第55話 レオナードの家
馬車の中は静かな時間が流れた。車輪の振動と馬の蹄の音だけが響いている。リルとはす向かいに座ってレオナードは腕を組んで目を瞑っている。眉間には皺が刻み込まれていた。
リルはしばし沈黙の中で、俯き、自身を抱きしめるように腕をさすりながら、気持ちを落ち着かせていた。しんと冷えきった体に熱が戻っていく感覚がする。肩にかけられたずっしりとした上着に指先が触れる。馬車に乗りこんだ直前に、レオナードは自身の上着を脱いでリルの肩にかけた。それから何も言わずに目を閉じて馬車に揺られている。
「落ち着いたか」
レオナードは目を閉じたまま口を開き訊ねる。
「はい……助けて、くれて……ありがとうございます」
リルのぽつぽつと言葉にした礼を聞き、レオナードはゆっくりと目を開ける。そして腕を解き、リルの方に体を向けた。
「礼なぞ言わなくてもいい。こちらの監督不行き届きだ。不快な思いをさせて申し訳なかった」
頭頂部が見えるほどに深く頭を下げた。リルはレオナードの姿勢に驚き、慌てて首を横に振った。
「奴らは適切に処罰し、この街から追い出す。今後おまえに近づくこともないだろう」
レオナードは片側の口角をあげて「おまえどころか女にも近付けなくなるだろうな」と付け加えた。その笑みはあまりにも恐ろしく、彼らに何をするつもりなのかはリルは聞かずにおいた。
「もうすぐ着くぞ」
その言葉の通り、馬車は間もなくして停まった。白い髭を蓄えた初老の御者が扉を開き、リルに優し気に微笑んで手を差し出した。その手を取りゆっくりと降りる。目の前には背よりも高く幅のある鉄製の門扉が聳え、その奥には広い庭が広がっている。
「ご苦労だった」
レオナードは代金を支払うと御者は深々と頭を下げて去っていった。
門扉の両脇に立つ門番兵がレオナードの姿を見ると敬礼をして「おかえりなさいませ」と声を合わせる。そしてゆっくりと門は開かれた。
門番が先導して短く切りそろえられた芝生を大きく割くように敷かれた白い石畳の道を進んでいく。離れた場所で庭木の世話をしていた一人の庭師がレオナードに帽子を脱いで挨拶をしていた。
「レオナード様がお戻りになられました」
門番は両扉を開いて声を張ってから脇へと避けた。玄関口の吹き抜けの広間にパタパタと駆けてくる足音が響いてくる。
「お父様!」
階段上から幼子が顔をのぞかせた。階段をたどたどしく降りてくる少年は階段を下り切ると、レオナードに駆け寄って抱き着いた。レオナードは少年を宙に浮かせる勢いで抱き上げた。
「エルガー、大きくなったな」
「はい。大きくなりました」
エルガーは胸を張って満面の笑みで答えた。レオナードより明るい柔らかな髪が上下するごとにゆらゆらと揺れる。
「あなた、おかえりなさい」
エルガーが降りてきた階段上から穏やかな女性の声がした。リルはまた上階に視線をやると輝くような白い肌の女性がゆっくりと階段を下りてくる。遊ばせるようにしてまとめた、燃えるような赤い髪が印象的だった。レオナードはエルガーを下ろして女性の方へと歩んだ。
「ギルベルタ、戻ったぞ」
「よくぞご無事で」
レオナードはギルベルタを抱き寄せてフレンチキスを交わす。エルガーはレオナードの方へとかけより服の裾を引っ張って自身に関心をひかせようとする。
「お父様、いつまでいてくださるの?また剣の稽古をつけてください」
「すまない。明日の朝には出発するんだ」
「ええ……そんなあ……」
エルガーは口をとがらせて体を左右に揺らした。
「エルガー、我儘を言ってはなりませんよ。お父様は大事なお仕事があるのだから」
「はい……」
レオナードはエルガーの頭を大きな手で包み込むようにして撫でると少し機嫌が戻ったのか嬉しそうに笑った。
「悪いが、すぐに部屋の準備と、湯あみ……それから食事を用意してくれ」
レオナードはギルベルタの後ろに控えていた数人のメイドに声をかけると、メイドは「かしこまりました」とそれぞれ動き始めた。
「そちらの方は?」
ギルベルタが訊ねると、レオナードは口籠りながら答えた。
「例の仕事の件に関わっている」
「まあ、それではこの方が……」
ギルベルタがそこまで言うと、リルは眉根を寄せて体を強張らせた。昨夜レオナードから言われた『化物』という言葉がそうさせた。
「ようこそ精霊さん。私はギルベルタと申します」
ギルベルタは微笑みを湛えながらリルに手を差し伸べた。悪意のない言い方だが、リルは眉を潜めた。しかしギルベルタは特段悪びれていない様子だ。リルは戸惑いながらおずおずと手を差し出すとギルベルタは優しく手を握った。ギルベルタの手は肉が薄く細い指はすらっと伸びていた。
「リル、です」
「そう。リルさん。よろしくね」
手が少し緩んだところで、リルはさっと手を引っ込めた。
「ねえ、あなた?リルさんのことは私に任せてくださらない?」
「ん?」
レオナードは顔をしかめたが、ものともしないと笑顔のままのギルベルタは話を続ける。
「湯あみとお部屋への案内は私がやります」
「ダメだと言っても聞かないんだろう」
「ええ」
「わかった。任せる」
レオナードはリルの肩にかけた自身の上着を取り、エルガーを抱きかかえて階段を
上って行った。
「ささ、リルさん。こちらへ」
ギルベルタの手招きにリルは大人しくついて行った。




