第9話
脱水所の扉を怯えさせないように優しく三回続けてノックをする。
「リル、どうした?入るぞ」
「いいよ」
ゆっくりと扉を開けると、イアンのシャツを着たリルが立って見上げた。肩には風呂に入る前に渡した大きなタオルがかけられている。髪の毛がびしょびしょで床にぼたぼたと水滴を落としていた。
「髪の毛も自分で洗ったのか。偉いぞ。乾かしてやるからそこに座りな」
籐のスツールを指さすと、リルはイアンに背中を向けるようにしてちょこんと座る。タオルを肩から取り上げた。人の髪、ましてや女子供の髪など乾かしたことはない。腰まで垂れ下がる髪に恐る恐る触れて、纏めて髪先から中心にタオルで優しく叩いたりこすったりして水気をふき取る。水滴が落ちてこないのを確認したら、頭頂部にタオルをかぶせてマッサージするように手を細かく動かした。力加減が難しく、大きく揺らすとリルは小さく唸り声を漏らす。嫌がるそぶりはなかった。あらかた乾いたら、ブラシで髪を梳かしながら続けてタオルを使ったり、直接指で触れたりして髪に残った水分を払っていく。慣れていないこともあり、自分の髪の毛を乾かすよりもずっと時間がかかる。そんな億劫さと子供の柔らかな髪に触れる心地よさが同時にイアンの指先に伝わった。髪の毛が揺れるたびに室内のライトに照らされてきらきらと輝く。雪のような真っ白な髪の中に、水で滲んだような灰色の髪が交じる。輝きをもっているのはこの灰色の髪だろうか。宝石を細かくちりばめたように髪全体が煌いており、あまりの美しさに心を奪われながらも、人ならざる神々しさのような畏怖の念を覚える。
「イアン?」
リルは振り向いて声をかけた。イアンはあどけない顔が視界に入りはっとする。気づけば触っているばかりで髪を乾かす手が止まっていたと自覚した。
「悪い。もう終わったぞ」
リルは立ち上がって鏡を覗き、自ら柔らかい髪に触れたり、頭を左右に動かして確認した。
「ありがとう」
出来栄えに納得がいったのか、リルははにかんでみせた。初めて見せるささやかな笑顔だった。
「さて、飯にしよう」
リルを連れて一階のリビングへ行くと、丸いテーブルに三人分の食事が並べられていた。普段なら食事の準備なんて碌にしないのに、フォークも三本食器棚から出して弁当の横に置いてあった。二脚しかないはずのテーブルに、下からもってきたスツールを置いてそこにリヒャルトが座って本を読んでいる。
「またせたな」
「ああ」本を閉じて脇に置き背伸びをした。
リルに二脚のうち片方に座らせるが、食事をするには高さが足りずソファーに置いてあるクッションを持ってきた。枕にしたり足を置いたりして経年により薄くなったクッションを置くと丁度よい高さになった。
それぞれ席につくとすぐにフォークを持ったイアンとリヒャルトに対して、リルは胸の前で手を組んで目を閉じる。
「それは、なんだ?」
リヒャルトが訝しんで尋ねる。
「祈りだな。大陸では珍しくない行為だ。ヴィンセントはしていなかったから、母親側の風習なのかもしれないな」
「へえ……」
リヒャルトは興味深く観察していた。リルは祈りを済ますと食事を始めたのにあわせてイアンたちもそうした。
リルは一心不乱に口に運ぶと思えば、よく噛んでいるし食事作法も悪くない。痩せこけているのは、あくまでも暫く食事をしていなかったせいで、あの出来事が起こるまではそれなりにきちんと生活していたのだろうか。
「うまいか?」
「うん」もぐもぐとしきりに口を動かして飲み込んでから返事をする。「おさかな、美味しいよ」
「そりゃ、ジャニーネも喜ぶな」
「ジャニーネ?」
「今朝、でかい男に会っただろう。その人の奥さんだよ。リルにも会いたがっているから、落ち着いたら食事もかねて会いに行こうな」
リルはこくりと頷いた。
食後のコーヒーを所望するリヒャルトのために淹れた。リルには甘めのミルクティを渡す。リヒャルトはそれをすぐに啜って、一息入れてから、ゆっくりとマグカップを置いた。それが話の合図のようにして切り出した。
「腹も落ち着いたしところで、これからのことを話す」
緊張感が漂っている。さっきまで生かすか殺すかと話をしていたから無理はない。ましてやリヒャルトは今でも納得はしていなさそうだった。
「イアンが君を助けた以上、俺がこれ以上反対するつもりはない。しかしここは俺の家だ。条件には従ってもらう。まずは感情の制御を覚えること。あんな風に感情爆発していては、いつか身をを滅ぼしかねない。それはお前自身がよくわかっているはずだ」
リルはぐっと押し黙って頷いた。
「そのためにも暫くはこの家で休養しなさい。外出は俺が許可するまでは禁止する。次にこれはイアンにも関係するが」
「俺?」
「この子の教育をすること。引き取るからにはそれくらいは当然だろう」
「確かにそうだけど……ゲフィングニスにも子供が集まるカレッジみたいなものはあるんだろう?」
「いずれは通わせたいが、力の制御が完璧になるまでは無理だ。社会生活に馴染むにはどうしても時間がかかる。しかしいずれは社会にでることを目的としたい。そのための教養を身に着けてもらう」
「はい……わかりました」
「三つ目は……そうだな、こっちに来て」
リヒャルトは立ち上がって二人と共に地下へ降り、そして未だ片づけられていないガラスの部屋の前へ来た。リルは声を詰まらせて青白い顔をしていた。
「この部屋は特別なガラスで出来た部屋だ。多少の外圧ではびくりともしない。寝起きはここでしてもらう」
「理由はあるのか?」
「寝ている間に力が発動したときのためだ。あとはどうしても制御が出来ないと思ったら、ここに入りなさい」
リヒャルトはリルが怖がっているのを見てしゃがんで目を合わせる。
「おまえが廃工場でどんな目にあっていたのかは、大体想像がつくよ。怖がらせるつもりも傷つけるつもりもない。酷い実験はしないと約束する」
「ほんと、に?」
「ここは俺の家で、イアンの家で、君の家だ。そして家の中は安全だ。いいね」
リヒャルトはリルの頭を撫でた。




