3. 柱は、三本まで
ヴィルヘルミーネ侯爵夫人の館は、蝋の匂いがした。
燭台の数を数えようとして、途中でやめた。百を超えたところで、数えることに意味がなくなる。楽の音が天井の高いところで薄く回り、絹の擦れる音が床の近くを流れている。壁際には、白く塗られた飾り柱が等間隔に並んでいた。
わたくしの絹は、公爵家から借りたものである。裾が重い。重いというより、足に絡む。斜面を上る歩き方をすると、それだけで裾が鳴る。
「儚さは、姿勢です」
背後で、ゲルトルートが息だけの声で言った。
「はい」
「顎を引きすぎないように。引くと、身構えて見えます」
身構えて見える、という言い方が、うまいと思った。この部屋では、身構えることそのものは誰も咎めない。咎められるのは、身構えているのが見えることである。
山で見られる目は、たいてい一つか二つだった。獣の目は、こちらの手と足しか見ていない。
この大広間の目は、百ある。しかもそのどれもが、わたくしの手と足を見ていない。裾の縫い目と、指の関節と、育ちを見ている。
わたくしは顎を戻す。戻したついでに、大広間の出口を三つ確認していた。
――癖である。山では、逃げ道を数えてから前へ出る。
「まあ、あなたが」
声の主は、扇を半分だけ開いて近づいてきた。
侯爵夫人は、蝋の下でも顔色が変わらない化粧をしていらっしゃる。目だけが、こちらの指の先から裾の縫い目まで、ゆっくり往復した。
「辺境の。……熊を、素手で殴られたとうかがいましたわ」
殴っておりません。
「なんでも、鼻面を一発で」
鼻面には、触れておりません。
「まあ、恐ろしい」と夫人はおっしゃった。「その手で、公爵家のご客人ですものねえ」
周りの扇が、いっせいに動いた。
――訂正しよう。
声を荒げてはならないだけで、静かに申し上げるのは禁じられていない。わたくしはゲルトルートに教わった高さの声を、そのまま使った。
「殴ってはおりません」
「まあ」
「あのとき、動かなかっただけでございます」
夫人の扇が、途中で止まる。
ざわ、と近くの令嬢たちが囁き合った。
「……動かずに、熊を追い返したと仰るの?」
「まあ。それは、殴るより恐ろしいことではなくて?」
「熊の前で、動かないのですって。……わたくし、猫の前でも動けませんわ」
訂正が、誤解を一段濃くした。
本当のことを申し上げると、この場では、本当より大きなものが出来上がるらしい。
◇
半刻ののち、わたくしは壁際を歩いていた。
人の少ない側を選んだつもりだった。飾り柱の影を伝っていけば、誰の目にも入らずに向こうの扉まで行ける。
その柱の三本目のところで、足首に何かが当たった。
絹の裾の下で、誰かの靴の先が横に出ている。
――ああ、これは。
この作法は、山でも同じである。猪は正面から来ない。斜面の上の側から、足を狙って来る。
教練の一行が、頭の中で読み上げられた。
――よろめくときは一歩半。手は、添えるだけ。一の徴。自ら重き物を持ち上げてはなりません。
持ち上げない。持ち上げなければよいのである。
わたくしは倒れかける身体を一歩半で止め、右手を飾り柱へ伸ばした。
添えるだけ。添えるだけである。
指の腹だけを、白い塗りの上へ置く。塗りは冷たくて、指紋の谷に少しだけ食い込んでくる。肘は曲げたまま。肩は下げたまま。体重は左の足の裏に残しておいて、右手には預けない。預けないと決めているのに、傾いた身体はどうしても支えを探しにいく。
息を、細く。
――このくらい。このくらいなら、卵も割れない。
乾いた音が、天井の高いところまで届いた。
飾り柱が、根元から傾いた。
大広間の音が、一斉に消える。
ぷふっと公爵様が噴き出して――。
「……ほ、埃が、目に」
柱の向こう側で、公爵様が片手で口を覆っていらっしゃった。
その目が、次の瞬間に見開かれる。
――危ない!
傾いた柱の落ちる先に、老いた紳士が一人、椅子から立ち上がろうとしていた。
公爵様の手が伸びる。速い。けれど、遠い。半歩ぶん、遠い。
わたくしは、考えていない。考えるより先に、老紳士の肩へ手のひらを当てて、横へ、押した。ふんっ――――。
椅子ごと横へ転がっていく老紳士。その一拍あとに、老紳士がいた場所へ、柱が落ちた。
ズン! と、埃が上がる――――。
誰も声を出さない。
わたくしは自分の右手を見た。手袋の指の先が、白い塗りで汚れている。
――押した。持ち上げてはいない。
そう思ってから、少し遅れて、膝が震えた。
◇
「見ろ。ここだ」
最初に口を開いたのは、転がった当の老紳士である。
ヴェンデリン老侯爵は、絨毯の上で柱の折れ口を指していた。断面の内側が、細かい孔でびっしり埋まっている。
「虫だ。中身がない。この娘は、これを見抜いたのだ」
見抜いておりません。
「一瞥で。一瞥で見抜いて、わしを押したのだ」
押したのは、事実である。
「命の恩人だ。実に見事に押された。ありがたい」
老侯爵が三度そう繰り返すあいだに、大広間の空気が入れ替わっていくのが分かった。恐ろしい娘から、底の知れない娘へ。
誤解の中身が変わっただけで、誤解の量は減っていない。
公爵様が近くへ来て、何も言わずにわたくしの横に立たれた。袖が触れそうな距離で、触れないところに止まっている。
半歩。あの半歩を、この方は今、数えていらっしゃるのだと思った。
間に合わなかった人の手つきを、わたくしは知っている。十四の冬、峠から戻った父は、戸口で薬の包みを握ったまま動かなかった。あのときの手の形と、さっきの公爵様の手の形が、同じである。
だから、何も言わずに立っているのだと思う。言えることが、たぶんこの方にも一つもない。
人垣の向こうで、灰色の髪の紳士が、こちらへ静かに会釈をした。
――家門会議の長、オズヴァルト様。
あの方の目は、折れた柱を一度も見ていない。わたくしの右手だけを見ていた。
◇
庇の三月、第七日。三つの徴、いずれも守られたり。損ないの兆し、無し。ただし記す——侯爵邸の飾り柱一本、根元より折れたり。折れ口に虫の孔あり。同所にて、ヴェンデリン老侯爵は横へ移動せしめられ、無傷である。柱の重量は一斤を大きく超えるが、客人はこれに指を置きしのみにて、持ち上げてはおらず。老侯爵についても、押しただけである。押すは持ち上げるにあたらず。当夜、客人の発話は九度。うち噂に関わるものは、ゼロ。声を荒げし場面も、無し。




