5. 守る稽古
中庭に、規則正しい音がしていた。
朝の稽古ではない。日は傾いて、生垣の影が芝の上へ長く倒れている。夕の風に、切られた草と土の匂いが混じっていた。
わたくしは回廊の柱の陰で足を止める。
公爵様が、剣を振っていらっしゃる。
上衣を脱いで、袖をまくって、剣を一本。相手はいない。地面へ引いた線が一本あるだけである。
線の手前で踏み込み、振り、戻り、また踏み込む。それを何度も繰り返していらっしゃった。
刃が空を切る音は、鎌の音に似ている。似ているが、鎌ほど気持ちよくない。鎌は草に当たるところまでが一つの音で、こちらは当たる先がないから、途中で途切れる。
――剣筋は、きれいだった。
振りは真っ直ぐで、戻りも速い。手首が余計に鳴らない。山で鎌を使う者の目から見ても、あれは長く続けてきた人の腕である。
止まるのは、足だけだった。
あの方の左足は、線の手前で必ず半歩だけ余る。
半歩。
――夜会と、同じである。
八日前、折れた柱の下へ伸びた手も、あれと同じ距離で止まった。あの半歩は癖であって、あの晩たまたま遅れたわけではないのだ。
風向きが変わって、生垣の匂いが濃くなる。
生垣の切れ目で、何かが動いた。
若い騎士のエルンストが、こちらへ背を向けて、公爵様と同じ形で剣を振っている。踏み込み、振り、戻り。角度まで揃えて、律儀に真似ている。
――半歩の余りまで、そっくりである。
この家では、癖まで受け継がれるらしい。
わたくしは、動かずにいた。
◇
三十ほど数えたところで、公爵様が手を止められた。
こちらを見て、少し驚いた顔をなさって、それから剣を下ろされる。
「見苦しいものを見せてしまった……」
「いいえ」
「……人に見せる稽古ではありません」
二の徴が、頭の中で読み上げられた。客人は、自ら刃を帯びてはならない。
あの剣は、刃である。だからわたくしは、指一本ぶんも近寄れない。近寄れないぶん、目だけがよく働いてしまう。
わたくしは黙っていようとした。たしかに、そう思ったのである。
けれど口が、先に動いた。
「……その足では、猪も止まりませんわ」
中庭の音が、消えた。
風が生垣を鳴らす音だけが残って、公爵様は剣の先を芝へ置いたまま、こちらを見ていらっしゃる。
わたくしは、しまったと思った。
言うつもりはなかった。言ってよいことでもない。
公爵様はうつむいた。
「……埃が、目に」
たぶん、笑うためではない。
目を伏せ、言葉を探して見つからなかった人が使う逃げ道である。同じ台詞がこんなふうにも使えるのだと、わたくしはこの夕方に知った。
「猪は」と公爵様が口を開かれる。「どうすれば、止まりますか?」
「……止めなくてよいのです」
「止めなくて」
「向きを変えさせれば、それで済みます。正面で受けるのは、いちばん力の要る止め方ですわ」
公爵様は、地面の線を見下ろされた。
それから、その線を靴の先で消して、少し離れたところへ引き直された。半歩ぶん、前へ。
「明日から、ここに引きます」
それだけおっしゃって、剣を鞘へ納め、上衣を取りに行かれる。
わたくしは、何も言えなかった。
◇
夕食の前に、記録官様と廊下ですれ違った。
黒い表紙の帳を胸に抱えて、あの方はいつも同じ歩き方をなさる。
「ハイデマリー様」
「はい」
「一つ、伺ってもよろしいですか? ……わたくしが公爵様に稽古のことを申し上げたのは、徴に触れますか?」
記録官様は足を止め、こちらを二秒ほど見た。
「記すのみです」
「はい」
「わたくしは、判ずる者です。教える者ではございません」
それだけ言って、あの方は行ってしまわれる。
冷たいのではない。あの方の職務は、はじめから助言をしないと決まっている。それでも「記すのみです」の一言のあと、あの方が帳の背をとんと指で叩いていったことを、わたくしは覚えている。
◇
部屋へ戻る途中で、ゲルトルートに出会った。
「中庭を、ご覧になっていましたね?」
「……見物は、いけませんでしょうか?」
「いけません。儚い方は、人の稽古を三十も数えません」
数えていたことまで見られている。
この家の侍女頭は、たぶん屋敷のどこにいても屋敷の全部が見えているのだと思う。
部屋へ戻ってから、しばらく窓辺に座っていた。
王都の夜は、山より明るい。屋根の向こうに灯が点々と並び、その一つずつの下に誰かの卓があるのだと思うと、少し落ち着かなくなる。
――守られたことが、ない。
考えてみると、そうなのである。
父は薪を担ぐ人で、ミヒェルは十二で、母はいない。崖が崩れれば真っ先に走るのはわたくしだった。峠へ薬を取りに行くのも、片耳の前に立ったのも、そうするのが自然だったからで、誰かがわたくしを庇う場面を、わたくしは一度も見ていない。
庇われるというのは、どういう感じなのだろう。
考えようとして、身体のどこにも置き場所が見つからない。籠を背負う場所は分かる。斧を握る手の形も分かる。けれど、誰かの背中の後ろに立つときの膝の角度を、わたくしは教わっていない。
ゲルトルートに訊けば、たぶん角度を教えてくださる。
――そういうものではない気もする。
あの方は、たぶんその逆である。
守ることばかり考えて、三度の九十日で、守れなかった数を三つ増やしてきた。半歩遅れる癖は、その三つの重さで足が鈍っているのだと思う。
――それでも、線を引き直す人だった。
窓の下で、遅い荷車が通っていく。
その音が消えたころ、扉が叩かれて、家令が銀の盆に一通の書状を載せて入ってきた。
「家門会議より、招きでございます」
差出人の名を見るまでもない。
「四日後、王都の市の通りを、ご案内くださるそうでございます」
市の通り。人の多いところである。
菓子は、封をしたまま公爵様の前へ運ばれるようになった。屋敷の中でできることは、たぶんもう減っている。
だから外へ呼ぶのだ、と思った。
わたくしは書状を灯にかざしてみた。紙は上等で、どこにも仕掛けがない。仕掛けは紙ではなく、行き先にある。
「お受けします」と申し上げた。「――逃げ道は、着いてから数えます」
◇
庇の三月、第十五日。三つの徴、いずれも守られたり。損ないの兆し、無し。ただし記す——本日夕、客人は中庭にて主の稽古を見物せしのみにて、剣に近寄らず。ただし助言一件あり。主はこれを受け、地面の線を半歩前へ引き直したり。稽古の線を引き直すは、当家においてこの十年で初めてと聞く。なお客人より徴の解釈につき問いを受けしが、答えず。記すのみである。




