第2話
まだか、まだかとケーブルを辿ると海底からのびる何本もの鉄の足が視界に入る。辿り着いた安堵する間もなく、今度は浮上しなくてはならない。より慎重に、ゆっくりと海面に向かった。波の上に顔を突き出し、容赦ない波に身体をとられないように何度も足をかく。落ち着いたところでレギュレーターを外して大きく息を吸った。酸素ボンベがあったとはいえ安心感は段違いだ。しかし落ち着いてばかりもいられない。空を仰ぐと瞬く星空と大きな黒い鉄の境界線があった。冷たい古びた鉄の建物は夜の帳に一層暗い影を落としていた。
ロープがかかっている船着き場から地上にあがり酸素ボンベを降ろす。足りない空気を補うように大きく何度も息をする。息を整えながらゴーグルを外し重いウェットスーツを上半身だけ脱いだ。ウェットスーツの中に着ている身体にぴったりとくっついた黒いシャツの首元から手を突っ込んで手帖を取り出した。ゴーグルを再び装着しライトをつける。濡れたゴーグルの先にヴィンセントが書いた丁寧な文字を、指を滑らしながら読む。数字の羅列を頭に叩き込み手帖を服の中へとしまい込む。代わりに腰にかけたホルスターから拳銃を取り出して両手で構える。ゆっくりとした足取りでコンクリートを踏みしめ、大きく開いた息をしない鉄の口の中へと足を進めた。
だだっ広い搬入口には埃がたまった大きなベルトコンベアが二・三台設置され、床には腐った木箱が乱雑に放置されていた。コンクリートの床を歩くとじゃりじゃりと靴裏を引っ掻ける。時折大きな木くずを踏むといとも簡単に崩れた。
部屋の壁に沿ったギャラリーに続く金属製の階段を昇ると水で濡れたゴム製の靴が擦れきゅっと音を立てる。思ったより響いた音にイアンははっと息を飲む。人の気配はない。まだ此処では必要以上に気を張らなくても良いとわかっていても、嫌な緊張感がそうせざるを得ない。早鐘をうつ心臓をなだめるために、一度だけ意識的に息を吸って吐く。潮の匂いと黴臭さが入り交じった空気はイアンの神経に障り眉間に皺を作った。
階段と同じように金属板で作られた歩道を進み、奥に続く扉を静かに開けるとぎぃっと鈍い音がした。
扉の先はコンクリートの床に戻った。幅は広く天井の高い廊下の左右に、いくか扉がある。ガラス張りの壁からライトを照らして一部屋ずつ中の様子を伺う。変わらず人の気配はない。あるのはかつて街で暮らす人々の食料を支えた、野菜を育てるプラントだ。こちらも長い年月によって朽ちている。ガラスは割れ、土が散乱していた。時に蛆虫が蠢いているのを見るとイアンは嫌だ嫌だと顔を顰める。
数十年前まではもっと清潔で無機質な空間に色とりどりの野菜が育っていた———イアンは自分の目で見たわけではなく、当時の様子が描かれた本で知った。研究が重ねられ、より栄養があるように、またより食べやすく品種改良され、何より重要なのは人々に無駄なく供給されることを目的にした工場だった。
現在は更に効率の良い施設が発掘されて此処は過去の遺物と化したのである。此処の生産工場のような海の上に取り残された建物はいくつか存在する。どこも稼働しておらず只朽ちるの待つだけ鉄の塊は、海賊、もしくはそれにすら辿り着かなかった輩の巣窟となっている———らしい。らしいというのは、あくまでも噂だからだ。それも聞き分けのない子供に言い聞かせる寝物語程度のものである。悪い子は悪い魔物に連れ去られるよ。遠い海の真ん中へ連れて行かれるよ。檻の中に入れられて一生を過ごすんだよ。そんなことを聞いた良い子たちはおそれおののき、ベッドに潜り込んで朝が来るのを夢の中で待つのである。
無論多くの大人は信じていない。漁師から火の玉が見えただの、幽霊が住みついているのだの、酔っ払いの戯言のような話がたまに酒場で酒の肴がわりの馬鹿話に上って来るくらいだ。たまにそんな話にのっかり、肝試しのようなことをする輩もいるようだが、結局はイアンがいる此処のように機器が乱雑に放置されている様子が見えるだけである。不気味さを実感できこそホラーじみた噂を見た者はいない。子供騙しだと笑って終わるのだ。
イアンもそんな大人の一人であった。馬鹿馬鹿しい話だと鼻で笑った。ヴィンセントから手帖を渡されるまで。これがなければわざわざ漁師に金で頼んで上陸なぞしない。今だって半信半疑だ。しかしヴィンセントが死に際に嘘をつくとも思えない。
———廃工場に娘が捕えられている。助け出してくれ。イアン、頼む。どうかあの子を、あの子だけは、僕の———
最後は息も絶え絶えで最後の言葉は聞き取れなかった。しかしイアンにはわかっている。僕の宝物だから。絶対そう言いたかったはずだ。
ヴィンセントは最後の力を振り絞り手帖をAに託した。爆撃音が響き渡る中、自分も死ぬわけにはいかないとまだ熱をもった友の手を離した。
なんとか生き延びて街に戻ると戦死した彼を悼むと同時に彼の最後の願いが頭を占めていた。死に際の言葉だ。頭が朦朧としていたのかもしれない。あんな所に子供がいるわけがない。それも捕らわれているなんて、どのような背景があるのか全く想像がつかなかった。何かしら情報を得ようと受け取った手帖の中身をさらった。日付と場所、人の名前が羅列されている。数からして恐らく仕事のことだろう。誰それと何日に待ち合わせ、そんなところだろう。仕事の走り書きの合間に日記のような、どちらかと言えば内なる感情を発散するようなものが書かれていた。多くは家族に会いたいと、娘のことを案じていた。何度かイアンのことが書かれていた。
『ぶっきらぼうだが悪い奴ではない。一匹狼を気取っているようで律儀なところがある。イアンなら信頼できるだろう。いざとなったら彼に頼むしかない。』
面と向かって褒められたわけではないのに文字をなぞるだけでヴィンセントの声が聞こえた。彼が何故そんなにも信頼してくれているのかはイアンには思い当たらず困惑もした。酒場で話をする程度の関係だというのに。確かに気があっているとは思う。話す内容なんて取るに足らないものばかりだった。それでも共にいることが心地よい時間だった。温和な性格と安心できる声色が安らぎを生んでいたのだろう。
ヴィンセントを思うとどれほど無念なことだろうか。家族に会うことも娘をその腕に抱くことも出来ない。あの言葉が本当であれば自ら助けてやりたかっただろうに。せめて彼の無念を腫らしてやりたい。それ以上にヴィンセントからの期待に応えてやりたい。イアンの心はすでに決まっていた。
慎重に歩みを進めていても懸念は外れているようだ。海賊どころか人っ子一人いなかった。しかし静けさが逆に不気味さが背筋を強張らせる。更にじっとりとした空気が不気味さに拍車をかける。極力音を立てないようにしている自らの息が耳をくすぐる度に神経が過敏になる。
イアンの緊張とは裏腹にどこまで進んでも、敵どころか人影も気配すらなかった。棄てられた遺物が朽ちるのを待っているだけである。やはりうわごとだったのだろうか。しかしうわごとだとすれば、なぜあのようなことを言ったのか。場所を間違っているのか。別の廃工場だとして、いくつもある海上に残されたそれらをしらみつぶしに探すのはあまりにも現実的ではない。嫌な考えというものは連鎖して新たな嫌な考えを生み出す。イアンは落ち着けと言い聞かせるようにグリップを握ったままの両手を額に、ごつんとぶつける。
しっかりしろ。どこか見落としているんじゃないか。もう一度すべての部屋を確認するしかないか。
搬入口に戻ろうと一階の廊下を歩いていると小さな違和感が頭をよぎる。なんだろうと立ち止まる。見たところ他と変わりはない。無機質で単調な廊下、ドア、壁…イアンは両隣になった部屋の壁を、均等な歩幅で歩くように気を付けて数を数える。そして
それぞれの室内に入り、壁沿いを同じように歩いた。歩幅二つ半程の誤差がある。イアンは外に出て、銃をホルスターにしまってから壁の真ん中に立ち、両手で壁を撫でた。天井から床に伸びる僅かな隙間と、同じように胸の高さで右側に長方形の小さな隙間があった。隠し扉に違いないと、長方形に象られた箇所を押してみる。するとスイッチのように壁にめり込んだあと、浮き出るようにディスプレイが表示された。テンキーと表示画面が浮き出ている。搬入口で確認した数字を入力すると、がこんと大きな音を立て、十数秒程した後に一人分の大きさの壁がめり込み、その壁が左右に開かれる。壁の奥には旧式の昇降機が現れた。細やかな網目でできた蛇腹の扉を手で開けてから乗り込む。タッチパネルと違い、昇降機の中のボタンも旧式である。二つのボタンのうち下側を選ぶと、またがこんと大きく揺れてから下り始めた。
隠し扉からの昇降機、此処にヴィンセントの娘がいるのは間違いなさそうだ。イアンは再び拳銃を右手に構えた。昇降機の音が思いのほか大きくなったので、おそらく下にいる何者かも待ち構えているに違いない。一体何人いるのかは想像もつかないが、ここまで来て怖気づくわけにはいかない。




