第60話 巨大な穴の主
両開きのドアの前でレオナードは立ち止まりノックをしてから名乗ると、中から「入れ」としゃがれた声がした。レオナードは両方の扉を開けた。しゃがれた声の主は机の前で肘をつき眼鏡をかけて書類に目を通していた。
「ただいま戻りました」
「おお、戻ったか」
書類から目をあげて男は歓声の声を上げる。眼鏡を机に置いて立ち上がると、天井に頭が届きそうなほどで巨木を思わす体だった。リルはひゅっと声なき声を鳴らし、思わずレオナードの後ろへと隠れるように足を引いた。
男は屈強な体をした老年の男だ。一見するとそうは見えないが顔にはしわがあり、灰混じりの髪が蓄えられていたので年を召しているのだとリルは思う。しかし年齢を感じさせないのは屈強な体だろう。鍛え抜かれた筋肉は服の上からでもわかる。また顔や服の隙間から覗く肌には数多の傷が刻まれていた。
「こちらが、ご所望の精霊です」
レオナードは体を横へと反らして隠れたリルを表に出した。リルは腰を抜かしそうな体を支える足に力をいれてみるがうまくいかず足が震えた。男はまじまじと頭のてっぺんからつま先まで見た。そして顔へと視線が戻り凝視する。穴が開きそうなほどの眼力で見るのでリルは居心地が悪い。喜んでいたはずの男の顔が次第に険しくなり顔を歪ませた。
「おい」
低く獣が唸るような声にリルは恐ろしさから心臓が飛び出しそうになる。しかしその声は自身に向けられたわけではなかった。顔はリルに向きながらも視線は傍でひかえていたレオナードにやられていた。
「これは本当に精霊なのか?」
「力を使わせましたので、間違いないかと」
レオナードは怯むことなく淡々と答える。しかし男は納得いかないと言わんばかりに眉間に深くしわを刻んだ。
「貴様、名はなんという」
「……リル、です」
「ファミリーネームは」
リルは首を横に振った。物心がついた頃にはすでにガラスの部屋に閉じ込められていた。名前を呼ばれることはあっても名乗る機会は殆どなかった。母親がいる限り恐らく自分にもファミリーネームはあるのだろうと思ってはいたが、知りたいと望んだことはなかった。
男は下唇を歯で軽く噛みながら低く唸って思案しているようだった。
「それじゃあ……母親の名前は」
「えっと……」
思い出したくない記憶だ。なんとか幼少期の記憶を辿る。当然母親のことはずっと「ママ」と呼んでいた。周りの大人たちはなんと呼んでいただろうと逡巡する。
「あ、えっと確か……ユッタ、です」
男の顔は険しさの中に悲哀にも似た表情を帯び始めた。リルは何が起こったのかわからず目を白黒させる。
「レオ!」
男は怒鳴り声をあげた。レオナードは一瞬怯んだかのようで目を大きく見開く。一体何が起こっているのか理解できていないようだった。
「いや……おまえが知るはずはないか……しかしだなあ……」
男はやり場のない怒りをどうにか自身の中で押さえようとする。
「ディートヘルム様?一体何をそんなに」
「ユッタはワシの娘だ」
レオナードの顔色が初めて大きく変化した。まさかと信じられない様子で目が泳いでいる。ディートヘルムは怒りから全身が戦慄いている。拳を強く握りしめて、やり場のない怒りを自身の中で収めている。
「レオ、おまえは外に出ろ。この娘と二人で話したい」
「……かしこまりました」
レオナードは頭を下げて部屋を出る際にリルを一瞥する。まだ信じられないと怪訝な顔をしていた。扉は静かに閉められると、ディートヘルムは嘆息する。
「リルと言ったな」
「はい」
「そこに座りなさい」
ローテーブルを挟み向かい合わせの革張りのソファーを指し示した。さっきまで書類を読んでいた机へと歩み、ベルをつまみ上げて揺らすと軽やかな音色が響いた。間もなくして扉の片側が開き、使用人と思われる女性がやってきた。ディートヘルムは「茶の準備をしてくれ」と伝えるとにこやかに了承して去る。
「さて、と」リルの向かい側にどかっと座り込み太い腕を汲んでじっとリルを見つめてから「よく似ている」と零す。
ガラス越しに会う母の顔は殆ど思い出せない。自身を移していた目の色も、話していた口の形も記憶の母はぼやけていた。
「それでユッタは今どうしている」
リルは眉を寄せてうつむいた。自分の力で殺したと言えなかった。本当は言うべきなのかもしれない。当初の暴走をリル自身はあまり覚えていない。自身の罪と向き合うには今のリルにはできなかった。
「そうか……」
口を開かないリルを察したのか、ディートヘルムは腕をほどき脱力する。
「馬鹿な娘だ……本当に……」
天井を仰いでぼそりと呟いた。その顔には悲しさよりもどこか怒りのような苦渋が滲んでいた。
「しかし何故あの村にいたんだ」
「どういう意味ですか?あそこにはたまたま身を寄せていただけです」
「たまたま、ねえ……」あごひげをさすりあげながらリルを見下ろす。「精霊伝承が色濃く残っているシュレイム村で精霊石が見つかったから、精霊に関する情報を引き出すか、あわよくば精霊を連れて帰ることをレオナードには命じたんだが……まさか、人工精霊とはな」
「人工精霊のことを知っているんですか?」
「ああ、あの男……おまえの父親から持ちかけられた話だからな。あれから此所に戻ってこないから、てっきりクライスで暮らしているものだと思っていたんだが……それで、父親はどうしている」
「パ……父のことは何も……物心ついた頃には母しかいませんでしたから」
「なに?」
イアンに助けられてから知った父の存在。母が父のことを話してくれることは殆どなかった。自分にも父がいる、それはリルにとってあの過酷な幼少期の中で、唯一の光のような存在だった。記憶の中にはない父を創り出して、此所から連れ出して、助けて、と何度も願った。願いは空しく、終ぞ父は来なかった。助けてくれるどころか、一度すら会いにすら来なかった。幼心は打ち砕かれたが、それでもあそこから連れ出してくれたイアンや、リヒャルトがいる。リルにはそれで十分だった。それも今はもう、手からこぼれ落ちてしまった幸せである。




