1. はかなさの作法、三つ
「三月のあいだ、儚くて無力な令嬢を演じていただきたい」
王都の公爵邸、南向きの応接である。硝子窓が四つ並び、光が寄木の隅にまで届いている。壁には起ち上がった熊の紋。金糸の熊は、百年ばかり前足を上げたままである。
その紋の下で、バーレンシュタイン公爵ライナルト様は、たいへん静かにそうおっしゃった。
わたくしは、しばらく黙っていた。
儚い。無力。――辺境ヴァルトナー男爵領で十八年、その二つを自分の側へ寄せて考えたことは一度もない。
わたくしの領地には、崖と猪と熊しかない。父の稼ぎは炭と薪で、十のころから背負い籠で斜面を上下している。去年の秋には片耳が畑へ出た。村ではそれ以来、わたくしを「素手で熊を追い返した娘」と呼ぶ。
――正確に申せば、殴ってはいない。あのとき、わたくしは動かなかっただけである。
「公爵様」
「はい」
「わたくし、素手で熊を追い返す女ですので」
言ってしまってから、しくじったと思う。断りの文句としては強すぎた。
けれど公爵様は、まばたきを一つなさっただけである。
「存じています。だからお呼びしました」
窓の外で、水鉢から鳥が飛び立つ音がした。
「順に申します。父の遺言に、こうあります」
卓の上へ、細い巻紙が置かれる。
「我が子が家門の印を継ぐは、己より弱き者ひとりを己の屋根の下に三月置き、これを損なわずして返し得たるときに限る」
「……三月、でございますか?」
「九十日です。春の庇入りの儀から、夏至の返しの儀まで。三十日ごとに記録官が照らします。験は四度で終わり、受けずに一年を過ごせば、その一度を失ったものと見なされる。――今回が、四度目です」
つまり、あとが無い。
「成らねば、印は家門会議へ移ります。長は、わたしの叔父です」
ここで公爵様は、一度言葉を置かれる。置き方が、慣れていらっしゃるようだった。
「三度、客人が損なわれました。毒、悪評、階段。……わたしは叔父を疑っております。証はまだありません」
毒。悪評。階段。
三つ並べて聞かされると、人がひとりずつ壊れていく音のようである。
「ですから、危ないのです」と公爵様はおっしゃった。「お断りになって構いません。馬車は待たせてあります」
「その前に、儚いというのは、何をすればよろしいのでしょう?」
「何もしないことです」
「……何も」
「弱き者である証の立て方が、遺言の付記に三つ書いてございます」
公爵様は巻紙の下の方へ指を移された。
「一の徴。自ら重き物を持ち上げぬこと。一斤を超える物を、自らの力で持ち上げてはならぬ」
「二の徴。自ら刃を帯びぬこと」
「三の徴。自ら声を荒げぬこと」
読み終えて、公爵様はこちらを見た。
「押すこと、引くこと、蹴ることは、持ち上げるにあたりません。囁くのも、声を荒げたことにはなりません。……この三つを九十日、破らずにいられますか?」
鎌も鉈も持たず、薪も背負わず、村の犬を呼ぶときの声も出さない。九十日。
できる。……できるはずである。
わたくしは懐へ手を当てた。
父の手紙が入っている。字が大きく、行が三つしかない。
――橋は要る。だがおまえも要る。
去年の雪で、村の橋が落ちた。冬に川を渡れない土地では、薬が間に合わない。それがどういう意味かを、わたくしは十四の冬に見てしまっている。
「報酬を、お伺いしてもよろしいですか?」
「金貨二百枚」
二百枚。ヴァルトナー男爵領の一年の実入りは、十五枚である。
わたくしは膝の上で指を組み、たいへん儚く見えるであろう角度で首を傾げた。
「三つとも、承知いたしました。お受けいたします」
「――お考えになる時間を、差し上げたのですが」
「崖では、迷うと落ちますので」
公爵様が、また横を向かれた。
扉が開いて、背の高い女が入ってくる。五十は越えていらっしゃるだろうに、背骨がまっすぐで、歩いても衣擦れの音がしない。
「侍女頭のゲルトルートです」
「アガタ・ヴァルトナーと申します。お世話になり――」
立ち上がって手を差し出すと、彼女はその手を見て、静かに首を振った。
「儚さは、姿勢です」
「はい」
「握手は、なさいません。爪の先まで力を抜いて、指は垂らしておくものです」
◇
庇入りの儀は、その日の午後に行われた。
大広間の中央に卓が一つ。高い窓から落ちる光の帯に、埃がゆっくり回っている。蝋と、乾いた紙の匂いがした。
王室記録官ハイデマリー様が、黒い表紙の帳を開いて立っていらっしゃる。声に情がなく、湯を注ぐような読み方をなさる。
付記の三行を読み上げられ、わたくしはそれを一つずつ復唱した。
「客人は、椅子へ」
腕木に彫りのある、背の高い椅子だった。指を置くところが波の形にへこんでいる。
浅く腰を下ろす。膝を寄せる。背はあずけない。爪の先まで力を抜く。抜く。抜こうとする。
――抜こうとすると、どこかに入る。
息を細く吐いたとき、右手の下で乾いた音がした。
腕木が、折れた。
大広間が、しんとする。
ぷふっと公爵様が噴き出して――。
「……ほ、埃が、目に」
公爵様が片手で口を押さえて横を向いていらっしゃる。肩が揺れていた。
記録官様は顔色を変えず、帳へ何かを書き足される。
「主は、誓いを」
「損なわずして、返します」
低い声だった。誓いというより、ご自分に言い聞かせる声である。
わたくしは折れた腕木を膝へ拾い上げ――ようとして、止めた。一斤を超えている。
誰も動かない。動けないのだと思う。
白髪の家令が、音もなく進み出た。
「家令のコルネリウスでございます」
「……ご迷惑を、おかけしました」
「手順に、いたしましょう」
そう言って、彼は同じ形の椅子を運ばせ、折れた方を隅へ寄せ、何も起きなかったような顔で下がっていく。九十日をこの家で過ごすのだと、そのとき実感が来た。
「では明後日から、儚さの教練を始めます」
ゲルトルートが腕木を片手でつまみ上げ、それから、わたくしの手袋をご覧になった。
「……それは、外さないように」
◇
庇の三月、第一日。四度目の客人、ヴァルトナー男爵家アガタ、屋根の下へ入る。三つの徴、いずれも守られたり。損ないの兆し、無し。ただし記す——大広間の椅子、腕木一つを失う。客人はこれに手を置きしのみにて、持ち上げてはおらず。当家の椅子は樫にて、七年前のものである。折れ口に虫の食いは見えず。修繕を要する旨、家令へ伝えたり。なお主は、儀のあいだ二度、窓の方を向きたり。埃については、記さぬ。




