表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/9

3. 柱は、三本まで

 ヴィルヘルミーネ侯爵夫人の館は、蝋の匂いがした。


 燭台の数を数えようとして、途中でやめた。百を超えたところで、数えることに意味がなくなる。楽の音が天井の高いところで薄く回り、絹の擦れる音が床の近くを流れている。壁際には、白く塗られた飾り柱が等間隔に並んでいた。


 わたくしの絹は、公爵家から借りたものである。裾が重い。重いというより、足に絡む。斜面を上る歩き方をすると、それだけで裾が鳴る。


「儚さは、姿勢です」


 背後で、ゲルトルートが息だけの声で言った。


「はい」


「顎を引きすぎないように。引くと、身構えて見えます」


 身構えて見える、という言い方が、うまいと思った。この部屋では、身構えることそのものは誰も咎めない。咎められるのは、身構えているのが見えることである。


 山で見られる目は、たいてい一つか二つだった。獣の目は、こちらの手と足しか見ていない。


 この大広間の目は、百ある。しかもそのどれもが、わたくしの手と足を見ていない。裾の縫い目と、指の関節と、育ちを見ている。


 わたくしは顎を戻す。戻したついでに、大広間の出口を三つ確認していた。


 ――癖である。山では、逃げ道を数えてから前へ出る。


「まあ、あなたが」


 声の主は、扇を半分だけ開いて近づいてきた。


 侯爵夫人は、蝋の下でも顔色が変わらない化粧をしていらっしゃる。目だけが、こちらの指の先から裾の縫い目まで、ゆっくり往復した。


「辺境の。……熊を、素手で殴られたとうかがいましたわ」


 殴っておりません。


「なんでも、鼻面を一発で」


 鼻面には、触れておりません。


「まあ、恐ろしい」と夫人はおっしゃった。「その手で、公爵家のご客人ですものねえ」


 周りの扇が、いっせいに動いた。


 ――訂正しよう。


 声を荒げてはならないだけで、静かに申し上げるのは禁じられていない。わたくしはゲルトルートに教わった高さの声を、そのまま使った。


「殴ってはおりません」


「まあ」


「あのとき、動かなかっただけでございます」


 夫人の扇が、途中で止まる。


 ざわ、と近くの令嬢たちが囁き合った。


「……動かずに、熊を追い返したと仰るの?」


「まあ。それは、殴るより恐ろしいことではなくて?」


「熊の前で、動かないのですって。……わたくし、猫の前でも動けませんわ」


 訂正が、誤解を一段濃くした。


 本当のことを申し上げると、この場では、本当より大きなものが出来上がるらしい。


       ◇


 半刻ののち、わたくしは壁際を歩いていた。


 人の少ない側を選んだつもりだった。飾り柱の影を伝っていけば、誰の目にも入らずに向こうの扉まで行ける。


 その柱の三本目のところで、足首に何かが当たった。


 絹の裾の下で、誰かの靴の先が横に出ている。


 ――ああ、これは。


 この作法は、山でも同じである。猪は正面から来ない。斜面の上の側から、足を狙って来る。


 教練の一行が、頭の中で読み上げられた。


 ――よろめくときは一歩半。手は、添えるだけ。一の徴。自ら重き物を持ち上げてはなりません。


 持ち上げない。持ち上げなければよいのである。


 わたくしは倒れかける身体を一歩半で止め、右手を飾り柱へ伸ばした。


 添えるだけ。添えるだけである。


 指の腹だけを、白い塗りの上へ置く。塗りは冷たくて、指紋の谷に少しだけ食い込んでくる。肘は曲げたまま。肩は下げたまま。体重は左の足の裏に残しておいて、右手には預けない。預けないと決めているのに、傾いた身体はどうしても支えを探しにいく。


 息を、細く。


 ――このくらい。このくらいなら、卵も割れない。


 乾いた音が、天井の高いところまで届いた。


 飾り柱が、根元から傾いた。


 大広間の音が、一斉に消える。


 ぷふっと公爵様が噴き出して――。


「……ほ、埃が、目に」


 柱の向こう側で、公爵様が片手で口を覆っていらっしゃった。


 その目が、次の瞬間に見開かれる。


 ――危ない!


 傾いた柱の落ちる先に、老いた紳士が一人、椅子から立ち上がろうとしていた。


 公爵様の手が伸びる。速い。けれど、遠い。半歩ぶん、遠い。


 わたくしは、考えていない。考えるより先に、老紳士の肩へ手のひらを当てて、横へ、押した。ふんっ――――。


 椅子ごと横へ転がっていく老紳士。その一拍あとに、老紳士がいた場所へ、柱が落ちた。


 ズン! と、埃が上がる――――。


 誰も声を出さない。


 わたくしは自分の右手を見た。手袋の指の先が、白い塗りで汚れている。


 ――押した。持ち上げてはいない。


 そう思ってから、少し遅れて、膝が震えた。


       ◇


「見ろ。ここだ」


 最初に口を開いたのは、転がった当の老紳士である。


 ヴェンデリン老侯爵は、絨毯の上で柱の折れ口を指していた。断面の内側が、細かい孔でびっしり埋まっている。


「虫だ。中身がない。この娘は、これを見抜いたのだ」


 見抜いておりません。


「一瞥で。一瞥で見抜いて、わしを押したのだ」


 押したのは、事実である。


「命の恩人だ。実に見事に押された。ありがたい」


 老侯爵が三度そう繰り返すあいだに、大広間の空気が入れ替わっていくのが分かった。恐ろしい娘から、底の知れない娘へ。


 誤解の中身が変わっただけで、誤解の量は減っていない。


 公爵様が近くへ来て、何も言わずにわたくしの横に立たれた。袖が触れそうな距離で、触れないところに止まっている。


 半歩。あの半歩を、この方は今、数えていらっしゃるのだと思った。


 間に合わなかった人の手つきを、わたくしは知っている。十四の冬、峠から戻った父は、戸口で薬の包みを握ったまま動かなかった。あのときの手の形と、さっきの公爵様の手の形が、同じである。


 だから、何も言わずに立っているのだと思う。言えることが、たぶんこの方にも一つもない。


 人垣の向こうで、灰色の髪の紳士が、こちらへ静かに会釈をした。


 ――家門会議の長、オズヴァルト様。


 あの方の目は、折れた柱を一度も見ていない。わたくしの右手だけを見ていた。


       ◇


 庇の三月、第七日。三つの徴、いずれも守られたり。損ないの兆し、無し。ただし記す——侯爵邸の飾り柱一本、根元より折れたり。折れ口に虫の孔あり。同所にて、ヴェンデリン老侯爵は横へ移動せしめられ、無傷である。柱の重量は一斤を大きく超えるが、客人はこれに指を置きしのみにて、持ち上げてはおらず。老侯爵についても、押しただけである。押すは持ち上げるにあたらず。当夜、客人の発話は九度。うち噂に関わるものは、ゼロ。声を荒げし場面も、無し。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ