいだ、わたくしはそこに立っていた。


       ◇


 大広間を出るとき、オズヴァルト様と扉ですれ違う。


 あの方は袖の埃を払いながら、たいへん丁寧に会釈をなさった。


「次は、もう少しお静かなものにいたしましょう」


 お静かなもの。


 馬より静かで、柱より静かなもの。それが何種類あるのかを、わたくしはそのとき数えていなかった。


       ◇


 庇の三月、第三十日。一の照らしを行いたり。ただし記す——一の徴の破りにつき申し立てあり、証人二名。両名は「脇の下と背へ手を入れ、肩には触れず」と述べたり。老侯爵ヴェンデリンの上衣は、肩にのみ塗りを残し、脇の下と背には無し。証言と物が合わず、これを退けたり。上衣は洗われておらず、当家にて預かる。主は照らしのあいだ二度、窓の方を向きたり。埃については本日も記さぬ。長は退室に際し、次を「もう少しお静かなもの」と予告せり。

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