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クライス  作者: 桝克人
第二章

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第56話 逃げられない

 リルは充てられた客室のドレッサーの前に座っていた。もっと正確に言えば座らされていた。

 ギルベルタに誘われるまま、屋敷の裏手にある湯場へと連れていかれた。自分で出来ると訴えても、ギルベルタや湯番の手によって念入りに磨き入れられて、シルクのローブを着せられて今に至る。誰かに風呂に入れて貰う経験も、これほどまでに丁寧に磨いたことがなかったので心地よさと恥ずかしさが入り混じっている。鏡に映る自分は体が温まったおかげなのか、恥ずかしさから赤面しているのかわからなかった。


「綺麗な髪ねえ……」


 ギルベルタはうっとりとした声で、リルの髪に少量ずつ手に取りながら、細やかな毛が立った柔らかいブラシで梳いていく。くすぐったさと、まさかレオナードの妻であるギルベルタ本人が湯あみの世話をするとは思わず、体が強張った。


「聞きそびれたんですけど、どうして、奥様?が湯の世話を……?」

「あら、下手だったかしら?」

「め、滅相もない」

「そんな強く動いちゃだめよ」


 思いっきり首を振って否定すると、ギルベルタは優しい指先でリルの頬に触れてまっすぐ鏡に向き合わせた。


「冗談よ。こういうのは得意なの」


 ギルベルタは続けてリルの髪を梳いた。優しい手つきが心地よくリルは段々と力が抜けていく。


「でも湯番もいたのに」


 そういえば湯番とどことなく距離が近いように見えたと思い返す。家主の奥方といちメイドとの距離ではなく、友達のような、家族のような近さを感じた。


「彼女たちも上手よ。でもね髪の手入れだけは私が一番なの」

「奥様も、髪の毛が綺麗、ですもんね」


 リルはたどたどしく言うとギルベルタは目を細めた。


「ありがとう。この技術だけは私の取柄だから嬉しいわ。ただ……」

「ただ?」

「奥様は気恥ずかしいわ。どうぞギルベルタと呼んで頂戴」

「はあ……」

「奥様らしく振舞うのは得意ではないの」


 鏡に映るギルベルタは笑顔のまま目を伏せていた。どうみても偉(・)い(・)人(・)の(・)奥(・)様(・)にしか見えないリルは首をかしげる。


「そうは、見えませんが」

「あら、ちゃんと奥様に見える?」

「奥様らしさが実際どういうものかはわかっているわけではありませんが、豪邸に似合う人だなとは思います」

「そう?それなら良かったわ」

「でも、どうしてですか?そのような心配をなさるなんて……」

「私はね、元々彼女たちと同じで雇われたハウスメイドなのよ。もっといえば奴隷だったわ」


 惨烈な言葉にリルは怖気立ち目玉が小さく揺らいだ。そんな様子を見てギルベルタは小さく笑って鏡の中にいるリルに話しかける。


 十年以上も前のことである。この町の秩序は乱れ、土地は荒れ放題だった。荒くれものが集まる要塞と化しており、力なき者はただただ付き従うしかなかった。ギルベルタを始め、多くの弱き者は物として扱われ、簡単に売り買いされ、命を落とすことも珍しくなかった。


「それはこの大陸では珍しいことではないけれど、それでも他所と比べるとあまりにも悲惨な状態だったってあの人は言うわ。私はこの町で生まれたから、よそを知らないの。暴力や盗みなんて日常茶飯事だったわ」


 ギルベルタは目を伏せていた。長いまつげに隠れる瞳はいつか見た瞳と同じだった。幼き日の記憶が交差する。狭いガラスの壁に囲まれていた。今でこそわかるが、子供時分の生活はそれが全てで当たり前だった。五年前のイアンの手を取ったあの日から世界がそれだけでないと知った。


「この特技はね、娼館とも呼べないような店で働かされた頃に覚えたの。店の商品をいかに美しく見せられるか。それが生きていく術のひとつだったわ。それでも暴力は続いたし、食事にありつけない日なんて珍しくもない。友達の死を見ることも、ね」


 粗方整えられたリルの髪を鏡の前で指に絡め梳いてから手を離す。ドレッサーのテーブルに並べられたガラス瓶のうち一つを選び取り、数滴の香油を掌に落とす。掌で軽く暖められた香油は毛先から揉みこんでいくと、華やかな香りが鼻腔を擽った。


「そんな日が生涯続くと思っていたけれど、人生が大きく変わったのは、あの人のおかげ。レオナード・ヒルデブラントはわずか百人の兵で荒くれ者を一掃したのよ」


 若き日のレオナードは素性を隠してギルベルタたちが住まう店へと何度も足を運び、彼女たちの信頼を少しずつ得ていく。無論最初こそ疑っていたギルベルタたちだったが、次第にレオナードが語る、この町で暮らす全ての人間にまともな生活を与えるという夢物語に心を奪われていった。そして町の制圧に手を貸した。レオナードは約束を違えることなく、この町に巣食うかつての強者は一掃された。そしてかつて蹂躙されていた人々はレオナードの力に魅了された。燃え上がるような情熱、町に残された力なき者を纏める統率力を見せつけられた町の者は誰もが彼についていった。すっかり荒れ果てた町は年月をかけて復興させたのである。


「この町の人は誰もがあの人を慕っているわ。この意味、わかるでしょう?」


 リルの両肩に乗せられたギルベルタの手に力が入る。リルは眉を寄せて口を強く結んだ。もしかしたら此処から逃げ出すための手助けをしてもらえるかもしれない、そんなわずかな希望が此処にはないことを思い知らされた。

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