第4話
長い夜が続く地下から抜け出し、潮風と共に新鮮な冷たい空気を吸うと冷えきっていたと思っていた体の芯に染みわたる。自分はまだ熱を持つ身体なのだと実感する。闇に溶け込んでいた水平線がじわりと白く滲み始め、朝の気配はすぐそこにあった。
船着き場に戻り少女を堅い地面に寝かした。少しでも潮風に体が当たらないようにとシャツをかけてやる。上裸に纏わりつく冷たい風の中で急いで火をおこし、規則的に煙をあげる。火の傍に腰を下ろして無意識にズボンのポケットへ手をやる。くしゃくしゃになった箱からたばこを一本取り出して火をつけて一服する。空を仰いで煙を燻らし狼煙に巻き込ませる。眼前の空気に消えゆく煙をぼんやりと見つめながら、いまだ到底現実とは思えない光景を思い出し脳裏に描く。あれは本当に現実だったのだろうか。実際にこの目で見たのに、現実味を帯びない光景は夢幻だったと思う方が自然な気がした。きっと誰に話しても信じないだろう。イアン自身がいまだ信じられないほどだ。
イアンは傍に寝かせた少女の体躯を横目で見た。たとえあの光景が現でなかったとしても、その子の存在は夢ではない。今になって安請け合いしてしまったのではないかとたじろぎそうになる。ヴィンセントの死に際の頼みだったとはいえ、一人の命の責任をこれからどうにかとっていかないといけない。男所帯の経験しかないイアンにとって、子供の命を守る責任は重くのしかかった。
ヴィンセントの手帖をぺらぺらと捲り最後のページに挟まれた写真を見る。
「なるようにしかならないか」
一人の少女の命が無事だった。死んだ友人にも顔向けができる。今はそれを素直に喜ぶべきだろう。
二本目のたばこに火をつけたところで寝かせていた少女が小さくうめき声をあげた。イアンは目線をやると目を瞬かせて身をよじっていた。ゆっくりと目を開けた少女はイアンと目が合うと、ほんの一秒足らず虚ろの目が大きく開かれ少女はひっと悲鳴をあげて体を起こした。急に立ち上がろうとしたものだから、めまいを起こしたのか地面に手をつく。
咥えていたたばこを指先でつまみため息のように煙を吐き出した。
「船が来るまでまだ時間があるから、それまで横になるといい」
落ち着かせるつもりで言ったが、当然見知らぬ男に言われて怖がらない子供はいないかと思い直した。実際少女は座り込んだまま後ずさりをしようとしている。体が弱っているせいか怯えて腰が抜けてるせいか、うまく体が動かないようだ。
「これ、みたことあるか?」
手帳を見せるが、少女はなんのことかと首をかしげる。イアンは写真を取り出して手渡した。
「これはおまえさんだろう?ヴィンセント……お父さんに頼まれておまえさんを迎えに来たんだよ」
「……パパ?」
「そう『パパ』に頼まれた」
少女はまだ納得していないようで気難しい顔のままイアンを見ていた。イアンは表情を変えず残っているたばこをふかす。
「疑ってるのも無理はないがな」
「……パパは?パパはどこにいるの?」
「パパは……いない」
死んだと言葉にするのは難しかった。この少女に真実を語るべきだと思いつつも、どれだけショックを受けるのか、そもそも死を理解できる年なのかもわからなかった。
「心配するな。悪いようにはしない。なんにしても、おまえさんをここに置いていくわけにはいかないから連れていくぞ。衣食住だけは用意してやるから。それだけは約束する」
少女は目を左右に細かく泳がせてはいたが口はきゅっと結ばれている。それ以降何も問うことはなかった。
水平線から昇る太陽がイアンたちの目を差し込んだ。眩しさに目を細める。光の中に船の陰があった。イアンはすぐさまたばこ足で踏み消した。焚火の始末を済ませるころには迎えの船が接岸した。
「ご苦労だったな」
手慣れた手つきで舫い綱を掛けるダスティンに労うと軽く「ウス」と返事がある。ダスティンはちらりと少女を見るが何も言及しない。
「何か問題はなかったか?」
「全く。あんたを待っている間に、ほれ」
ダスティンは首で船内を見せると甲板には大漁とは言わないまでも、網にかかったままの魚がいくらか跳ねていた。中には随分大きな魚があったものだからイアンは思わず感嘆の声が出る。
「うちのもんにも叱られんで済みますよ」
これらの魚はそのまま売ったり、調理して客に振る舞われたりする。ダスティンには身重の妻がいるが、今にも生まれそうな大きなお腹を抱えながら小さな食堂を営んでいる。気さくで面倒見の良くいつの間にか人の懐に入り込むような女性で、内にこもるようなイアンにとっては少し煩わしく思うこともある。しかし彼女が振る舞う料理は、簡単には入らせない頑なイアンの心をも和らげる効果をもたらしていた。
「遅くならんうちに引き上げましょうぜ」
ダスティンは桟橋と船の間に板を置いた。イアンが先導して船に乗り込む。
「ほら」
焚火の跡の傍で立ち尽くしている少女に手を伸ばす。少女はその手を取ろうとせず、後ろを振り向き空虚になった建物をじっと眺めていた。イアンには少女がどんな思いでいるのか想像も出来ずに同じ時間だけじっと待つしかなかった。
それほどの時間もかからなかった。少女はくるりと反転したときにはその顔に戸惑いはあるものの、悲嘆に暮れている様子もない。
「一緒に行こう」
イアンはもう一度手を差し伸べると少女は板を踏みその手をとった。




