第49話 あの日の記憶
「此処で?」
まさかの提案にリルの涙は止まった。リルは頬を伝った涙の跡を親指で拭った。
「リヒャルトさんが直してくれた荷台をこの村にいる職人が見てくれたんだけれど、
応急処置にしては腕がいいって褒めていたんだ。この村では多くが木こりや酪農に従事している人ばかりで、職人仕事ができる人が多くないんだ。仕事をしてもらうことも出来るし、空き家もあるから住む場所も提供できる。どう?悪い話じゃないだろう?」
「それは、そうね。私たちにはもったいない話だと思うわ。ただ、リヒャルトが許してくれるかどうか……」
眠り続けているリヒャルトに視線を投げた。これまでも何度も熱を出していたリヒャルトは、自身の体に鞭を打ってでも定住することを避けてきた。リヒャルトは力の制御のためだと飽きる程聞いたが、リヒャルト自身がまるで人と関わることを怖がるかのようだった。
そう、あの日からだ。リヒャルトが力を行使したあの夜。眠りについて間もなくして普段は黙ってガラスの部屋に入ることはしないリヒャルトが入ってきた。リルは夢からすぐに現実へと逆戻りをして瞑った眼をうっすらと開いた。
——静かに。
リヒャルトはまだ夢現を彷徨っていたリルに険しい顔で呟いた。ブランケットを巻きつけるようにしてリルを抱き上げて部屋の片隅に座った。
——どうしたの?
かすれた声で訊ねてもリヒャルトは何も答えず、ただまっすぐに一点を見据えていた。リルはただ事ではないと直感し体を小さくする。じっと耳を傾けていると、遠くで怒鳴り声が聞こえる。身体が硬直した。
——リヒャルト、何が起こっているの。イアンは?イアンはどこ?
それでもリヒャルトは口を開かなかった。ゴオンゴオンと重い金属音が聞こえる。その間に途切れ途切れに声がする。「開けろ」「何とかしろ」恐ろしい声にリルはただ震えていた。次第に金属音が激しさを増して、一際大きな音を立てた。リルは思わず悲鳴を上げる。リヒャルトはリルの口を塞いだ。
——どこかに居るはずだ。
無遠慮に踵を打ち鳴らす数人の足音が聞こえる。もうそこにまで迫った足音にリルは震えることしかできなくて、ただただイアンの名前を心の中で叫び続けた。助けて。お願い、助けて。決して届くことがないと知らないリルはずっと叫び続けるしかなかった。
——ここはなんだ。
ガラス部屋が乱暴に叩かれた。
——おい、いるのか。出てくるんだ。
何度もガラスが叩かれる。そしてパネルに触れているのか、拒否を示す不快な音が混じる。
——くそ、開かない。誰か技術班を呼べ。
その声を聴き、リヒャルトは指を大きく広げて左手を前に掲げた。二度、三度と深呼吸を繰り返し、大きく目を見開いた。リルは目を疑った。イアンからの贈り物であるアイスグリーンのカーテンはちりっと火花が散ったかと思う間もなく、めらめらと炎が大きくなった。カーテンが燃えきっても炎が消えることはなかった。ガラスの向こう側から驚愕と恐怖を帯びた声でリヒャルトの名前を呟いている。
リルは何が起きているのかわからなかった。ただ自身がくるまれたブランケットを通して熱が伝わってくる。リヒャルトは息を上げながら部屋の角の床を開いた。そこにあるパネルに手を置くと後ろの壁が開く。カバンを持って部屋を出る。外に設置してあるパネルを操作し壁を閉めた。眼前から赤い炎が消え闇に包まれた。
リルの記憶はここからあやふやとなっている。恐怖から逃れるためだろうか。気づけば船の上で、リヒャルトの腕の中で揺られていた。
リヒャルトは、それからよく熱を出すようになった。しかし決して定住することは拒み旅をして五年が経つ。何度も熱を出す度に誰に頼るでもなくリルは看病をした。それが続くとリルはいつだって大きな不安につぶされそうになりながらも耐えてきた——もしこのままリヒャルトが死んでしまったら——一人になってしまう恐怖が心を蝕む。
「すぐに決めなくてもいいよ。何日でも此処にいていいって。父さんも神父様も……もちろん俺も、手助けできるから。一人で悩まなくても大丈夫だよ」
キンスリーの言葉にまたリルの目に涙がにじんだ。
その日の夜、ベッドに腰かけて眠るリヒャルトの顔をじっと見つめていた。こんな日がもしかしたらもう此処で終えられるのかもしれない。リルの心には微かな希望のように灯る。
「やっぱりダメって言うかな」
これまでも何度もどこかに定住することを提案してきたが、一度だって首を縦には振らなかったリヒャルトだ。そう簡単に許可はおりないだろう。リルは自嘲気味に笑む。
「もう、いいでしょう。無理しないでよ」
リヒャルトにかけた言葉に、リルはまたもや涙ぐむ。泣くものかと目をぎゅっと瞑り首を振った。リルは込み上げる感情を抑えるように何度か深呼吸を繰り返す。今日はもう寝てしまおうとサイドテーブルに置いたろうそくの火を消そうとした。
「ずっとは無理だぞ」
かすれた声がリルの耳をかすめた。リルははっとして顔をあげると、リヒャルトはうっすら目を開けていた。
「少しくらいは、大丈夫だろう」
「聞いていたのね」
「聞こえたんだ」
「……馬鹿」
リルはリヒャルトの胸に埋めるようにして頭をのせた。リヒャルトは黙ってリルの頭を撫でた。
それから一か月、二か月と月日は過ぎて半年もこの村に住むようになる。あと僅かだとは誰も知る由もなかった。




