第52話 天幕
全てをシュレイム村に置いて村を出た。
森の道を走る際に、半年住んだ家の前も通ったが、リヒャルトに会うことも、挨拶すらも出来なかった。それでもリルは男に懇願することも望むこともしなかった。これ以上この男に頭をさげることは自身のプライドが許さなかったし、あれだけ力を隠して生きろと言い聞かせられてきたのに、使ってしまったこと、それを多くの人に見世物のようにされたことがリヒャルトに顔向けが出来ないと感じてしまったからである。そして何よりも今のリヒャルトをどこへとも連れていくのはリルには耐えられなかった。
(流石にダボン村長もプレストン神父様も悪いようにはしない、よね)
男が言うように一人の犠牲で事が済んだ。彼らの表情は苦悶に満ちていた。それは罪悪感だったと信じたい。彼らは決して悪人ではないのだとリルは知っている。何も取らず何も奪わないでリルは助けられた。彼らの優しさに嘘などひとつもなかった。そんな彼らが苦肉の策でリルを差し出したのだとしたら、リヒャルトを悪いようにはしないだろう。
(お願いしますね、皆さん)
リルは目を瞑って願った。願うしか出来ない自分がふがいなくて、堪えていた涙が風に流された。泣くもんか、泣くもんかと自分に言い聞かる程に涙は止めどなくあふれ出す。リルは嗚咽漏らしながら一度も振り返ることなく村を去ることとなった。
村を出てから間もなくして野営を始めた。男の部下たちは天幕を張ったり、調理をしたり、馬の世話をしたりする間、男は倒木に座って瓶に口をつけて酒を飲む。リルはその場に立ち尽くしぼんやりとその様子を眺めていた。
「なんだ、座らないのか」
男の声に一瞥はしたリルだが、返事を返すことはなかった。
「ふん……好きにするがいい」男はまた酒を煽った。
「レオナード様、整いました」
「よし」
部下にレオナードと呼ばれた男は酒瓶を持ったまま立ち上がる。
「着いて来い」
リルに一瞥して顎をしゃくった。リルは従ってレオナードの後を着いていく。一番大きい天幕まで連れてこられた。レオナードは中に入るがリルはその手前で立ち止まった。
「どうした。入るんだ」
リルの後ろには二人の部下が許さないと立ちふさぎ引き返すことを許さない。リルには選択肢が一つしかなかった。天幕の中に一歩足を踏み入れると、部下たちは天幕を下げる。野営とは思えない豪奢な設えひとつひとつに目をやってその度に驚いた。床一面には絨毯が敷かれ、重厚なテーブルに革張りの長椅子が設置されている。テーブルの上には豪勢な食事がすでに用意されていた。焼かれた肉や野菜、果物などが皿いっぱいに盛られている。そして酒瓶とグラスが置かれていた。そして何よりも気になったのは、奥に置かれたベッドだ。リルは眩暈を覚える。
レオナードはソファーにどかっと座り腕を背もたれに腕を回した。
「こっちに座れ」
リルは狭い歩幅で震える足を、なんとか動かしてソファーの近くまで来る。
「なんだ?座れ」
立ち尽くしているとレオナードはまた顎をしゃくり座るように言う。逆らうことは許されないんだとリルは怯えた。そんな情けない自分を極力見せないように息を殺しながら座った。
レオナードは背もたれに回していた腕を動かした。リルはびくりと体が跳ねる。その腕はレオナードの前に持っていかれ食事の前で手が組まれた。リルも知る食事の前の祈りだとわかり静かに息をついて安堵した。祈りが終わるとレオナードは食事を始めた。
「おまえはいちいち言わないと何もできないのか?」
レオナードは不機嫌に吐き捨てた。リルは恐怖にわななきながら手を組み祈りを捧げた。それを見たレオナードは鼻を鳴らして食事を再開する。リルは長い祈りの後に食事に手をつけた。使い慣れないナイフとフォークを不器用に手を動かして少しずつ口へと運ぶ。恐怖心が全ての感覚を麻痺させているようで、何を食べても碌に味がしなかった。
レオナードが先に食事を終えると、残っている酒をグラスに注いで口にする。リルは隣で黙々と自分の皿に盛られた食事を義務的に咀嚼をして喉に流し込む作業を続けた。
なんとか食事を終えると、レオナードは立ち上がって天幕の外にいる部下に片付けるように命じた。中に二人入ってきた部下を避けるようにして天幕の端へと寄り、手際よく片付けられ、部下はすぐに外へと出て行った。テーブルにはフルーツが盛られた器と、新しい酒瓶にグラスが置かれていた。レオナードは酒瓶とグラスを持ってサイドテーブルに置きベッドに腰を掛けた。酒をグラスの半分くらいを注いで口をつける。酒の味を楽しんでいたかと思うと視線はリルの方へと向けられる。
「さっきからなんだ?」
立ち尽くしてレオナードの様子をぼんやり眺めていたリルは我に返った。
「酒飲むか?」
嘲るようににやりと口元に弧を作り、グラスを差し出した。リルは壁に沿って立っている体を更に後ろへ引くように反らして首を素早く横に振る。レオナードは鼻で笑ってそのグラスに口をつけた。
「明日も早い。寝るぞ」
レオナードは顎でこっちに来るように合図をする。リルにとって未知の世界でかつ底のない地獄への一歩のように思えて体が震えた。逃げ出せないならいっそのことと視線を盛られた果物へと移した。
「やめておけ」
レオナードは低い声で制止する。そしてため息をついてからベッドから腰をあげた。
「無駄なことを」
自分の方へと向かってくるレオナードと果物皿と交互に目を動かした。まだ間に合うか、それともやはりやめた方がいいのか、リルの鼓動はどんどん早く打ち呼吸が激しくなった。そしてリルはテーブルの方へと駆けた。ナイフに手を伸ばしたところでレオナードはリルの腕をとった。
「やだ!いや!」
「無駄だと言っている」
リルは首を横に振り、また体をよじって抵抗するがレオナードの腕力から逃れることは出来ない。
「落ち着きなさい。何も手出ししようとは思っていない」
リルは抵抗するのをやめたものの、信じられないとレオナードを睨み付ける。
「私は子供には興味はない。それに」
レオナードは目を細めて冷たい視線でリルを見下ろした。
「精霊とまぐわうような趣味はない」
そう言い捨てて手を離した。リルは力が抜けてぺたりと床にへたり込んだ。レオナードはベッドからブランケットを一枚投げてよこしてそのままベッドに入った。
リルはのそりと体を動かしてブランケットを拾い、ソファー座り一息ついてから横になった。甘い香りがするブランケットに顔を埋めて声を殺し一晩中涙で濡らした。




