2. よろめき方の稽古
儚さの教練は、東向きの小部屋で行われた。
卓が一つ、椅子が二つ、姿見が一枚。それだけの部屋である。窓を開けると庭の芝を刈る音が入ってきて、朝のうちは草の匂いが濃い。
ゲルトルートが、卓の上へ三つの物を並べる。白い麻のハンカチ、象牙の扇、それと水を張った浅い鉢。
「まず、よろめき方から」
「……よろめき方に、型がございますの?」
「三歩よろめく方は、丈夫な方です」
わたくしは黙った。
「儚い方は、一歩半でよろめきます。あとの半歩は、膝から先に落ちるためのものです」
彼女が一度だけ実演してくださった。首がわずかに傾いで、肩が落ちて、それだけで部屋の光まで弱くなったように見える。
わたくしも真似た。
真似たつもりだった。
「……三歩でございましたか?」
「四歩です」
「四……」
「最後の一歩は、あなたが姿見を押した分です」
姿見は、壁から指一本ぶん浮いていた。
「もう一度」
もう一度やって、こんどは三歩に収まった。膝から落ちるところが、どうしても足の裏から先に来る。斜面を上る癖である。踏み出す前に、指の付け根で地面を掴んでしまう。
「歩き方も見ます。衣擦れの音を、立てないように」
「音を、立てない?」
「儚い方は、廊下を歩いても板が鳴りません」
板は、鳴った。
三歩で二回鳴って、四歩目で長く鳴いた。ゲルトルートは鳴った箇所を順に見て、それからわたくしの足首へ目を落とし、最後に姿勢を見る。
「儚さは、姿勢です」
「……姿勢」
「重さは隠せません。隠せるのは、重さの置き方です」
わたくしは、自分の身体が邪魔だと思った。
村では、そんなことは一度も考えなかった。籠を二つ担げること、崖を四度上れること、それは誇りに近いものである。年寄りが薬を待っているとき、村でいちばん速く峠を回れるのはわたくしである。
その同じ身体が、この部屋では、隠さなければならないものになる。
「それから、『わたし』は使いません」
「わたし……わたくし、ですね?」
「わたくし、です。辺境では通ります。王都では、育ちが先に聞かれます」
背骨を立てたまま、彼女は帳を開かずに次を読み上げた。覚えていらっしゃるのだと思う。
「損ないの四箇条。一、傷により七日続けて臥せること。二、毒により半日以上正気を失うこと。三、名を汚され、三家以上の招きを取り消されること。四、屋根の下から三日以上欠けること」
「……そのどれか一つでも成れば」
「験は、そこで終わります」
毒。悪評。階段。
昨日うかがった三つが四箇条のどこに当たるのかは、数えるまでもなかった。前の三人は、この四行のどこかへ、一人ずつ入れられていったのである。
「では、泣いていただきます」
「わたくし、あまり泣きませんが?」
「泣かなくて構いません。泣いた形だけを作ります」
鉢の水を指の先につけて、目の下へ運ぶ。それを本物に見せるのが作法だという。
「涙は、拭くのではありません。触れるのです」
わたくしはハンカチを受け取った。麻の薄い、四つ折りの布である。
指で挟む。力を抜く。抜きすぎれば落ちるので、少しだけ持つ。少しだけ。
――触れるというのは、どのくらいの力なのだろう。
息を止めた。止めたまま、そっと、ほんとうにそっと、頬へ布を寄せる。
麻が、裂けた。
二枚目も、同じところで裂けた。
「三枚目です」
ゲルトルートの声に、驚きはひとつも混じっていない。
三枚目は裂けなかった。代わりに、扇が開く前にパキッと骨を鳴らす。
「……申し訳ございません」
「……象牙は、替えがございます」
「あの、替えは何本ほど?」
「七本です」
七本。七本というのは、この家がわたくしをどう見積もったかという数である。
「では、お辞儀を」
卓に手を添えて、腰から折る。添えるだけ。添えるだけである。
卓が、静かに滑った。
「……卓が、動きましたが?」
「あなたが動かしたのです」
「添えただけでございます」
「あなたの『添える』は、村で塀を直すときの手だと思います」
当たっている。塀は、それで直る。
「最後に、気絶の作法を」
「気絶にも、作法が?」
「倒れる向きです。人のいる方へ倒れてください。石の方へ倒れると、七日臥せます」
――損ないの一箇条である。
この家では、倒れる向きまで条文で決まっている。
◇
午後になると、庭の鋏の音が止まった。小部屋の壁に、窓枠の影が斜めに伸びてくる。刈られた草の匂いが、日に温められて甘くなっていた。
その匂いの中で、手袋を替えるようにと言われる。
わたくしは背を向けて替える。内側が湿っているのを見られたくなかった。
手のひらには、薪を背負う紐の跡が二本、横に走っている。十のころから消えない。指の付け根の皮は厚く、爪を立てても自分では痛くない。
この手を見られた日に、九十日は終わる。
「手袋はずっとつけてるということでしょうか?」
ゲルトルートは姿見の埃を払いながら、こちらを見ずに答えた。
「手は、いちばん嘘がつけないところですので」
わたくしは静かに目を閉じ、金貨二百枚、金貨二百枚と念仏のように唱えた。
◇
夕方、廊下で足音が止まった。
扉の前で、三つ数えるあいだ止まっている。それから遠ざかっていく。誰なのかは、履物の音の重さで分かってしまった。
ゲルトルートは顔も上げず、裂けた麻を畳んでいる。
「四日後、初めての夜会です」
「どちらの、お館で?」
「ヴィルヘルミーネ侯爵夫人。……あの方は、面白い話を三日で王都の端まで届けます」
「面白い話とは?」
「たとえば、熊を殴った娘の話です」
わたくしは、殴っておりません。
けれど、その話が三日で王都の端まで届いてしまうのなら、わたくしがここで訂正して回ることは、たぶん一度もできない。
三の徴が、それを禁じている。声を荒げてはならないというのは、大きな声で本当のことを言ってはならない、という意味でもあるのだと、この日、初めて分かった。
◇
庇の三月、第三日。三つの徴、いずれも守られたり。損ないの兆し、無し。ただし記す——教練につき、当家の麻のハンカチ二枚と象牙の扇一本を失う。侍女頭は替えを七本用意せしと聞く。客人は倒れる向きを問われ、人のいる方と答えたり。倒れる稽古そのものは、行われず。倒される側の懸念があったものと見るのが順当であろう。なお姿見一枚、壁より指一本ぶん動きたり。壁の側に傷は無し。




