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6. 馬には、囁きます

 王都の市は、山より騒がしい。


 鉄の匂いと、魚の匂いと、揚げた粉の匂いが、通りの三歩ごとに入れ替わる。荷車の車輪が石を噛む音。売り声。犬。子ども。壁のように立った人の背中の隙間から、目当ての品だけが色で見える。


 わたくしは、その真ん中を歩いていた。


 絹の裾が、石畳の目に引っかかる。山では裾など気にしなかった。ここでは裾のせいで、歩幅が半分になる。歩幅が半分になると、逃げ道までの数え方も変わってしまう。


 右の斜め前に、灰色の髪の紳士がいる。


「こちらが金物、あちらが青物でございます」


 オズヴァルト様は、たいへん丁寧な方だった。


 声を荒げない。歩く速さもこちらに合わせてくださる。夜会で会釈をなさったときと同じで、こちらの右手を見る癖だけが変わらない。


「ご不便はありませんか? 屋敷の者は、行き届いておりますか?」


「よく、していただいております」


「それは何より。……客人が損なわれると、兄の遺した条が働きますのでね」


 言い方は、心配そのものである。中身は、条文の確認である。


 この方は一度も声を荒げない。荒げないまま、三人が損なわれた四年のあいだ、家門会議の長の席にいた人である。丁寧という言葉の使い道を、わたくしはこの日から少し疑うようになった。


 金物屋の前で、あの方は足を止めた。


「よい鍋がございます。持ってごらんになりますか?」


 ――来た。


 鋳物の鍋である。両手で抱えるほどの大きさで、目方は一斤の何倍にもなる。


 わたくしは、手を出さなかった。


「わたくし、持てませんの」


「おや」


「一斤を超えるものは、持ち上げられませんの。……鍋も、桶も、鎌も」


 鎌と言ってしまってから、少し余計だったと思う。


 村では、鎌は台所の道具である。ここでは、刃物の名を口にするだけで、その人がどこで育ったかが分かってしまうらしい。


 あの方の目が、ほんのわずかに動く。いつもの右手ではなく、こちらの口元を見た目だった。


 それから微笑んで、鍋を店の者へ返される。


「よく覚えておられる」


「毎晩、記録官様が書いていらっしゃいますので」


       ◇


 通りの角を曲がったところで、音の種類が変わった。


 人の声が高くなる。荷車の車の輪ではない、(ひづめ)の音。石を蹴る乾いた連打が、こちらへ近づいてくる。


 荷馬が一頭、鞍もつけずに人垣を割って走ってきた。


 目が白い。耳が寝ている。あれは怒っている馬ではなく、怖がっている馬である。


 その先に、荷車が横向きに止まっていた。


 (ながえ)の下で、三つか四つの子どもが座り込んでいる。落とした林檎を拾おうとして、動けなくなっている。


 人が叫んだ。


 叫んだから、馬はもっと走った。


 エルンストが飛び出す。よい踏み込みだった。よい踏み込みで、半歩、足りない。


 ――一の徴。自ら重き物を持ち上げてはならない。


 子どもを抱き上げれば、それで終わる。九十日も、橋も。


 わたくしは、走らなかった。


 すっと馬の正面へ、静かに入った。


 一気に近づいてくる馬――――。


 止まってはいけない、と身体が言う。逃げろ、と膝が言う。


 去年の秋の畑を思い出した。片耳(かたみみ)の前で足の裏が地面に貼りついたときの、あの重たい感じ。あのとき覚えたことが、たった一つだけある。


 こちらが動くと、向こうも動く。


 ――正面で受けるのは、いちばん力の要る止め方である。


 だから受けない。


 馬はもう近い。獣の息の湿りが顔に当たる。汗と、藁と、鉄の匂いがひとつになって鼻へ来る。


 わたくしは、右の手のひらを馬の鼻面の高さへ上げた。


 そして、息を吹いた。


 馬の鼻へ、短く、ふっと。


 それから低い声で、荒げずに、山で犬に言うのと同じ言い方をした。


「――もどりなさい」


 馬はビクンと震え、急停止。馬の耳が、片方だけ動いた。


 白かった目が、わたくしを見る。


「――よしよし、いい子ね」


 ぶるるるるん!


 景気よく鼻を鳴らす馬――――。


 残ったのは、横向きの荷車である。


 わたくしは轅の端へ肩を当てて、押した。ふんっ。持ち上げない。押した。子どもの座っている場所から、車輪ひとつぶん、外へ逃がす。


 蹄が石を三つ鳴らして、それから馬は首を振り――荷車のあった場所をかすめて通っていく。


       ◇


 市が、静かになった。


 売り声も犬も止まって、蹄の音が遠ざかっていくのだけが聞こえる。


 わたくしは息を吐く。吐いてから、手が震えているのに気づいた。


「……いま、なにが?」


 エルンストが、地面に膝をついた姿勢のまま言った。


 林檎が一つ、彼の膝の横へ転がってきて止まる。


「馬が、帰りましたわ」


「馬が、帰る」


「山では、そういたします」


 人垣の中で、誰かが誰かに囁いているのが聞こえた。


「囁いたぞ。あの方、馬に囁いた」


「辺境の家は、獣と話ができるという話だ」


「血筋だな。血筋だ」


 わたくしの家に、そんな血筋はない。あるのは崖と、猪と、薪の紐である。


 訂正しようと口を開いて、それから閉じた。


 夜会で学んだ。訂正すれば、話はもっと大きくなる。黙っていても大きくなるのだから、せめて手間の少ない方を選ぶ。


 ――力は、要らなかった。


 要ったのは、動かないことだけである。


 林檎を拾って子どもの手へ返しながら、わたくしはそのことを、指の震えと一緒に覚えておくことにした。


       ◇


 人垣がほどけたところに、公爵様が立っていらっしゃる。


 息が上がっていて、走っていらしたのだと分かった。


 あの方はわたくしの前まで来て、口を開き、それから礼を言うのをやめられる。


「……申し訳ありません」


「わたくし、何も」


「間に合っていません。四度目です」


 数えていらっしゃる。


 半歩の余りを、この方は毎回きちんと数えて、そのぶんだけ自分の側へ積んでいる。


「……埃が、目に」


 そう言って横を向かれた。


 人垣の奥に、灰色の髪がある。


 オズヴァルト様は、馬の去った方も、荷車も、子どもも見ていない。轅に肩を当てたわたくしの、肩の高さだけを見ていた。


 目が合うと、あの方は静かに会釈をなさった。


「では、次の照らしで」


       ◇


 庇の三月、第十九日。三つの徴、いずれも守られたり。損ないの兆し、無し。ただし記す——市の通りにて荷馬一頭が走り、客人はその正面に立ちて息を吹き、低き声にて言葉を発したり。声を荒げしにはあたらず。馬は向きを変えて去る。客人は荷車の轅を肩にて押し、車輪一つぶん動かしたり。持ち上げてはおらず。金物屋にて鍋を勧められしが、これを持たず。「持てませんの」と申されたり。人垣にては、血筋の話が三度出たり。


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