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クライス  作者: 桝克人
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第3話

足元が大きく揺れて止まった。蛇腹の網の扉の取っ手に手をかけると軽い力で開いた。十歩も歩かない短い通路の先に重々しい扉がひとつある。天井に取り付けられたオレンジ色の電球はパチパチと音を立てて間隔短く点滅している。イアンはこれまでにはないほど異様な空気を感じ取っていた。逆立つような寒気が全身を這う。扉の向こう側に誰かが待ち構えているのか。耳を澄ましても特に何も聞こえない。息をひそめているとなると動物はいないはずだ。銃をかまえ足音をたてないようしんちょうに扉に近づく。耳を扉にくっつけようと扉に顔を近づける。冷気が耳を撫ぜた。左手指でそっと触れるとやけに冷たい。この中に何があるというのだろうかイアンはドアノブに手をかける。慎重にひねり引っ張ると鍵がかかっていない。意を決して思いっきりドアを開けて銃口を向こうにいるだろう誰かに向けた。しかし銃を長く構えることはない。イアンの眼前には見たこともない光景があった。扉の形で水の膜が張っている。左手で恐る恐る触れると水の膜が波打つ。


「なんだ、これ……」


信じられない光景に戸惑いの声が漏れた。イアンはじっと揺れる水面の先に何があるのか見た。唯一何かが発光しているのか、じんわりと溶けるように光が動いている。その周りにも何かがあるのはわかるがそれが何かはわからない。目を凝らして見ていると突然目の前を大きな物体がよこぎった。イアンは顔面蒼白になりひっと声をあげて顔をそらし後ずさる。人のような形をしていた。そう思わざるを得ないほど、肉体は膨れ上がっていた。あまりの姿に改めて凝視するのはためらわれる。他にも人がいるのだろうか――ヴィンセントの娘もいるのだろうか?すでに脳裏に刻まれてしまった水死体と、彼の持っていた写真に写る幼気な娘の姿が交差する。放っていくわけにもいかない。せめて遺体だけでも埋葬してやるべきか。

それに光を放っている何かの正体も無視することはできなかった。白い光が揺れると時折薄い青色を帯びた光が交じり合っている。ここで引き返せと頭の中で警鐘を鳴らしている。どうしてかはわからない。長年戦地にいたことで察せる危機感なんだろうか。しかし神秘的な光に心奪われたイアンが踵を返すことは許されなかった。好奇心が上回りその正体を突き止めたくてうずうずしている。

イアンは喉を鳴らして、もう一度揺れる水面を指先でそっと触れてみた。特に危険な感じはしない。手首まで水につけても特に違和感はなく、思い切って飛び込んだ。まっすぐ光の方へと水をかいて進んだ。浅い海で泳ぐ感覚に似ており、足を取られることなく難なく近づくことができた。ただ、水中に漂う数人の遺体を避けることは難しく、凄惨な姿を目に移さないようにすることも難かった。

水中に揺られていた光は壁際まで揺蕩っていた。その光に近づくとそれの形が徐々にはっきりしてきた。同時にイアンは信じがたいと目を見張った。それはあきらかに人間だった。それも幼い少女であることにイアンは信じがたいと息をのむ。少女は身体が小さいというより肉がついていない。クライスで見かける子供よりやせ細り哀れな気持ちが心を沈める。ただし周りに漂う遺体よりもずっと綺麗だった。

長い髪をかき分けて顔を覗くと、さらに驚いたのは、彼女は薄っすらと目と口が開いていた。生きていると確信したのは、小さな泡呼吸に合わせて何度も少女の口から生まれているのである。イアンは少女に呼びかけるように軽く頬を叩いた。少女は反応を示さなかった。此処から出るのが先決かと判断し少女の体を抱えて出入口へと戻るために壁を蹴った。水中の哀れな遺体を避けながら足をかくが、少女を庇いながら泳ぐのは容易くなく思うより前へと進まない。息が、苦しい――ごぼりと大きな泡が視界を塞いだ。もう少しだと力を振り絞って足をかいた。出入口が目の前というところで、最初に見た遺体がAの左視界に映る。ぶつかる。少女の体を守るためにAは身体をひねって背中でその遺体を受け止めた。決して大きな衝撃ではなかったはずなのに、わずかに肺に残っていた空気が外に吐き出された。

ここまでか――

力を失ったイアンの体から白い光を纏う少女の体が離れていく。長い髪の毛は水中に揺らめいた。薄れそうになる意識の中でイアンはヴィンセントにすまないと謝るしかなかった。

少女の顔がイアンの方へと向いた。これが最期の光景かと意識を手放そうとしたとき、少女の薄目と目が合った気がした。それは決して気のせいではなかった。少女の目は大きく見開かれてから柔らかな光はいきなり強烈な閃光へと変貌した。眼前が真っ白になるほど強烈な光でイアンはあまりの眩しさに瞼が震わす。そのまま意識が飛ぶかと思ったその瞬間、全身は床へと叩きつけられた。打ち付けられた身体は痛みが走ると同時に口からは水が吐き出される。イアンは苦しさに悶えながら水を吐き出すために何度も咳き込んだ。吐き出された水に代わって空気を吸う。苦しさは生きている証拠だとうめき声をあげた。

なんとか息を整えて痺れる体を起こす。濡れた床に足を取られそうになった。そういえば部屋を満たしていた水は一体どこに流れたのだろうか。僅かながらエレベーターの方には流れていったようだが、それにしてはあまりにも少ない。消えたとでもいうのだろうか?

イアンは頭をふった。此処で自分が考えても答えが導きだされるとは考えにくい。ただでさえ信じられないものを見たばかりで、自分は死にかけたのだ。頭もまだはっきりとはしない。

イアンは暗くなった部屋の中から少女を探すためにゴーグルのライトをつける。目と鼻の先に少女の体が横たわっていた。体を仰向けにした。浅いながらもゆっくりと呼吸をしている。水を飲んだ形跡もない。体は衰弱しているようだがなんとか生きている。イアンは安堵の息を吐いて脱力した。

――ヴィンセント、生きているぞ。おまえの娘は生きているんだ。

イアンは天井を仰いだ。ゴーグルのライトは天井に白い丸を描く。それはまるで満月のように見えた。

少女を連れて出る前にAはもう一つ確認しようと立ち上がった。床に転がる数人の遺体は誰も彼も直視するのを避けたくなる程無残だった。それでも一人ひとり確認した。殆どが男性の遺体で女性は二人だけだった。そのうち一人は栗毛色の髪で肩に届くくらいの長さだ。もう一人が金髪の長髪だった。顔貌は変わってしまったがヴィンセントの宝物である写真に写った美しい女性に違いなかった。彼女の前で膝をつき胸に手を当てて彼女の死を悼んだ。

Aは少女のもとに戻り、軽い体を抱えた。後にする前にもう一度部屋を見回した。何かしら操作するための機械、天井に届く人一人入れるような筒状のガラス、それらをつなぐ無数の配線。Aにはそれらが何のために存在して、此処で何が行われていたのか解らなかった。

腕の中の幼気な少女の寝顔に目をやった。この子は此処でどのように暮らしていたのだろうか。Aは想像し得る残忍な扱いをこの子が受けてないことを祈るばかりだった。


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