4. 速度は全てを解決する
公爵邸の菓子の間は、西に窓が二つある。
午後の光が卓布の白を照らして、部屋そのものが砂糖菓子の色をしている。焼き菓子の匂いに、婦人方の香が混じっていた。
卓につくのは四人。ヴェンデリン老侯爵と、夜会の令嬢が二人、それにわたくし。壁際にゲルトルートと若い騎士エルンスト。窓寄りの椅子に、記録官ハイデマリー様。公爵様は扉の近くに立ち、卓には加わらずにいらっしゃる。
「作法を二つ」
部屋へ入る前に、ゲルトルートはそう言った。
「客人は、供された品に最初に手をつけます。主家への礼です」
「もう一つは?」
「取った物は、残せません」
この家の作法には、逃げ道がない。
「それから、外から届いた食べ物は厨房で必ず検めます。この家の決まりでございます」
◇
卓が三度回ったころ、長い口上が入ってきた。
「家門会議より、ご客人へご挨拶の品でございます。ご滞在の三月が、つつがなく、実り多く、御家の名にふさわしきものとなりますよう」
オズヴァルト様の家令で、ハルトムートと名乗る。口上が長い。言い終えるまでに菓子皿を卓の中央へ置き、壁際へ下がって控えた。
白い皿に、杏の砂糖煮を薄い生地で包んだものが六つ並んでいる。
湯気は立っていない。代わりに、匂いが立った。
――杏の、種を割った匂い。
わたくしの指が、卓布の上で止まった。
銀葉である。
北の山に生える草で、粉にすると杏の種を割ったときの匂いが残る。濃く煎じれば半日から一日、人は正気を失う。薄めれば家畜の虫下しで、村では春に、桶の水で薄めたそれを牛と山羊に飲ませる。
桶を混ぜるのは、十の子どもの仕事だった。
わたくしは八年、あの匂いを嗅いでいる。
――損ないの二箇条。毒により半日以上正気を失うこと。
それが成れば、九十日はここで終わる。橋も終わる。
厨房で検めたはずである。検めて、通ったのだ。
◇
さて、どうするか。
匂いに気づいたと知られてはいけない。皿へ鼻を近づければ知られる。
指を差してもいけない。客が主家の贈り物を指すのは無礼で、名を汚す種になる。三家の招きが消えれば三箇条だ。
声を張ってもいけない。三の徴。
皿を持ち上げてもいけない。一の徴。六つ載った皿は一斤を超える。
そして――最初に手をつけなければならない。取れば、残せない。
五つの縄が同時に、わたくしの手足へ掛かっている。
山では、こういうときは速度で対応する。限界を超える速度を出せば人間の目などごまかせるのである。
わたくしは銀の匙を取った。
「まあ、美しい」
声はいつもの高さで出した。低くも高くもない、儚い方の声だ。
匙を皿の方へ伸ばして杏を取り――口を開ける。
視線がその杏に集中した直後――。
ヒュンとかすかに風切り音が響き、匙が霞んだ。
何事もなかったようにもぐもぐと口を動かし、にっこりとほほ笑むわたくし。
窓の向こうでポスっと音がしたが、誰もその音に気が付いていないようである。
「さて、わたくしだけでは申し訳のうございます。どうぞ」
ハルトムートの手が、腰のところで止まった。
止まったまま、動かない。
やがて、彼は口を開いた。
「お、お加減の方はいかがですか?」
額には汗がにじんでいる。
「あら、何の加減かしら? 美味しゅうございましたわ。ふふっ」
「……わたくしは、使いの者でございますので」
「では、どなたか?」
誰も、手を出さなかった。
五つの菓子が、光の中で砂糖の粉をきらきらさせている。使いの者が敬遠する菓子ほど恐ろしいものはない。
「――わたくしが、いただきます」
立ち上がったのはゲルトルートである。
その声に力はない。味見をする人の声ではなく、倒れる覚悟をした人の低い声だ。
この方は前の三人にも作法を教えている。何が起きたかを、いちばん近くで見た人だ。
わたくしは扇を開き、その手の甲へそっと乗せる。扇の骨が、彼女の指の上で一度だけ鳴った。
「侍女頭は、客人ではございませんもの」
ゲルトルートは腰を下ろし、何も言わない。
壁際で、エルンストが半歩下がった。
「私、甘い物は」
誰も訊いていない。
令嬢のひとりが扇の陰で囁いた。
「……人を退かせるのに、勧めるのね」
「まあ。恐ろしい作法」
そういう作法は存在しない。わたくしが今、この卓で作った。
◇
この部屋で〈毒〉という言葉を口にした者は、ひとりもいない。
それでも、提供した側の緊張を見るだけで、全員が「あれには手を出さぬがよい」と分かってしまった。分かったが、誰も理由は言えない。
手袋の内側で、汗が滑っている。
十の春、桶を混ぜた手の匂いは三日ほど落ちない。洗っても袖にも髪にも残り、母のいない台所で、その匂いのままパンを食べる。それが春だと思っていた。
あんな匂いを覚えていることに意味があるとは、考えたこともない。
十八になって、初めて役に立つ。
公爵様が皿を引き取りにいらっしゃる。両手で持ち上げ、窓の方へ運びながら、こちらを見ずに口を開かれた。
「厨房で検めさせました。……毒見の者は、一つを四つに割って一片を食べたそうです」
一片。一つを四つに割った、その一つ。
――四分の一では出ない量。けれど一つを丸ごと食べれば、半日は起きられない量。
作法は「最初に手をつける」で、「取った物は残せない」。一つ取って食べるのが正しい客人である。正しい客人が、そのまま倒れる勘定になっている。
「これは、記録に残します」
その声が、少し硬かった。
「以後、家門会議からの品は、封をしたままわたしの前へ運ばせます」
あの方はこの瞬間まで、皿に何が入っているかをご存じなかった。検めさせたうえで、ご存じないまま、わたくしの前へ置かれるのを見ていらしたのである。
◇
庇の三月、第十一日。三つの徴、いずれも守られたり。損ないの兆し、無し。ただし記す——家門会議より届きし菓子皿一つ、提供側に異様な緊張あり。当家の主はこれを引き取り、記録を求めたり。厨房の検めは経ていると聞く。なお、客人が口を付ける瞬間、なぜか消えたようにも見えたが、見間違いだと思われる。




